鎌倉 石仏補陀落迦観自在窟 「円覚寺 大方丈」

 円覚寺は禅寺として知られ、鎌倉五山第二位の寺格を持っていた名刹です。執権・北条時宗が創建。正式な名称は、瑞鹿山円覚興聖禅寺。
 開山は、宋僧の無学祖元です。
 蒙古襲来で有名な文永・弘安の役では、唐軍にも鎌倉方にも多くの死者が出ました。
 北条時宗がそれら武将たちの菩提を弔うためと、鎮護国家を祈願して弘安五年(1282)に、この円覚寺で開堂供養が行われたのでした。
 開山の無学祖元には逸話が残っています。
 蒙古の元軍が乱入し、祖元の首筋に元軍の兵が白刃を当てたが、それに動じず、逆に説法したといいます。

相模原 西部 鎌倉幕府や北条氏の保護が「無量光寺」

 1261年 23歳の一遍はこの地を訪れ、草庵を設けたのが始まり。その後上人は2度この地を訪れた。その高弟である他阿真教が1303年2月に遊行を終えて止住するために念仏道場を開いたのが起源であろう。1319年に真教が亡くなると、初期時衆教団の聖地となり、参詣者が引きも切らなかったことが他阿呑海の法語に遺っている。
 鎌倉幕府が滅亡したとき、鎌倉幕府からの帰依を受けた無量光寺は一時衰退した。
 戦国時代に無量光寺は歴代小田原北条氏の保護を受け、南関東を中心に勢力を誇った。しかし1590年に小田原北条氏が滅亡し、たび重なる火災のために、再び不振となった。

プラスに考える知恵の言葉 …… 一遍
「身を捨つる人はまことに捨つるかは捨てぬ人こそ捨つるなりけれ」
 一遍は、伊予国の豪族・河野通広の子。河野氏といえば、瀬戸内海の水軍を率いた有力な武士である。しかし、承久の乱で京方について没落し、一遍が生まれたころは、かつての力を失っていた。

尾道 夕方“鐘の音”が市街に響く「千光寺」

 見晴らしの良いところです。“観光のお寺さん”ですね。毎日夕方に撞く“鐘の音”が旧市街に響きます。

 寺伝によれば806年に空海(弘法大師)によって創建され、源満仲(多田満仲)によって再興されたというが確証はなく、中世以前の寺歴は判然としません。

 興趣千変万化、奇岩、奇勝など四季を通じて自然の神秘を探賞できます。

鎌倉 北鎌倉駅方面の街並みが良く見える「八雲神社」

 元村社で山ノ内の鎮守である。祭神は素戔嗚尊(すさのおのみこと)。例祭7月15日。境内社に稲荷社がある。小高い丘から見下ろすと北鎌倉駅方面の街並みが良く見える。古くは牛頭天王を祀ったため牛頭天王社と称していた。「相模風土記」に記すことによると、村人がこの地で疫病退散のために京都八坂祇園社を勧進したのが始まりだという。その後、この地に居を構えた関東管領上杉憲房が篤く信仰した。一方、社伝によると文明年間(1469~1486)に上杉家が扇ガ谷と山ノ内に分かれて争ったとき、山ノ内上杉家の憲房が武運長久を祈って、京都の八坂神社から勧進したという。
 境内裏側には庚申塔群がある。この中には寛文5年(1665)の銘のある石造庚申塔が存在する。これは鎌倉市内最大最古。
 また境内には清明石なるものがある。昔は十王堂橋を渡った道路の真ん中にあったらしい。この石をわざと汚したり、踏みつけたりすると祟りがあるという。しかし、この石を知らずに踏むと足が丈夫になり、足を痛めた人は石を清水で洗い、塩や線香をあげて拝むと治るとも言われたという。

厚木 樹齢約600年の御神木イチョウ「荻野神社」

 当社は 旧荻野村の中央に位置し祭神は 大己貴命、配祀は素戔嗚尊。
 創立年は不詳 1687年再興し自然石をご神体とし牛頭天王を合祀し石神大明神と称した。1870年に荻野神社と改称された。
 1591年 徳川家康より社領に三石の朱印を附せられ1873年に郷社に指定された。
 境内は約七百坪で御神木の大公孫樹を中心に構成する一大高森は荻野郷総鎮守に相応しい様相を呈している。
 本殿は1687年に建てられたもの。市内最古で最大規模。境内の御神木の銀杏は樹齢600年と推定されている。境内社には、有賀神社、豊受神社、春日神社、日神社、八幡神社、菅原神社、ほかがある。

尾道 五重塔から三重塔へ「天寧寺 三重塔」

 天寧寺は室町二代将軍足利義詮(よしあきら)が父の足利尊氏の菩提を弔うため、 夢窓疎石に命じて建立させた。
 天寧寺三重塔は、1388年に建立された五重塔(当時は高さが35m前後ではないかと考えられるとか)を、1692年に傷みの激しい上二重を取り払って三重に改造したものです。このため三重塔にしては、全体に上からかぶさっているような重苦しい感じがしています。
 この塔は、海雲塔とも呼ばれ、高さ25m、足利時代をしのぶ貴重な建築物として国の重要文化財に指定されています。
 足利尊氏も織田信長も、「この世は幻のようなもの」といっています。そうはいいながらも、尊氏も信長も懸命に戦って人生を駆け抜けた人です。

鎌倉 洞窟の壁に磨崖仏「長谷寺」

 弘法大師参籠の地といわれる「弁天窟」があります。このあたりでは磨崖仏があまりありません。石の材質のためなのでしょうか?
 ここは洞窟の中なので、風雨にさらされることが無く、そのため洞窟内に掘られたのでしょう。
 長谷寺は山号を海光山(かいこうざん)といいます。その由来は、流れ着いた観音像が海中で光を放っていたからともいいますが、海が見える所にある寺なのでそういったのかもしれません。
 「長谷観音」とか、ただ「観音堂」の名で親しまれてきた長谷寺。「アジサイ寺」として知られています。正式には海光山慈照院(かいこうざんじしょういん)長谷寺と号し、浄土宗系の単立寺院です。

福山 「鞆の大仏」とも阿彌陀如来坐像「阿弥陀寺」

 木造阿彌陀如来坐像(鞆の大仏) 光背までの高さ約4m 。元禄16年(1703)に作られた丈六の大仏。
 造像を発願した中興・雲洞上人は、多くの人々を救いたいと願っていたところ、現に阿弥陀さまが現れ、その姿をもとに仏師に願いこの像を作ったといいます。

相模原南 北条氏照の娘貞心尼が中興開基「天應院」

 戦国時代に八王子を中心とした大石定久公(八王子滝山城主)の統治により、心源院、天應院等が季雲永嶽大和尚を開山にして、明応4年に建立されたと考えられます。
 虚空蔵菩薩を本尊とし、9石7斗の御朱印を賜り、5世太蔭師の時代、北条氏照の娘貞心尼を中興開基として、明応4年(1495)に当地に中興開山したと伝えられます。
 徳川家光の養育役であった青山忠俊により再中興されています。明治時代には、当地に麻溝小学校の前身にあたる下溝学校を開校、また下溝の松原集落にあった薬師堂を当地に移転、この薬師は関東九十一薬師霊場19番です。
 また、本堂、客殿、庫裡の新築が平成23年4月に終了し、落慶式を迎えました。

鎌倉 円覚寺の塔頭の中でも最も古い「白雲庵」

 正和年間(1312~16)に退居寮として開創。 禅師は曹洞宗を修めた中国元の高僧で、1309年、時の執権北条貞時の招きで来日し、1310年円覚寺第10世となり、暦応3年当寺にて遷化するまで、建長寺(18世)、寿福寺などの住職を務めた。江戸時代前期には40の塔頭があった。 現在は18寺の塔頭があり、そのうち住職のおられるところは13寺。 白雲庵はその中で最も古い塔頭である。

尾道市「向島(むかいしま)一周自転車旅」

 尾道水道(海)を渡り自転車、向島を一周します。約20kmちょっとくらいでしょうか。
 現在は「しまなみ海道」を自転車で渡ることが一般的になっていますが、向島を一周するのも、なかなか良いものです。
 四季の移り変わりもいいですよ。特に島の南側(本土の反対側)は、波打ち側をのんびりと過ごすには最適です。
 しまなみ海道側は、向島の西側の一部を抜けますが、そこものんびりとできますが、それよりももっとのんびりできます。
 体力を試すには、歩くのもよいのですが(高校3年生のときは学校行事で歩きましたが)、これはのんびりとは過ごせません。
 「瀬戸内」の、のんびりとした雰囲気を味わうことができます!

厚木 高遠藩の石工達が出稼ぎで石仏を「広沢寺」

 曹洞宗に属し薬師如来を本尊とし、創立は後花園天皇の時代、相州足柄上郡の最乗寺了庵彗明禅師が開山しました。
 禅師は、当時七沢城主であった上杉定正と親交が深く、寺内には領地の一部を寄附してもらった上杉定正夫婦の遺骨が埋葬されています。
 厚木の七沢から、清川村の煤ヶ谷および伊勢原の日向にかけては石造物に適した石を産する石山があったが、石を切出して細工する石工がいなかったために手付かずのままであった。その石山を開発したのが信州高遠の石工たちで、それが明治以降の石材業発展の礎となった。
、高遠の地は田畑が少なかっただめに農家の次、三男が働くほどの農作業の仕事がなかった。
 高遠藩はその対策として、元禄の初め頃に石工や木地師その他の職人になることを奨励した、それは、職人の中でも手間賃は石工が最も高かったので石工になる者が多かったといわれている。
 しかし高遠の領内だけでは仕事の量が限られているため、藩では石工の他国への出稼ぎを許した。それにより、信州の他にも甲斐・相模・武蔵・駿河・上野などの各地に石工が集団をつくって出稼ぎに出かけるようになった。但し、藩は村役人に外に出る石工の管理を厳重にさせ、また石工の稼ぎ高に応じた運上金(租税)を課したのであった。

鎌倉 新田義貞が北条方の戦死者を弔う「九品寺」

 開基は、新田義貞と伝えられています。1333年(元弘3年)新田義貞軍が北条氏を討つため鎌倉攻めをしたとき、この場所に本陣をかまえたということです。北条氏が滅びたあと、義貞は北条方の戦死者の霊を慰めるため、1336年(延元元年)この地に九品寺を建て、義貞が日ごろから尊敬していた風航順西(ふうこうじゅんさい)和尚(おしょう)を京都から招いて開山とし、戦死者の霊を厚く弔ったといいます。
 山門と本堂にそれぞれ掲げられている額の「内裏山」と「九品寺」の文字は、新田義貞が書いた字の写しと伝えられています。もとになった額は、傷みがひどいため本堂に保存されています。

 鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より

尾道 昔はここに魚市場があった「尾道駅前桟橋」

 島に行く船が出ています。
 前の島(向島(むかいしま))への渡しの乗り場が、一番東に独立してあります。
 「尾道~因島~生口島」方面、「尾道~百島~常石」方面の船が出ています。他に、春から秋までですが、「尾道~鞆の浦」への船が、土日に運航しています。
 この辺りの海は、干満の差が3m前後あり、海岸の景色も変化します。海底までの深さも変わりますし、隠れていた岩が水面に顔を出します。また、潮の流れも早いのです。 前に向島があるので、風の影響は少なくて済みます。
 1957年4月、瀬戸田港から尾道港に行く第五北川丸の海難事故がありました。岩礁に乗り上げ沈没、旅客112人及び乗組員1人が死亡。定員は旅客77人、乗っていた旅客は訳230人、約3倍の乗客を乗せていました。
 その頃、夏の海水浴場へ行く客船は、船の周囲が通路になっており、海水が足首まで来るくらい乗客を乗せていました。

鎌倉 菅原道真の怨霊を鎮めめる「荏柄天神社」

 菅原道真を祀る天神社は、学問・武芸に関わる神として信仰を集めましたが、鎌倉では武家の誓約や武家政権を守る神社とされました。

 人殺しの歴史、それが世界史です。世界史の正体とは"ユーラシア大陸での殺し合いの歴史"です。
 そんな世界史を1100年以上も前に拒否した国がありました。わが日本です。決断を下したのは菅原道真という人でした。
 菅原道真が大陸との交わりを断つという決心をしてくれたおかげだったのです。
 それから幕末のペリー来航あたりまで、野蛮な世界史に関わらなくて済んだのは、菅原道真が大陸との交わりを断つという決心をしてくれたおかげだったのです。

福山 鞆 新羅へ出兵の淀媛命を祀る「淀媛神社」

 この神社の祭神は淀姫命(よどひめのみこと)。弥生時代に三韓征伐(新羅(しらぎ)に遠征して征服、さらに百済(くだら)と高句麗(こうくり)を征服)を行った神功(じんぐう)皇后の妹君で、はじめは、海神・大綿津見命(おおわたつみのみこと)を祀った沼名前神社(渡守神社)の祭主を務める身でした。
 しかし、後世、その徳が偲ばれて氏神として奉斎され、鞆湾の入口を守護する守り神となりました。
 以降、この高台に鎮座し続け、現在に至っています。
 現在の社殿は大正3年に建立されたもので、平成13年に修復されています。
 神功皇后が三韓征伐のため西国下向の際、鞆の浦の地に寄泊しました。
 帰路携帯していた「鞆」を奉納し、海神・大綿津見命を祀った際に、妹君の淀媛命を祭主として奉任させました。その神社が沼名前神社(渡守神社)の起源です。
 数年後に淀姫命は鞆の浦を去りましたが、後世その特を偲び氏神として奉斎し、鞆の浦湾の入口の丘の上に鎮座する護り神として現在に至ります。

座間 野火が延焼して焼失、現在の地へ「星谷寺」

 星の谷観音堂が坂東八番の札所になったの源頼朝在世中のことと思われます。
 この頃は今でも本堂山と呼ばれている400mほど北東の丘の中腹にあったと伝えられていますが、いつの時代か、相模野の野火が延焼して焼失、現在の地へ移ったといわれています。
 戦国時代には北條氏の保護を受け、小田原から府中へ人至る街道上の宿泊所としても利用されましたが、徳川氏はあまり重要視せず、朱印地(非課税の領地)も三石しか与えませんでしたが、正保国図(元年・1644年)などには北相模で唯一(随一)の社寺として観音堂が書かれており、民衆の間には相当重視されていたものと思われます。
 江戸時代に入り、天下が太平になると、民衆の間にも百ヵ所観音、あるいは、坂東三十三ヶ所参りが流行しました。市内で最古の百ヵ所参りの記念物は、星の谷観音堂にある貞四年(1687年)の額です。

鎌倉 望みが絶たれた徳川忠長を供養「薬王寺」

 この地にはもとは真言宗梅嶺山夜光寺があったとされているが、日像が由比ガ浜でお経を百日間読誦する修行を行った際、寺が荒廃しているのを見て真言宗の住職と数日間宗教論争した末日蓮宗に改宗したと言われている。

 徳川忠長公供養塔の存在により、徳川・蒲生家ゆかりの寺として寺紋に三葉葵が用いられていた為、一般住民の埋骨を許さない格式由緒ある寺であった、と。

尾道 国宝の寺、江戸時代、伝書鳩と米相場 「浄土寺」

 聖徳太子が創建したと伝えられる。多くの文化財をがあり“寺の町尾道”の中でも由緒ある寺院として、訪れる人も多く、境内にハトがたくさんいます。ハトのえさを持っていると腕や手に飛んできます。
 足利尊氏が九州平定や湊川の戦の際、戦勝祈願をした寺としても有名です。
 「本堂」「多宝塔」は国宝、「山門」「阿弥陀堂」は国重文、境内一帯は国指定文化財に指定されています。
 裏の竹林には伏見城から移築したといわれる茶室 「露滴庵(国重文)」が寂然と建っています。
 ここの多宝塔(二重の塔)は日本の三大多宝塔の一つとされています。また、裏庭には茶室があり、わびさびの世界を漂わせています。
 爰にハトがいる理由は、江戸時代、幕府が禁止していた伝書鳩を使って、大阪の米相場の情報を撮っていたからです。お寺を維持していくビジネス(?)感覚は大事ですね!

厚木 天台宗の鎮守 山王権現を祀る「知恩寺」

 江戸時代には、智恩寺境内にあった山王社にまつられていた懸仏(かけぼとけ)が、現在では本堂の中に保存されています。
 山王権現とは、日吉神社・日枝神社の祭神であり、権現とは仏・菩薩が化身してわが国の神として現れることを意味しています。また懸仏は銅などの円板上に、仏像・神像を半肉彫りにあらわし、柱や壁などにかけて礼拝したもので、特に鎌倉時代から室町時代にかけての資料が多く見られます。
 智恩寺の懸仏は、中央の仏像を、左右に配された猿が拝む形式であり、刻まれている銘文から寛永13年(1636)に荻野の鋳物師である森久左衛門重久が鋳造したことが分かります。
 戦国時代から明治初期に至る間、下荻野は鋳物師集団の活動の地として知られていましたが、この懸仏は江戸時代初期の鋳物師である森氏の作例として貴重です。