“知”は、たくさんの言語知と、たくさんの暗黙知から!

 「暗黙知」という知識があります。体験から学んだものです。
 知識教育の記憶によってだけで、脳を働かせている人が主流になったのが、現代のリーダーたちなのでしょうか?
 政治を含めて、現代の異常な犯罪は、どこか知識主体の教育の結果のような気もします。
 田舎で、自然の中での経験は、組織のリーダーには向かないかも知れないですが、人間としての一生を考えると、こちらのほうが、幸せな一生になるのでしょう。
 人類800万年の歴史の主体は、「暗黙知」がメインですから!

厚木 多くの石仏が隠れる「金剛寺」

 807年(大同2年)に弘法大師によって建立されたと伝わる。古くは、七堂伽藍の備わった寺院だった。飯山観音の入口ともなっている小鮎川に架かる朱塗りの橋は「庫裡橋」と呼ばれ、金剛寺の庫裡に向かって架けられていたといわれている。
 鎌倉時代には、鎌倉の覚園寺や金沢の称名寺とも繋がりのある律宗寺院として栄え、相模国の華厳学研究の拠点としても栄えた。 天文年間(1532~1554年)に曹洞宗に改宗され再興されている。

 多くの古い石仏があり、その状態も比較的良好(畑に埋まっていたため??)のため、洞窟などがあればそこに並べて展示するとすばらしいのですが、残念!

天は二物を与えずというのは誤解?

 「天は二物を与えない」というが、ある1つの分野しか努力しようとしないことが原因なのでしょうか。
 確かに、最近はスペシャリスト指向なので、「天は二物を与えない」ということになってしまいますね。
 しかし、他の分野の情報が受け入れ出来なくなると、脳の老化現象の始まりとも云われています。
 平均年齢が短かった時代は、「天は二物を与えない」で良かったのでしょうが、出来るだけ色々な分野の情報に触れ、多彩な考え方が出来るようにしたほうが、老化対策には良いようですね!

福山 鞆 「心を観る行」ができる「顕政寺」

 足利義昭が身を寄せていた(後ろ山の奥、熊野町の)常国寺の末寺であったが絶えて、慶長年間(1596~1614年)1600年頃、福島正則(芸備藩主)によって、この顕政寺などの寺々をほぼ一直線に結ぶ寺町(町割り)が形成されました。
 正善院日実は顕政寺を再建し、日蓮宗に改め二代・日運は、本堂と庫裡を拡張する事績を遺し、四代目の日富は、延宝年中(1673~1680年)に、奉行・藤井六郎右衛門に願い出て門前の境内を拡め、今日の基礎を築いた。と伝えられています。
 自分を見つめ直すことができる癒しのお寺として、「観心行」を行っています。観心行は、日蓮宗の修行ですけど、ここではオリジナルが行われています。
  特に宣伝はしていないようです。
 観心行は、文字通り「心を観る行」。日常の中で自分が行なった良いことや悪いことを思い出し、それらを見つめ直し、手放していく修行。ここでは10分程度のシンプルなものでになっています。

無断で相手の領域に立ち入らないほうがよい!

 日本では、「相手を尊重する」ことが大事とされてきました。しかし、クレーマーが増え、SNSでNET上での批判投稿が増え、相手を尊重する文化は厳しくなってきています。
 一部の人達でしかないのでしょうが、日本の文化が消えていくのは残念です。
 むかしは、生前の行いが、極楽へ行くか、地獄へ行くか、閻魔大王を筆頭とする十王の裁きで決まると、人々を抑制していました。
 閻魔大王も、今の時代に合わしていかないと、忘れてられてしまいますね!

鎌倉 奥の岩屋に不動明王が「岩窟不動尊」

 不動明王の信仰が広まるきっかけの一つは、平安時代初期の平将門の乱でした。
 朱雀(すじゃく)天皇は、平将門の乱を鎮めるために、寛朝大僧正に命じて、京都の高雄山神護寺(じんごじ)から不動明王像を借りて関東に持って行き、成田の地で日夜調伏の法を行った。
 乱が鎮まると、像を京都に連れて帰ろうとしたが、不動明王は動かなかった。
 やがて寛朝大僧正の夢枕に不動明王が現れ、自分はこの地に留まって関東の守護者になると告げたのが、不動明王信仰のキッカケの一つ、とのことです。

スタイリストなどの間で、「色を3つに絞れ」は鉄則!

 三色のボールペン、使っている人も多いようです。色分けは、国や文化によってちがうようです。虹の色も、日本では7於呂ですが、5食の国もあれば、三色の国もあります。
 日本の「青」は2色あります。ブルーとグリーンです。これは「海の色」を現しているのでしょうか? 瀬戸内の海は「グリーン」です。太平洋は「ブルー」ですね!

尾道 昔は入江で渡しがあった「磯の辨天神社」

 遠い昔、長江が文字どおり長い入り江であった頃、この一帯は海辺だったので、磯の弁天と呼ぶようになったそうです。今は建物の陰にひっそりと残っています。
 現在の神社はあまりにも小さもく、昔からこの狭さであったとは思えません。

 横のお店の裏側に名前もいわれも不明の神社があります。この神社と関係があるのでしょうか?
 この不明の神社は現在もお祭りをしているようですが、近所の人や市役所に聞いても情報はありませんでした。

天神信仰は、江戸時代に寺子屋が隆盛してからのこと!

 江戸の寺子屋のなかの子供はまったくマイペース。
 さぼる子、暴れる子もいて、無法地帯であったが、体を動かしながら学ぶ子供の顔は生き生きしていたようです。
 江戸時代、女の先生が結構いました。大都市の寺子屋では〈女師匠の数が多かった〉ようです。実際、江戸における「女師匠の比率」は35.5%であったといいます。
 ちなみに現在、女性教員の比率は高校で28%、中学校で41%、小学校で63%(「学校基本調査」2004年度)。江戸の寺子屋のほうが、現代の高校よりも、女性教員が多かったようです。

厚木 創建当時は昼なお暗い地だった「宝泉寺」

 境内にフォークダンスの銅像があります。
 かつては「おしくら饅頭」や「馬とび」といった遊びで、子どものころからいろんな人と身体を接触させる遊びを頻繁にやることで、自然に身体感覚は研ぎ澄まされていた。身体が接触することにタフにもなった。
 身体ごとふれ合う関係では当然、身体知や暗黙知を共有していることが多く、それが「言葉にしなくてもお互いにわかり合える」関係をつくっていた。ところがいまは身体を接触させる遊びは極端に少なくなり、学校のフォークダンスでさえ、「気持ち悪い」と嫌がることが増えているという。

筋トレは「すばやく動くほうが筋肉が付く」、しかし!

 筋トレを簡単にする施設が、増えてきているようです。
 住んでいる地域によって、からだを動かす量が違うのでしょうが、なかなか具体的なデータに触れることは少ないですね。
 クルマを使う人と、そうでない人と、どれほど筋肉を使う量に違いがあるのでしょうか?
 また、クルマを使う人でも、マニュアル者とオートマ車との差は、どの程度の差があるのでしょうか?
 マニュアル者からオートマ車に変えたとき、長時間の運転では、眠くなるのはオートマ車でした。
 生活スタイルで、筋肉や脳になにかしらの影響があるのは確かですね!

鎌倉 石段下に星ノ井のある「虚空蔵堂」

 行基大菩薩は全国修行巡錫の途中、この辺りで虚空京聞持の法を修行しておりました。智慧と頭脳明噺と広大無辺の宇宙を掌る仏様・虚空蔵菩薩を本尊(念持仏)として、頭脳明噺・記憶力増進を計ろうという秘法であります。
 修行を続け、一心に祈っていると、ここに奇蹟が現われました。この井の中に三つの明星が輝き、夜も真昼のように付近の木々を照し、それは七日七夜にわたって起り土地の人達を怪しみ畏れさせたのです。
 それを見て「これはきっと、井の中に何か珍しいものが入つたに相違ない」と行基は言い、とり出してみるように、と指示して入ってみると、果してピカピカと光る黒い石がありました。その石を前にして、僧は厳かに言いました。
「これは虚空蔵菩薩が石になつて降り給うたに相違ない。石が明星の光を放って鏡のように四辺を照すのは、世の人々に信仰心を起させ、平和とよろこびとを招かんがためであろう」……

日本に稲作が伝来する以前、重要な食糧はサトイモ!

 スーパーの米の在庫が少なくなってしまうこと、今後もあるのでしょうか?
 稲作が日本に伝わったのは、3000年ほど前とのこと。日本にヒトが住みついたのは、3万8000年ほど前。いろいろと食料を見つけてきたのでしょうね。
 米不足の時も、命をつなぐための工夫を試しておくと、災害の時も役に立ちそうです。
 もっと、野山に目を向けないと行けないのでしょうね!

尾道 本堂内に「泣き龍天井」がある「西郷寺」

 本堂(国重文)は清楚で風格のある美しい姿。
 700年の風雪を経た今も、清楚で風格のある美しい姿。

 建築家・安藤忠雄さんがこの「本堂の屋根の傾斜がいい」と言われたとか。

 堂内に「泣き龍天井」があり、手を打つと乾いた音(ビーンーのような)が帰ってきます。小学生の頃、子供会を本堂で行ったことがあります。

安らかなことが、何よりも大事なのだ!

 若者や現役世代の人の、昨今の「夢」は、「金儲け」なのでしょうか。それも、自分だけの。
 むかしの商人、特に関西文化の商人達の多くは、神社仏閣への寄付や、飢饉の時の庶民に対する援助、あるいは、溜め池やダムづくりの援助、橋や開墾の援助などを遣っていました。そのためか、代々商いを続け、尊敬されていました。
 現代の金儲け主義には、「尊敬」という文字は、どこかにいってしまったようですね!

相模原 江戸時代には寺子屋も開かれていた「常福寺」

 1300年頃、鎌倉時代末期に建立。 開山は鎌倉建長寺の35代管長、本覚了堂禅師、開基は菅原長員。
1316正和5年、文章博士などを務めた菅原長員が、その祖父菅原長貞の供養のため、鎌倉建長寺より本覚了堂禅師を招き開山した。
 その後、一時衰微したものを信濃の国出身の玉叟珍(1563年没)が中興したと伝えられている。 開山以来代々知識人として知られた菅原氏と縁が深く、1584年の北条氏直の版物状や、鎌倉仏師として知られる後藤四郎兵衛藤原義貴の作による地蔵菩薩立像などが残されている。
 江戸時代には寺子屋も開かれ、後には「新戸学校」も開かれるなど、当地の学問の中核地であったようです。

家事には手抜きが必要、それは「掃除」!

 「手抜き」の意味は、「するべき手続きや手数を省くこと」と、「囲碁・将棋で,相手の攻撃的着手に対して応手せず,他の方面に打つこと」という意味もあるそうです。
 大変な「家事」、これは“他の方法を見つける”方向で考えたいですね。
 技術が進歩し、かってに掃除をしてくれたり、洗濯をしてくれます。この技術の方向もも、温暖化対策を考えると、それほどほめることもできません。「手抜き」を出来るところを探すことが、やはり大切なのでしょうね。心の掃除も、手抜きができるといいのですが!

鎌倉 地震や津波で海辺から移された「円応寺」

 山号を新居山(しんきょさん)といい、十王堂(じゅうおうどう)とも呼ばれています。
「地獄の十王たち」

 地底をゆるがす大音声で断罪を下し、「いいえ、それは違います」と一言でも蚊細く抗弁しようものなら獄卒に目くばせし、間髪を入れず浄破璃の鏡の覆いを取りのけさせる。……と。
    親を足蹴にかけた。
    人妻の寝室に入り、邪な快楽を分け合った。
    隣の犬が吠えて八釜敷(やかまし)いとて毒殺。
    盗み。嘘言。偽り。虚栄。ハッタリ。怠惰。無慈悲。不まじめ。数知れず。

 かくて亡者は勝ち誇る牛頭馬頭(ごづめづ)の鬼に引きすえられ、口をこじ開けられ、大きな専用道具でギリギリグイッと舌をひん抜かれ、ギゃアと叫んで悶絶する。
 円応寺では正面の帳(とばり)の陰に一きわ巨大な間魔大王がすわっている。他の九王は一段低い左右に居流れ、普通の仏教寺院と違う、異様な圧迫感を漂わす。
 このエンマ様は伝運慶作。彼が死に、冥途を旅して閤魔大王の前まで来たところ生きているとき、天才仏師としての手腕と業績が顕著であると認められ、突如生き返った。そのときの大王の様子を刻んだものと伝えられるが、本当かどうか。
 エンマは梵語ヤマの漢音訳であって、瑛魔、炎魔、夜魔などとも音写されるし閣魔天とか死王とかいうこともある。

「子どもが何に困っているかを知らない」保護者49.3%!

 男女間の賃金格差の問題が続いています。その裏で、子育て問題も増えています。
 また、親自身が子育てをする時間と、保育士さんに子育てを依頼する時間について、子育てにどんな影響があるのかも、それほど取り上げられていません。
 とりあえず、男女間の時間給の差をなくすること、これに取り組むしかないのでしょう!

尾道 墓地に猿の座像「福善寺」

 守護大名山名宗全側近太田垣光景の子孫、但馬国城主太田垣因幡守の孫斐守が出家、名を行栄法印といい1573年尾道を訪れ、当時この地方には浄土真宗がまだ広まっておらず、行栄は近郊の住民に医業を施して生業(なりわい)とし、その傍(かたわ)ら久保町に道場を開き念仏布教を行っていた。

 行栄の子念西の時代になってやっと真宗の教線が開かれ、尾道での総道場を開くことを許され、土堂町寺小路(尾道市土堂二丁目の村上医院西側の石畳の小路)に一宇を建立して福善寺と称した。 寛永七年(1630)、第三世行尊の代になってこの福善寺を現在地(尾道市長江一丁目)の丹花(たんか)の丘陵に移した。本願寺直参末寺「一家衆」に加えられ旧九条関白家の菩提所格寺院となった。