広沢寺温泉入口の駐車場より1km程行った所に大釜弁財天があります。3m余りの巨石が2つ、掌を合わせたように並んでおり、奥行4mの内部には七沢石で造った蛇の宇賀神(文政5年銘、とぐろを巻いた形)と高さ60cmのほこらの中にはいった弁天様が祭られています。
大釜弁財天では、かつて日照りが続いた時、村中はもとより近郷近在の農家の人々が相寄り、お坊さんを頼み、大釜の内部に入ってお経をあげてもらった後、お坊さんが出てくるところを人々がバケツや手桶で水を掛けたり、滝壷の水をかい出したりするとともに、雨を降らせる一心から宇賀神を怒らせる素朴な願いで身に付けている六尺揮(ふんどし)をはずし、その褌で蛇を洗って雨乞いが行われていました。
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鎌倉 文殊菩薩伝説がある「勧行寺」
勧行寺(かんぎょうじ)は、神奈川県鎌倉市腰越にある日蓮宗の寺院。山号は龍口山。旧本山は玉沢妙法華寺。潮師法縁。龍口寺輪番八ヶ寺の一つ。
1303年(嘉元元年)、但馬阿闍梨日実が創建。
1683年(天和3年)、火災で伽藍を焼失する。その後復興する。
1791年(寛政3年)、暴風雨で被害を受ける。その後復興する。
1923年(大正12年)、関東大震災で被害を受ける。その後復興する。
境内の右手には本堂があります。開山は日実(にちじつ)で、1303年(嘉元元年)に創建されたと伝えられます。本尊は三宝本尊で、室町時代のものとみられる立派な日上人像とともにまっられています。また、右手に宝剣、左手に経巻を持つ丈嫌菩薩もまつられています。
(鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より)
尾道 京からお連れした仁王さん「西国寺山門」
今から三百年以上も前のこと、西国寺ではこの近辺の寺にはないような大きな仁王門を建てました。院家さんや檀家の人たちは、由緒ある西国寺にふさわしい立派な仁王さんをお迎えしようと、四方八方手を尽くして探しておりました。
そんなところへ、京都に有名な仏師が彫った素晴らしい仁王さんがあるという話が伝えられ、院家さんはさっそく京へ上りました。
道を訪ねながら探し当てた店の前にデンと構えた仁王さんの出来栄えの見事なこと。院家さんは大そうのお気に入りで、たくさんの大判、小判を出してそれを譲ってもらいました。
仁王さんがあまり大きいので、陸路尾道へお連れすることはできそうもありません。船で淀川を下り、京から大阪へ、そして海路尾道まで運ぶことにしました。院家さんが船で待っていると、店の主人が仁王さんをお連れしてきました。見ると、さっき店で買った仁王さんと違って、ひどく出来の悪いものでした。(続く)
福山 鞆 創建から五回も焼けた「静観寺」
鎌倉 北条氏の氏寺であった「浄光明寺」
厚木 血から生まれた剣の神を祀る「春日神社」
尾道瀬戸田 紫田勝家の弟?が再興した「法然寺」
元祖大師法然上人 御遺跡
安芸国 瀬戸田 浄土宗 法然寺
法然上人(浄土宗の開祖)が、四国に御流罪になったとき(鎌倉時代の初め、今から八百年余り昔)、その徳を慕われた後白川法皇のの皇女 如念尼(にょねんに)公は、この島の南側、御寺(みでら)の光明坊にご来寺になって、讃岐(現在の香川県)から上人をお招きになりました。
上人は当地に庵を結び、御寺までお通いになって九十日の間、如念尼公に說法、ご教化されたと言われています。
その後三原の仏通寺(臨済宗)の末寺となっていた時期もあるようですが、江戸時代の初め頃、慶長年間(1607年)に法然上人の御遺跡が荒廃していることを惜しんだ美作涅槃寺(ねはんじ)の一道和尚(紫田勝家公の弟と伝えられています)によって再興され、伽藍が整えられました。本堂、庫裡はいずれも慶長年間の建築です。
愛川 「私は半僧です」と答えた「勝楽寺 半僧坊」
鎌倉 初の征夷大将軍坂上田村麻呂ゆかりの「巽神社」
尾道 天保大飢聾に本堂立替で人を救った「慈観寺」
鎌倉 この世の花ではない紫陽花「明月院」
福山 鞆 多彩な歴史の足跡が刻まれる「小松寺」
相模原南 鎌倉仏師作の地蔵菩薩立像が残る「常福寺」
鎌倉 かくれ里の雰囲気が漂う「佐助稲荷神社」
尾道 本堂内に「泣き龍天井」がある「西郷寺」
厚木 大江広元の四男毛利季光と係わりが「光福寺」
最初は浄土宗で教念寺と称したが、後に廃絶して光福寺となった。
鎌倉幕府の頃の創建で、開山は隆寛律師。律師(1148~1227)、字は皆空(また道空)無我)は以前は天台宗だったが、後に法然上人の浄土宗に移り念仏を説いて継承、法然上人入寂(1212)の祭は五十七日の同士をつとめた。が、比叡山の宗徒の反発“念仏宗の集団化をおそれての弾圧”を受けて、安貞元年(1227)に流罪に処せられた。
毛利庄(今の厚木市内)の領主毛利季光(すえみつ)入道西阿は送領使となったが、隆寛に帰依きえし奥州喜多方へ送る途中、毛利庄に移し飯山の郷に匿かくまい住ませたという。身代わりには弟子・実成じつじょうという僧が送られるが、入寂を知って飯山に駆けつけ、隆寛律師遺骨を喜多方・願成寺に分骨・埋葬した。
なお、成覚坊幸西は壱岐国(阿波で入滅)へ、空阿弥陀仏は薩摩国(出発前日入滅)へ流国となった。
季光は、戦国時代に中国地方で勢力を誇った毛利氏の祖で、大江広元の四男。父大江広元も法然上人の教えに帰依し覚呵と号した。
福山 鞆 たくさんのお地蔵様が「正法寺」
鎌倉 頼朝の娘大姫の守本尊を安置する「岩舟地蔵」
木曽義仲は頼朝の求めに応じて嫡子義高を人質として鎌倉へ送り、頼朝と和睦した。その時の条件として、表向きは、義高は頼朝の長女大姫(当時5、6歳)の婿として迎えられた。幼いながらも政略で夫婦とされた義高と大姫は仲睦まじいものでした。
翌年の正月、木曽義仲が源義経・範頼率いる関東勢に破れ近江国粟津で敗死すると、義高の復讐を恐れ、義高を殺すことを計画したが、4月、頼朝の計画を知った大姫は、義高を女装させ鎌倉から秘かに逃がしたが、すぐに発覚、義高は武蔵国入間河原で、頼朝の命令によって後を追った堀親家の郎党藤内光澄に討たれました。
最愛の義高を失った大姫の嘆きは深く、こののち義高を偲びしばしば病床につくことが多く、二十歳ほどで亡くなりました。
尾道 浄土寺山鎖場下(鎖場経由)から不動岩へ
座間 日蓮が立ち寄り休息をされた「圓教寺」
円教寺に伝わる話
鈴木弥太郎貞勝は、龍ノ口で日蓮上人に向かって振り上げられたものの、光る玉の出現で3つに折れた刀、「蛇胴丸」を作った人。
そしてあの事件の翌日9月13日、昨夜のうわさを聞きつけた鈴木弥太郎貞勝が、依知の本間屋敷に向かって相模川を渡る前にぜひ自宅にお立ち寄り下さいと申し出たことにより日蓮の一行は貞勝の屋敷で休息を取ることになりました。 このとき貞勝は日蓮の教えに入信し、円教坊(えんきょうぼう)という名をいただきました。円教坊はこのあたりの水が刀作りに適さないことを話すと、日蓮は石に南無妙法蓮華経の文字を書き、「三十番神」(さんじゅうばんじん)をまつって地面を掘りました。その時わき出た泉がこの番神水だというのです。