昔は梅嶺山(ばいれいざん)夜光寺(やこうじ)とい真言宗(しんごんしゅう)の寺でしたが、1293年(永仁元年)日朗(にちろう)の高弟だった日像(にちぞう)が開山となって日蓮宗に改められたと伝えられています。また、梅立寺(ばいりゅうじ)とか梅嶺寺(ばいれいじ)とかの名も伝わっていますが、江戸時代の初めごろ日達(にちたつ)によって薬王寺と改められ再興されました。その後、徳川忠長(ただなが)が1633年(寛永10年)高崎で自刃(じじん)しましたので、妻の松孝院(しょうこういん)殿(織田信長(おだのぶなが)の次男信雄(のぶかつ)の娘)は、夫の霊を供養するためにこの寺に墓を建立し、多額のお金と広大な土地を寄進しました。こうしたこともあって、一時は3,000坪(約1ha)ほどの境内に五重塔やいろいろな建物が造られるほどの大きな寺になりましたが1720年(享保5年)にすべてが焼失してしまいました。
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尾道 明治時代に英語塾があった「正授院」
外留学の先覚者土居咲吾が、この正授院でも英語塾を開いて後進を導いた。
土居咲吾は長尾幸作と云い、芸州山県郡から尾道町中浜へ移った開業医長尾俊良の長男として天保六年(1835)に生れた。かねて父俊良から洋学のまさっていることを聞かされていた幸作は、二十一才のとき京都の広瀬元斎に師事して蘭学をさらに二十五才の春、江戸に下り坪井芳洲に学んだが、このあと独学で英話を修得、それで満足できず、たまたま耳に入った幕府の日米修交通商条約批准交換のための渡米使節団の派遣のことであった。
勝海舟の卒いる咸臨丸へ便乗を許され、福沢諭吉らと共に万延元年(1860)我が国を発しアメリカに渡り英学を修めて帰国した。
帰朝後、父が病死し家業をつぐため尾道に帰ったが、芸州藩では幸作を士籍に列し、アメリカ仕込みの新知識としてこれを厚遇した。
その後、軍艦買入密航事件のため一時禁固刑に処せられたが、これは表面だけのことで、久しからず刑を解かれ、このあと感ずるところがあり「土居咲吾」(土に居して吾を咲う)と改名、明治元年三原藩が今の糸崎町に開設した三原洋学所の取締方となり、また長江一丁目、正授院にも英語塾を開いて後進を導いた。
座間 齋藤龍興(道三の孫)の遺臣四名を氏神に「日枝大神」
1841年に再建した際に、棟札に「山王大権現」とありますが、「山王」という文字の意味は天台教義を表します。
〔山王〕の山の字は縦が三画、横が一画で、王の字は横が三画、縦が一画。天台宗の教義である「三諦(締は真理)即一」の理を表すといわれています。あらゆるものごと〔諸法〕の本質は空であり〔空諦〕、空であるが仮に存在する〔仮諦〕、諸法は空でもなく仮でもないことを中の存在〔中諦〕といいます。この〔三諦〕が完全に融合し、ひとつになる〔三諦即一〕ところに真実の姿がある、と説いています。これは〔一心三観〕、〔一念三千〕の天台の教義を山王明神が託宣したものだといいます。
比叡山の守護神として位置づけられて以来、天台宗の広がりにともなって、日吉大社は日本を代表する神社になっていきました。
鎌倉 子宝のご利益がある「甘縄神明宮」
尾道 村上水軍の信仰を集めた「光明寺」
厚木 社殿の前の白山池に棲む白龍「白山神社」
白山神社は、飯山観音背後の白山(標高284m)の山頂付近の尾根道がある。むかしの道は、平野の道は雑草で視界がわるく、手入れも大変だったので、大きな街道を除き、尾根に道をつくることが多かったのでしょう。崩れても手入れが簡単で、視界が得られやすく、道に迷うことも少ないため、尾根を歩くようになったのでしょう。
社殿の前には、池(白山池)があって、古くから雨乞いの霊地とされてきた。
飯山観音(長谷寺)を開いたとされる行基は、この山を登り、霊水が湧き出している池を発見し、加賀国白山妙理大権現を勧請したと伝えられている。
そして、クスノキで彫られた十一面観音が祀られたという。この十一面観音が現在の飯山観音(長谷寺)の本尊といわれている。
江の島 台湾近代化の尽力者児玉源太郎を祀る「児玉神社」

明治時代の陸軍大将・児玉源太郎(1852(嘉永5)年~1906(明治39)年)を祀った児玉神社は、児玉が生前、江の島を非常に愛していたことから、この地に神社が創建された。
児玉公は江の島の風景を愛し、しばしば清遊した由縁により1917(大正6)年官許を得て神社創建を決し、後藤新平らの尽力により、主要な社殿が建立され、1921(大正10)年主要な社殿が建立され、7月御鎮座を了えた。1940(昭和15)年県社に列し、公の遺徳を慕う人々の奉賽が多かった。ことに境内には台湾総督時代の関係者による献納の燈籠・水盤などが見られる。
かつて児玉神社は荒れ果てていた。境内を浮浪者が徘徊したり、参拝者が拝殿に土足で上がるなど、廃絶寸前だった。こうした惨状を見かねて、山本宮司が現職を拝命(1980年5月)し、整備した。
尾道 石仏の下に象「海徳寺」
鎌倉 関東大震災で倒潰、40年後再建「円覚寺 仏殿」
厚木 明治の先進民家「古民家 岸邸」
厚木市古民家岸邸として開館されています。古民家岸邸は、郷土に残された貴重な文化遺産として、皆さんに公開しながら長く保存をしていきます、と。
古民家は、当時の生活を色濃く伝えるものです。生活のスタイルが大きく変化してきた現代では、ますます注目されてきています。随所で見られる、職人が手をかけて作った凝った意匠も一遍ではなく、建築当時の時代の先端的な様式を併せ持ち、家を作った職人の技と、家を守ってきた人々の営みを感じてみてはいかかでしょうか。
明治時代になってこのあたりで養蚕業を始められた岸家。絹の輸出で立派な建物を建てることが出来ました。このあたりは桑の木がたくさんあったそうです。今ではまったくありませんが。
尾道 本通り商店街入口「林芙美子像」
武家の土地所有権は、なし崩し的に認められただけ!
鎌倉 平政子(北条政子)の墓がある「寿福寺」
1200年 源頼朝夫人政子が、明庵栄西禅師(緑茶を伝えた人物—茶そのものは奈良時代に伝わっていた。)を開山として建てたもので、鎌倉五山の第三位の寺。
源実朝、北条政子の墓と伝わる五輪塔があります。
明治維新で神仏分離で鶴岡八幡宮(鶴岡八幡宮寺)の仁王門にに祀られていた仁王様が移築されています。
開山(初代住職)の栄西は、二度の入唐(28歳と47歳)をへて、日本に臨済宗を伝えましたが、比叡山延暦寺の官層(公務員の僧)たちの反感をかい、活躍の場を鎌倉に求め、寿福寺建立の許可を得ました。その後、鎌倉幕府の後援を受けて建仁寺(京都市)を建立しました。当時は、鎌倉で勢力を得て、京都へUターンする事例も多かったのです。
尾道 海雲塔とも呼ばれる「天寧寺 三重塔」
「五重塔から三重塔へ」という珍しい塔
ここには珍しい三重塔があります。当初は五重塔だったのですが、その後、四重と五重の傷みが激しくなったため、四重と五重を取り除いて、三重の上に新たに屋根をかけ、三重塔に姿を変えているのです。重要文化財に指定されています。建立は1388年(嘉慶2年)。三重塔に姿を変えたのは、それから300年後の1692年(元禄5年)のことでした。
本当に最初は五重塔だったのだろうかと疑う人もいるかもしれませんが、まず、五重塔の姿で描かれた古い時代の掛け軸が残っている。それに加えて、この三重塔は心柱が下まで通っている。五重塔では心柱を下まで通しますが、三重塔では初重の上から心柱を立てるのが普通です。梁の上に心柱を立てるのです。
天寧寺の三重塔は、五重塔であるにもかかわらず、心柱が下まで通っているわけで、こういうところからも、以前は五重塔であったことがわかります。また、その他にも、五重塔だったことを示す痕跡があちこちに残っています。外観もそうです。三重塔にしては各層の間が詰まっているように見えます。
(「宮大工と歩く千年の古寺」(松浦昭次著)より)
厚木 長野高遠石工の作か地蔵様がある「広沢寺」
鎌倉 かくれ里の雰囲気が漂う「佐助稲荷神社」
尾道 自然石に刻まれた25の文学碑「文学の小路」
福山 鞆の浦 鞆湾の全景が一望の「医王寺」
尾道 花崗岩で出来た大石門をくぐり延命「持光寺」
持光寺の石の門(延命門)
「ええ門は福善寺、かたい門は持光寺」…童歌までに唄われた同寺の門はそのものズバリ、主体だけ17個からなる花崗岩を組みあわせトンネル状に築きあげた石の門。全巾が5m、奥行き3.5m、高さ3.5mで、通路が巾3m、高さ2.8m。これだけの石を据え微塵の狂いを生じてないあたり、基礎に相当の配慮がはらわれているのだろう。約三百年前に建てられたものであろうが、当時の築構技術の粋をあつめた“石の町”ならでの逸品。
付近の古老のはなしでは、門の上に柱をたてるためのものであろう穴が数個あったと聞かされ、梯子を借りて屋根まで登つたが、薄くセメントがはられ穴の確認はできなかつたが、おそろく天寧寺などで見られるように鐘楼門にする計画であったのが石の基礎だけ出来あがったところで挫折したのであろう。
(「郷土の石ぶみ」 明治31年5月10日創刊 山陽日日新聞社 より)


















