北条時頼の子(三男)宗政の死後、その夫人が1281年に建立した。開基は、夫人や一族のはからいで亡父宗政とその子師時(第十代執権)となっています。
開山については複雑で、日本僧の南海宏海が招かれたが、大任だとして辞退、師である宋僧の大休正念を購じ、入仏供養を行い、亡くなっていた宋僧で高名の兀庵普寧(ごつあんふねい)を開山としました。
1356年の火災で創建時の伽藍は消失、1386年には既に復興していたため、足利義満が定めた鎌倉五山のうち四位に入りました。
また、関東大震災で諸堂は潰滅し、現在は山門や仏殿が点在しているだけになった。そのためか、深山幽谷の山寺といった風情があります。
カテゴリーアーカイブ: 鎌倉
鎌倉 女性が人生やり直しの避難だった「東慶寺」
江の島 たびたび裏山が崖崩れ「延命寺」
鎌倉 季節の花木や野草が咲き乱れる「収玄寺」
鎌倉 石段の登り口に「星ノ井」のある「虚空蔵堂」
明治の王政復古で祀られた「日野俊基朝臣の墓」
日野俊基は、1324年、後醍醐天皇の側近、倒幕計画に参加した罪で捕らえられ、日野資朝とともに鎌倉に護送された(正中の変)。
この時、日野俊基はゆるされたが、資朝は翌年佐渡に流された。
後醍醐天皇は、万里小路宣房を鎌倉へ派遣し、「告文」をもって弁明したことにより罪に問われなかった。「告文」とは、天皇が告げ申す文で、武家に出すことは前代未聞だったという。
1331年、後醍醐天皇は再度倒幕計画を企てたが、これが露見し、日野俊基は再び捕らえられ、翌年、葛原ヶ岡で処刑された。
日野俊基は、鎌倉に入ることなく仮粧坂の葛原ヶ岡で斬首されたと伝えられている。
日野俊基は、討幕運動の先駆者として、明治天皇が、忠臣として再評価されました。
鎌倉 北条時頼の夫人により創建か「延命寺」
鎌倉 日蓮が佐渡へ流されるまで土牢に幽閉「光則寺」
鎌倉 観音さまを安置するのによい場所「杉本寺」
鎌倉で最も古い天台宗の寺です。寺の伝えによると、731年(天平3年)行基菩薩(ぎょうきぼさつ)が関東地方を歩いたとき、鎌倉の大蔵山から町を眺め、
「こここそ観音さまを安置するのによい場所だ。」
と思い、人間の大きさぐらいの仏像を彫刻しこの山に安置したそうです。現在、本堂内に本尊として三体の十一面観音像がまつられていますが、内陣の左側に立っている平安時代のころの作という本尊がこれだといわれています。
その後、光明皇后(こうみょうこうごう)は夢の中で、
「東国には中央のカがいきわたらず、悪人が絶えない。願わくば、財宝を寄付して、東国の人々を救ってください。」
という言葉を聞き、不思議に思い行基に尋ねたところ、
「それはたぶん、私が鎌倉の里に安置した観音菩薩の言葉でありましょう。」
と答えました。そこで光明皇后は右大臣藤原房前(ふじわらふささき)と行基に命じて、財宝を寄付して734年(天平6年)の春、この寺を開いたと伝えられています。
鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より
鎌倉 観音さまを安置するのによい場所「杉本寺」
鎌倉で最も古い天台宗の寺です。寺の伝えによると、731年(天平3年)行基菩薩(ぎょうきぼさつ)が関東地方を歩いたとき、鎌倉の大蔵山から町を眺め、
「こここそ観音さまを安置するのによい場所だ。」
と思い、人間の大きさぐらいの仏像を彫刻しこの山に安置したそうです。現在、本堂内に本尊として三体の十一面観音像がまつられていますが、内陣の左側に立っている平安時代のころの作という本尊がこれだといわれています。
その後、光明皇后(こうみょうこうごう)は夢の中で、
「東国には中央のカがいきわたらず、悪人が絶えない。願わくば、財宝を寄付して、東国の人々を救ってください。」
という言葉を聞き、不思議に思い行基に尋ねたところ、
「それはたぶん、私が鎌倉の里に安置した観音菩薩の言葉でありましょう。」
と答えました。そこで光明皇后は右大臣藤原房前(ふじわらふささき)と行基に命じて、財宝を寄付して734年(天平6年)の春、この寺を開いたと伝えられています。
鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より
鎌倉 水戸光圀が7日間ほど逗留「英勝寺」
鎌倉 石仏補陀落迦観自在窟 「円覚寺 大方丈」
鎌倉 北鎌倉駅方面の街並みが良く見える「八雲神社」
元村社で山ノ内の鎮守である。祭神は素戔嗚尊(すさのおのみこと)。例祭7月15日。境内社に稲荷社がある。小高い丘から見下ろすと北鎌倉駅方面の街並みが良く見える。古くは牛頭天王を祀ったため牛頭天王社と称していた。「相模風土記」に記すことによると、村人がこの地で疫病退散のために京都八坂祇園社を勧進したのが始まりだという。その後、この地に居を構えた関東管領上杉憲房が篤く信仰した。一方、社伝によると文明年間(1469~1486)に上杉家が扇ガ谷と山ノ内に分かれて争ったとき、山ノ内上杉家の憲房が武運長久を祈って、京都の八坂神社から勧進したという。
境内裏側には庚申塔群がある。この中には寛文5年(1665)の銘のある石造庚申塔が存在する。これは鎌倉市内最大最古。
また境内には清明石なるものがある。昔は十王堂橋を渡った道路の真ん中にあったらしい。この石をわざと汚したり、踏みつけたりすると祟りがあるという。しかし、この石を知らずに踏むと足が丈夫になり、足を痛めた人は石を清水で洗い、塩や線香をあげて拝むと治るとも言われたという。
鎌倉 洞窟の壁に磨崖仏「長谷寺」
鎌倉 円覚寺の塔頭の中でも最も古い「白雲庵」
鎌倉 新田義貞が北条方の戦死者を弔う「九品寺」
開基は、新田義貞と伝えられています。1333年(元弘3年)新田義貞軍が北条氏を討つため鎌倉攻めをしたとき、この場所に本陣をかまえたということです。北条氏が滅びたあと、義貞は北条方の戦死者の霊を慰めるため、1336年(延元元年)この地に九品寺を建て、義貞が日ごろから尊敬していた風航順西(ふうこうじゅんさい)和尚(おしょう)を京都から招いて開山とし、戦死者の霊を厚く弔ったといいます。
山門と本堂にそれぞれ掲げられている額の「内裏山」と「九品寺」の文字は、新田義貞が書いた字の写しと伝えられています。もとになった額は、傷みがひどいため本堂に保存されています。
鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より


















