鎌倉 生き延びた比企高塚の屋敷跡に「本龍寺」

 本龍寺(ほんりゅうじ)は、神奈川県鎌倉市にある日蓮宗の寺院。山号は龍口山。本尊は大曼荼羅。霊跡本山比企谷妙本寺の旧末寺(池上土富店法縁)。
 この寺は、日蓮聖人の直弟子である日朗聖人の弟子、朗門九鳳の一人、妙音坊日行聖人を開山とする。比企高家の屋敷跡に建てられたと伝えられ、境内には高家の墓が残る。
 龍口寺輪番八ヶ寺の一つ。慶長6年(1601年)に津村の国人で日蓮宗の信奉篤い島村采女により龍口寺が本格的な寺としての格式を整えられてから、江戸時代までは片瀬腰越八ヶ寺(通称片瀬八ヶ寺)が輪番で維持していた。本龍寺もそれまでは、「与蓮山」と号していたが、「龍口山」と改める。
 平成14年、立教開宗750・創建700年を期して、本堂建て替え並び寺域整備を行う。

(鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より)

尾道 港の守護神を浄土寺から移す「住吉神社」

 1740年、尾道の町奉行に着任し広島藩の平山角左衛門《名誉市民》は、翌年の1741年に住吉浜を築造し尾道発展の基礎を築いた。その際、浄土寺境内にあった住吉神社をこの住吉浜に移して港の守護神とした。

 毎年旧暦の6月28日前後(7月の終わり頃)の土曜日、平山奉行の功績を称えると同時に、商売の繁盛と海上交通の安全を願ってをおのみち住吉花火まつりが行われます。

 尾道住吉花火まつりは、正式名称を「住吉神社大祭礼」といい神事です。花火当日に「山型(やまがた)」「鳥居(とりい)」「御弊(ごへい)」の提灯船3隻に加え、「火船(ひぶね)」 「御座船(ござぶね」が渡御(とぎょう)…尾道水道を行ったり来たり…しております。

 小津安二郎監督の代表作「東京物語」のロケ地、港の守護神とされる神社。

愛川 八菅山修験の第五番目の行所「塩川の滝」

 塩竈の滝は、八菅山修験の第五番目の行所であり、同修験は、熊野修験の系列に属したことがあったので、滝修行は熊野の行事に準じていたことが察せられる。これによると滝そのものに神性をみとめ、滝が御神体であり、本尊であり本地仏であった。この社は、大日孁尊(おおひるめのみこと)となっているが、系列を同じうする熊野那智の滝における滝神社は、祭神を大己貴尊(おおなむじのみこと)(大国主命(おおくにぬしのみこと))とし、本地仏に千手観音を祀っており、神仏習合のすがたを整えていた。そして「滝篭り」による厳重な修行が行われていた。(案内板より:愛川町商工観光課)

鎌倉 日蓮が「立正安国論」を執筆した「安国論寺」

 長勝寺・妙法寺と並び日蓮の鎌倉での布教の中心となった松葉ヶ谷草庵跡とされ、松葉ヶ谷霊跡安国論寺とも言う。

 開山は日蓮とするが、弟子の日朗が1260年に、日蓮が前執権北条時頼に建白した「立正安国論」を執筆した岩穴(法窟)の側に安国論窟寺を建てたのが始まりである。

 日蓮上人の鎌倉草庵の地。

 日蓮が世間をあっと言わせた出来事があった。極楽寺の忍性との雨乞い競争で、まづ忍性が祈り始め、七日の内に雨を降らせると公言したが、結果はさんざんで、七日たっても一滴の雨も降らなかった。忍性と数百の供僧たちが更に24日間祈りに祈ったが、ついに雨は降らなかった。日蓮はこれを見て、民をかわいそうに思い、一人で七里ヶ浜の田辺ヶ池の畔で読経したところ、たちどころに雨がしとしと降り出し、異常乾燥も終止符を打ったという。この一件が敵方をより過激にし、激しい迫害を受ける一因になった。

 裏山の富士見台からは由比ガ浜海岸を含む市内を一望できる。

尾道 聖観音に祈願して海難をのがれた「善勝寺」

 開基は、遠く天平の世、諸国に建立された頃と伝えられている。古くは禅宗で善性寺といい、1573~1591年尾道権現山城(千光寺山城)主杉原民部太夫元垣の菩提所となった。杉原氏の没落後は寺運も衰えたが、1596~1614年の頃、性意が中興して真言宗にかわり善勝寺と改名した。

 本尊は聖観世音菩薩(市重文)。これは一名「萩の観音」とも呼ばれている。現在の本尊は1694年住職隆慶・その弟子頼音のときに、当地の小物小屋浄甫が再建したものを1980年に修復したものである。1664年6月正遍建立の持仏堂がある。

厚木 飯山の観音さん「長谷寺」

 「飯山の観音さん」「縁結びの観音さま」として知られる長谷寺(通称飯山観音)は厚木市街から約六キロ、丹沢から東へのびる尾根、白山の中腹に位置している。
 神奈川景勝五十選、花の名所百選にもなっており、参道、境内、桜の広場には約二千二百本もの桜の木があり、春にはお花見客でも賑わう。
 また、本堂裏側より登る白山森林公園ハイキングコース頂上展望台からは関東平野を一望でき、正面に横浜、左手に東京新宿を見ることができる。

海老名 江戸時代初期に創建されたか「龍昌院」

 「新編相模国風土記稿」では、山号を上郷山、宗珪寺(海老名市河原口)の末寺とされています。本尊は、木造釈迦如来坐像で、寛保2年(1742)の修理墨書があることや作風から江戸時代前期に造立されたと考えられます。
 寛政2年(1790)に江戸糀町7丁目の仏師・西山平治郎が造立した木造地蔵菩薩半珈像なども安置されています。
 能山雲元(?~1620)が開山したと伝えられることから江戸時代初期に創建されたと考えられます。
(「自然と歴史のさんぽみち」(海老名市教育委員会発行)より転載)

鎌倉 退居寮として開創「白雲庵」

 正和年間(1312~16)に退居寮として開 創。 禅師は曹洞宗を修めた中国元の高僧で、1309年、時の執権北条貞時の招きで来日し、1310年円覚寺第10世となり、暦応3年当寺にて遷化するまで、建長寺(18世)、寿福寺などの住職を務めた。江戸時代前期には40の塔頭があった。 現在は18寺の塔頭があり、そのうち住職のおられるところは13寺。 白雲庵はその中で最も古い塔頭である。

 天気が良ければ、ここから富士山が見えます。

尾道 四十八夜念仏修行ののち入水往生「信行寺」

 1214年に浄土宗第二祖の聖光が開いた寺で本尊は阿弥陀如来。元は聖光が向島の三ツ石に一草庵を結んで住んだのがはじめである。

 1596~1614年に住職称住がこの草庵で四十八夜念仏修行をしたとき、その満願の暁方、阿弥陀如来の来迎に逢い、結集と共に入水往生したが、その時結集の中の一人は現世に残ってこの庵を相続せよというので、行欣が残ることになり、1603年現在地の下の山陽線路上の辺に移った。

 1891年山陽鉄道が開通したので、堂舎を現在地に移した。

厚木 相模国式内社の「小野神社」

 現在の拝殿は、嘉永(かえい)元年(1848年)に建てられ、わら葺屋根でありましたが、昭和四十三年に鉄板蓑きに替えられました。本殿は拝殿よりも1mほど高い地面に神明造(しんめいづく)りで造られています。「新編相模国風土記稿」に「閉香明神社(かんかみょうじんやしろ)、村の鎮守なり延喜式に載りし小野神社、当国十三社の一(いつ)にて祭神(さいじん)下春命(したはるのみこと)という」とあります。
 明治時代になってから、この神社の祭神には日本武尊(やまとたけるのみこと)も加えられました。それは日本武尊が東国の賊の征伐に向かった際、野火の焼きうちの苦難にあうという「古事記」に記述の地が「小野」と関係するとして祭神に加えたもののようです。

(「玉川の歴史と民話を21世紀に」(玉川地区協議会)より)

鎌倉 登り口に「星ノ井」のある「虚空蔵堂」

 虚空蔵菩薩は密教で発達した仏です。果てしなく大きな智慧と福徳があるとされ、その智慧を頼って「虚空蔵求聞持法(ぐもんじほう)」という修法(しゅほう)が生まれました。この菩薩の陀羅尼(だらに)を百万遍唱えると、人並み外れた記憶力が授かるといいます。空海もこれを成し遂げ、利益を得たそうです。
 また、五大虚空蔵菩薩を本尊とした息災・来福の祈願法もあります。五大虚空蔵菩薩とは、金剛界曼荼羅(まんだら)の如来が虚空蔵菩薩に変化したもので、菩薩の法力を五つに分けて五尊で表しています。
 基本的なすがたは菩薩形で、蓮台に座しています。右手には智慧を象徴する剣を、左手には福徳を表す如意宝珠(にょいほうじゅ)を蓮華の上にのせて持っています。ただし、求聞持法の本尊となるときは、右手は与願(よがん)印です。

トリビア:虚空蔵菩薩を本尊とする寺では「十三参り」が行われる。数えで十三歳になると、福徳・智慧・健康を授かるようにとお参りする行事。
(『イラストでわかる「日本の仏さま」』 日本の仏研究会編より)

尾道 昔、夜毎に海上を照らした玉の岩の「千光寺」

 寺伝によれば806年に空海(弘法大師)によって創建され、源満仲(多田満仲)によって再興されたというが確証はなく、中世以前の寺歴は判然としない。
 興趣千変万化、奇岩、奇勝など四季を通じて自然の神秘を探賞できます。

 唐から空海が帰国したのが806年、これ以降、真言密教が日本に広められた。ということは、806年に創建されたは??ですね。
 また、高野山金剛峯寺を修禅の道場として開創したのは816年のことで、真言宗の開宗はその頃とされています。

座間 家康が鷹狩りの途中に寄った「宗仲寺」

 1603年、徳川家康の重臣であった内藤清成(きよしげ)が実父竹田宗仲の菩提のために鎌倉岩瀬の大長寺第4世・源栄上人を開山として創建。
 
  内藤清成は当時、大島・田名・当麻・磯部・新戸の各地域を治める領主であったが、家康の三河以来の家臣で2代将軍秀忠の守役を命ぜられていたこともあり、家康公が存命中の鷹狩りの際にはここに立ち寄ったとされるほか、1617年、家康公の霊柩が久能山から日光へ遷御される際には、一行がこの場所で休息をとったといわれている。

鎌倉 女性にとって圧政の時代に救いの寺「東慶寺」

 東慶寺といえば、駆け込み寺とか、縁切り寺とも呼ばれ、女性にはこの上なくありがたい男子禁制の尼寺だった。妻の方から離縁を申し出ることなど許されない封建時代にあって、ここに駆け込めさえすれば、「離婚できる」というのだから、江戸時代、多くの女性がこの尼寺に駆け込んだものもうなずける。江戸末期の150年間には約二千人の女性が駆け込んだともいわれている。江戸時代には女性の自由が極端に制限されていた時代である。そんな時代にこの東慶寺こそ、女性にとって人生をやり直せる稀有な緊急避難場所だった。
 定年と同時に、妻から三行半(夫から妻または妻の父兄にあてた離別状…三行半に書く習慣からいう)をポンと渡され、おろおろする中高年の男性も多い昨今、往時の抑圧された女性達の境涯を想像するのは難しい。女性にとって圧政への時代に、この尼寺の担った役割はきわめて重要だっただろう。封建制度の矛盾のほころびを補う役割を果たすことで、ガス抜きの効果をも果たしていたのかもしれない。時代の必然の賜物だったのかもしれない。
  (「鎌倉なるほど事典」楠本勝治著 実業之日本社 より)

尾道 自然石に彫られた十六羅漢「済法寺裏山」

 済法寺の裏山斜面の自然岩に多くの磨崖の羅漢像が刻まれています。 済法寺の裏山の一面に広がる巨岩に、釈迦如来座像を頂点として、4段ぐらいの岩群に、光背状に彫りくぼめて半肉彫りする十六羅漢磨崖仏があり、江戸時代の尾道石工の技術の切れをノミ跡に見ることができます。

 ただし注意が必要です。見学用の道がないので山で遊んだ経験のある人はともかく、山遊びの経験がない人は、双眼鏡など準備して下から見てください。特に枯れ葉が落ちているシーズンは、滑りやすいので注意してください。

厚木 曹洞宗僧侶の修行道場だった「清源院」

 1050年天台宗の桓瞬和尚が開山と伝わる古刹。一時は荒れてたこのお寺を再建したのは、曹洞宗の天巽和尚。
 伊豆の伊東一族の子孫と伝えられている、伊東九郎三郎政世は源清院を菩提寺とし、源清院本堂裏には、政世をはじめとする伊東一族の宝筐印塔が並んでいる。
  
 天巽和尚は、足柄の最乗寺15世を勤めた人、最乗寺での務めを終えられて沼田の龍華院に帰る途中、上州で起きた戦乱に巻き込まれることを避け、上荻野にある松石寺に足止めされていたとき、松石寺の住職の地位を譲られた天巽は、三田にあり荒廃していた天台宗清源院の再建に乗り出す。曹洞宗に改められた清源院は、天巽派の寺院として復活を遂げる。

鎌倉 光明寺草創以前よりこの地にあった「蓮乗院」

 もとは蓮乗寺という真言宗の寺だったが、光明寺が佐助から材木座に移転した以後、蓮乗院として光明寺の一院となった。
 光明寺落成までの間、然阿良忠が滞在したことから、光明寺の新しい住職は、いったんこの寺に入ってから入山するという。

 本尊阿弥陀如来像は、源頼朝に鎌倉入りを進言した千葉常胤の守護仏。千葉常胤の檀那寺であったといわれている(寺紋は月星)。

 当院は光明寺草創以前よりこの地にあって、当時は蓮華寺と称し真言宗に属していたと伝えられている。

福山 鞆 明治八年に官命によって社名が「沼名前神社」

 現在の沼名前神社は、明治に渡守神社(わたすじんじゃ)・鞆祇園宮(ともぎおんぐう)を合祀し、『延喜式』神名帳の記載にならって「沼名前神社」と改称したものです。神社側では、渡守神社が『延喜式』神名帳所載の式内社で、同社が現在に至るとしています。現在の祭神二柱(大綿津見命・須佐之男命)は、それまでの各社の祭神です。

 今から千八百数十年前、第十四代仲哀天皇の二年、神功皇后が西国へ御下向の際、この浦に御寄泊になり、この地に社の無きことを知り、斎場を設け、この浦の海中より涌出た霊石を神璽として、綿津見命を祀り、海路の安全をお祈りになられたのが、当社の始まりです。
 さらに、神功皇后御還幸の折、再びこの浦にお寄りになり、綿津見神の大前に稜威の高鞆(いづのたかとも(弓を射る時に使った武具の一種)を納め、お礼をされたところから、この地が鞆と呼ばれるようになりました。

尾道 向島を一周でもしてみようか!

 尾道大橋の歩道は、やっと1人が通れるだけ、しかも、ところどころに橋をつり下げるローブの基点があり、自転車に乗ったままでは通れない。

 橋の上から尾道の景色を見たいので、橋の歩道を自転車を押しながら渡ることにする。
 やはり狭い歩道は自転車を押しながらでは多少の苦労を強いられる。(右手をサドルに置き、片手でバランスを取りながら押す。)
 これは昔ですが、今はどうなっているのでしょうか?

 「しまなみ街道」の自転車旅は、尾道駅前のフェリーで向島に渡るのが正解ですね。

座間 芹沢公園は太平洋戦争時、海軍の飛行機工場が!

 第二次世界大戦(太平洋戦争)の時、海軍の飛行機工場ありました。そこで多くの台湾少年工が働いていました。

 高座海軍工廠では、戦争末期に不足していた労働力を当時日本の統治下にあった台湾に求めました。台湾で行われた選抜試験には多くの少年が応募し、国民学校高等科や旧制中学校などを卒業した。十代の優秀な少年8,400人余りが、海軍軍属として海を渡って日本にやってきました。
 少年工たちは、昭和18(1943)年から順次、現在の大和市上草柳にあった寄宿舎に入寮し基礎教育を受けた後、高座海軍工廠をはじめ群馬県の中島飛行機製作所や名古屋の三菱航空機など各地の工場へ派遣されました。その真面目な働きぶりと高い技術は派遣先の工場でも高く評価されました。
 しかし戦局が厳しくなると労働環境は悪化し、中には空襲で命を落とした少年もありました。大和市上草柳の善徳寺には、亡くなった少年60名の慰霊碑が建てられています。
 昭和20(1945)年8月に終戦を迎え、少年たちは台湾へ戻ることになりました。翌年の帰国までの間、多少の戦争直後多少の混乱はあったものの、少年たちは自治組織を結成し、秩序を守って整然と帰国しました。
 戦後、元少年工たちは戒厳令下の台湾でも懸命に努力して故郷の発展に尽くし、また苦労した戦時を過ごしたこの地を訪れ、若き日の思い出にふける人も少なくありません。
 出典:石川公弘著「二つの祖国を生きた台湾少年」「座間市史」ほかより