葛原岡神社は後醍醐天皇の忠臣として鎌倉幕府倒幕に活躍した日野俊基卿をお祀りする神社。
明治天皇は日野俊基卿の足跡を明治維新の先駆けとして深く追慕せられ、1884年勅旨をもって従三位を追贈され、1887年に最期の地であるここ葛原岡に俊基卿を御祭神として神社を創建、宮内省よりの下賜金をもって御社殿を造営、鎮座祭が執り行われた。一説には、地名の起りは葛原親王・鎌倉権五郎景政を祭神とする梶原の御霊社の故地であったことに因むという。
いわば南北朝のリターンマッチとして堀起したのが、桂小五郎をはじめとする長州の倒幕派です。薩摩の立場も南朝論であり、大久保利通や西郷隆盛が立ち上がったのは「南朝こそ正統であり、北朝は偽王朝である」という理念を実現するためです。
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福山 昔の商人の姿が残る「鞆の津の商家」
「鞆の津の商家」は、江戸時代末に建築された建物で、かつて「鞆製網合資会社」などに用いられていましたが、今日では市の重要文化財に指定され再生・保存されています。外観の美しい建物ですが、なかでも正面右側の土蔵は、2階建ての町家に見えるようにひさしを設けており、他に例を見ないユニークな意匠となっています。
町家の多くは合併や増築によって造られており、一時期に一気に新築されたものは珍しい。
これは、特に繁華な港町における町家の浮沈の激しさを反映していると思われます。
もちろん、町家を新築する際には古材を再利用するのが当たり前で、そのことが建築年代の判定を著しく困難にしています。
尾道 1928年大火で焼失、海岸から移転「海徳寺」
1926年10月12日の早暁、不幸大火のため全山焼亡、1928年現在地に移転新築しました。
むかしは、防地川河口にありました。広大な境内を有する通称「沖の道場」と呼ばれ、市の発展につれて周辺に民家が建ち並び、境内が広かったので、サーカス興行や相撲の興行があって、名力士常陸山、梅ヶ谷、太刀山、鳳などの勇姿も見られたそうです。
その頃は、本堂の東側に一本の古松があって、竜神がその梢に燈明を献じるというので、その松は「竜燈松」と呼ばれていたそうです。
一遍上人が諸国遊行の途中、尾道に草庵を結んで念仏勧進されたのにはじまると言われています。
座間 美濃齋藤氏の遺臣が開拓し祀る「日枝大神」
当社の創建は、元亀年間(1570~1573)と伝えられています。
創建者は織田信長に敗れた美濃国(岐阜県)の齋藤龍興(道三の孫)の遺臣四名で、この地を開拓し祭神を四ツ谷の氏神として祀ったと伝えられています。
宝暦十三年(1763)に火災にあい、七十八年後の天保十二年(1841)に再建、棟札に「山王大権現」と記され、手水石や諏訪社の祠の奉納年号から見ると、社域もこのころから整えられてきたようです。
明治二年(1869)、「山王大権現」から「日枝神社」に改称、祭神も「大山咋命」に変わり、同六年には村社に列され、同十八年八月に再遷宮の記録があります。
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この寺の裏山は、かって源頼朝が由比ケ浜の放生会(ほうじょうえ)を見物するために、展望台のような桟敷を設けたところだといわれています。後に、ここに住んだ将軍宗尊親王(むねたかしんのう)の家臣で、日蓮宗の信者であった兵衛左衛門の妻は桟敷尼と呼ばれました。桟敷尼は、1271年(文永8年) 9月12日、捕われの身となった日蓮(にちれん)が馬で龍ノ口(たつのくち)の刑場に引かれていくとき、ごまのぼたもちを作って日蓮に「仏のご加護がありますように」と差し上げたということです。このぼたもちのおかげでしょうか、処刑されそうになった日蓮を助ける奇蹟が起こりました。このことから、「首つぎのぽたもち」ともいわれ、有名になりました。
座間 裏山から湧水 し、水量も豊富「心岩寺」
開山年代は寛正元(1460)年頃で、鎌倉建長寺第七十五世悦岩興惟禅師の法弟成英玉大和尚が開山し、この地の郷士白井織部是房が開基となって、白井氏の持仏堂を寺としたものと伝えている。
当山の記録によると、山号は初め久光山心願寺、後に座間山心巌寺、そして江戸時代になって座間山心岩寺と改められている。
開山以来五百数十年、法嗣二十二世この間法灯絶えることなく栄えている。
尾道 もともとは海徳寺の鎮守だった「勇徳稲荷神社」
祭神:倉稲魂命(うかのみたまのみこと) 須佐之男命(すさのおのみこと)
もともとは海徳寺の鎮守であったが、1926年海徳寺が火災にあい、山手に引っ越した。そのため、神社は独立しました。
現在でこそ、神道と仏教は明確に区別されていますが、明治時代までは、両者の境界線は非常にあいまいでした。
仏教寺院を建てるさい、その土地で古来あがめられてきた神さまを、寺の守護神(鎮守)としてまつることが、ごくふつうに行なわれるようになり、神社とお寺が同じ敷地内に同居することも、あたりまえになったのです。
こうした傾向を、「神仏習合(しんぶつしゅうごう)」と呼びます。神社とお寺が分離されたのは、明治時代に「神仏判然令(しんぶつはんぜんれい)」が出されてからなのです。
鎌倉 目の神様として親しまれている「御霊神社」
境内には、樹齢約350年、高さ20mのタブの木が高く枝を繁らせています。その下を進むと正面の石段があり、上がった所が社殿です。屋根には金色の二枚の矢羽根がついています。祭神である鎌倉権五郎景正の紋章が社紋となっていると伝えられています。拝殿の脇に彫刻があり、後ろの本殿にも豊かな彫刻がほどこされていて、立派な造りであることは、後ろに回るとよくわかります。社殿に向かって右側に、「景正の袂石(たもといし)」(約38kg)や「景正の手玉石(てだまいし)」(約68kg)という丸い石があります。また、社殿の前には「弓立ての松」が置かれています。これは景正が領内をまわるときに弓をたてかけて休んだという松の木の一部だといわれていますが、900年の年月を経て中が腐って穴があいたようになっています。いずれも景正の力が強かったことを伝えるものです。
鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より
愛川 半僧坊大権現を祀る「勝楽寺」
山門に立ち、伽藍を護る仁王は共通して一面二臂の怒怒相。上半身は裸で筋骨隆々、下半身は裳をたくし上げています。金剛杵が代表的な持物です。
もともとは、執金剛神(しゅこんごうしん)という、釈迦を守護する独尊でしたが、しだいに二体一対で安置されるようになりました。基本は、口を開いた阿形(あぎょう)が向かって右(東)、口を結んだ吽形(うんぎょう)が左(西)です。阿形を金剛や金剛力士、吽形を力士や密迹(みっしゃく)力士と呼ぶこともあります。(「イラストでわかる『日本の仏さま』」 日本の仏研究会より)
尾道 太宰府に左遷さる道真が寄った「御袖天満宮」
社殿の斜め前に菅原道真と縁の深い牛の石造物があります。この石像は尾道石工の傑作(けっさく)中の傑作といってもよい。御影石(みかげいし)をここまで繊細に刻み込むのは至難(しなん)の業なのでしょう。菅原道真は学問の神さまで筆を祀ってあるのですが、本殿わきの石造りの筆があります。これも尾道石工の立派な作品です。
毛筆そのままを型どり、中央に「生華」と刻まれ、島屋勘十郎がノミをふるい、奉納した肇を埋め完成させたもの。
学問および書道の神様として崇められている菅公にちなみ、その徳をたたえてつくったもので、終戦直後まで学門書道の上達を願う者の参拝が絶えなかったそうです。
相模原 江戸時代 山伏の修験が行われた「八幡宮(磯部)」
この社を開いたのは鎌倉から来訪した山伏祐圓で、別当は小田原玉瀧坊觸下の佛像院磯幡山神宮寺。1478年、太田道灌勢により陥落するまで磯部地内には城(城主長尾景春)がありました。
江戸時代には当社では山伏の修験が行われ、沢山の家業繁昌厄除の護摩が焚かれた。また、この地域は大山詣りの宿場のため境内は非常に賑わったと伝へられています。当時は対岸の依知山際等からも参拝があり、特に火渡りの護摩が有名でした。
明治始めの神仏混淆の禁止令により別当職が解かれ八幡大神となった。
1923年3月老朽に伴い氏子の奉賛により社殿を新改築し、1985年、電線神社用地上空通過に伴う神社補償料にて御社殿末社鳥居石段手水舎等の改築整備しました。
福山 鞆 最澄による創建「静観寺」
創建は806(大同元)年、最澄によると伝えられています。当時は、7000坪の大敷地に七堂伽藍が建ち並んで、五重塔も天を衝き、たいへんに栄えていたといいます。
のちの小松寺が境内に建立されことからも静観寺がいかに大寺院であったかを示しています。
しかし、相次ぐ戦乱や火災によって、創建から千二百年の間に五回も焼けています。多くの文化財は焼失してしまいました。残念ながら現在では往時の栄華を物語るものは残されていません。
平安時代には最澄により静観寺、空海により医王寺が創建され、それぞれ西日本の布教拠点となっりました。
鎌倉 関東大震災で諸堂は潰滅したが「浄智寺」
仏殿前から奥に進むと、高野槙(こうやまき)や沙羅双樹(さらそうじゅ)といわれている白雲木(はくうんぼく)などの樹木がおいしげり、墓地の脇を通って境内を一巡できるようになっています。また、境内の一角の洞窟には、鎌倉・江の島七福神の一つの布袋尊(ほていそん)もまつられています。
鎌倉・江の島七福神とは、鶴岡八幡宮(つるおかはちまんぐう)の弁財天(べんざいてん)、浄智寺の布袋尊、妙隆寺(みょうりゅうじ)の寿老人(じゅろうじん)、本覚寺(ほんかくじ)の恵比寿(えびす)、宝戒寺(ほうかいじ)の毘沙門天(びしゃもんてん)、長谷寺(はせでら)の大黒天(だいこくてん)、御霊神社(ごりょうじじゃ)の福禄寿(ふくろくじ)と、弁財天は重なりますが、江島(えのしま)神社の弁財天です。
尾道 千光寺山山頂に変わった展望台が!
2022年3月 新しい展望台がオープンしました。愛称は、「頂上」を意味する「PEAK(ピーク)」だそうです。展望デッキの長さ63m、東-南-西側の尾道水道や旧市街大パノラマで楽しむことができます。
ロープウェイの山頂駅と接続したエレベータが設置されているので、ベビーカーや車いすの人も安心してご利用いただけます。
設計は、建築設計事務所「AS」です。
厚木 信玄が出陣したとき兵火にあった「妻田薬師院」
薬師堂のある地名は、白根といいます。言い伝えによれば、良弁(ろうべん)という僧がお堂で休んでいて夢を見ました。東の方を見ると、庭の大楠が灯籠になり、お堂は昼のように明るくなりました。良弁が身を清めようとして池の側へ行くと、一夜のうちに蓮の花が咲いて、白い根が池一面に広がりました。そこでこの地を白根と呼ぶようになったそうです。
境内の楠は、県指定の天然記念物で、戦国時代の1569年、武田信玄が小田原を攻めた帰り道、夜中に軍を進めるためにこの木に火を付けて灯りとしたという話も伝えられています。
また、この薬師については、源頼朝の側室丹後の局が正室・政子の嫉妬によって命を狙われた際に、局を救うという働きをしています。局の薬師如来信仰の賜であるという伝承になっています。
厚木 小野小町の生誕地か?「小野神社」
この神社は、延長(えんちょう)五年(1194年)の「延喜式(えんぎしき)」巻九に「相模国式内社(しきないしゃ)の内愛甲郡(あいこうこおり)一座小野神社」と書かれています。
現在の拝殿は、嘉永(かえい)元年(1848年)に建てられ、わら葺(ぶき)屋根でありましたが、、昭和四十三年に鉄板蓑きに替えられました。本殿は拝殿よりも1mほど高い地面に神明造(しんめいづく)りで造られています。「新編相模国風土記稿」に「閉香明神社(かんかみょうじんやしろ)、村の鎮守(ちんじゅ)なり延喜式に載(の)りし小野神社、当国十三社の一(いつ)にて祭神(さいじん)下春命(したはるのみこと)という」とあります。
明治時代になってから、この神社の祭神には日本武尊(やまとたけるのみこと)も加えられました。それは日本武尊が東国の賊(ぞく)の征伐(せいばつ)に向かった際、野火(のび)の焼きうちの苦難にあうという「古事記(こじき)」に記述の地が「小野」と関係するとして祭神に加えたもののようです。
鎌倉 子育て観音の聖観音を祀る「来迎寺」
1194年、源頼朝が鎌倉幕府の礎石となった三浦大介義明の霊を弔うため、真言宗能蔵寺を建立したのがはじまり。
当時、能蔵寺の名前は、この付近の地名として使われていた。頼朝が亡くなった後、音阿上人が時宗に改宗し、来迎寺に改名した。
本尊には義明の守護仏とされる阿弥陀三尊立像のほか、子育て観音と親しまれる聖観音が祀られている。墓地の奥には義明の墓や、平家方の畠山軍に17歳の若さで殺された多々良三郎重春の墓と伝えられる五輪塔もある。
尾道 天保大飢聾に本堂立替で人を救った「慈観寺」
1348年に慈観上人が開いた時宗寺院。1622年に栗原(尾道西部)の世計橋付近より現在地に移ったとされている。本尊は、阿弥陀如来で、宗派は時宗一遍上人、本山は神奈川県藤沢遊行寺である。
江戸時代、天保の大飢饉の際、尾道地方にも困窮の難民が多く出たが、当時の町年寄橋本・竹下は、その救済事業として本堂の改築を発願し、1834年工を起し1837年竣工したのが現在の本堂である。竹下はこの工事に難民を人夫として雇用し、尾道では一人の餓死者も出さなかった。
(参考:天明を挟んだ江戸時代の人口は、1780年2601万人→1792年2489万人 △112万人もの人口が減少したとも。)
相模原南 縄文の住居を再現した「勝坂遺跡」
遺跡は、大正15年(1926年)の夏、当時の新磯村字勝坂で「石器時代土器が甚だ多く出土する」畑地があり、そこから縄文土器が発見されたことに端を発している。
発見された土器は、装飾的な文様や顔面把手(顔を表現した取って)などによって注目をあび、後に「勝坂式土器」として縄文時代中期のめやすとされるようになった。
また、同時に発見された多くの打製石斧(だせいせきふ)を、土を掘る道具と考えて縄文時代の農耕の存在も指摘された。
縄文土器土は、こねて器の形にして焼き固め、食物の保存容器として、また、煮炊きの容器として使われました。土器は、最初の「工業製品」といえる。
煮炊きすることで、肉などやわらかくうま味が出て消化しやすくなり、キノコや堅果・根茎などの渋みやあくが抜けたり、やわらかくなりました。
もっとも重要なことは病原菌を殺菌できたことです。煮炊きすることで、病原菌を殺すことができました。
鎌倉 十字架を模した紋がいまも残る「光照寺」
1282年 鎌倉時代、布教の為に鎌倉に入ろうとした一遍上人の一行(おそらく尼を引き連れ、乞食同然の姿)は鎌倉につながる関所を守る武士達に拒絶され、やむなく、江ノ島に通じる街道筋に一夜の野宿をした、その野宿した跡地に建てられたのがこの光照寺で、一遍上人法難霊場となっている。
時宗の成功を賭け鎌倉入りを目指した一遍にとっては、その直前で、鎌倉入りを阻止され、この地で不安な一夜を過ごしたのでしょう。翌日江ノ島に行き、そこで踊念仏を行い大成功することができひと安心した。
光照寺の山門の梁に、十字架を模した30cmほどの紋がいまも残っている。もし、この十字架を模した紋が、隠れキリシタンの遺物だとしたら、そのキリシタンたちはこの鎌倉で、どんな生活をしていたのだろうか。想像するだけでも興味深い。