尾道 江戸時代、伝書鳩と米相場 「浄土寺」

少なくとも江戸時代からいるハトたち。

 江戸時代、幕府が禁止していた伝書鳩を使い、大阪の米相場の情報を入手していました。このお寺の言い伝えに「平家は伝書鳩を使うことが出来なかったが、源氏は伝書鳩を使うことができた」と伝えられています。そのためか源氏はピンポイントで平家の大将を攻撃できたのでしょうか?

また、こんな話もあります。【伝説 ハトの道案内】
 南北朝のむかし、京での戦に敗れた足利尊氏が、兵力を立て直すために九州へ下る準備を進めていたときのことです。どこからともなくまっ白いハトが飛んできて、尊氏の御座船の上を何度もゆっくりと旋回し、帆柱に止まりました。
 「おお、あれを見よ。源氏の流れをくむわれらの船出を白バトが祝ってくれてお…………白バトの水先案内で尊氏の大船団は、途中敵もなく瀬戸内海を西へ西へと進みました。数日の後、島に囲まれた景色の美しい港に船が着きました。
 「これはまたにぎやかな町じゃが、どういうところじや」
「はい、尾道というところです」「はい、十一面観世音菩薩を御本尊にいだく浄土寺と申す寺でございます」…………石段を上っていくと大勢の僧侶たちが尊氏一行を「美しいところじやのう。今宵はここに船を泊めることにいたそう」………

相模原 相模川支流んから本流へ 「三段の滝」

 昭和8年(1933)に造られた鳩川分水路(現、鳩川隧道分水路)は段丘上からの放流の勢いを緩衝するための段差が三段あることから「三段の滝」と呼ばれ、その後、昭和63年(1988)には、その上流に「新三段の滝」が完成しました。この付近は「相模川散策路」の一部として整備され、展望台から見る相模川を望む眺めは風光明媚なスポットとなっています。
 また、この新三段の滝辺りから相模川散策路を歩いてみますと、西側に相模川、その奥に大山、丹沢連峰の雄大な絶景が目に入ります。四季を通じて、季節の様々な移り変わりの表情を見せてくれる、とても良いところです。

鎌倉 この谷戸あたりが腰越の中心部だった「東漸寺」

 鎌倉にある日蓮宗の寺院。旧本山は大本山法華経寺。小西法縁。龍口寺輪番八ヶ寺の一つ。
 1325年(正中2年)、後に龍口寺となる地の護持のため法華経寺から派遣された日東を開山に建立された。その後44世住職日英が、本堂、庫裡を再建復興し、現在の伽藍が整備された。
 山門をくぐると正面に本堂があります。この寺は、龍口寺を守るために千葉県中山の法華経寺(ほっけきょうじ)から差し向けられたといわれる日東(にっとう)が1352年(正平7年)に開いたと伝えられます。本堂には、日蓮上人(にちれんしょうにん)像と釈迦如来(しゃかにょらい)像がまつられています。「腰越駅」近くの諏訪神社は、もとはこの寺の境内にあったそうです。寺の裏山には、エフェドリンという咳止めの薬を作り、日本薬学の基礎を築いた長井長義(ながいながよし)博士夫妻の墓がありましたが、現在は墓は移され、墓地に記念碑が立っています。この寺の近くには妙典寺(みょうてんじ)、勧行寺(かんぎょうじ)、本成寺(ほんじょうじ)、本龍寺(ほんりゅうじ)があり、輪番八ヵ寺のうち五寺が集まっています。昔は、この谷戸あたりが腰越の中心部だったそうです。

 (鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土

尾道 寄進された五百羅漢像「天寧寺」

 羅漢は正式には阿羅漢(あらかん)といい、サンスクリット語のアルハンを音写した言葉です。元来インドでは尊敬に値する人という意味で、仏教では、悟りを開いた修行者という意味です。羅漢には釈迦の十大弟子や、釈迦からこの世にとどまり仏法を護るように命じられた十六羅漢、釈迦の入滅後に行われた第一回結集(けつじゅう)(経典の編集会議)で集まった五百羅漢などが含まれます。

厚木 美女神の木花咲耶姫命を祀る「子安神社」

  子安神社(こやすじんじゃ)は、主に安産・子育ての神が祀られている神社です。

 木花咲耶姫命=コノハナノサクヤビメ(ヒメ)は、日本神話に登場する女神。『古事記』では木花之佐久夜毘売、『日本書紀』では木花開耶姫と表記されています。ひ孫が神武天皇になるのでしょうか。

 神話では、地上に降った天孫・迩迩芸命は、桜の花のように美しい女性と出会う。山の神・大山津見神の娘、木花之佐久夜毘売です。一目惚れして迩迩芸命(ににぎのみこと)が結婚の許しを乞うと、大山津見神は喜び、もう1人の娘・石長比売(いわながひめ)まで添えて送ってきました。
 ところがこの石長比売は目を背けるほど醜い。天孫は妹の木花之佐久夜毘売とだけ結婚し、姉のほうは返してしまう。実は大山津見神が2人の娘を送ったのには理由がありました。石長比売には「天孫の命が石のように永遠であるように」と、木花之佐久夜毘売には「天孫が花のように美しく栄えるように」と願いを込めていたので、石を返し花を選んだため、こののち天孫たちは栄えるものの、命は人間と同じようにはかないものになってしまいました。神の子孫であるはずの天皇が人間と同じ寿命であることを説明するための神話です。

鎌倉 目の神様として親しまれている「御霊神社」

 もとは関東平氏五家の始祖、鎌倉氏・梶原氏・村岡氏・長尾氏・大庭氏の5氏の霊を祀った神社であったとされています。その後、五霊から転じて御霊神社と通称されるようになりました。
 後に、鎌倉権五郎景政の一柱のみに祭神は集約され、祭神の名から権五郎神社と呼ばれました。

 景政の武勇伝から「目の神様」として親しまれている。例大祭には県の無形文化財に指定される「面掛行列」が行われます。

尾道「完璧は災いの元」と石工の祈り「御袖天満宮」

菅原道真公着衣の袖をご神体とする神社で、大林宣彦監督の映画「転校生」で主人公が石段を転げ落ちるシーンのロケ地としても有名。またテレビアニメ「かみちゅ!」で境内モデルとなった神社。

 雷が鳴ったとき、「くわばら、くわばら」と唱えませんか?

 死後に雷神となった菅原道真は、復習のために各地に雷を落としたという伝説があります。

 5mもの1本石が54段(ただし、現在は一番上の段が割れてしまいました。)、それに、二本継ぎが1段(上から二段目)。

 大林宣彦監督の映画「転校生」の撮影場所(男の子と女の子が入れ替わる場面)

厚木 弘法大師の伝説、荻野川「秋葉神社」

 荻野川の“源氏河原”と呼ばれるあたりは、不思議なことに毎年夏になると、川の水が枯れちょうどサト芋の収穫時期なのにその芋さえ、洗うことができなくなるのだと言います。それには、こんな言い伝えが今でも残されています。
 今から約1200年前(8百年代)、全国を行脚していた弘法大師は、ある夏の日、この荻野にさしかかりました。すると、一人の農婦が、源氏河原で取りたてのサト芋をざるで洗っていました。土手の上から、それを見た大師は、イモを洗う農婦の見事さに見とれてしまい、いつの間にか、その農婦の後ろまで近寄っていました。そして、丁寧に頭を下げた大師は、その農婦に「私は旅をしている者です。この辺りは山が多く、宿屋もありません。すまないが、そのサト芋を恵んではくれませんか」と話し掛けました。ところが、その農婦は「このサト芋は石のように硬いので食ぺられません。水も少ないので……」と、大師(頼みを何となく断わりました。しかし、…………

鎌倉 開基の北条時宗の廟所「円覚寺仏日庵開基廟」

 開基廟は佛日庵御霊屋とも呼ばれ、円覚寺大檀那である北条時宗公・貞時公・高時公を祀っています。 時宗公が亡くなられた後に建立されたようです。
 山号・仏光国師が開堂供養の説法を行っていると一群の白鹿が人びとにまじって聴聞したところからえらばれたと伝え、鹿の出現した洞穴-白鹿洞が仏日庵前に残る。
 現在の開基廟は、江戸時代1811年に改築されたものとされている。 その折、鎌倉仏師の三橋家によって三体の尊像が修理されています。

尾道 2020年3月に閉館された「文学記念室」

 2020年3月 閉館されてしまいました。

 庭付きの木造平屋建、桟瓦葺で数寄屋造りの建物で、東棟・西棟・茶室からなり、いくつかの部屋では当初から茶会ができるように設計されていました。
 1912年~1928年かけて増改築されこの写真のの形となりました。
 福井家の希望により、1998年に市が建物並びに庭園を整備し、文学記念室として公開。 2004年9月10日、旧福井家住宅(尾道市文学記念室)主屋・茶室・土蔵として、国の登録有形文化財に登録されました。

海老名 奈良・平安の昔、相模国を守護「有鹿神社」

 市内でも大型の一間社流造の建築です。内部は前後2室に分かれ、前室は正面扉口のほかに両側面にも一本引きの建具を入れることや、向拝の造りなど特徴がある珍しい造りです。また、肘木は鋭い錆を持つ絵様肘木で、社殿に独特の印象を与えています。
 建立年代は、虹梁の絵様等の意匠から18世紀中頃と考えられています。
 大住郡坪之内村の絵師近藤如水(藤原隆秀)が描いたものです。
 如水が諸国遍歴から坪之内村に帰ってきた後の嘉永2年(1849)頃の作と考えられています。
 豪快な筆法と精緻な構図で描かれており、見るものを圧倒する迫力があります。
 有鹿神社付近一帯が遺跡で、発掘調査で弥生時代から中世の遺物や遺構が確認されています。
 出土した平安時代の土師器圷に特殊な文字が墨書されていたことから祭祀が行われていたのではないかと考えられています。
(「自然と歴史のさんぽみち」(海老名市教育委員会発行)より転載)

鎌倉 もと光触寺の鎮守社「十二所神社」

 この神社は昔、熊野十二所権現社といって1278年(弘安元年)には光触寺の境内にありました。1838年(天保9年)に今の土地を寄付する人がおり、当時30戸の村人の協力で神社を移しました。明治になって神仏分離となり、天神七柱、地神五柱の十二柱の神様をまつり、社名を十二所神社と改め、今日に至っています。
 社殿に向かって右手に小さい社が三つ、山の神社・ほうそう神社・宇佐八幡社(うさはちまんしゃ)と並んでいます。鳥居の右に百貫石といわれる石が置かれ、その右奥に神楽(かぐら)殿があります。百貫石は、実際には28貫(約112kg)あり、以前は、祭のときにこれを持ち上げたり、かついだりして自慢した人もいたそうですが、今はためす人もいません。また、左側には地主(じぬし)神をまつる社もあります。
 鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より

尾道 魔除けの神猿さんが「山脇神社」

 祭神は大山津美之神(おおやまつみのかみ)山の神とも云う、神仏混淆の影響でむしろ山王大権現として親しまれています。また、かっては榎の大樹があり、榎神社とも称されました。
 祭日は、祭神が猿を神使いとするとこらから、旧暦四月の中の日であったのですが、戦後しばらくして、その日に近い五月半端の土曜日を当てるようになりました。現存する最古の記録は、棟札に見える「享保十三年」(1728年)の墨痕があります。
 興味深いのは、狛犬に変えて猿の石像、そして、拝殿の四隅(稚児棟)にも、それが見えます(現在は正面の二ヶ所)。最近、更に、備前焼の猿像の寄進が加わり、また、猿の絵馬がかかるようになり、まるで猿づくしの気配なのですが、先述の如く、この祭神が猿を従使とする特色を持ったことからきた庶民の機知の反映でもあるのでしょう。

厚木 武田信玄に焼かれたことがある「妻田薬師院」

 睦合地区妻田の北端に、楠を交えた森があります。小字を白根(しらね)といい、ここに薬師堂が建てられています。この薬師堂は、遍照院東光寺の境内にあり、古くから目の病に効く薬師堂として、妻田地区など近郊の人たちの信仰を集め、今でも秋祭りを始め、年の暮れや正月には、大勢の参拝客でにぎわっています。この薬師堂がいつ頃建立されたのかはっきりしませんが、一説によると奈良時代ではないかと言われています。江戸時代に書かれた「妻田薬師縁起」によりますと、伝説と史実を織り交ぜる面白い話が数多く残っています。

鎌倉 関東大震災の津波がここまで来た「延命寺」

 下馬一交差点の近くにある浄土宗寺院。山号は帰命山。
 もと安養院末。開山は専蓮社昌誉能公。寺史は不明。鎌倉幕府の第五代執権で名執権とうたわれた北条時頼の夫人により創建されたと伝えられている。北条時頼の夫人の念持仏と伝える身代地蔵(裸地蔵)が有名で、江戸へ出開帳したこともある。
 なお、赤穂浪士の岡島八十右衛門の三男が住持したと伝え、義士の画像もあったというが、いまはない。
[文献]『市史』社寺編

尾道 生口島の耕三寺「未来心の丘」

 未来心(みらいしん)の丘。
  
 境内北方に位置する。瀬戸田の町と瀬戸内海を見渡せるイタリア産大理石を用いた環境芸術。彫刻家杭谷一東の作。
 制作にあたって、「金は出すが、口は出さない。」と言って制作を依頼したとか。イタリアで制作し、ここで組み立て、調整した。
 仏教護法の十二天よりテーマが設定されているようです。「十二天」とは、古代インドの聖典ヴェーダに登場していた神々が仏教に取り入れられ、十二天となりました。
 中国では唐代に成立し、日本には平安時代前期に持ち込まれたそうです。
 東西南北などの八方位に、天・地と、さらに昼・夜が加わって、十二天のかたちができあがりました。密教では曼荼羅(まんだら)に描かれ、主要な地位を占めています。

相模原西部 一遍が草庵を設けたのが始まり「無量光寺」

 1261年 23歳の一遍はこの地を訪れ、草庵を設けたのが始まり。その後上人は2度この地を訪れた。その高弟である他阿真教が1303年2月に遊行を終えて止住するために念仏道場を開いたのが起源であろう。1319年に真教が亡くなると、初期時衆教団の聖地となり、参詣者が引きも切らなかったことが他阿呑海の法語に遺っている。
 鎌倉幕府が滅亡したとき、鎌倉幕府からの帰依を受けた無量光寺は一時衰退した。
 戦国時代に無量光寺は歴代小田原北条氏の保護を受け、南関東を中心に勢力を誇った。しかし1590年に小田原北条氏が滅亡し、たび重なる火災のために、再び不振となった。

福山 鞆 朝鮮通信使の常宿でもあった「南禅坊」

 天正年間(1573~1591年)に創建したと伝えられる。
  元々、福禅寺下にあったが、江戸中期(正徳年間・1711~1715年頃)に現在地に移転する。 寺院調査の中で、「梵鐘一件記録」が発見され、鐘の供出を巡る経過を詳しく記した史料として貴重である。かって、その鐘があった鐘楼門(山門)は現存する。
 江戸時代を通して、朝鮮通信使の常宿でもあった。 朝鮮通信使とは、李氏朝鮮が1404年から日本に派遣した外交使節で、豊臣秀吉による朝鮮侵攻のあと途絶えていたが、1607年から再開された。
 江戸時代には、1811年まで12回、朝鮮通信使が日本を訪れている。その中心のメンバーは外交担当の役人や武官だが、さまざまな随行員も含めると、毎回なんと約400人もいた。
 朝鮮通信使は、対馬や壱岐から瀬戸内海を通って大坂・京に入り、名古屋を経由して東海道を行進して江戸に到達した。朝鮮通信使の一団は、日本ではめずらしい服装で朝鮮の音楽を奏でながらパレードした。当時の日本の庶民は、毎回わざわざ見物に集まり、江戸の町ではこの異国人の一団を描いた絵や書物が飛ぶように売れたといいいます。

鎌倉 季節の花木や野草が咲き乱れる「収玄寺」

 1271年 日蓮聖人の龍口法難の際、日蓮と共に殉死の覚悟を決した第二代執権義時の孫、江間光時の家臣の四条金吾の屋敷跡に金吾の滅後、捨身護法・法華色読の霊地として建立。

 創立当初は収玄庵と称したが大正末期の本堂改築を機に収玄寺と改称した。
 四条金吾は医術にも造詣が深く鎌倉、佐渡、身延にと終始日蓮聖人に給仕し法華信者の鑑として大聖人より厚い信頼を受けた。