鎌倉 露天の大仏になってしまった「大仏(高徳院)」

 寺の縁起によると、頼朝が鎌倉に入り、東国にも大仏を造ろうとしましたが、果たさずに世を去ったので、仕えていた稲多野局が実現させようと計画したといわれています。頼朝夫人政子の力添えもあったといわれ、僧の浄光は全国まわってお金を集めました。鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』によれば、1238年(暦仁元年)に木造の大仏を造り始め、大伽崖もあわせて6年後に完成させたということです。
 その後倒れましたが、嵐によるものという説があります。1252年(建長4年)、今度は青銅の大仏を造り始め、お堂も建てましたがかなり年月をかけたようで、完成の年ははっきりしていません。この大仏の鋳造には、丹治久友が関係したことは確かだとみられます。こんな大きな大仏をどのようにして造ったのかというと、下から順に土を盛りあげて足場を造り青銅をつなぎあわせていったのです。つなぎめの横の線が、今もはっきりと見えます。発掘調査の結果、現在の大仏の近くで鋳造したことがわかりました。
(鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より)

尾道 手水に石造の神亀が「艮神社」

 艮神社は尾道で最初にできた神社で、806年の鎮座です。806年というと平安時代の初めで、千光寺と艮神社は創建の年が同じになっています。
 同時期にこんな大きな神社と山にへばりつくような寺が建てられたのです。千光寺の工事はさぞ大変だったのでしょう。しかし、なぜこんなに近くに同時に大きな寺と神社を建てなければならなかったのでしょうか。

 拝殿は、切妻造に掘立柱を基礎とした「神明造り」で、江戸末期に再建されました。
 境内には、かつて艮神の南に形成されていた鍛冶屋町の者たちによって祀られていた金山神社があります。また当神社にはクスノキが群生し、最大のものは高さ約25m、幹は約8mにもなる大木で、樹齢900年とも推定されておリ、広島県天然記念物に指定されています。

厚木 源頼朝側室後の局、祭神小町姫に祈願「小町神社」

 鎌倉時代、源頼朝の側室後の局は頼朝の子を身ごもったことから、政子に恨まれて処刑されそうになりました。それを命じられた畠山重忠(鎌倉初期の武将)の家人本田次郎が心をひるがえして局を連れて、難波(大阪)へ逃げるという事件が起こりました。しかし、一説では、地元の豪族愛甲三郎季隆が局をかくまって、この山里に住まわせたと言い伝えられています。丹後の局は政子の恨みのためか、精神的苦しみからか、今までの黒髪が一夜にして老婆のような白髪に変わってしまいました。非常に悲しんだ局は小町神社の祭神の小町姫にお願いをして数日間祈願を続けたところ、不思議なことに、白髪がまた元のように黒髪に戻りました。それ以来小町神社には、絵馬をあげいろいろな願いをこめて参詣する女の人が多くなりました。
(「玉川の歴史と民話を21世紀に」(玉川地区協議会発行)より)

鎌倉 望みが絶たれた徳川忠長を供養「薬王寺」

 昔は梅嶺山(ばいれいざん)夜光寺(やこうじ)とい真言宗(しんごんしゅう)の寺でしたが、1293年(永仁元年)日朗(にちろう)の高弟だった日像(にちぞう)が開山となって日蓮宗に改められたと伝えられています。また、梅立寺(ばいりゅうじ)とか梅嶺寺(ばいれいじ)とかの名も伝わっていますが、江戸時代の初めごろ日達(にちたつ)によって薬王寺と改められ再興されました。その後、徳川忠長(ただなが)が1633年(寛永10年)高崎で自刃(じじん)しましたので、妻の松孝院(しょうこういん)殿(織田信長(おだのぶなが)の次男信雄(のぶかつ)の娘)は、夫の霊を供養するためにこの寺に墓を建立し、多額のお金と広大な土地を寄進しました。こうしたこともあって、一時は3,000坪(約1ha)ほどの境内に五重塔やいろいろな建物が造られるほどの大きな寺になりましたが1720年(享保5年)にすべてが焼失してしまいました。

尾道 明治時代に英語塾があった「正授院」

外留学の先覚者土居咲吾が、この正授院でも英語塾を開いて後進を導いた。

 土居咲吾は長尾幸作と云い、芸州山県郡から尾道町中浜へ移った開業医長尾俊良の長男として天保六年(1835)に生れた。かねて父俊良から洋学のまさっていることを聞かされていた幸作は、二十一才のとき京都の広瀬元斎に師事して蘭学をさらに二十五才の春、江戸に下り坪井芳洲に学んだが、このあと独学で英話を修得、それで満足できず、たまたま耳に入った幕府の日米修交通商条約批准交換のための渡米使節団の派遣のことであった。
 勝海舟の卒いる咸臨丸へ便乗を許され、福沢諭吉らと共に万延元年(1860)我が国を発しアメリカに渡り英学を修めて帰国した。
 帰朝後、父が病死し家業をつぐため尾道に帰ったが、芸州藩では幸作を士籍に列し、アメリカ仕込みの新知識としてこれを厚遇した。
 その後、軍艦買入密航事件のため一時禁固刑に処せられたが、これは表面だけのことで、久しからず刑を解かれ、このあと感ずるところがあり「土居咲吾」(土に居して吾を咲う)と改名、明治元年三原藩が今の糸崎町に開設した三原洋学所の取締方となり、また長江一丁目、正授院にも英語塾を開いて後進を導いた。

座間 齋藤龍興(道三の孫)の遺臣四名を氏神に「日枝大神」

 1841年に再建した際に、棟札に「山王大権現」とありますが、「山王」という文字の意味は天台教義を表します。

 〔山王〕の山の字は縦が三画、横が一画で、王の字は横が三画、縦が一画。天台宗の教義である「三諦(締は真理)即一」の理を表すといわれています。あらゆるものごと〔諸法〕の本質は空であり〔空諦〕、空であるが仮に存在する〔仮諦〕、諸法は空でもなく仮でもないことを中の存在〔中諦〕といいます。この〔三諦〕が完全に融合し、ひとつになる〔三諦即一〕ところに真実の姿がある、と説いています。これは〔一心三観〕、〔一念三千〕の天台の教義を山王明神が託宣したものだといいます。

 比叡山の守護神として位置づけられて以来、天台宗の広がりにともなって、日吉大社は日本を代表する神社になっていきました。

鎌倉 子宝のご利益がある「甘縄神明宮」

 長谷の鎮守。710年行基が草創し、豪族染谷時忠(由比の長者)が建立。鎌倉で一番古い神社(ただし、昭和の町村合併で鎌倉市内では龍口神明社が最古の神社)。
 背後の山は神輿尼岳といい、『萬葉集』に見える。このあたり大庭御厨の一部であったので神明宮の奉斎があったらのであろう。『吾妻鏡』に記載の見える古社で、源頼朝・政子らの参拝・奉幣があり、安達盛長が守護に当り、社前に住みその子孫は歴代ここを住居とした。

尾道 村上水軍の信仰を集めた「光明寺」

 ポルトガル人の宣教師ルイス・フロイスが「日本最大の海賊」と呼んだのが、瀬戸内海の能島(のしま)、来島(くるしま)、因島(いんのしま)の三島を拠点とした村上水軍です。
 村上水軍は、西日本で幅広く海上の傭兵として働き、来島の村上氏は、室町幕府の公用船や明、朝鮮の交易船の警護を引き受けて利を得ていました。
 毛利氏と手を結んで村上一族の最盛期を築いた村上武吉(たけよし)は、能島に巨大な海上要塞をつくりあげました。これは1585年に豊臣秀吉の命を受けた小早川氏の侵攻で焼き払われたのですが、のちに能島からは大陸の磁器の破片や輸入銭などがざくざくと発掘され、村上氏の活動範囲の広さを後世に伝えています。

厚木 社殿の前の白山池に棲む白龍「白山神社」

 白山神社は、飯山観音背後の白山(標高284m)の山頂付近の尾根道がある。むかしの道は、平野の道は雑草で視界がわるく、手入れも大変だったので、大きな街道を除き、尾根に道をつくることが多かったのでしょう。崩れても手入れが簡単で、視界が得られやすく、道に迷うことも少ないため、尾根を歩くようになったのでしょう。

 社殿の前には、池(白山池)があって、古くから雨乞いの霊地とされてきた。
 飯山観音(長谷寺)を開いたとされる行基は、この山を登り、霊水が湧き出している池を発見し、加賀国白山妙理大権現を勧請したと伝えられている。
 そして、クスノキで彫られた十一面観音が祀られたという。この十一面観音が現在の飯山観音(長谷寺)の本尊といわれている。

江の島 台湾近代化の尽力者児玉源太郎を祀る「児玉神社」

 明治時代の陸軍大将・児玉源太郎(1852(嘉永5)年~1906(明治39)年)を祀った児玉神社は、児玉が生前、江の島を非常に愛していたことから、この地に神社が創建された。
 児玉公は江の島の風景を愛し、しばしば清遊した由縁により1917(大正6)年官許を得て神社創建を決し、後藤新平らの尽力により、主要な社殿が建立され、1921(大正10)年主要な社殿が建立され、7月御鎮座を了えた。1940(昭和15)年県社に列し、公の遺徳を慕う人々の奉賽が多かった。ことに境内には台湾総督時代の関係者による献納の燈籠・水盤などが見られる。 

 かつて児玉神社は荒れ果てていた。境内を浮浪者が徘徊したり、参拝者が拝殿に土足で上がるなど、廃絶寸前だった。こうした惨状を見かねて、山本宮司が現職を拝命(1980年5月)し、整備した。

尾道 石仏の下に象「海徳寺」

 1926年10月12日の早暁、不幸大火のため全山焼亡、1928年現在地に移転新築しました。

 むかしは、防地川河口にありました。広大な境内を有する通称「沖の道場」と呼ばれ、市の発展につれて周辺に民家が建ち並び、境内が広かったので、サーカス興行や相撲の興行があって、名力士常陸山、梅ヶ谷、太刀山、鳳などの勇姿も見られたそうです。

 その頃は、本堂の東側に一本の古松があって、竜神がその梢に燈明を献じるというので、その松は「竜燈松」と呼ばれていたそうです。

鎌倉 関東大震災で倒潰、40年後再建「円覚寺 仏殿」

 仏殿は、1923年(大正12年)関東大震災で壊れた後、1964年(昭和39年)に再建されました。
 鉄筋コンクリート造ですが、戦国時代の1573年(元亀4年)の仏殿の図面をもとにして建てられたので、昔の様子を残しています。

[宝冠釈迦如来像]  高さ:260cm
 丈六の釈迦如来像は、廬舎那仏ともいわれ、頭の部分だけが鎌倉時代に作られたもの。脇侍は梵天と帝釈天といわれている。
 仏殿の天井画(写真には一部しか写っていません)は、前田青邨監修、守屋多々志揮毫の「白龍の図」。前田と守屋はともに岐阜県出身の日本画家。前田の弟子には平山郁夫もいる。

厚木 明治の先進民家「古民家 岸邸」

 厚木市古民家岸邸として開館されています。古民家岸邸は、郷土に残された貴重な文化遺産として、皆さんに公開しながら長く保存をしていきます、と。
 古民家は、当時の生活を色濃く伝えるものです。生活のスタイルが大きく変化してきた現代では、ますます注目されてきています。随所で見られる、職人が手をかけて作った凝った意匠も一遍ではなく、建築当時の時代の先端的な様式を併せ持ち、家を作った職人の技と、家を守ってきた人々の営みを感じてみてはいかかでしょうか。

 明治時代になってこのあたりで養蚕業を始められた岸家。絹の輸出で立派な建物を建てることが出来ました。このあたりは桑の木がたくさんあったそうです。今ではまったくありませんが。 

尾道 本通り商店街入口「林芙美子像」

 尾道にゆかりの深い作家林芙美子。1916年に尾道に移り住み、尾道高等女学校(現・東高等学校)を卒業後上京し、作家目指して苦難の日が続きますが1929年「放浪記」がベストセラーとなり、作家として大成しました。文学の町にちなんで像が設けられました。
 幼少時代尾道で過ごした林芙美子は、生涯この町を愛しました。
  現在でも芙美子の命日にはこの像の前であじさいの献花や詩の朗読が行われます。 尾道の待ち合わせスポットとしても人気。

武家の土地所有権は、なし崩し的に認められただけ!

 江戸時代の石造りとしては全国最大級

 江戸時代の石造り常夜燈としては全国最大級で、北面に「営所祇園宮」、南面に「金毘羅大権現」の石額と掲げて、それぞれ該当する方向の神社に対する寄進・灯龍という形式を取っているんですよ。航海の無事を祈願する一方で、港湾施設として海に突き出して配置し、航行の際の目印として安全を図っています。
 この辺り(備後地方)が瀬戸内海の中央になります。海流が東西からぶつかり、海水が上下に撹拌されるため、このあたりの魚は味が良いと言われています。

鎌倉 平政子(北条政子)の墓がある「寿福寺」

 1200年 源頼朝夫人政子が、明庵栄西禅師(緑茶を伝えた人物—茶そのものは奈良時代に伝わっていた。)を開山として建てたもので、鎌倉五山の第三位の寺。
 源実朝、北条政子の墓と伝わる五輪塔があります。
 明治維新で神仏分離で鶴岡八幡宮(鶴岡八幡宮寺)の仁王門にに祀られていた仁王様が移築されています。
 開山(初代住職)の栄西は、二度の入唐(28歳と47歳)をへて、日本に臨済宗を伝えましたが、比叡山延暦寺の官層(公務員の僧)たちの反感をかい、活躍の場を鎌倉に求め、寿福寺建立の許可を得ました。その後、鎌倉幕府の後援を受けて建仁寺(京都市)を建立しました。当時は、鎌倉で勢力を得て、京都へUターンする事例も多かったのです。

尾道 海雲塔とも呼ばれる「天寧寺 三重塔」

 「五重塔から三重塔へ」という珍しい塔

 ここには珍しい三重塔があります。当初は五重塔だったのですが、その後、四重と五重の傷みが激しくなったため、四重と五重を取り除いて、三重の上に新たに屋根をかけ、三重塔に姿を変えているのです。重要文化財に指定されています。建立は1388年(嘉慶2年)。三重塔に姿を変えたのは、それから300年後の1692年(元禄5年)のことでした。
 本当に最初は五重塔だったのだろうかと疑う人もいるかもしれませんが、まず、五重塔の姿で描かれた古い時代の掛け軸が残っている。それに加えて、この三重塔は心柱が下まで通っている。五重塔では心柱を下まで通しますが、三重塔では初重の上から心柱を立てるのが普通です。梁の上に心柱を立てるのです。
 天寧寺の三重塔は、五重塔であるにもかかわらず、心柱が下まで通っているわけで、こういうところからも、以前は五重塔であったことがわかります。また、その他にも、五重塔だったことを示す痕跡があちこちに残っています。外観もそうです。三重塔にしては各層の間が詰まっているように見えます。
 (「宮大工と歩く千年の古寺」(松浦昭次著)より)

厚木 長野高遠石工の作か地蔵様がある「広沢寺」

 清川村の煤ヶ谷から厚木の七沢、および伊勢原の日向にかけては石造物に適した石を産する石山があったが、石を切出して細工する石工がいなかったために手付かずのままでした。その石山を開発したのが信州高遠の石工たちでした。
 高遠は長野県伊那市の高遠町のことで、鎌倉時代の頃から石材業が発達して農民の多くが石工となって働いていた。
 高遠の地は田畑が少なかっただめに農家の次、三男が働くほどの農作業の仕事がなかった。
 高遠藩はその対策として、元禄の初め頃にいろいろな職人になることを奨励したのであった。そのような背景があり、また職人の中でも手間賃は石工が最も高かったので石工になる者が多かったといわれている。

鎌倉 かくれ里の雰囲気が漂う「佐助稲荷神社」

 このあたりの地名「佐助」はもとは大町の一部で、佐助ヶ谷の地名で呼ばれていました。佐助の地域名は佐助ヶ谷から名付けられたものですが、その地名の由来については、隠れ里の神が翁の姿で夢の中に現われ、佐殿(すけどの)と呼ばれた源頼朝に旗挙げをすすめて助けたので、佐助というようになったという伝えと、佐助ヶ谷内に、上総介・千葉介・常陸介の三芥の屋敷があったので三芥ヶ谷(さんすけがやつ)と呼ばれ、後にその呼び名がなまって佐助ヶ谷になったという伝えなどがあります。また、北条氏の一族の佐介氏が居住したため地名となったという説もあります。
(「かまくら子ども風土記(13版)」より)

尾道 自然石に刻まれた25の文学碑「文学の小路」

 千光寺公園の山頂からつづく尾道ゆかりの作家、詩人の尾道ゆかりの林芙美子・志賀直哉・正岡子規など25名の作家・詩人の詩歌・小説の断片等をつづる静かな散歩道。点々と続く自然石に刻まれた文学碑です。
 彼らが愛した尾道の風景、そこに住む人々の心が、刻まれた詩歌の中から聞こえてきます。
 彼らが愛した尾道の風景、そこに住む人々の心が、碑に刻まれた詩歌の中から聞こえてきそうです。