幕末期の幕臣小栗上野介は、生糸の利益を幕府が独占するという計画も持っていた。生糸というのは、当時の日本にとっては貴重な輸出商品だった。
明治維新期の日本の近代化は、生糸によって成し遂げられたと言っても過言ではないほどである。
実は、当時の日本はすでに生糸の生産においては、世界最高水準にあった。江戸時代に出版された養蚕の技術書の中に、『養蚕秘録』というものがある。これをシーボルトが日本から持ち帰り、1848年にはフランス語に翻訳されて出版されている。日本の養蚕技術がそれだけ高かったということである。しかも、幕末にはヨーロッパの生糸産業は振るわなくなっていた。ヨーロッパではフランスが生糸の一大産地だったが、蚕というのは飼うのが非常に難しく、しばしば病気によって不作になることがあった。
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鎌倉 源頼朝の娘、大姫、哀しい話が「岩舟地蔵」
源頼朝の娘、大姫(大姫とは長女の意味、本当の名前はよく分からない。)を供養する地蔵堂。2001年11月に再建された。大姫は頼朝と北条政子とのあいだにできた最初の子。二十歳くらいで(1197年)なくなったようです。
ちょっと前まで木造の荒れ果てた建物でしたが、現在は海蔵寺が再建しました。
木曽義仲は頼朝の求めに応じて嫡子義高を人質として鎌倉へ送り、頼朝と和睦した。その時の条件として、表向きは、義高は頼朝の長女大姫(当時5、6歳)の婿として迎えられた。幼いながらも政略で夫婦とされた義高と大姫は仲睦まじいものでした。
翌年の正月、木曽義仲が源義経・範頼率いる関東勢に破れ近江国粟津で敗死すると、頼朝は悩んだ挙げ句、義高の復讐を恐れ、義高を殺すことを計画したが、4月、頼朝の計画を知った大姫は、義高を女装させ鎌倉から秘かに逃がしたが、すぐに発覚、義高は武蔵国入間河原で、頼朝の命令によって後を追った堀親家の郎党藤内光澄に討たれました。
最愛の義高を失った大姫の嘆きは深く、政子の強硬な主張でで堀親家の郎党藤内光澄は処刑されました。しかし、大姫の嘆きは深く、こののち義高を偲びしばしば病床につくことが多く、二十歳ほどで亡くなりました。
尾道 中世時宗寺院の遺構が残る「常称寺」
厚木 もとは天台宗、鎌倉時代に日蓮宗に改宗「戒善寺」
1282年に開創。もともとは天台宗のお寺、日源の手により日蓮宗に改宗した。
当山は平安期天台宗の寺として草創された。 1180年 源頼朝は源氏再興の旗挙げ時。 万一陸路敗走の道として、荻野から甲州へのルートを準備した。
頼朝は「我亡きあとはこの持仏釈迦如来を守り源氏再興を計ってくれ」と頼み、 持仏を授けて家来を荻野へ駐屯させた。釈迦如来像は近くの戒善寺に釈迦堂一宇を建立して安置された。
1271年、依知郷に滞在中の日蓮大上人は、戒善寺に釈迦堂のある事を知り、親しく巡錫参詣された。住転日相は大上人の教化に浴し、師日源を開山に仰ぎ、山号を満星山とし日蓮宗に改宗した。
日源上人は1282年、王子原より現在地へ戒善寺と釈迦堂を改築移転した。明治初期頃までは鐘楼堂、三十番神堂それに飛地の外宮数社があったが、廃仏毀釈により寺領と共に現在では寺の所有でなくなっている。
また、境内には多くの民権家達の墓がある。
鎌倉 忍性が熊野本宮から勧請した「熊野神社」
尾道 瀬戸田 耕三寺「千仏洞地獄峡」
相模原南西 2012年全焼したが再建「下溝八幡宮」
鎌倉 稲荷明神像もある「本成寺」
本成寺(ほんじょうじ)は、神奈川県鎌倉市腰越にある日蓮宗の寺院。旧本山は小町本覚寺、潮師法縁。龍口寺輪番八ヶ寺の一つ。
延慶2年(1309年)、淡路阿闍梨日賢が建立した。
門を入った正面に本堂があり、右側に墓地、左側に庫裏(くり)があります。日蓮(にちれん)の弟子日賢(にっけん)が1309年(延慶2年) に開いたと伝えられています。本尊は、三宝本尊(さんぽうほんぞん)(祖師(そし))という「南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)」のお題目が書かれた塔と釈迦如来(しゃかにょらい)、多宝如来(たほうにょらい)で、日蓮上人像とともにまつられています。また、岩の上のキッネにまたがった稲荷明神像(いなりみょうじんぞう)もありますが、これは「教(経)-稲荷」と呼ばれ、左手に宝珠(ほうじゅ)を持つ江戸時代のものです。
(鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より)
尾道 行基菩薩創建と伝えられる「西国寺」
厚木 親鸞が東国布教の折りに滞在した旧跡「弘徳寺」
弘徳寺の寺伝ではかつてこの地には聖徳太子の発願によって秦河勝が地蔵菩薩を安置するために建てた地蔵堂があり、そこに親鸞聖人が御巡錫になり、その宿縁を大変喜ばれて、ここに草庵を結ばれて浄土真宗の教えをひろめられ、後に信楽坊に草庵を託されたと伝えています。
寺の縁起によれば、親鸞が東国布教の折りに滞在した旧跡で、親鸞の嫡男・善鸞がここに草庵を結び心光院と号したのが始まりと伝わる。
開山・開基は、親鸞の直弟子の信楽ぎょう房。信楽房は平将門の子孫で、俗名を相馬太郎義清といった。
建暦・元仁期に親鸞が常陸国稲田に布教の折りに門弟となり、その後当山を任せられた。
墓地に善鸞の墓と伝わる小高い土塚がある。
明治初期の廃仏毀釈で寺院の荒廃を憂い、当山世話人島崎利助という人が明治10年に自費を投じて墓石を建立した。また、供養塔と思われる「信楽塔」も建立されている。
鎌倉 鎌倉交通の要衝であった「化粧坂」
尾道 伽藍配置で最南端部に造営される「熊野神社」
西国寺山南先端部にある水尾町にある神社です。
日本最古の伽藍様式の大阪四天王寺の伽藍配置でも最南端部に造営されているのが熊野権現です。
むかしの西国寺を想像した時、この配置にも何らかの意味があるのでしょうか。
〈熊野権現〉は和歌山県、紀伊半島南端の熊野本宮大社(本宮町)、熊野速玉大社(新宮市)、熊野那智大社(那智勝浦町)の三社をさし、〈熊野三所権現〉ともいわれる。本宮・熊野坐(にます)神社は家都御子神(けつみこのかみ)=素菱鳴尊(すさのおのみこと)、新宮・熊野速玉神社は速玉男神=伊邪都岐命(いざなぎのみこと)、熊野那智神社は夫須美神(ふすみのかみ)=伊邪那美命(いざなみのみこと)をそれぞれ主神としています。
海老名 神仏分離までは有鹿神社の別当寺「総持院」
「新編相模国風土記稿」では、山号は海老山万蔵寺とされています。
本尊は、木造虚空蔵菩薩坐像で脇侍として不動明王像と毘沙門天像が安置されています。本尊は、作風から室町時代末期から桃山時代頃に造立され、元禄14年(1701)に江戸の仏師・石見によって修理された記録が残っています。不動明王像と毘沙門天像は、元禄14年(1701)に仏師・石見によって造立されたことがわかっています。
また、大山寺(伊勢原市大山)の鉄造不動明王を模して江戸時代に鋳造されたと考えられる銅製不動明王坐像があります。この不動明王坐像と同鋳造と推i定されるものが西善院(寒川町宮山)ほかにもあることから大山信仰によって流布されたものと考えられています。
鎌倉 百観音がある「円覚寺 大方丈」
尾道 よく「見よう・言おう・聞こう」三猿の教え「大山寺」
厚木 明治初年、町内の神社を合紀した「厚木神社」
現厚木神社(厚木市厚木町)は、古くは牛頭(ごず)天王社といい、同神社の由緒書(ゆいしょがき)には、今から八百年程前の円融天皇の時、天延年中藤原伊尹公により、厚木村字天王免に同社が勧請されたと言います。
承徳年中この地が、水害に合い現在の地に移されました。江戸時代に、毎年6月5日から12日まで大祭を行い、神輿(みこし)を相模川に入れ、水中渡御(とぎょ)の行事をおこなっていました。
明治以後7月14日から16日まで祭礼が行われ、「厚木の天王様」を楽しみに近郷近在の人があつまり、町中に各町内会の山車と神輿が繰り出し、祭りばやしが響きにぎわいました。その後、交通事情の悪化により山車と神輿は中止されましたが、昭和49年より、又、復活しました。
「厚木の観光ポケットブック」(厚木市観光政策課発行)
厚木 戦国毛利氏の祖 季光ゆかりの「光福寺」
最初は浄土宗で教念寺と称したが、後に廃絶して光福寺となった。
鎌倉幕府の頃の創建で、開山は隆寛律師。律師(1148~1227)、字は皆空(また道空)無我)は以前は天台宗だったが、後に法然上人の浄土宗に移り念仏を説いて継承、法然上人入寂(1212)の祭は五十七日の同士をつとめた。が、比叡山の宗徒の反発“念仏宗の集団化をおそれての弾圧”を受けて、安貞元年(1227)に流罪に処せられた。
毛利庄(今の厚木市内)の領主毛利季光(すえみつ)入道西阿は送領使となったが、隆寛に帰依きえし奥州喜多方へ送る途中、毛利庄に移し飯山の郷に匿かくまい住ませたという。身代わりには弟子・実成じつじょうという僧が送られるが、入寂を知って飯山に駆けつけ、隆寛律師遺骨を喜多方・願成寺に分骨・埋葬した。
鎌倉 奥の岩屋に不動明王が「岩窟不動尊」
尾道 江戸時代、伝書鳩と米相場 「浄土寺」
少なくとも江戸時代からいるハトたち。
江戸時代、幕府が禁止していた伝書鳩を使い、大阪の米相場の情報を入手していました。このお寺の言い伝えに「平家は伝書鳩を使うことが出来なかったが、源氏は伝書鳩を使うことができた」と伝えられています。そのためか源氏はピンポイントで平家の大将を攻撃できたのでしょうか?
また、こんな話もあります。【伝説 ハトの道案内】
南北朝のむかし、京での戦に敗れた足利尊氏が、兵力を立て直すために九州へ下る準備を進めていたときのことです。どこからともなくまっ白いハトが飛んできて、尊氏の御座船の上を何度もゆっくりと旋回し、帆柱に止まりました。
「おお、あれを見よ。源氏の流れをくむわれらの船出を白バトが祝ってくれてお…………白バトの水先案内で尊氏の大船団は、途中敵もなく瀬戸内海を西へ西へと進みました。数日の後、島に囲まれた景色の美しい港に船が着きました。
「これはまたにぎやかな町じゃが、どういうところじや」
「はい、尾道というところです」「はい、十一面観世音菩薩を御本尊にいだく浄土寺と申す寺でございます」…………石段を上っていくと大勢の僧侶たちが尊氏一行を「美しいところじやのう。今宵はここに船を泊めることにいたそう」………



















