厚木 幽静な寺院としての景観を伝える「龍鳳寺」

 慶応4年(明治元年)3月に布告した「神仏判然令」。この法令に基づいて初めに全国の神社に対して命じたのは、神社に所属している別当や社僧を還俗させることで、それらの者が僧籍から抜けることを指示したのでした。次に出したのは仏像を神体としていることの廃止で、神社内にあるすべての仏像を取り払うことを命じ、また同時に社前に備えてある仏具なども除かせたのでした。
 しかし、これがもとで起こった「廃仏毀釈」は、国学の平田派など一部の過激な国学者や神道家、そして地方の神官などが一般の民衆を扇動しにため起きたもので、その破壊行為は全国的な規模で(地域による違いはありますが)行われたのでした。神社内に祀られていた仏像は寺院などに移して破壊の難を逃れたのですが、境内や路房に置かれていた石仏などの多くが割られたり削られたりしました。石仏は日常的な信仰の対象として最も身近な存在でしたのに、無残な破壊行為に及んだことの真相は分からないのですが、国家権力を後ろ盾とした民衆扇動の恐ろしさを見る思いがします。
(「厚木の歴史的石造物を巡って」 制作:澤田五十二より)

江の島 閻魔大王が鎮座する石窟「延命寺」

 たびたびの崖崩れした墓地。墓石も遺骨も誰のものか判らなくなり、それらを祀るためる石窟を造り、納骨堂にしました。
 閻魔大王が鎮座している石窟の奥が納骨堂になっています。
 閻魔大王を筆頭とする十王の信仰は、鎌倉時代に流行した信仰で、死後に人は天国か地獄に行くと信じられていました。天国か地獄かの裁きを司るのが、十王で、裁きは七日ごとに七回行われるので、四十九日目には天国か地獄かが決定します。
 最初の七日目は三途の川を渡り、冥府でまず秦広王の裁きを受ける。次の七日目(十四日目)には、初江王のもとで裁かれる。次々とさらに七人の王のもとで裁かれて、最後に閻魔大王に引導を渡されることになりまする。さらに、その後、百か日、一年、三年と、合計十回裁きがあり、それぞれ、そのときの十人の王が裁きが行なわれます。

尾道向島 古代信仰の足跡か「岩屋山山頂」

 岩屋山は補陀山(ほださん)西提寺の寺領で、現在は尾道大橋としまなみ海道によって、寺と岩屋山と分断されたかたちに見えますが、岩屋山と一体となる寺でした。
 山号の「補陀山」は、観音普薩の住む所を意味します。だから尾道三山の三古刹(浄土寺、西国寺、千光寺) がすべて観音信仰で、それぞれの観音普確が岩屋山を見つめるように設計されたと考えることも可能です。
 また、西提寺も岩屋山を向けて造営されており、尾道に古くからあったとされる浄土寺、西國寺、千光寺、そしてこの向島・西提寺をふくめた四つの古い寺がこの岩屋山を向けて造営されています。
 四方から特定の山に向けて仏教寺院が造られた例が他にあるのでしょうか。何かが隠されている自然信仰の景観上に企てた陰陽思想と仏教信仰な気配がします。
 (「隠された神話」 稲田全示著より)

座間 裏山から湧水 し、水量も豊富「心岩寺」

 開山年代は寛正元(1460)年頃で、鎌倉建長寺第七十五世悦岩興惟禅師の法弟成英玉大和尚が開山し、この地の郷士白井織部是房が開基となって、白井氏の持仏堂を寺としたものと伝えている。
 当山の記録によると、山号は初め久光山心願寺、後に座間山心巌寺、そして江戸時代になって座間山心岩寺と改められている。
 開山以来五百数十年、法嗣二十二世この間法灯絶えることなく栄えている。

 本尊は「积迦如来立像」(運慶作、長5寸5分:室町時代の作。座間市重要文化財)で、造像当時は金箔神であったが、永い年月に剥落して現在ではわずかに衣丈のひだに残っているだけである。台座は後に補ったもの、光背は欠失している。
 温和な顔立の内に高雅な気品が溢れている。この釈迦如来は当山の本尊である。

鎌倉 太田道灌の屋敷跡と伝える「英勝寺」

 太田道灌の屋敷跡と伝える。扇ケ谷にある浄土宗寺院。鎌倉唯一の尼寺。山号は東光山。寺地は太田道灌の屋敷跡と伝える。開山は英勝院長誉清春。徳川家康の側室でお勝の局といい、太田康資の女(むすめ)。寛永十三年え(1636)開堂供養。第一世庵主は水戸頼房の女小良姫(清因尼)。以来、住持は水戸家からむかえたので、水戸様の尼寺とされた。仏殿・祠堂・鐘楼・庫裡・書院・宝蔵庫などのたたずまいは美事である。
(「鎌倉 趣味の史跡めぐり」[文献]『市史』社寺編、小丸俊雄『東光山英勝寺』より)

尾道 明治の火災の時、三重塔が残った「向上寺」

 1400年 生口守平の開基、臨済宗仏通寺派 愚中周及の開山により臨済宗の寺院として創建されたのに始まり、向上庵と号した。一旦衰退したが、江戸時代に入り1609年 関的が入寺して再興し、曹洞宗に改められた。

 向上寺は町の北鬼門の鎮護として存立し御本尊聖観世音菩薩は、今日まで町 の災障を防除し、古来島の災害鎮圧と興隆繁栄の祈願寺。

 臨済宗 仏通寺派開山勅特賜仏徳大通禅師愚中周及大和 尚(1323~1409年)を迎えて開きました。

厚木 血から生まれた剣の神を祀る「春日神社」

コノシロを食べない村(南毛利地区)

 温水(ぬるみず)の鎮守社は春日神社です。その鍵取りは、同村の旧家・奥田家が代々世襲しています。春日神社は藤原家の守護神です。源平の戦に敗れた平家の落ち武者がこの地に土着して、春日社を祀ったと伝えられていますが、その理由は分かりません。
 温水村の枝郷の一つに浅間山(せんげんやま)がありますが、この部落の鎮守は浅間(せんげん)神社で、富士浅間神社の分社ですが、この部落では、コノシロという魚を食べることを禁じています。それは、昔この部落の先祖が戦に敗れ、守城を取られたことに由来しているようです。
 戦後、疎開児童の家から謝礼にコノシロを送られたときも、その家では捨ててしまったそうです。

鎌倉 瘡守稲荷と鬼子母神が祀られる「上行寺」

 山門の裏側には左甚五郎(ひだりじんごろう)作と伝わる竜の彫り物があり、山門の正面に本堂があります。江戸時代後期の熊本の大名細川家(ほそかわけ)が造ったといわれる本堂の軒の表欄間(おもてらんま)や前の柱との梁(はり)などに、すばらしい竜の彫り物があります。
 上行寺は、日範(にちはん)が1313年(正和2年)に創建したといわれる日蓮宗(にちれんしゅう)の寺で、山号は法久山(ほうきゅうざん)といいます。現在の本堂は1886年(明治19年)に、名越松葉ヶ谷(なごえまつばがやつ)の妙法寺(みょうほうじ)の法華堂(ほっけどう)を移築したものといわれています。本堂の中は公開されていませんが、その格天井(ごうてんじょう)には美しい花鳥の絵が、表の欄間には十二支の彫刻がほどこされています。
 本尊は三宝本尊(さんぽうほんぞう)(祖師(そし))で、本堂内正面には日蓮上人像(にちれんしょうにんぞう)、左手に開山の日範上人像や鬼子母神像(きしぼじんぞう)、亀に乗った水天像などが安置されています。

 鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より

尾道 のんびりとした境内「宝土寺」

 本堂の建物はありません。その代わり、空間的にはのんびりしています。

 このお寺さんは本来の本堂がない(敷地のみ)。
 かわいそうなことに本堂の建設資金がたまったとき、明治になり藩札(藩で発行する、金や銀の引換券)が使用不可になり、価値がなくなってしまった。そのため、本堂を建てることができなくなってしまった、とか。

 年に何回か、ここで趣味で製作したものを販売しているようです。

相模原 西部 北条氏照の娘貞心尼を中興開基の「天應院」

 戦国時代に八王子を中心とした大石定久公(八王子滝山城主)の統治により、心源院、天應院等が季雲永嶽大和尚を開山にして、明応4年に建立されたと考えられます。
 虚空蔵菩薩を本尊とし、9石7斗の御朱印を賜り、5世太蔭師の時代、北条氏照の娘貞心尼を中興開基として、明応4年(1495)に当地に中興開山したと伝えられます。
 徳川家光の養育役であった青山忠俊により再中興されています。明治時代には、当地に麻溝小学校の前身にあたる下溝学校を開校、また下溝の松原集落にあった薬師堂を当地に移転、この薬師は関東九十一薬師霊場19番です
 また、本堂、客殿、庫裡の新築が平成23年4月に終了し、落慶式を迎えました。

鎌倉 頼朝に心情を訴える腰越状を書いた寺「満福寺」

 元暦2年(1185年)5月、源義経が兄頼朝に怒りを買い、鎌倉入りを許されず腰越の地に留められた際に、頼朝に心情を訴える腰越状を書いた寺として知られる。寺には弁慶が書いた腰越状の下書きとされる書状が展示されており、境内には弁慶の腰掛け石や手玉石など、義経・弁慶ゆかりの品々が多数展示されている。

 石段を上ると、「龍護山」という額が掲げられた山門があり、柱には「義経腰越状旧跡満福寺、と書かれた看板があります。山門をくぐると、正面に本堂、左横に盧婁があります。

(鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より)

尾道 山門は「ええもん」と呼ばれる「福善寺」

 尾道の人はこの門を方言で「ええ門」という、いい門という意味です。
 尾道の子供たちが、親にねだるときに「なんかええもん(いいもの)こうてえ(買って)」とおねだりすると、親は「ええもんは福善寺」と言って、ごまかしていたのです。
 この門の中でも木造の龍の立体彫刻はみごとです。
 その門にほどこされている透かし彫りの唐獅子(からじし)、鶴、象などさまざまな見事な装飾木彫をこの門で見ることができます。

福山 鞆湾の入口の守り神「淀媛神社」

神功皇后の妹君の「淀媛命」

 十四代仲哀天皇の后であられた神功皇后が、新羅へ出兵に際し、諸国に使令を出して船舶を集め武器鎧をお揃えになった。 また皇后は、妹の淀姫命を松浦に遣わし兵と船を集められた。松浦地方の族長である磯良(しら)を伴い此の地の海辺・膳崎(かしわざき)に着船された。

 淀姫命は松浦より出陣なされし時、沙迦羅龍王(さからりゅうおう)より潮満玉(しおみつたま)と潮干玉(しおひるたま)を借り、375人船に乗り組み、皇后と共に新羅へ向かわれた。対馬を過ぎやがて彼の地が見えだした。 潮干玉を投げられると海は50里ほど干し上がったので、新羅軍は喜び勇んで海の中まで攻めてきた。そこで潮満玉をお投げになると潮がどんどん満ち、陸の上まで上がり船は王城の門まで達した。 新羅王は和睦を乞い貢ぎ物を毎年送ることを誓い長い間届けた。淀姫命は御帰朝後、志佐の美しさと住民の暖かさをお忘れになることなく、病人の治療や干魃には雨乞いをなされた。

厚木 古くはこのあたりに鋳物師がいた「子合地蔵尊」

 『子合地蔵牌山来記』によると、この地蔵尊は、八幡太郎義家の六男・森冠者義隆に縁のあるものといいます。保元・平治の乱の折、義隆は妻子をおいて相模国毛利荘荻野郷に落ちてきました。義隆の死後その終焉の地に参ろうとこの地にやってきたのは、義隆の遺児の僧・浄慶でした。浄慶は、子合に住まっていた義隆の郎党・毛利のもとを訪ねました。主計は、義隆追善のため上京、河内国(大阪府)壷井にて義隆縁の地蔵尊をいただき、郷里・荻野郷子合に戻り、浮慶に託して、義隆公三十三回忌の法要を営みました。その折に建立したのが、子合地蔵尊です。
 子合地蔵尊の側に子安山光善院があり、地蔵堂を管理していましたが、明治初年修験道禁止令により、寺は廃止され、住職は還俗して神官となりました。子合地蔵堂には安産祈願の信者が多数参詣して賑やかであったといいます。この地蔵尊は、日本三体地蔵尊の一体で、他の二体は、河内国丹南郡、福島県安達郡帯解村子安に各一体あります。この三体は同木同作で、それぞれ霊験あらたかな安産祈願の地蔵として有名です。

 【出典】『厚木の伝承と地名』『ふるさとを知ろう講座』

鎌倉 祇園社神霊を疫病流行時に勧請「八雲神社」

 元村社で山ノ内の鎮守である。祭神は素戔嗚尊(すさのおのみこと)。例祭7月15日。境内社に稲荷社がある。小高い丘から見下ろすと北鎌倉駅方面の街並みが良く見える。古くは牛頭天王を祀ったため牛頭天王社と称していた。「相模風土記」に記すことによると、村人がこの地で疫病退散のために京都八坂祇園社を勧進したのが始まりだという。その後、この地に居を構えた関東管領上杉憲房が篤く信仰した。一方、社伝によると文明年間(1469~1486)に上杉家が扇ガ谷と山ノ内に分かれて争ったとき、山ノ内上杉家の憲房が武運長久を祈って、京都の八坂神社から勧進したという。
 境内裏側には庚申塔群がある。この中には寛文5年(1665)の銘のある石造庚申塔が存在する。これは鎌倉市内最大最古。

道 幕末芸州藩が派兵し、この寺を本陣にした「妙宣寺」

 幕末の風雲急を告げる1867年の末、芸州藩は片岡大記を大隊長とする一個大隊を派兵し、この寺を本陣として尾道を鎮め東の福山藩に備えた。この寺は尾道地方に数少ない幕末維新の史跡である。
 (尾道は、大半が芸州藩、東の外れ側が福山藩(井伊直弼の一つ前の老中首座が阿部正弘で、福山藩の藩主。)
 慶応三年(1867)十五代将軍徳川慶喜は内外の情勢を察し大政奉還を断行。このとき芸州藩は尾道の重要性を認め、片岡大記を隊長として一箇大隊の兵を海路尾道に送り、また意気たからに長州藩の鉄砲隊もくりこみ寺院に分宿、目と鼻の先の福山に徳川の譜代衆阿部氏と対峙した。尾道には官・幕双方の密使やスパイが入り乱れ一触即発の危機をはらんでいた。そのような緊迫状態のなかで芸州藩の支隊が西国寺にも駐屯した。また、血気はやる地元民などで結成された隊士らが、乱暴をはたらき刑に問われたものもある。

愛川 半僧坊大権現を祭る「勝楽寺」

 半僧坊や田代の半僧坊と呼ばれている勝楽寺。遠州奥山方廣寺(静岡県浜松市北区)より勧請した半僧坊大権現が祭られていることから、「田代半僧坊」と呼ばれています
 半僧坊大権現は、後醍醐天皇の皇子「無文元選禅師」が方廣寺へ御入山の際に出会った白髪の老人を弟子として、日々の作務等を怠ることなく随侍しました。
 禅師が「おまえは半ば僧形である」と言うと、老人は「私は半僧です。」と答えたことから半僧坊と呼ばれるようになったそうです。
 その後、無文元選禅師が亡くなると、姿を消したと言われています。

鎌倉 露天の大仏になってしまった「大仏(高徳院)」

 寺の縁起によると、頼朝が鎌倉に入り、東国にも大仏を造ろうとしましたが、果たさずに世を去ったので、仕えていた稲多野局が実現させようと計画したといわれています。頼朝夫人政子の力添えもあったといわれ、僧の浄光は全国まわってお金を集めました。鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』によれば、1238年(暦仁元年)に木造の大仏を造り始め、大伽崖もあわせて6年後に完成させたということです。
 その後倒れましたが、嵐によるものという説があります。1252年(建長4年)、今度は青銅の大仏を造り始め、お堂も建てましたがかなり年月をかけたようで、完成の年ははっきりしていません。この大仏の鋳造には、丹治久友が関係したことは確かだとみられます。こんな大きな大仏をどのようにして造ったのかというと、下から順に土を盛りあげて足場を造り青銅をつなぎあわせていったのです。つなぎめの横の線が、今もはっきりと見えます。発掘調査の結果、現在の大仏の近くで鋳造したことがわかりました。
(鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より)

尾道 手水に石造の神亀が「艮神社」

 艮神社は尾道で最初にできた神社で、806年の鎮座です。806年というと平安時代の初めで、千光寺と艮神社は創建の年が同じになっています。
 同時期にこんな大きな神社と山にへばりつくような寺が建てられたのです。千光寺の工事はさぞ大変だったのでしょう。しかし、なぜこんなに近くに同時に大きな寺と神社を建てなければならなかったのでしょうか。

 拝殿は、切妻造に掘立柱を基礎とした「神明造り」で、江戸末期に再建されました。
 境内には、かつて艮神の南に形成されていた鍛冶屋町の者たちによって祀られていた金山神社があります。また当神社にはクスノキが群生し、最大のものは高さ約25m、幹は約8mにもなる大木で、樹齢900年とも推定されておリ、広島県天然記念物に指定されています。

厚木 源頼朝側室後の局、祭神小町姫に祈願「小町神社」

 鎌倉時代、源頼朝の側室後の局は頼朝の子を身ごもったことから、政子に恨まれて処刑されそうになりました。それを命じられた畠山重忠(鎌倉初期の武将)の家人本田次郎が心をひるがえして局を連れて、難波(大阪)へ逃げるという事件が起こりました。しかし、一説では、地元の豪族愛甲三郎季隆が局をかくまって、この山里に住まわせたと言い伝えられています。丹後の局は政子の恨みのためか、精神的苦しみからか、今までの黒髪が一夜にして老婆のような白髪に変わってしまいました。非常に悲しんだ局は小町神社の祭神の小町姫にお願いをして数日間祈願を続けたところ、不思議なことに、白髪がまた元のように黒髪に戻りました。それ以来小町神社には、絵馬をあげいろいろな願いをこめて参詣する女の人が多くなりました。
(「玉川の歴史と民話を21世紀に」(玉川地区協議会発行)より)