鎌倉 鎌倉交通の要衝であった「化粧坂」

案内板によると

 化粧坂は、鎌倉の北西から武蔵方面に抜ける「鎌倉住環上ノ道」(武蔵路)の出入り口に当たります。化粧坂から始まり、境川を北上して多摩丘陵から府中(武蔵国符)を経て、武蔵野大地を通過。さらに、比企丘陵から群馬県の高崎方面へと伸び、その先の信濃、越後方面へと通じていたのが「上道」といわれるルートです。この道を通って、新田義貞が進撃し、稲村ガ崎の関門を突破して、鎌倉幕府を滅亡へ追いやったのです。

尾道 伽藍配置で最南端部に造営される「熊野神社」

 西国寺山南先端部にある水尾町にある神社です。
 日本最古の伽藍様式の大阪四天王寺の伽藍配置でも最南端部に造営されているのが熊野権現です。
 むかしの西国寺を想像した時、この配置にも何らかの意味があるのでしょうか。

〈熊野権現〉は和歌山県、紀伊半島南端の熊野本宮大社(本宮町)、熊野速玉大社(新宮市)、熊野那智大社(那智勝浦町)の三社をさし、〈熊野三所権現〉ともいわれる。本宮・熊野坐(にます)神社は家都御子神(けつみこのかみ)=素菱鳴尊(すさのおのみこと)、新宮・熊野速玉神社は速玉男神=伊邪都岐命(いざなぎのみこと)、熊野那智神社は夫須美神(ふすみのかみ)=伊邪那美命(いざなみのみこと)をそれぞれ主神としています。

海老名 神仏分離までは有鹿神社の別当寺「総持院」

 「新編相模国風土記稿」では、山号は海老山万蔵寺とされています。
 本尊は、木造虚空蔵菩薩坐像で脇侍として不動明王像と毘沙門天像が安置されています。本尊は、作風から室町時代末期から桃山時代頃に造立され、元禄14年(1701)に江戸の仏師・石見によって修理された記録が残っています。不動明王像と毘沙門天像は、元禄14年(1701)に仏師・石見によって造立されたことがわかっています。
 また、大山寺(伊勢原市大山)の鉄造不動明王を模して江戸時代に鋳造されたと考えられる銅製不動明王坐像があります。この不動明王坐像と同鋳造と推i定されるものが西善院(寒川町宮山)ほかにもあることから大山信仰によって流布されたものと考えられています。

鎌倉 百観音がある「円覚寺 大方丈」

 菊の紋章が入った唐門(からもん)(勅使門(ちょくしもん))が見えます。石段を上ると右に庫裏があり、唐門の脇を入ると左側に百観音の石碑があり、正面には釈迦如来像をまつる方丈があります。方丈の脇の木戸口を出て右に進むと、右側には方丈の庭が、左側に妙香池(みょうこうち)(国名勝)があり、池の向こうに「虎頭岩(ことうがん)」があります。

 鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より

尾道 よく「見よう・言おう・聞こう」三猿の教え「大山寺」

 「見ざる、言わざる、聞かざる」の真逆。

  「見てご猿」
  「言うてご猿
  「聞いてご猿」

 で、世の中の正しいことを「よく見よう」、「よく言おう」、「よく聞こう」という願い

。現在のNET社会では、「見ざる、言わざる、聞かざる」は通用しません。

厚木 明治初年、町内の神社を合紀した「厚木神社」

 現厚木神社(厚木市厚木町)は、古くは牛頭(ごず)天王社といい、同神社の由緒書(ゆいしょがき)には、今から八百年程前の円融天皇の時、天延年中藤原伊尹公により、厚木村字天王免に同社が勧請されたと言います。
 承徳年中この地が、水害に合い現在の地に移されました。江戸時代に、毎年6月5日から12日まで大祭を行い、神輿(みこし)を相模川に入れ、水中渡御(とぎょ)の行事をおこなっていました。
 明治以後7月14日から16日まで祭礼が行われ、「厚木の天王様」を楽しみに近郷近在の人があつまり、町中に各町内会の山車と神輿が繰り出し、祭りばやしが響きにぎわいました。その後、交通事情の悪化により山車と神輿は中止されましたが、昭和49年より、又、復活しました。
 「厚木の観光ポケットブック」(厚木市観光政策課発行)

厚木 戦国毛利氏の祖 季光ゆかりの「光福寺」

 最初は浄土宗で教念寺と称したが、後に廃絶して光福寺となった。
 鎌倉幕府の頃の創建で、開山は隆寛律師。律師(1148~1227)、字は皆空(また道空)無我)は以前は天台宗だったが、後に法然上人の浄土宗に移り念仏を説いて継承、法然上人入寂(1212)の祭は五十七日の同士をつとめた。が、比叡山の宗徒の反発“念仏宗の集団化をおそれての弾圧”を受けて、安貞元年(1227)に流罪に処せられた。

 毛利庄(今の厚木市内)の領主毛利季光(すえみつ)入道西阿は送領使となったが、隆寛に帰依きえし奥州喜多方へ送る途中、毛利庄に移し飯山の郷に匿かくまい住ませたという。身代わりには弟子・実成じつじょうという僧が送られるが、入寂を知って飯山に駆けつけ、隆寛律師遺骨を喜多方・願成寺に分骨・埋葬した。

鎌倉 奥の岩屋に不動明王が「岩窟不動尊」

 ここの堂守の僧が勝長寿院(鎌倉市雪ノ下にあたる相模国鎌倉大御堂ヶ谷に、鎌倉時代初期に源頼朝が建立した寺院)に参詣した帰り、路上で急死、84歳の命を落としたと「吾妻鏡」の1188年10月10日の記事にあるから、お堂がそのころにはあったようです。

 今では個人宅にある社のようで、お茶屋(不動茶屋)なのかと思えます。お茶屋の奥にお堂があり、不動明王が祀られています。

尾道 江戸時代、伝書鳩と米相場 「浄土寺」

少なくとも江戸時代からいるハトたち。

 江戸時代、幕府が禁止していた伝書鳩を使い、大阪の米相場の情報を入手していました。このお寺の言い伝えに「平家は伝書鳩を使うことが出来なかったが、源氏は伝書鳩を使うことができた」と伝えられています。そのためか源氏はピンポイントで平家の大将を攻撃できたのでしょうか?

また、こんな話もあります。【伝説 ハトの道案内】
 南北朝のむかし、京での戦に敗れた足利尊氏が、兵力を立て直すために九州へ下る準備を進めていたときのことです。どこからともなくまっ白いハトが飛んできて、尊氏の御座船の上を何度もゆっくりと旋回し、帆柱に止まりました。
 「おお、あれを見よ。源氏の流れをくむわれらの船出を白バトが祝ってくれてお…………白バトの水先案内で尊氏の大船団は、途中敵もなく瀬戸内海を西へ西へと進みました。数日の後、島に囲まれた景色の美しい港に船が着きました。
 「これはまたにぎやかな町じゃが、どういうところじや」
「はい、尾道というところです」「はい、十一面観世音菩薩を御本尊にいだく浄土寺と申す寺でございます」…………石段を上っていくと大勢の僧侶たちが尊氏一行を「美しいところじやのう。今宵はここに船を泊めることにいたそう」………

相模原 相模川支流んから本流へ 「三段の滝」

 昭和8年(1933)に造られた鳩川分水路(現、鳩川隧道分水路)は段丘上からの放流の勢いを緩衝するための段差が三段あることから「三段の滝」と呼ばれ、その後、昭和63年(1988)には、その上流に「新三段の滝」が完成しました。この付近は「相模川散策路」の一部として整備され、展望台から見る相模川を望む眺めは風光明媚なスポットとなっています。
 また、この新三段の滝辺りから相模川散策路を歩いてみますと、西側に相模川、その奥に大山、丹沢連峰の雄大な絶景が目に入ります。四季を通じて、季節の様々な移り変わりの表情を見せてくれる、とても良いところです。

鎌倉 この谷戸あたりが腰越の中心部だった「東漸寺」

 鎌倉にある日蓮宗の寺院。旧本山は大本山法華経寺。小西法縁。龍口寺輪番八ヶ寺の一つ。
 1325年(正中2年)、後に龍口寺となる地の護持のため法華経寺から派遣された日東を開山に建立された。その後44世住職日英が、本堂、庫裡を再建復興し、現在の伽藍が整備された。
 山門をくぐると正面に本堂があります。この寺は、龍口寺を守るために千葉県中山の法華経寺(ほっけきょうじ)から差し向けられたといわれる日東(にっとう)が1352年(正平7年)に開いたと伝えられます。本堂には、日蓮上人(にちれんしょうにん)像と釈迦如来(しゃかにょらい)像がまつられています。「腰越駅」近くの諏訪神社は、もとはこの寺の境内にあったそうです。寺の裏山には、エフェドリンという咳止めの薬を作り、日本薬学の基礎を築いた長井長義(ながいながよし)博士夫妻の墓がありましたが、現在は墓は移され、墓地に記念碑が立っています。この寺の近くには妙典寺(みょうてんじ)、勧行寺(かんぎょうじ)、本成寺(ほんじょうじ)、本龍寺(ほんりゅうじ)があり、輪番八ヵ寺のうち五寺が集まっています。昔は、この谷戸あたりが腰越の中心部だったそうです。

 (鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土

尾道 寄進された五百羅漢像「天寧寺」

 羅漢は正式には阿羅漢(あらかん)といい、サンスクリット語のアルハンを音写した言葉です。元来インドでは尊敬に値する人という意味で、仏教では、悟りを開いた修行者という意味です。羅漢には釈迦の十大弟子や、釈迦からこの世にとどまり仏法を護るように命じられた十六羅漢、釈迦の入滅後に行われた第一回結集(けつじゅう)(経典の編集会議)で集まった五百羅漢などが含まれます。

厚木 美女神の木花咲耶姫命を祀る「子安神社」

  子安神社(こやすじんじゃ)は、主に安産・子育ての神が祀られている神社です。

 木花咲耶姫命=コノハナノサクヤビメ(ヒメ)は、日本神話に登場する女神。『古事記』では木花之佐久夜毘売、『日本書紀』では木花開耶姫と表記されています。ひ孫が神武天皇になるのでしょうか。

 神話では、地上に降った天孫・迩迩芸命は、桜の花のように美しい女性と出会う。山の神・大山津見神の娘、木花之佐久夜毘売です。一目惚れして迩迩芸命(ににぎのみこと)が結婚の許しを乞うと、大山津見神は喜び、もう1人の娘・石長比売(いわながひめ)まで添えて送ってきました。
 ところがこの石長比売は目を背けるほど醜い。天孫は妹の木花之佐久夜毘売とだけ結婚し、姉のほうは返してしまう。実は大山津見神が2人の娘を送ったのには理由がありました。石長比売には「天孫の命が石のように永遠であるように」と、木花之佐久夜毘売には「天孫が花のように美しく栄えるように」と願いを込めていたので、石を返し花を選んだため、こののち天孫たちは栄えるものの、命は人間と同じようにはかないものになってしまいました。神の子孫であるはずの天皇が人間と同じ寿命であることを説明するための神話です。

鎌倉 目の神様として親しまれている「御霊神社」

 もとは関東平氏五家の始祖、鎌倉氏・梶原氏・村岡氏・長尾氏・大庭氏の5氏の霊を祀った神社であったとされています。その後、五霊から転じて御霊神社と通称されるようになりました。
 後に、鎌倉権五郎景政の一柱のみに祭神は集約され、祭神の名から権五郎神社と呼ばれました。

 景政の武勇伝から「目の神様」として親しまれている。例大祭には県の無形文化財に指定される「面掛行列」が行われます。

尾道「完璧は災いの元」と石工の祈り「御袖天満宮」

菅原道真公着衣の袖をご神体とする神社で、大林宣彦監督の映画「転校生」で主人公が石段を転げ落ちるシーンのロケ地としても有名。またテレビアニメ「かみちゅ!」で境内モデルとなった神社。

 雷が鳴ったとき、「くわばら、くわばら」と唱えませんか?

 死後に雷神となった菅原道真は、復習のために各地に雷を落としたという伝説があります。

 5mもの1本石が54段(ただし、現在は一番上の段が割れてしまいました。)、それに、二本継ぎが1段(上から二段目)。

 大林宣彦監督の映画「転校生」の撮影場所(男の子と女の子が入れ替わる場面)

厚木 弘法大師の伝説、荻野川「秋葉神社」

 荻野川の“源氏河原”と呼ばれるあたりは、不思議なことに毎年夏になると、川の水が枯れちょうどサト芋の収穫時期なのにその芋さえ、洗うことができなくなるのだと言います。それには、こんな言い伝えが今でも残されています。
 今から約1200年前(8百年代)、全国を行脚していた弘法大師は、ある夏の日、この荻野にさしかかりました。すると、一人の農婦が、源氏河原で取りたてのサト芋をざるで洗っていました。土手の上から、それを見た大師は、イモを洗う農婦の見事さに見とれてしまい、いつの間にか、その農婦の後ろまで近寄っていました。そして、丁寧に頭を下げた大師は、その農婦に「私は旅をしている者です。この辺りは山が多く、宿屋もありません。すまないが、そのサト芋を恵んではくれませんか」と話し掛けました。ところが、その農婦は「このサト芋は石のように硬いので食ぺられません。水も少ないので……」と、大師(頼みを何となく断わりました。しかし、…………

鎌倉 開基の北条時宗の廟所「円覚寺仏日庵開基廟」

 開基廟は佛日庵御霊屋とも呼ばれ、円覚寺大檀那である北条時宗公・貞時公・高時公を祀っています。 時宗公が亡くなられた後に建立されたようです。
 山号・仏光国師が開堂供養の説法を行っていると一群の白鹿が人びとにまじって聴聞したところからえらばれたと伝え、鹿の出現した洞穴-白鹿洞が仏日庵前に残る。
 現在の開基廟は、江戸時代1811年に改築されたものとされている。 その折、鎌倉仏師の三橋家によって三体の尊像が修理されています。

尾道 2020年3月に閉館された「文学記念室」

 2020年3月 閉館されてしまいました。

 庭付きの木造平屋建、桟瓦葺で数寄屋造りの建物で、東棟・西棟・茶室からなり、いくつかの部屋では当初から茶会ができるように設計されていました。
 1912年~1928年かけて増改築されこの写真のの形となりました。
 福井家の希望により、1998年に市が建物並びに庭園を整備し、文学記念室として公開。 2004年9月10日、旧福井家住宅(尾道市文学記念室)主屋・茶室・土蔵として、国の登録有形文化財に登録されました。

海老名 奈良・平安の昔、相模国を守護「有鹿神社」

 市内でも大型の一間社流造の建築です。内部は前後2室に分かれ、前室は正面扉口のほかに両側面にも一本引きの建具を入れることや、向拝の造りなど特徴がある珍しい造りです。また、肘木は鋭い錆を持つ絵様肘木で、社殿に独特の印象を与えています。
 建立年代は、虹梁の絵様等の意匠から18世紀中頃と考えられています。
 大住郡坪之内村の絵師近藤如水(藤原隆秀)が描いたものです。
 如水が諸国遍歴から坪之内村に帰ってきた後の嘉永2年(1849)頃の作と考えられています。
 豪快な筆法と精緻な構図で描かれており、見るものを圧倒する迫力があります。
 有鹿神社付近一帯が遺跡で、発掘調査で弥生時代から中世の遺物や遺構が確認されています。
 出土した平安時代の土師器圷に特殊な文字が墨書されていたことから祭祀が行われていたのではないかと考えられています。
(「自然と歴史のさんぽみち」(海老名市教育委員会発行)より転載)

鎌倉 もと光触寺の鎮守社「十二所神社」

 この神社は昔、熊野十二所権現社といって1278年(弘安元年)には光触寺の境内にありました。1838年(天保9年)に今の土地を寄付する人がおり、当時30戸の村人の協力で神社を移しました。明治になって神仏分離となり、天神七柱、地神五柱の十二柱の神様をまつり、社名を十二所神社と改め、今日に至っています。
 社殿に向かって右手に小さい社が三つ、山の神社・ほうそう神社・宇佐八幡社(うさはちまんしゃ)と並んでいます。鳥居の右に百貫石といわれる石が置かれ、その右奥に神楽(かぐら)殿があります。百貫石は、実際には28貫(約112kg)あり、以前は、祭のときにこれを持ち上げたり、かついだりして自慢した人もいたそうですが、今はためす人もいません。また、左側には地主(じぬし)神をまつる社もあります。
 鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より