尾道 夕方“鐘の音”が市街に響く「千光寺」

 見晴らしの良いところです。“観光のお寺さん”ですね。毎日夕方に撞く“鐘の音”が旧市街に響きます。

 寺伝によれば806年に空海(弘法大師)によって創建され、源満仲(多田満仲)によって再興されたというが確証はなく、中世以前の寺歴は判然としません。

 興趣千変万化、奇岩、奇勝など四季を通じて自然の神秘を探賞できます。

尾道 五重塔から三重塔へ「天寧寺 三重塔」

 天寧寺は室町二代将軍足利義詮(よしあきら)が父の足利尊氏の菩提を弔うため、 夢窓疎石に命じて建立させた。
 天寧寺三重塔は、1388年に建立された五重塔(当時は高さが35m前後ではないかと考えられるとか)を、1692年に傷みの激しい上二重を取り払って三重に改造したものです。このため三重塔にしては、全体に上からかぶさっているような重苦しい感じがしています。
 この塔は、海雲塔とも呼ばれ、高さ25m、足利時代をしのぶ貴重な建築物として国の重要文化財に指定されています。
 足利尊氏も織田信長も、「この世は幻のようなもの」といっています。そうはいいながらも、尊氏も信長も懸命に戦って人生を駆け抜けた人です。

尾道市「向島(むかいしま)一周自転車旅」

 尾道水道(海)を渡り自転車、向島を一周します。約20kmちょっとくらいでしょうか。
 現在は「しまなみ海道」を自転車で渡ることが一般的になっていますが、向島を一周するのも、なかなか良いものです。
 四季の移り変わりもいいですよ。特に島の南側(本土の反対側)は、波打ち側をのんびりと過ごすには最適です。
 しまなみ海道側は、向島の西側の一部を抜けますが、そこものんびりとできますが、それよりももっとのんびりできます。
 体力を試すには、歩くのもよいのですが(高校3年生のときは学校行事で歩きましたが)、これはのんびりとは過ごせません。
 「瀬戸内」の、のんびりとした雰囲気を味わうことができます!

尾道 昔はここに魚市場があった「尾道駅前桟橋」

 島に行く船が出ています。
 前の島(向島(むかいしま))への渡しの乗り場が、一番東に独立してあります。
 「尾道~因島~生口島」方面、「尾道~百島~常石」方面の船が出ています。他に、春から秋までですが、「尾道~鞆の浦」への船が、土日に運航しています。
 この辺りの海は、干満の差が3m前後あり、海岸の景色も変化します。海底までの深さも変わりますし、隠れていた岩が水面に顔を出します。また、潮の流れも早いのです。 前に向島があるので、風の影響は少なくて済みます。
 1957年4月、瀬戸田港から尾道港に行く第五北川丸の海難事故がありました。岩礁に乗り上げ沈没、旅客112人及び乗組員1人が死亡。定員は旅客77人、乗っていた旅客は訳230人、約3倍の乗客を乗せていました。
 その頃、夏の海水浴場へ行く客船は、船の周囲が通路になっており、海水が足首まで来るくらい乗客を乗せていました。

尾道 国宝の寺、江戸時代、伝書鳩と米相場 「浄土寺」

 聖徳太子が創建したと伝えられる。多くの文化財をがあり“寺の町尾道”の中でも由緒ある寺院として、訪れる人も多く、境内にハトがたくさんいます。ハトのえさを持っていると腕や手に飛んできます。
 足利尊氏が九州平定や湊川の戦の際、戦勝祈願をした寺としても有名です。
 「本堂」「多宝塔」は国宝、「山門」「阿弥陀堂」は国重文、境内一帯は国指定文化財に指定されています。
 裏の竹林には伏見城から移築したといわれる茶室 「露滴庵(国重文)」が寂然と建っています。
 ここの多宝塔(二重の塔)は日本の三大多宝塔の一つとされています。また、裏庭には茶室があり、わびさびの世界を漂わせています。
 爰にハトがいる理由は、江戸時代、幕府が禁止していた伝書鳩を使って、大阪の米相場の情報を撮っていたからです。お寺を維持していくビジネス(?)感覚は大事ですね!

尾道東高等学校(林芙美子の母校)

 NHKアーカイブに、戦後まだ6年の1951年に放送されたもので、作家の林芙美子さん47歳の肉声が残っていました。放送終了後、林さんは4日後に亡くなった。本当に最後の音声となったという貴重なものです。その中の一部をかきとめました。
 女学校時代に、その女学校もやっぱり私、自分で業実(実業をもじった語:学生のスラング)を働いておりましてね。今で言えばアルバイトの先駆者みたいなんですけれども。こうは言っても、私の育ったとこは尾道というところで、景色のいいとこなんですよね。「この女学校入っておりましてね。そして親が女学校には入れてくれないって言うんですけども、勝手に試験を受けに行ったら6番ぐらいで入っちゃったんです。得意になって入ってたんですけど、袴も買えないし、教科書も買えない。仕方がないから、これが工場に入ってあの太い針で本縫になって、そして日給をもらって、それでもって貯めたりして、日給といっても夜に行ってましたからね。だから、あるいは袴だとかそういうものを、自分のお金で稼いで、そして学校に入った。
 学校に入った時に私は地方での土着のものじゃないもんですから、非常に排斥されていた。自然に図書室に入ったりするようになって、その頃のものだとか、………。その頃たいへん詩が大変遊行していて、はやって若い人に読まれていたので、わたくしも詩を読んで、大変好きでした。先生が、また非常に好きで、読んでくださいました。自然に、自然発生的に、そういうものが好きになっていきました。…………

尾道 技芸が上達する「お経の塚」がある「海龍寺」

 奈良の西大寺の定証上人が西国巡礼の途路、当時の曼荼羅堂といわれていたこの寺に住み、荒廃していた浄土寺を建立したと伝えられている。
 その頃備後太田の荘官でこの寺の別当職であった和泉法眼渕信がこの寺を定証に寄進したという古記録がある。
 正中二年(1347年)には炎上したが、直ちに再建され、寺名を現在の海龍寺と改めたのは寛文二年(1662年)である。
 本尊は鎌倉末期のものといわれ千手観音菩薩である。山門の直ぐ右側に文化七年(1810年)の文楽之墓と文政三年(1820年)の竹本弥太夫の墓があるが、これは江戸の末期に尾道の浜問屋の檀那集が大阪から文楽師匠を招いて余暇を楽しんでいて師匠の死語追善供養の為建てたものである。
 庫裡の裏庭山麓に広がる大盤石は花崗岩の多い尾道地方でもめずらしい巨岩である。

尾道 村上水軍の信仰を集めた「光明寺」

 834~847年、円仁和尚の草創といわれています。元々は天台宗のお寺でしたが、鎌倉時代の末期の建武3年(1336年)2月、足利尊氏の従軍僧だった道宗雙救上人が今川貞世と共に、光明寺に足を止めたとき智海和尚を助け、自らが大願主となり光明寺を再興し、浄土宗へと改宗しました。
 室町時代には村上水軍の信仰を集め、1588年、豊臣秀吉の「海上鎮圧令」により武士を捨て回漕問屋へと生業を変えた後も檀家として寺を支えました.
 江戸時代に檀家制度が出来る前は、お寺を維持するためには、今で言うビジネスの感覚が重要だったのでしょうね。そのためか、村上水軍と結びついたのでしょうか?

尾道最大の磨崖仏、浄土寺山「不動岩」

 江戸末期の木版画にはすでに描かれており、年号作者らと岩のまわりをみまわしたものの発見できず。
(岩の向きと背景は、現実には一致しません)
 浄土寺山は瑠璃山の別名をもつ。浄土寺山8合目あたりに巨石が「不動岩」です。巨岩に不動明王が刻まれています。
 不動明王は、真言宗をはじめ、天台宗、禅宗、日蓮宗等の日本仏教の諸派および修験道で幅広く信仰されています。
 密教の根本尊である大日如来の化身で「お不動さん」の名で親しまれ、大日大聖不動明王、無動明王、無動尊、不動尊などとも呼ばれており、特に日本において根強い信仰を得ております。真言宗では大日如来の脇待として、天台宗では在家の本尊として置かれる事もあります。
 浄土寺山の麓に真言宗の浄土寺があり、不動明王を刻み込んだのでしょうか。
 この巨石の上部が展望台になっています。上から岩を見ると、大阪城築城のため岩を割ろうとしたのか、彫ったくぼみがいくつかあります。

尾道 向島とを結ぶ航路「福本渡船」廃止になります!

 135年の歴史を持つ福本渡船は、2025年3月31日までの運行です。

 大林宣彦監督の映画「ふたり」「さびしんぼう」のロケ地となったり、PlayStation 4用ゲームソフト「龍が如く6 命の詩」にも尾道仁涯町の“仁涯渡船場”として描かれています。

福本渡船(0.25km 3分)
【概要】 尾道駅前広場の東端付近から少し東に行くと、向島の小歌島(おかじま)とを結ぶ航路があります。3つある航路の中で最も運賃が安い渡船でもあります。尾道側桟橋入口の赤く塗られたゲートが特徴です。

尾道 隠された謎があるのか? 向島「岩屋山」

 岩屋巨石ははるか昔に人が造形したと考えられている岩です。
 それは人造の傷跡があることから推測され、岩屋巨石のその造形は古代太陽信仰に基づいた太陽の周期とリンクしたものになっており、古代人の歴の知識が込められていると考えられます。
 また、この岩屋山の山頂には尾道水道を見渡せる絶景のパノラマビューがあり、尾道三山の寺院(千光寺、西郷寺、浄土寺)と、この岩屋山との不思議な関係を眺望することができます。
 (「岩屋山ミステリーツアー」の案内板より)

尾道 五百羅漢の群像がある「天寧寺」

「五百羅漢の群像」 500体 + 28体

 羅漢は正式には阿羅漢(あらかん)といい、サンスクリット語のアルハンを音写した言葉です。元来インドでは尊敬に値する人という意味で、仏教では、悟りを開いた修行者という意味です。羅漢には釈迦の十大弟子や、釈迦からこの世にとどまり仏法を護るように命じられた十六羅漢、釈迦の入滅後に行われた第一回結集(けつじゅう)(経典の編集会議)で集まった五百羅漢などが含まれます。

尾道 よく「見よう・言おう・聞こう」三猿の教え「大山寺」

 「見ざる、言わざる、聞かざる」の真逆。
 「見てご猿、言うてご猿、聞いてご猿」で、世の中の正しいことを「よく見よう」、「よく言おう」、「よく聞こう」という願い。
 江戸時代から尾道は、実質的には豪商が町を治めていた。この風土がこの猿達を生んだのでしょうか。

  NET社会になってしまった現在、「見てご猿、言うてご猿、聞いてご猿」の時代になってしまったようですね。
 NET詐欺の合わないようにお参りしますか!

尾道 咸臨丸へ便乗、帰国後英語塾をした「正授院」

 1394年の開基で、もとは禅宗であったが、1596~1614年純誉によって浄土宗に改宗された。
 本尊は阿弥陀如来。1698~1703年の頃、中興諦誉良頓が発願し常念仏を始めた。
 江戸増上寺法王祐天上人がこのことを賞し、五代将軍綱吉やその母桂昌院にも上申して、家康、秀忠、家光、家綱の歴代将軍とその御台所の尊碑、仏像並びに葵紋付香爐などを下賜された。
 この寺の了般は累進して増上寺四十二世の法主となり大僧正に昇爵した。
 鐘楼の南には常念仏一万日ごとに一基、合わせた五基の石柱が並び立ち五万日常念仏成就の功を物語っている。
 このお寺さんの鐘楼のそばを奥の方に入っていくと、ちょっと意外な場所を発見します。
 見過ごしてしまいそうなところを発見するとわくわくします。

尾道 「完璧は災いの元」と石工の祈り「御袖天満宮」

 5mもの1本石が54段、それに、二本継ぎが1段(上から二段目)。
 「坂の町」尾道にとって石段は見なれたものであるが、浅野芸州藩主夫人が寄進した随神門から本殿までの五十五段は石段のなかの石段といえる圧巻。おそらく随神門と前後し享保年中(1716~36)につくられたものであろう。
 長さ5.2m、幅32cm、高さ17cmの見癖な一本物の花崗岩を使い、上から二段目だけは、完壁なものの脆さをこばむ日本的な宗教感覚にもとずいたものであろうか、継ぎ目をつくり完成させたもの。

 大林宣彦監督の映画「転校生」の撮影場所(男の子と女の子が入れ替わる場面)です。

尾道 四十八夜念仏修行ののち入水往生「信行寺」

 1596~1614年に住職称住がこの草庵で四十八夜念仏修行をしたとき、その満願の暁方、阿弥陀如来の来迎に逢い、結集と共に入水往生したが、その時結集の中の一人は現世に残ってこの庵を相続せよというので、行欣が残ることになり、1603年現在地の下の山陽線路上の辺に移った。
  「浄土宗」は、誰でも悟りに至ることができる教えで、自分の力だけでは無理でも、阿弥陀仏の力を借り、阿弥陀仏が私たちのために用意いただいた極楽で修行するなら、私たちでも悟れるであろう、という教えです。
 では、その阿弥陀仏とはどのような仏かと申しますと、私たちのような修行に堪え得ない普通の者を救おうとして修行を積まれ、仏となられた方です。
 多くの仏の中で、特に阿弥陀仏に依るのは、まさに阿弥陀仏が私たちのような凡夫を救おうとされているからといえます。阿弥陀仏は、どこにいる人にも届く救いの光明を常に発し続けておられます、と。

尾道 瀬戸田 地下の巡礼「耕三寺 千仏洞地獄峡」

 千仏洞地獄峡 – 約350mに及ぶ地下霊場。仏教世界の地獄観・極楽観を描く。

 1961年から着工し、内部は富士山と浅間山から運んだ溶岩が積み上げてある。完成まで3年を要した大工事だったという。これだけの長さ、しかも、立体的な洞窟が境内にあるお寺さんは、ここが初めてです。

 洞内は「往生要集」を体感するための空間とされている。

尾道 裏山に岩に刻まれた仏像群が「済法寺」

 済法寺の裏山斜面の自然岩に多くの磨崖の羅漢像が刻まれています。 済法寺の裏山の一面に広がる巨岩に、釈迦如来座像を頂点として、4段ぐらいの岩群に、光背状に彫りくぼめて半肉彫りする十六羅漢磨崖仏があり、江戸時代の尾道石工の技術の切れをノミ跡に見ることができます。
 ただし注意が必要です。見学用の道がないので山で遊んだ経験のある人はともかく、山遊びの経験がない人は、双眼鏡など準備して下から見てください。特に枯れ葉が落ちているシーズンは、滑りやすいので注意してください。

尾道 三人の義賊、三つ首様をを祀る「海福寺」

 入母屋造、瓦葺で、中央後方の部屋が仏間になっている。一番の特徴は、幅の広い縁側(広縁・ひろえん)の上に、ー枚ものの板をとりつけた鏡天井を設け、虹梁(こうりょう・緩やかな弧をえがいた梁)と桁でその天井を支えている点である。全体的に非常に簡素な造リだが、江戸時代の時宗本堂の遺構としては全国的にみても貴重である。

 本堂の西側にある「三ツ首様」は処刑された盗賊の首をまつったもの。1828年の頃、尾道地方に想兵衛・亀蔵・利助という三人の盗賊がいたが、一風変わった連中で常に貧者に施しをしていた。

 三人が捕らえられ処刑された夜、この寺の住職勘応の夢枕に三人の霊が現れて、「我々三人の首を埋葬供養されたら、首より上の病を癒すであろう」と告げたので、住職は三人の首を請い受けて本堂の横に埋葬し、三人の戒名を刻んでねんごろに供養した。それから霊験まことにあらたかであるので「三ツ首様」はお香の煙が絶えない。