鎌倉 安産の神様とされる産女霊神を祀る「大巧寺」

「おんめさま」(おうめさま)の名で親しまれている安産祈願の寺。

 創建は1320年と伝えられています。

 本尊は安産の神様とされる産女霊神(うぶすめれいじん)。550年前の室町時代、難産のために死んで霊となり人々を苦しめていた女の霊を、当時の住職であった日棟上人が鎮め、安産の神として祀ったことから、安産の神として「おんめ様」の通称で親しまれるようになりました。

 境内にて 季節ごとに多くの種類の花々がさきます。

あまり歩かず脳に伝わる刺激が乏しいと、脳は活発に動かない!

 「歩く」ことが最近話題になっています。舗装された道を歩くのと、山道や川原などの未舗装の道を歩くのと、舗装道路を歩くのでは、脳に対する刺激に違いがあるのでしょうか?
 むかし、大きな川には「渡し」があったのでしょうが、小さな川には無かったので、歩いて渡っていたのでしょう。
 最近、川幅が10mほどの川を、棒(竿)を持って川底をさぐりながら渡っている人を初めて見かけました。むかしの人もこのようにしていたのでしょうか?
 修験者が持っていた金剛杖を思い出しました。これも川を渡るときに使用していたのでしょうね。鈴がついていると熊除けにもなりますね!

厚木 おひな様が飾られている「古民家 岸邸」

 厚木市古民家岸邸として開館されています。古民家岸邸は、郷土に残された貴重な文化遺産として、皆さんに公開しながら長く保存をしていきます、と。
 古民家は、当時の生活を色濃く伝えるものです。生活のスタイルが大きく変化してきた現代では、ますます注目されてきています。随所で見られる、職人が手をかけて作った凝った意匠も一遍ではなく、建築当時の時代の先端的な様式を併せ持ち、家を作った職人の技と、家を守ってきた人々の営みを感じてみてはいかかでしょうか。
 明治時代になってこのあたりで養蚕業を始められた岸家。絹の輸出で立派な建物を建てることが出来ました。このあたりは桑の木がたくさんあったそうです。今ではまったくありませんが。 

朝、白湯を飲むだけでもよいのですが、工夫も必要でしょうね!

 いろいろな健康法の情報が飛び交っています。正解は分かりません。いくら統計的な情報であっても、数字のある部分だけ取り出して、それを裏付けにする、という手法もあります。
 また、医者であっても、中には金儲け中心で薬を出すことも、無いとは言い切れません。
 やっかいですね。
 ウオーキングなどは、それほど心配はありませんが!

尾道 「完璧は災いの元」と石工の祈り「御袖天満宮」

 5mもの1本石が54段、それに、二本継ぎが1段(上から二段目)。
 「坂の町」尾道にとって石段は見なれたものであるが、浅野芸州藩主夫人が寄進した随神門から本殿までの五十五段は石段のなかの石段といえる圧巻。おそらく随神門と前後し享保年中(1716~36)につくられたものであろう。
 長さ5.2m、幅32cm、高さ17cmの見癖な一本物の花崗岩を使い、上から二段目だけは、完壁なものの脆さをこばむ日本的な宗教感覚にもとずいたものであろうか、継ぎ目をつくり完成させたもの。

 大林宣彦監督の映画「転校生」の撮影場所(男の子と女の子が入れ替わる場面)です。

日本の気象は外国と比べて、変化が急で複雑!

 温暖化と言いながら、極端な寒さも起こりました。
 平均気温では温暖なのでしょうが、気温の上下の幅が増えています。その対処を考えなければいけないようですね。
 生物も気温の上下の幅が激しい中で、生きていかなければならないので、今までの捉え方ではダメな場合もあるのでしょうね。
 冬場の熊の出没も何かしら関連があるのでしょうか?
 常識も、変化する時代になってきたのでしょうか?

鎌倉 関東大震災で倒潰、40年後再建「円覚寺 仏殿」

 幕末・維新の混乱で寺領も失い僧侶が坐禅などの修行をする道場である僧堂も閉じられましたが、1875年(明治8年)、今北洪川(いまきたこうせん)により再興され、関東屈指の禅道場として再生しました。

 1893年(明治26年)には、シカゴの万国宗教大会で、円覚寺の管長の洪嶽宗演(こうがくそうえん)(釈(しゃく)宗演)が講演を行い、国際的に禅が知られるようになりました。
 その後、関東大震災で建物のほとんどが倒れましたが、昭和に入って再興(さいこう)されました。

「時間がないから」「忙しいから」やりたいことが出来ない!

 「時間がないから」のとき、自分の生き方の優先順位に沿って行動する、と明確に判断できているでしょうか?
 上司やお客などに怒られることを避けるが、優先してしまうことが多いようです。
 しかし、自分ではなんとなく残念感が残ります。それが不安にまでつながってしまうと大変です。
 そうなる前から不安を膨らませるよりは、なったらなったで仕方ない、と考えたほうが楽になるような気もします。
 そういう生き方のほうが、毎日を楽しく、穏やかに生きられると思うのですが!

福山 鞆 足利尊氏が九州から東上の途中宿陣、軍義した「小松寺」

 寿永二(1183)年、平家福原都落ちの際、病死した重盛の二男・資盛は、一族より離れこの地を訪ね、亡き父の菩提を弔うため五、六日逗留した。平貞能、京より重盛公の遺髪を持参し、五輪塔を建立し盛大なる法会を営む。

 建武二(1335)年、小松寺は盛大となり、草谷(くさのたに)一帯の山麓を占め、伽藍も盛大だった。
 延元元(1336)年二月、足利尊氏が九州から大挙東上の途中、弟直義と当寺に宿陣して軍義した。光厳院の院宣を受け錦旗を掲げ意気衝天した。

あまり歩かず脳に伝わる刺激が乏しいと、脳は活発に動かない!

 「歩く」ことが最近話題になっています。舗装された道を歩くのと、山道や川原などの未舗装の道を歩くのと、舗装道路を歩くのでは、脳に対する刺激に違いがあるのでしょうか?
 むかし、大きな川には「渡し」があったのでしょうが、小さな川には無かったので、歩いて渡っていたのでしょう。
 最近、川幅が10mほどの川を、棒(竿)を持って川底をさぐりながら渡っている人を初めて見かけました。むかしの人もこのようにしていたのでしょうか?
 修験者が持っていた金剛杖を思い出しました。これも川を渡るときに使用していたのでしょうね。鈴がついていると熊除けにもなりますね!

座間 伊勢鈴鹿郷の神輿が流れ着いた「鈴鹿明神社」

 欽明天皇(539年即位)の御代に創祀せられたという。
  伝説によると、伊勢の鈴鹿郷の神社例祭に神輿が海上を渡御した折、にわかの暴風に襲われ、漂流して相模国入海の東峯に漂着した。里人が社を創立してこれを鎮守とし、鈴鹿大明神と崇め奉ったと伝えられている。
 欽明天皇二十八年(567)に、国中が天候不順で五穀が実らず人々が困窮していた。欽明天皇がト部伊吉若日子に天災の原因を占わせると、賀茂の神々の祟りだと分かった。そこで賀茂県主家が四月吉日を選んで馬に鈴をかけ、人は猪頭をつけて駆競をすると天候は回復して五穀は実り、人々も平穏を取り戻したという。このときから、水を司る竜神として、恵みの雨を降らし、また水害をもたらす雷神が注目されました。
 雷神は人びとを恐怖のどん底に突き落とす崇り神の象徴となったのですが、逆に、雷が落ちなければ豊作は望めないという信仰がありました。
 最近、科学的にも雷は稲の実りを良くすると言われています。

プライベートに深入りするな!

 テレビ番組で、ウソについての実験。3歳~6歳位までの子供に対し、ウソをつくかどうか実験した。すると年齢が上がると、ウソをつく確率が上がっていた。
 また、「目はウソをつかない」と思っている人が多いが、これも事実と異なっているそうで、平気で相手を真っ直ぐ見ながら、ウソをついていることもかなりあるとのこと。
 どうも人間は社会で生きていくために、ウソをつく習性を当然としているようです。
 言っている本人も、ウソと自覚しないままウソをついているようです。

鎌倉 腰越 比企高家の屋敷跡に「本龍寺」

 本龍寺(ほんりゅうじ)は、神奈川県鎌倉市にある日蓮宗の寺院。山号は龍口山。本尊は大曼荼羅。霊跡本山比企谷妙本寺の旧末寺(池上土富店法縁)。
 この寺は、日蓮聖人の直弟子である日朗聖人の弟子、朗門九鳳の一人、妙音坊日行聖人を開山とする。比企高家の屋敷跡に建てられたと伝えられ、境内には高家の墓が残る。
 龍口寺輪番八ヶ寺の一つ。慶長6年(1601年)に津村の国人で日蓮宗の信奉篤い島村采女により龍口寺が本格的な寺としての格式を整えられてから、江戸時代までは片瀬腰越八ヶ寺(通称片瀬八ヶ寺)が輪番で維持していた。本龍寺もそれまでは、「与蓮山」と号していたが、「龍口山」と改める。

どう生きていくかを、自分の心で考えて!

 数十年前までは、多くの町は夜はそれほど明るくなく、月や星がよく見えていました。
 夜空を眺めると無心になり、座禅と同じようになることもあるのでしょうか?
 昔の本を読む場合、その当時の環境も体験しておくと、感覚的により深く味わうことが出来るのでしょうね.
 それに自然の中で過ごすことが加わると、もっと深い味わいが出来るのでしょうね!

尾道 四十八夜念仏修行ののち入水往生「信行寺」

 1596~1614年に住職称住がこの草庵で四十八夜念仏修行をしたとき、その満願の暁方、阿弥陀如来の来迎に逢い、結集と共に入水往生したが、その時結集の中の一人は現世に残ってこの庵を相続せよというので、行欣が残ることになり、1603年現在地の下の山陽線路上の辺に移った。
  「浄土宗」は、誰でも悟りに至ることができる教えで、自分の力だけでは無理でも、阿弥陀仏の力を借り、阿弥陀仏が私たちのために用意いただいた極楽で修行するなら、私たちでも悟れるであろう、という教えです。
 では、その阿弥陀仏とはどのような仏かと申しますと、私たちのような修行に堪え得ない普通の者を救おうとして修行を積まれ、仏となられた方です。
 多くの仏の中で、特に阿弥陀仏に依るのは、まさに阿弥陀仏が私たちのような凡夫を救おうとされているからといえます。阿弥陀仏は、どこにいる人にも届く救いの光明を常に発し続けておられます、と。

日本の文化の礎は稲作にある!

 米が高くなっています。米離れが起きなければ良いのですが、稲作は日本の風土の原点にあるので。
 神社やお寺などで「雨乞い」をしますが、農作においては欠かせないものです。その中心が稲作です。
 また、年貢も稲作が基準です。安定した米を生産するには、水の安定供給が必須です。
 西日本では大きな川が少ないため、溜め池が中心ですが、関ヶ原より東(関東)は、大きな川が多いため灌漑施設が重要です。
 溜め池造りに較べ、灌漑施設造りは多くの人が必要です。推論ですが、関ヶ原より東側の武士達が日本の統一が出来たのは、多くの人を統一して動かすノウハウを知っていたからでしょうか?

厚木 その昔、草競馬の催された「長谷寺」

【観音堂】 (重要文化財)

 建久年間(1109~1198)源頼朝公が秋田城介義景に命じ造営を加えしめられた。
 だが、嘉吉二年(一四四二)春一山炎上する処となり、ついで六間半四面の堂宇を再建されたのが堂宇であります。宝形堂で斗棋の組み物や、十二支を素朴な彫りに飾った墓又等によった格調高い建築様式です。内陣には寛文十二年(1672)に旧飯山村の大工西海氏によって造られた厨子が安置され観音堂と共に重要文化財に指定されており、その中に本尊十一面観世音菩薩立像が納められている。

(「長谷寺案内」長谷寺発行より)

日本では昔から「湯治」が行われてきた!

 温泉のブームが始まる前、東日本地区の温泉巡りをしていました。
 温泉紹介の本づくりのため、取材がはじまり、徐々に温泉巡りを止めてしまいました。
 当時、宿泊するところで、夕方と朝方、そして昼間に三ヶ所の別の温泉巡りをしていました。
 出来るだけ無料の温泉巡りをしていたので、山の中が多かったのですが、そんなところまで取材に来るようになっていました。
 温泉は健康に良いのですが、山の中の温泉は気持ちもリフレッシュしますね!

鎌倉 タブの木が枝を広げる「八坂神社」

 八坂大神ともいう。祭神は須佐の素戔嗚尊(すさのおのみこと)、桓武天皇、葛原親王、高望王。つまり、桓武平氏の先祖を祀っています。
 相馬師常がいまの巽神社付近に勧請したもので、かっては相馬天王と称しました。相馬師常は千葉常胤の二男で、頼朝挙兵に参加、平氏との一ノ谷の合戦にも参加、奥州合戦にも加わり、源氏の武将ととして名を高めた人です。
 銭洗弁天は当神社の境内末社であったが、1970年に独立しました。

感情によって同じものが違うものに見える!

 「見る目=感情」で物の見方が変わります。ということは、見る目を広げるには、多彩な感情を持たなければならない、ということになります。
 すると、やはり自然の中で育つことも大事なのでしょうね。日本の四季は多彩な変化をしています。それだけでなく、台風や水害、地震もあります。
 子供の時から、都会で、危険の無い公園で遊んでいたのでは、やはり視野が狭くなってしまうのでは? 心配になります!