武家の土地所有権は、なし崩し的に認められただけ!

 江戸時代の石造りとしては全国最大級

 江戸時代の石造り常夜燈としては全国最大級で、北面に「営所祇園宮」、南面に「金毘羅大権現」の石額と掲げて、それぞれ該当する方向の神社に対する寄進・灯龍という形式を取っているんですよ。航海の無事を祈願する一方で、港湾施設として海に突き出して配置し、航行の際の目印として安全を図っています。
 この辺り(備後地方)が瀬戸内海の中央になります。海流が東西からぶつかり、海水が上下に撹拌されるため、このあたりの魚は味が良いと言われています。

鎌倉 平政子(北条政子)の墓がある「寿福寺」

 1200年 源頼朝夫人政子が、明庵栄西禅師(緑茶を伝えた人物—茶そのものは奈良時代に伝わっていた。)を開山として建てたもので、鎌倉五山の第三位の寺。
 源実朝、北条政子の墓と伝わる五輪塔があります。
 明治維新で神仏分離で鶴岡八幡宮(鶴岡八幡宮寺)の仁王門にに祀られていた仁王様が移築されています。
 開山(初代住職)の栄西は、二度の入唐(28歳と47歳)をへて、日本に臨済宗を伝えましたが、比叡山延暦寺の官層(公務員の僧)たちの反感をかい、活躍の場を鎌倉に求め、寿福寺建立の許可を得ました。その後、鎌倉幕府の後援を受けて建仁寺(京都市)を建立しました。当時は、鎌倉で勢力を得て、京都へUターンする事例も多かったのです。

尾道 海雲塔とも呼ばれる「天寧寺 三重塔」

 「五重塔から三重塔へ」という珍しい塔

 ここには珍しい三重塔があります。当初は五重塔だったのですが、その後、四重と五重の傷みが激しくなったため、四重と五重を取り除いて、三重の上に新たに屋根をかけ、三重塔に姿を変えているのです。重要文化財に指定されています。建立は1388年(嘉慶2年)。三重塔に姿を変えたのは、それから300年後の1692年(元禄5年)のことでした。
 本当に最初は五重塔だったのだろうかと疑う人もいるかもしれませんが、まず、五重塔の姿で描かれた古い時代の掛け軸が残っている。それに加えて、この三重塔は心柱が下まで通っている。五重塔では心柱を下まで通しますが、三重塔では初重の上から心柱を立てるのが普通です。梁の上に心柱を立てるのです。
 天寧寺の三重塔は、五重塔であるにもかかわらず、心柱が下まで通っているわけで、こういうところからも、以前は五重塔であったことがわかります。また、その他にも、五重塔だったことを示す痕跡があちこちに残っています。外観もそうです。三重塔にしては各層の間が詰まっているように見えます。
 (「宮大工と歩く千年の古寺」(松浦昭次著)より)

厚木 長野高遠石工の作か地蔵様がある「広沢寺」

 清川村の煤ヶ谷から厚木の七沢、および伊勢原の日向にかけては石造物に適した石を産する石山があったが、石を切出して細工する石工がいなかったために手付かずのままでした。その石山を開発したのが信州高遠の石工たちでした。
 高遠は長野県伊那市の高遠町のことで、鎌倉時代の頃から石材業が発達して農民の多くが石工となって働いていた。
 高遠の地は田畑が少なかっただめに農家の次、三男が働くほどの農作業の仕事がなかった。
 高遠藩はその対策として、元禄の初め頃にいろいろな職人になることを奨励したのであった。そのような背景があり、また職人の中でも手間賃は石工が最も高かったので石工になる者が多かったといわれている。

鎌倉 かくれ里の雰囲気が漂う「佐助稲荷神社」

 このあたりの地名「佐助」はもとは大町の一部で、佐助ヶ谷の地名で呼ばれていました。佐助の地域名は佐助ヶ谷から名付けられたものですが、その地名の由来については、隠れ里の神が翁の姿で夢の中に現われ、佐殿(すけどの)と呼ばれた源頼朝に旗挙げをすすめて助けたので、佐助というようになったという伝えと、佐助ヶ谷内に、上総介・千葉介・常陸介の三芥の屋敷があったので三芥ヶ谷(さんすけがやつ)と呼ばれ、後にその呼び名がなまって佐助ヶ谷になったという伝えなどがあります。また、北条氏の一族の佐介氏が居住したため地名となったという説もあります。
(「かまくら子ども風土記(13版)」より)

尾道 自然石に刻まれた25の文学碑「文学の小路」

 千光寺公園の山頂からつづく尾道ゆかりの作家、詩人の尾道ゆかりの林芙美子・志賀直哉・正岡子規など25名の作家・詩人の詩歌・小説の断片等をつづる静かな散歩道。点々と続く自然石に刻まれた文学碑です。
 彼らが愛した尾道の風景、そこに住む人々の心が、刻まれた詩歌の中から聞こえてきます。
 彼らが愛した尾道の風景、そこに住む人々の心が、碑に刻まれた詩歌の中から聞こえてきそうです。

福山 鞆の浦 鞆湾の全景が一望の「医王寺」

 「医王寺」は他の社寺から少し離れた山手に位置しています。医王寺までの坂道は少なからず急で遠いのですが、境内からの眺望はその苦労に十分値するものです。
 医王寺の足下の街道沿いには、江の浦・「焚場」の集落が道沿いに細.長く広がり、その向こう側に鞆港が大きく弧を描いています。さらに、港の北に広がる鞆の町並みの向こうには、仙酔島が望まれます。晴れた日の早朝にここを訪れれば、その景色を茜に染める朝日に出会うこともできます。
 医王寺からの景観は、松村呉春(江戸後期の画)ら、多くの画家の題材にもなっています。

尾道 花崗岩で出来た大石門をくぐり延命「持光寺」

持光寺の石の門(延命門)

 「ええ門は福善寺、かたい門は持光寺」…童歌までに唄われた同寺の門はそのものズバリ、主体だけ17個からなる花崗岩を組みあわせトンネル状に築きあげた石の門。全巾が5m、奥行き3.5m、高さ3.5mで、通路が巾3m、高さ2.8m。これだけの石を据え微塵の狂いを生じてないあたり、基礎に相当の配慮がはらわれているのだろう。約三百年前に建てられたものであろうが、当時の築構技術の粋をあつめた“石の町”ならでの逸品。
 付近の古老のはなしでは、門の上に柱をたてるためのものであろう穴が数個あったと聞かされ、梯子を借りて屋根まで登つたが、薄くセメントがはられ穴の確認はできなかつたが、おそろく天寧寺などで見られるように鐘楼門にする計画であったのが石の基礎だけ出来あがったところで挫折したのであろう。
(「郷土の石ぶみ」 明治31年5月10日創刊 山陽日日新聞社 より)

座間 源頼朝在世中に坂東八番の札所に「星谷寺」

 行基菩薩が諸国教化の際当地で金光星の如く山谷に輝くのを見て、自ら聖観音の像を彫刻し、堂宇を営み星の谷観音堂として建立されたもの。
 観音堂は鎌倉時代に焼失し、現在地に移されたと伝えられる。江戸時代には、坂東三十三ヶ所の第八番として崇敬を集め、1591年には徳川家康より寺領2石の朱印状を拝領している。関東以北では2番目に古いという梵鐘の他、星谷寺七不思議など古くからの言い伝えが数多くある。
 古くから「星谷寺の七不思議」(銅鐘・星の井・楠の化石・咲き分け散りの椿・観音草・根不断開花の桜・下りの紅葉)の言い伝えがある。

鎌倉 源氏と鎌倉のつながりのできた「元鶴岡八幡宮」

 元八幡は、相模守(さがみのかみ)であった源頼義(みなもとのよりよし)が京都の石清水(いわしみず)八幡宮に戦勝を祈願し、前九年の役(えき)(1051~1062年)で、奥州(今の東北)の豪族の阿部頼時(よりとき)・貞任(さだとう)に勝って京へ帰る途中、1063年(康平6年)に鎌倉に立ち寄り、由比郷鶴岡(ゆいごうつるがおか)のこの地に源氏の守り神である石清水八幡宮の祭神を移してまつって建てたと伝えています。
 後三年の役(えき)のとき、頼義の子の義家(よしいえ)が戦勝を祈り、社殿を修理したと伝えています。
 1180年(治承4年)、鎌倉を根拠地としで鎌倉幕府を開いた源頼朝(みなもとのよりとも)が、現在の八幡宮がある元八幡と呼ばれていますが、正しい名は由比若宮です。
 鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より

尾道 五百羅漢の群像がある「天寧寺」

 開基は1367年に、尾道の人 万代道円の発願により、足利二代将軍義詮が父尊氏の遺志をついで工費を寄進し、普明国師を講じて開山したもので、宗旨は臨済宗、創建当時は東西三町にわたる宏荘な大寺院であった。本尊は宝冠の釈迦如来。
 1389年3月、足利三代将軍義満は厳島参詣の帰途、船を天寧沖にとどめ舟橋をかけさせて上陸し、この寺に一泊して備後の守護山名氏の饗応を受けた。1688~1703年に、三原の宗光寺の一雲椿道によって再興され、そのとき改宗して曹洞宗になったが、1682年雷火のため全山消亡、わずかに後山の海雲塔を残すのみであった。
 また本堂前の羅漢堂には、江戸中期から明治期にかけて檀信徒から寄進された五百羅漢像があり、本堂西側には古の山門の礎石という巨石を残している。

厚木 元山王社の山王権現を祀る「知恩寺」

 江戸時代には、智恩寺境内にあった山王社にまつられていた懸仏(かけぼとけ)が、現在では本堂の中に保存されています。
 山王権現とは、日吉神社・日枝神社の祭神であり、権現とは仏・菩薩が化身してわが国の神として現れることを意味しています。また懸仏は銅などの円板上に、仏像・神像を半肉彫りにあらわし、柱や壁などにかけて礼拝したもので、特に鎌倉時代から室町時代にかけての資料が多く見られます。
 智恩寺の懸仏は、中央の仏像を、左右に配された猿が拝む形式であり、刻まれている銘文から寛永13年(1636)に荻野の鋳物師である森久左衛門重久が鋳造したことが分かります。

海老名 奈良・平安の昔、相模国を守護「有鹿神社」

 市内でも大型の一間社流造の建築です。内部は前後2室に分かれ、前室は正面扉口のほかに両側面にも一本引きの建具を入れることや、向拝の造りなど特徴がある珍しい造りです。また、肘木は鋭い錆を持つ絵様肘木で、社殿に独特の印象を与えています。
 建立年代は、虹梁の絵様等の意匠から18世紀中頃と考えられています。
 大住郡坪之内村の絵師近藤如水(藤原隆秀)が描いたものです。
 如水が諸国遍歴から坪之内村に帰ってきた後の嘉永2年(1849)頃の作と考えられています。
 豪快な筆法と精緻な構図で描かれており、見るものを圧倒する迫力があります。
 有鹿神社付近一帯が遺跡で、発掘調査で弥生時代から中世の遺物や遺構が確認されています。
 出土した平安時代の土師器圷に特殊な文字が墨書されていたことから祭祀が行われていたのではないかと考えられています。
(「自然と歴史のさんぽみち」(海老名市教育委員会発行)より転載)

鎌倉 もと光触寺の鎮守社「十二所神社」

 この神社は昔、熊野十二所権現社(ごんげんしゃ)といって1278年(弘安元年)には光触寺(こうそくじ)の境内にありました。1838年(天保9年)に今の土地を寄付する人がおり、当時30戸の村人の協力で神社を移しました。明治になって神仏分離(しんぶつぶんり)となり、天神七柱(あまつかみななはしら)、地神五柱(くにつかみいつはしら)の十二柱の神様をまつり、社名を十二所神社と改め、今日に至っています。
 社殿に向かって右手に小さい社(やしろ)が三つ、山の神社・ほうそう神社・宇佐八幡社(うさはちまんしゃ)と並んでいます。鳥居の右に百貫(かん)石といわれる石が置かれ、その右奥に神楽(かぐら)殿があります。百貫石は、実際には28貫(約112kg)あり、以前は、祭のときにこれを持ち上げたり、かついだりして自慢した人もいたそうですが、今はためす人もいません。また、左側には地主(じぬし)神をまつる社もあります。

 鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より

尾道 巨岩に不動明王が住む「不動岩」

 浄土寺山は瑠璃山の別名をもつ。
 その8合目あたりに巨石が「不動岩」です。巨岩に不動明王が刻まれています。
 不動明王は、真言宗をはじめ、天台宗、禅宗、日蓮宗等の日本仏教の諸派および修験道で幅広く信仰されています。
 密教の根本尊である大日如来の化身で「お不動さん」の名で親しまれ、大日大聖不動明王、無動明王、無動尊、不動尊などとも呼ばれており、特に日本において根強い信仰を得ております。真言宗では大日如来の脇待として、天台宗では在家の本尊として置かれる事もあります。
 浄土寺山の麓に真言宗の浄土寺があり、不動明王を刻み込んだのでしょうか。
 この巨石の上部が展望台になっています。上から岩を見ると、大阪城築城のため岩を割ろうとしたのか、彫ったくぼみがいくつかあります。

厚木 多くの石仏が隠れる「金剛寺」

 807年(大同2年)に弘法大師によって建立されたと伝わる。古くは、七堂伽藍の備わった寺院だった。飯山観音の入口ともなっている小鮎川に架かる朱塗りの橋は「庫裡橋」と呼ばれ、金剛寺の庫裡に向かって架けられていたといわれている。
 鎌倉時代には、鎌倉の覚園寺や金沢の称名寺とも繋がりのある律宗寺院として栄え、相模国の華厳学研究の拠点としても栄えた。
 天文年間(1532~1554年)に曹洞宗に改宗され再興されている。
 多くの古い石仏があり、その状態も比較的良好(畑に埋まっていたため)のため、洞窟などがあればそこに並べて展示するとすばらしいのですが、残念!

鎌倉 山門を潜ると石仏が並ぶ参道「光触寺」

 鶴岡八幡宮から金沢街道を東に進み、滑川の流れに沿って朝比奈峠方面へ。明石橋を過ぎて間もなく、十二所バス停から徒歩3分ほどのところにあるのが光触寺である。弘安2年(1279)に一遍上人によって開山されたお寺で、本尊は運慶作といわれる阿弥陀如来三尊象。国の重要文化財にも指定されている。この阿弥陀如来三尊象は頬が黒いの頬焼阿弥陀とも呼ばれている。その由来の描かれている『頬焼阿弥陀縁起絵巻』が光触寺の寺宝として残されている。
 光触寺は、もともと、作阿上人による真言宗の寺だった。しかし遊行中の一遍上人が弘安5年(1282)、このお寺を訪れたとき、一遍上人に帰依したことで時宗に改宗したと言われている。それ以降、今日まで念仏道場としてその名をとどめている。

 (「鎌倉なるほど事典」 楠本勝治著 実業之日本社 より)

尾道 こんなところが「日比崎 石仏群 竜王山」

 この竜王山は広島県尾道市日比崎町にある山で標高144.6mです。(尾道市には「竜王山」という名前の山が5つもあります。)
 そこに、天狗や蔵王権現・不動明王など修験道や密教に関わるの石仏が林立しています。この地も「さびしんぼう」のロケ地となっています。
 竜王山は、四国の石鎚山を信仰する人々の修験道場でした。竜王山の霊場の石垣の上には石造りの石鎚社があり、その周りには石鎚権現や修験道に関わる石仏などが数十体、林立しています。石鎚山は役行者が開いた神仏習合の修験の道場で、石鎚権現として全国で信仰を集めていました。

座間 行基が金光星の如く輝くのを見た「星谷寺」

 星の谷観音堂が坂東八番の札所になったの源頼朝在世中のことと思われます。
 この頃は今でも本堂山と呼ばれている400mほど北東の丘の中腹にあったと伝えられていますが、いつの時代か、相模野の野火が延焼して焼失、現在の地へ移ったといわれています。
 戦国時代には北條氏の保護を受け、小田原から府中へ人至る街道上の宿泊所としても利用されましたが、徳川氏はあまり重要視せず、朱印地(非課税の領地)も三石しか与えませんでしたが、正保国図(元年・1644年)などには北相模で唯一(随一)の社寺として観音堂が書かれており、民衆の間には相当重視されていたものと思われます。
 江戸時代に入り、天下が太平になると、民衆の間にも百ヵ所観音、あるいは、坂東三十三ヶ所参りが流行しました。市内で最古の百ヵ所参りの記念物は、星の谷観音堂にある貞四年(1687年)の額です。

(「座間むかしむかし 第二十六集」 座間市教育委員会 2004/3/30 発行 より)

尾道を代表する景勝の地「千光寺山頂」

 尾道を代表する景勝地。

 山頂から広がる千光寺山公園は、「日本さくら名所100選」に選ばれています。(ソメイヨシノ、しだれ桜)
 2022年3月 新しい展望台がオープンしました。愛称は、「頂上」を意味する「PEAK(ピーク)」だそうです。展望デッキの長さ63m、東-南-西側の尾道水道や旧市街大パノラマで楽しむことができます。
 ロープウェイの山頂駅と接続したエレベータが設置されているので、ベビーカーや車いすの人も安心してご利用いただけます。
 設計は、建築設計事務所「AS」です。