厚木 美女神の木花咲耶姫命を祀る「子安神社」

 子安神社の創立は不詳でありますが、古社調査事項取調書(明治二十九年(1896)によれば文明十八年(1486)以前の創立であります。
 祭神は木花咲耶姫命が祀られておりますが、配祀祭神として豊宇気命と須佐之男命が祀られております。
 古社調査書によれば、境内地には稲荷神社があり祭神は宇加之魂命が祀られておりました。
 明治七年(1874)には八雲神社と神明神社が子安神社に合祀され、同年本殿が再建されました。幣殿は明治十一年(1878)に、神楽殿は明治十五年(1882)に、拝殿は昭和四十五年(1970)にそれぞれ再建されました。
 祭神木花咲耶姫命は古来から子宝・安産の命として崇められ、人々の信仰も厚く、天正十九年(1591)には神領壱石の御朱印を賜りました。

流れ星に三回願いごとが言えたら、これが大切!

 流れ星は予測がつかないもの、その予測がつかない状態で、自分の夢を三回も叫ぶことができる。
 これは、日ごろから成し遂げたい夢が、明確になっており、しかも、誰にいっても恥ずかしくない夢でないと、自ら星に向かって叫ぶことは出来ません。
 ですから、その夢が叶う可能性が高いのです。人からも応援してもらえるでしょう!

愛川 八菅山修験の第五番目の行所「塩川の滝」

 塩竈の滝は、八菅山修験の第五番目の行所であり、同修験は、熊野修験の系列に属したことがあったので、滝修行は熊野の行事に準じていたことが察せられる。これによると滝そのものに神性をみとめ、滝が御神体であり、本尊であり本地仏であった。この社は、大日孁尊(おおひるめのみこと)となっているが、系列を同じうする熊野那智の滝における滝神社は、祭神を大己貴尊(おおなむじのみこと)(大国主命(おおくにぬしのみこと))とし、本地仏に千手観音を祀っており、神仏習合のすがたを整えていた。そして「滝篭り」による厳重な修行が行われていた。(案内板より:愛川町商工観光課)

自己の成長を毎日楽しみに生きていく!

 誰でも、自分をよく見せたいと思うのは当たり前ですが、むかしは「自慢話」をすることで、なんとか自分の存在を、自分で、あるいは他人が認めることが出来ました。
 しかし、今の若者の自殺を見ると、自慢話でなんとか自殺から切り抜ける方法を持っていないようです。もちろん自殺から気に抜ける方法は、そればかりではありません。
 ネットなどの情報社会になり、自慢話も否定されることが多くなったのでしょう。それが原因で、自分の自慢話では、切り抜けられなくなったのでしょうね。
 情報が飛び交う社会では、コンプレックスを和らげる方法は難なのでしょうか? AIが切り抜けることに貢献してくれると良いのですが!

鎌倉 吾妻鏡にも載っている「岩窟不動尊(窟不動)」

 窟堂(いわやどう)(岩窟不堂(がんくつふどう))は1184年(文治4年)からあり、今も奥の岩屋に不動明王がまつられています。窟小路(いわやこうじ)の道の名はこれによります。

 不動明王像は、仏像の中にはたいへん恐ろしい顔をしています。右手に剣を持ち、左手に羂索(けんさく)(縄)を持っています。その剣で煩悩(ぼんのう)を断ち切り、羂索で煩悩を縛り、人々を救う、ということです。

ボランティアは、会社を離れても続けられる!

 歳を取ってもボランティアを続けている人は、元気ですね。被害にあった人達の状況に応じ、頭を使い、体を使い、やったことのないことでも取り組まなければなりません。
 また、人の邪魔になると思われないように頑張ります。それが良いのでしょうね。
 歳を取っても社会に貢献できるよう頑張りたいですね。
 その方法の一つとして、若い頃からボランティアを続けることも一つの選択ですね!

尾道 天保の大飢饉の慈善事業で本堂を建築「慈観寺」

 本堂は、天保の大飢聾の際に、慧善事業とし豪商橋本竹下(ちっか)が出資して建築されたもの。入母屋造、本瓦葺(平瓦と丸瓦を交互に使う)の二重屋根を持ち、虹梁や蟇股(かえるまた:柱や屋根の重さを支える部材)には忙ぎやかな彫刻が施されている。

 江戸時代、天保の大飢饉の際、尾道地方にも困窮の難民が多く出たが、当時の町年寄橋本・竹下は、その救済事業として本堂の改築を発願し、1834年工を起し1837年竣工したのが現在の本堂である。竹下はこの工事に難民を人夫として雇用し、尾道では一人の餓死者も出さなかった。

 (参考:天明を挟んだ江戸時代の人口は、1780年2601万人→1792年2489万人 △112万人もの人口が減少したとも。)

健康を保つ方法、ウォーキングは気軽に実践できる!

 9月中旬になり、散歩もできるようになってきました。しかし、まだ暑い日もあるようですが、気をつけましょう。
 健康を保つためウォーキングは続けたいですね。
 最近は両手にストックを持って歩くスタイルを見ますが、住んでいる場所によって歩き方は少し違うようです。
 坂道が多く、車が使えない場所に住んでいる人は、腹あたりの筋肉を使い足を前に出しているようです。急な坂道で、足を前に出すとき、腹あたりの筋肉を使っているのでしょう。
 むかしの道は峠道が多く、腹あたりの筋肉を多く使っていたのでしょうか。
 この歩き方をすると、疲れても歩き続けられます。車が使えない社会で身につけた歩き方なのでしょうね!

厚木 水の神と農耕の神「大釜大弁財天尊」

 広沢寺温泉入口の駐車場より1km程行った所に大釜弁財天があります。3m余りの巨石が2つ、掌を合わせたように並んでおり、奥行4mの内部には七沢石で造った蛇の宇賀神(文政5年銘、とぐろを巻いた形)と高さ60cmのほこらの中にはいった弁天様が祭られています。
 大釜弁財天では、かつて日照りが続いた時、村中はもとより近郷近在の農家の人々が相寄り、お坊さんを頼み、大釜の内部に入ってお経をあげてもらった後、お坊さんが出てくるところを人々がバケツや手桶で水を掛けたり、滝壷の水をかい出したりするとともに、雨を降らせる一心から宇賀神を怒らせる素朴な願いで身に付けている六尺揮(ふんどし)をはずし、その褌で蛇を洗って雨乞いが行われていました。

脳は120歳まで生きる力を持っている!

 あきらめが早すぎると、年を取ったときに新しいことに取り組みができません。ということは、脳の機能は、現状維持か、退化していくだけです。
 年齢を重ねても、新しいことに取り組めるだけの粘り強さは大事ですね。
 鍛え続ければ、脳は120歳まで生きる力を持っているとのこと、それまでは、どんどん新しいことに取り組める下地は持ち続けていたいですね。
 頑張りましょう!

鎌倉 文殊菩薩伝説がある「勧行寺」

 勧行寺(かんぎょうじ)は、神奈川県鎌倉市腰越にある日蓮宗の寺院。山号は龍口山。旧本山は玉沢妙法華寺。潮師法縁。龍口寺輪番八ヶ寺の一つ。
 1303年(嘉元元年)、但馬阿闍梨日実が創建。
 1683年(天和3年)、火災で伽藍を焼失する。その後復興する。
 1791年(寛政3年)、暴風雨で被害を受ける。その後復興する。
 1923年(大正12年)、関東大震災で被害を受ける。その後復興する。
 境内の右手には本堂があります。開山は日実(にちじつ)で、1303年(嘉元元年)に創建されたと伝えられます。本尊は三宝本尊で、室町時代のものとみられる立派な日上人像とともにまっられています。また、右手に宝剣、左手に経巻を持つ丈嫌菩薩もまつられています。
(鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より)

中近東の商人は交渉上手!

 暮らしている環境で、人の暮らし方もかなり違います。いわゆる風土の違いです、
 大陸で暮らしている人は、自分達が暮らしやすい土地を求め、移動していきました。
 そして、その社会が受け入れてくれる範囲で、暮らし方を工夫してきました。
 中国や朝鮮のように、自分の考え方より、その部族のリーダーの考え方で行動するという風土もあります。
 また、むかしは陸続きの場合、交易が中心の地域もありました。いろいろな風土の人達と触れ合う中で生きていくための風土が出来ていきました!

尾道 京からお連れした仁王さん「西国寺山門」

 今から三百年以上も前のこと、西国寺ではこの近辺の寺にはないような大きな仁王門を建てました。院家さんや檀家の人たちは、由緒ある西国寺にふさわしい立派な仁王さんをお迎えしようと、四方八方手を尽くして探しておりました。
 そんなところへ、京都に有名な仏師が彫った素晴らしい仁王さんがあるという話が伝えられ、院家さんはさっそく京へ上りました。
 道を訪ねながら探し当てた店の前にデンと構えた仁王さんの出来栄えの見事なこと。院家さんは大そうのお気に入りで、たくさんの大判、小判を出してそれを譲ってもらいました。
 仁王さんがあまり大きいので、陸路尾道へお連れすることはできそうもありません。船で淀川を下り、京から大阪へ、そして海路尾道まで運ぶことにしました。院家さんが船で待っていると、店の主人が仁王さんをお連れしてきました。見ると、さっき店で買った仁王さんと違って、ひどく出来の悪いものでした。(続く)

一ヶ月分の雨が一日で降るというような豪雨!

 最近、集中豪雨がよく発生します。大昔、国境がない時代の大陸では、より住みやすい地区に移動していたのでしょうね。
 その影響がロシアには残っているのでしょうか?
 日本は、島国で山が多く簡単には移動できません。いま住んでいる場所で、環境の変化に対応せざるを得ません。
 その結果、歴史を大事にし、いろいろと工夫して生活せざるを得なかったのでしょうか?

福山 鞆 創建から五回も焼けた「静観寺」

 創建は806(大同元)年、最澄によると伝えられています。当時は、7000坪の大敷地に七堂伽藍が建ち並んで、五重塔も天を衝き、たいへんに栄えていたといいます。
 のちの小松寺が境内に建立されことからも静観寺がいかに大寺院であったかを示しています。
 しかし、相次ぐ戦乱や火災によって、創建から千二百年の間に五回も焼けています。多くの文化財は焼失してしまいました。残念ながら現在では往時の栄華を物語るものは残されていません。

 それでも、この「静観寺」はしっかりと命脈を保ち、今でも、鞆一番の古刹として人びとに愛され続けているのです。時が止まったような、ほっと落ち着けるお寺さんです。

自惚れ屋と恩知らずは、かならず落ちていく!

 自分を高めたいという思い、そして、自分に自信がついてきたと思い始めると、自尊心が強いと自惚れてしまうことがあります。
 それを抑えるため「謙虚」という言葉が生まれたのでしょうか?
 社会の中でうまく暮らして行くには、いくら自分に自信があっても、「謙虚」で生きていかなければ、自惚れ屋として見られてしまいます。
 なかには、自信がないのに自惚れ屋でいる人もいますが!

鎌倉 北条氏の氏寺であった「浄光明寺」

 北条氏六代執権・北条長時が1251年に創建して、浄土(諸行本願義)、真言、華厳、律の四宗兼学の寺として、開山に真阿(真聖国師)を迎えた。真聖国師は法然からつづく善導大師本願の弟子であったので、創建当時は浄土宗の寺でした。(現在は京都泉涌寺に属する真言宗の寺である。)

 1335年、一時足利尊氏がこの寺に引き篭り、後醍醐天皇に対し挙兵する決意を固めたという。尊氏、直義兄弟の帰依は厚く、尊氏による寺領寄進、直義による仏舎利の寄進などが行われたことを書いた古文書が残っています。

「よし、任せておけ」と動いてくれる人、いますか?

 自分ですべてやろうとする人、大事な仕事とでも人に任せられる人、違いはどこにあるのでそうか。
 自分の出来ることを正確に把握し、また、任せる人の出来ることを正確に把握できる人なのでしょうか。
 それとも、ただ面倒がる人なのでしょうか。
 子ども時代から、五感が発達した人は、自分が出来ること、出来ないこと、正確に判断できるようです!

厚木 血から生まれた剣の神を祀る「春日神社」

 1415年勧請、1706年再興。

祭神:武甕槌命(たけみかずちのみこと)
相殿:木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)、天児屋命(あめのこやねのみこと)

 富士浅間神社の祭神である木花開耶姫命(このはなさくやひめ)が、火のなかで出産した故事にちなむといわれています。
 炎の中で無事に三人の子供を出産した木花之佐久夜毘売命もかつては安産の神として知られていました。浅間神社の主祭神として祀られているので、安産をお願いすればついでに火伏のご利益も付いてくるはずです。

津波が予想されると「石橋を叩いて渡る」など出来ないよ!

 最近、地震が多発しています。すると津波が派生することがあります。
 海が満潮の時の津波と、干潮の時の津波は、地区によっては被害に差があると思います。
 干満の差が50cm程度の地区と、瀬戸内の中央部のように3m程度ある所では、干潮か満潮かにより津波の被害に差があるのでしょう。津波情報ではどのように伝えられるのでしょうか?