「五百羅漢の群像」 500体 + 28体
羅漢は正式には阿羅漢(あらかん)といい、サンスクリット語のアルハンを音写した言葉です。元来インドでは尊敬に値する人という意味で、仏教では、悟りを開いた修行者という意味です。羅漢には釈迦の十大弟子や、釈迦からこの世にとどまり仏法を護るように命じられた十六羅漢、釈迦の入滅後に行われた第一回結集(けつじゅう)(経典の編集会議)で集まった五百羅漢などが含まれます。
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「雨乞い」は農作物の不作を逃れるため、あるいは、豊作を願って行われる行事なのですが、山火事のとき、火が消えるように祈って行うことはないのでしょうか?
そういえば、枯れ草を燃やすとき、水を用意するだけでなく、スコップを用意していますか?
水場が直ぐ横にあれば別ですが、近くにないことが多いです。そんなときに火が広まると、水はすぐ無くなり、水を汲みに行っている間に燃え広がったしまいます。
せめてスコップがあれば、土をかけると火が消えることもあります。
私の経験では、裏山の50m位横上で枯れ葉が燃え広かったとき、父から「スコップも持って行け」といわれ、実際に消すことに成功しました。
山火事になる前でしたら、消化の効果があることもあります!
八菅山の中腹にあり、別名八菅の七社権現とも呼ばれ、日本武尊、国常立尊、伊邪那岐命、金山毘古命、誉田別命、大己貴命、伊邪那美命の七神が祭神として祭られている。
明治維新までは神仏混淆の信仰に支えられてきた聖地で、大山阿夫利神社、日向薬師とともに関東での山岳修験の道場であり、修験道三派のうち聖護院流である。
かって山内には七社権現と別当・光勝寺の伽藍、それを維持する五十余の院・坊があって相模の国峰として盛えていた。
八菅山縁起によると日本武尊が東征のおりにこの山を望み見て、山容が蛇の横わたるに似ているところから「蛇形山」と名付けたという。
また、703年、修験道の開祖役の小角(えんのおずぬ)が入峰し修法を行ったとき、忽然として「池中に八本の菅が生えたことから八菅山の名が起こり、709年には僧行基が入山、ご神体及び本地仏を彫刻し伽藍を建立して勅願所としたという。
しかし、明治の神仏分離令により光勝寺は廃され七社権現は八菅神社と改称、今日にいたっている。
1200年 源頼朝夫人政子が、明庵栄西禅師(緑茶を伝えた人物—茶そのものは奈良時代に伝わっていた。)を開山として建てたもので、鎌倉五山の第三位の寺。
源実朝、北条政子の墓と伝わる五輪塔があります。
明治維新で神仏分離で鶴岡八幡宮(鶴岡八幡宮寺)の仁王門にに祀られていた仁王様が移築されています。
開山(初代住職)の栄西は、二度の入唐(28歳と47歳)をへて、日本に臨済宗を伝えましたが、比叡山延暦寺の官層(公務員の僧)たちの反感をかい、活躍の場を鎌倉に求め、寿福寺建立の許可を得ました。その後、鎌倉幕府の後援を受けて建仁寺(京都市)を建立しました。当時は、鎌倉で勢力を得て、京都へUターンする事例も多かったのです。
山門前には高い樹木があり、ふと石に腰をおろし、一息つきたいような雰囲気があります。
松石寺の歴史は古く、寺に伝わる縁起によれば平安時代初期の大同年間(806~809)に、後に弘法大師と呼ばれた空海が33歳の時にこの地に来て、起立華厳経の経文の一文字ずつ小石に書き写した。その小石を国家鎮護の為として裏山の頂にあった盤石に収め、この地に一宇を開いたのがこの寺の始まりという。
その後は「華厳山乗碩寺」と号し律宗の寺院として続いていたが次第に衰微していき、鎌倉時代に入ると荒廃していた。南北朝時代の貞治4年(1369)に雲血由(ウンシュウ)律師という僧によって寺の再興が成り、その寺号も林徳院に変わった。
室町時代中期の広山白陽律師の代に、曹洞宗を開いた道元の子孫にあたる天巽(リン)慶順に寺を譲ったことにより、それまでの律宗から曹洞宗に改宗して寺号も創建当初の乗碩寺に戻して開創したのであった。
1394年の開基で、もとは禅宗であったが、1596~1614年純誉によって浄土宗に改宗された。
本尊は阿弥陀如来。1698~1703年の頃、中興諦誉良頓が発願し常念仏を始めた。
江戸増上寺法王祐天上人がこのことを賞し、五代将軍綱吉やその母桂昌院にも上申して、家康、秀忠、家光、家綱の歴代将軍とその御台所の尊碑、仏像並びに葵紋付香爐などを下賜された。
この寺の了般は累進して増上寺四十二世の法主となり大僧正に昇爵した。
鐘楼の南には常念仏一万日ごとに一基、合わせた五基の石柱が並び立ち五万日常念仏成就の功を物語っている。
このお寺さんの鐘楼のそばを奥の方に入っていくと、ちょっと意外な場所を発見します。
見過ごしてしまいそうなところを発見するとわくわくします。
この寺院の創立年代や開山については、はっきりわかりませんが、光明寺より早い時期からこの地にあった寺で、蓮乗寺(れんじょうじ)といってはじめ真言宗(しんごんしゅう)だったということです。その後、光明寺が佐助ヶ谷(さすけがやつ)から移されてきてから、光明寺の子院となり、浄主宗(じょうどしゅう)の蓮乗院と改めたといわれてします。
1243年(寛元元年)に光明寺が良忠によって創建されたといわれますが、寺院の落成まで良忠は蓮乗院に居住して、建築を監督(かんとく)したということです。こうしたことから、光明寺の新しい住職となると、まず蓮乗院に入ってから改めて光明寺の本山方丈(ほうじょう)に入る慣わしになりました。
鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より