私の人生なんてどうせこんなものだ!

 「失敗」を財産にできるか、それともストレスになるか、この違いはどこにあるのでしょうか?
 これは「観察力」が関係しているのでしょうか。
 「都会暮らし」や「核家族生活」では、一定のパターンで育つようになってしまい、観察力のパターンが少なくなり、そのパターンから外れてしまうと、詳細な観察ができなくなってしまうのでしょうか。
 すると、ストレスがどんどん強くなってしまうこともあり得ますね!

尾道 日比崎中学校の裏山に「竜王山の石仏群」

 この竜王山は広島県尾道市日比崎町にある山で標高144.6mです。(尾道市には「竜王山」という名前の山が5つもあります。)
 竜王山は、四国の石鎚山を信仰する人々の修験道場でした。竜王山の霊場の石垣の上には石造りの石鎚社があり、その周りには石鎚権現や修験道に関わる石仏などが数十体、林立しています。石鎚山は役行者が開いた神仏習合の修験の道場で、石鎚権現として全国で信仰を集めていました。
 竜王山の五大明王は浮き彫り像で、不動明王は上部を浅い山型にした板状の石材を使い半肉彫りです。他の明王は船型の半肉彫りです。降三世明王は大自在天とその妃、烏摩を踏みつけて立つ三面八臂像で、軍荼利明王は一面十臂像、金剛夜叉明王は三面八臂像で、それぞれ火焔光背を負うています。細部まで丁寧に彫られた明王像で、大威徳明王は不動明王と降三世明王の後ろに隠れるように置かれています。

人生にはさまざまな季節がある!

 ある程度年齢を重ねてくると、心が冬になるときもありますね。
 幾つになっても、なにかしら新しいことに取り組む、という気持ちを持ち続けることができれば、充実した人生になるのでしょうが、なかなか難しいようです。
 いままでの経験をムダにすることなく、プラスαができれば良いのですが、いままでの経験にしがみついていると、かえって視野が狭くなりやすいようです。
 年齢を重ね、冬の時代になっても、澄み切った冬の夜空を見上げ、新しい星を見つけられると好いですね!

厚木 戦国毛利氏の祖 季光ゆかりの「光福寺」

 最初は浄土宗で教念寺と称したが、後に廃絶して光福寺となった。
 鎌倉幕府の頃の創建で、開山は隆寛律師。律師(1148~1227)、字は皆空(また道空)無我)は以前は天台宗だったが、後に法然上人の浄土宗に移り念仏を説いて継承、法然上人入寂(1212)の祭は五十七日の同士をつとめた。が、比叡山の宗徒の反発“念仏宗の集団化をおそれての弾圧”を受けて、安貞元年(1227)に流罪に処せられた。

 毛利庄(今の厚木市内)の領主毛利季光(すえみつ)入道西阿は送領使となったが、隆寛に帰依きえし奥州喜多方へ送る途中、毛利庄に移し飯山の郷に匿かくまい住ませたという。身代わりには弟子・実成じつじょうという僧が送られるが、入寂を知って飯山に駆けつけ、隆寛律師遺骨を喜多方・願成寺に分骨・埋葬した。

自分の人生は自分で決めなくてはならない!

 「考える」という作業は、子供時代から、年寄りまで、続けていかなければいけないこと、ですね。
 小学校から、記憶すること中心、社会人になると生成AI中心では、前頭葉が働かず、認知症になってしまいます。
 子ども時代は、自然の中で、大人になると、いろいろな情報をデータベース化し、その情報を自分流に組み合わせ、加工して遊ぶことが必要でしょうね。
 生成AIを、自分のデータベースを使い、自分でやってみましょう。日本語の単語は、意味が多彩で、思ってもいない情報に出会いますよ!

鎌倉 もとは瑠璃光寺ともいった「寶善院」

 宝善院(真言宗大覚寺派)は、加持山霊山寺・泰澄山瑠璃光寺という2つの山号寺号をもち、院号が宝善院。
 開山の泰澄は、「越の大徳」(越前(福井)・越中(富山)・越後(新潟)で並ぶ者のいないほどの徳の高い僧)と呼ばれていた。加賀の白山を開いた人物。
 江戸時代には、この寺の僧が龍口明神社の別当に任じられたこともある。
 村人の信仰を集め栄えたが、明治の神仏分離によって、静かな寺となった。
“越の大徳” 泰澄大師の十一面観音伝説がいきるお寺さん腰越にある真言宗のお寺さんです。腰越の海近くの山裾にあり、とても静かで清々しい空気があります。白山信仰の神の山、白山を開き“越の大徳”といわれた泰澄大師が開いた寺院としても存在感があります。

 もとは泰澄山(たいちょうざん)瑠璃光寺(るりこうじ)ともいったと伝えられています。

楽に過ごせば病気と無縁の生活が送れるか?

 副交感神経を活発すると、リラックスできてよい。と思ってましたが、からだ的には、必ずしも良いことではないようです。
 副交感神経が活発になり、リンパ球が増えすぎると、アレスギーの症状が出やすくなるようです。
 適度に緊張し、適度にリラックスする生活が理想のようですが、どの程度にすれば良いのか、難しいですね!

尾道 駅前に海に続く公園「尾道駅前」

 1999年(平成11年)に駅前再開発が行われた。駅舎は古い景観を保ったが、そのほかは様相が一変し、近代的な商業施設やホールが建てられた。
 現在は、駅を降りすぐに見える尾道水道(瀬戸内海)は以前よりも広くなった。
 以前は駅舎の正面に桟橋があり、その西に魚市場があった。
 そして、2019年3月10日、新たな二階建の駅舎が開業。

 「巷に来れば憩いあり人闘みな吾を慰さめて煩悩滅除を歌ふなり」林芙美子

人が初めて貯蔵したものは「食料」、生き残りの手段です!

 昨今「片付け」が注目されるようになっています。豊かな時代の反動なのでしょうか。
 人類の「貯蔵する」という性質が、災害や不作になっても、生き残ってきた源泉なのでしょう。
 片付けも大切なのですが、温暖化などによる災害に備えた貯蓄も、大切な時期に来ています。
 つながりが希薄になってきた現代、自分で貯えておく必要もありますね!

海老名 奈良・平安の昔、相模国を守護「有鹿神社」

 市内でも大型の一間社流造の建築です。内部は前後2室に分かれ、前室は正面扉口のほかに両側面にも一本引きの建具を入れることや、向拝の造りなど特徴がある珍しい造りです。また、肘木は鋭い錆を持つ絵様肘木で、社殿に独特の印象を与えています。
 建立年代は、虹梁の絵様等の意匠から18世紀中頃と考えられています。
 大住郡坪之内村の絵師近藤如水(藤原隆秀)が描いたものです。
 如水が諸国遍歴から坪之内村に帰ってきた後の嘉永2年(1849)頃の作と考えられています。
 豪快な筆法と精緻な構図で描かれており、見るものを圧倒する迫力があります。
 有鹿神社付近一帯が遺跡で、発掘調査で弥生時代から中世の遺物や遺構が確認されています。
 出土した平安時代の土師器圷に特殊な文字が墨書されていたことから祭祀が行われていたのではないかと考えられています。
(「自然と歴史のさんぽみち」(海老名市教育委員会発行)より転載)

江戸時代、船が通行できる海や川が、今の高速道路だった!

 江戸時代までは、日本海が表通り(現代は太平洋側)だった。
 朝鮮や中国などから京都へ、或いは北海道や東北から、日本海から瀬戸内海経由で大阪へ(北前船)。
 また、江戸では運河を作り、物流を活発化したことで、大都会になった。
 物流を活発化することで、流通量を安定化させ、物価の安定をはかり、結果として戦争の無い時代を維持できたのでしょう。
 もちろん、市場が安定化するまでは、戦争の時代もありましたが!

福山 西国法華布教の拠点であった「法宣寺」

 1358(延文3)年、日蓮宗の高僧、大覚大僧正が鞆の浦に上陸し、法華堂を建立したのが法宣寺のはじまりです。日蓮宗きっての実力者であり、後醍醐天皇の第三王子でありながら出家した大覚大僧正が、この地で説法を始めたことで、鞆の浦は一躍、西国法華布教の拠点となり、お堂も「大法華堂」と称されるようになりました。以後、多少の盛衰は経ながらも、法宣寺は三備(備前、備中、備後)日蓮宗の重要寺院でありつづけ、江戸時代には朝鮮通信使の宿所にもなっていました。
 かつて法宣寺には国の天然記念物がありました。大覚大僧正お手植えと伝わる黒松の巨木です。その枝ぶりから「天蓋マツ」とも呼ばれ、鞆の浦の人々の誇りでしたが、残念ながら、1991年夏、六百余歳で枯死しました。

持ちつ持たれつの、相互扶助の精神がなければ!

 温暖化などで災害が多発しており、誰でも災害に遭遇するという覚悟が、必要になってきました。
 ボランティアをあうる人達が増えています。むかしから、お互いに助け合う風土はあったのですが(地域によってちがいはあったのでしょうが)、神戸の震災をきっかけに「ボランティア」を言われるようになりました。
 むかしは、西日本は台風が多く、東日本は大きな川が多いためか洪水がおおかったので、お互いに助け合う風土ができたのでしょう。
 現在は温暖化により、日本の何処でも台風や洪水、地震、津波を覚悟しなければなりません。
 地域の助け合い、特に都会では住民同士のつながりが薄いため、助け合いの風土の再構築が必要ですね!

鎌倉 護良親王の偉勲をたたえる「鎌倉宮」

 祭神:護良(もりよし)親王(別称:大塔宮)(後醍醐天皇の第一皇子)

 明治天皇は、哀しい最期をとげた護良親王(武家から天皇中心の社会へ復帰させることを目的とした建武中興に尽力した親王)の功の偉勲をたたえるべく、神社造営の勅令を発し、東光寺跡に1869年7月創建された。

 本殿の後方にある土手の穴が、親王がおよそ9か月間幽閉されていた土牢であるという古伝承がある。

 このあたりは、護良親王が、足利直義に幽閉された東光寺のあった所です。

最近は、男性よりも女性のほうがずっと元気!

 「元気」という言葉がキーワード(問題解決の手がかりとなる語)になっています。
 これきは、「からだの元気」と「心の元気」の二つの意味があります。
 心の元気は、前頭葉の働きが元気かどうかにあるようです。
 ということは、仕事などで取組の範囲が狭くなり、それを長く続けると習慣化し、前頭葉の働きが少なくなってしまうようです。
 ときどき幅広い知識や情報に接し、なにかしらのコメントを考えることで、前頭葉が働くようにしたほうが、認知症の予防になるようです!

尾道 行基菩薩創建と、真言宗醍醐派の大本山「西国寺」

 西国寺は平安時代の院政期より朝廷との関わりが深く、官寺として大きな影響力を持っていたと考えられます。

 西国一の大寺。徳島大学の学者グループで、この寺の「古文書」が解読されている。その中で、織田信長を呪い殺す“調伏”がこの大寺で行われた、とあります。

 昔から真言密教は、どろどろとした人間の最も暗部の欲望を開放する宗教。人を生かすことも、人を殺すことも宗教の重大な役目だったと。だから信長は光秀に本能寺で殺されたのだろうか? と考えてみるのも面白い。

情愛が形づくられる源泉は幼い頃の母子関係にある!

 日本の風土は、他の国に比べて曖昧なようです。
 むかしのむかし(平安時代の中頃まで?)多くの人が移民で日本にやって来ています。
 「移民」という現象は、世界で現在も起きています。その原因は、今住んでいる場所が、戦争や気候変動などで住みにくくなり、住める場所を探して移動する現象です。
 ということは、生きるためのエネルギーがあり、環境変化にも、自分達の工夫で生きていくことができる人達です。
 また、受け入れる側の人達も、移民して来る人達と協力し、工夫し、共生していくことが出来る人達です。
 そのような人達を祖先に持つ日本は、風土が他の国の人達に比べ、「曖昧さ」をうまく活用する風土ができたのでしょうか!

厚木 足利尊氏の位牌と宝篋印塔「聖願寺」

 寺には位牌があり、表に「足利将軍御尊霊」、裏に「足利尊氏公君為御養子文七君菩薩」 「庚永二年三月初三日(1343)」と記されています。
 墓地内には位牌と同じ日付と内容の室町時代の「宝篋印塔」が建立されています。
 参道入口の門塔高さ3mほどの石碑正面に「當国二十七番三田寺」右面に「足利尊氏公古廟」左面に「千手観世音菩薩」裏面に「嘉永四年四月吉日」(1851)と彫り込まれています。
 この史実は尊氏は妻田村・荻野村の領地を有しており、また土地争いの制札を下した記録も江戸幕府の官選資料にあり、この地と寺に何らかの関わりがあったことを思わせます。

「~しなくてはならない」「~でなくてはいけない」思い込み!

 「思い込み」のベースに在るのは、「知識」なのでしょう。
 スペシャリスト指向は、やむを得ず知識優先になってしまいます。この状態をリタイアまで続けてしまうと、新しい思考を受け入れにくくなるようです。つまり。脳の前頭葉をあまり使わなくなるようです。
 これは、認知症の発症危険率が上がってしまうようです。
 年齢を重ねるとき、いろいろな取組の経験は大切なようです!

鎌倉 維新の先駆けと日野俊基卿を祀る「葛原岡神社」

 葛原岡神社は後醍醐天皇の忠臣として鎌倉幕府倒幕に活躍した日野俊基卿をお祀りする神社。
 明治天皇は日野俊基卿の足跡を明治維新の先駆けとして深く追慕せられ、1884年勅旨をもって従三位を追贈され、1887年に最期の地であるここ葛原岡に俊基卿を御祭神として神社を創建、宮内省よりの下賜金をもって御社殿を造営、鎮座祭が執り行われた。一説には、地名の起りは葛原親王・鎌倉権五郎景政を祭神とする梶原の御霊社の故地であったことに因むという。
 いわば南北朝のリターンマッチとして堀起したのが、桂小五郎をはじめとする長州の倒幕派です。薩摩の立場も南朝論であり、大久保利通や西郷隆盛が立ち上がったのは「南朝こそ正統であり、北朝は偽王朝である」という理念を実現するためです。