途上国、あそこに行けば、なんとかなるだろう、と大都会に行く!

 現代の日本では、大都会に行く人は就職などが決まっている人達がほとんどでしょう。
 しかし、後進国での大都会は、家族を養うため「仕事を求めて」という人が数多くいます。仕事も決まっていないため路上生活になってしまいます。
 そのためか、日本の路上生活者より元気なようです。
 日本でも、むかしはそのようなスタイルだったのでしょうね。そういえば大都会ではないですが、南米やハワイへの移住、満州開拓など多くの日本人が移住していますね!

ダイズの豆は炭水化物に加えてタンパク質・脂質を含む!

 この寺の裏山は、かって源頼朝が由比ケ浜の放生会(ほうじょうえ)を見物するために、展望台のような桟敷を設けたところだといわれています。後に、ここに住んだ将軍宗尊親王(むねたかしんのう)の家臣で、日蓮宗の信者であった兵衛左衛門の妻は桟敷尼と呼ばれました。桟敷尼は、1271年(文永8年) 9月12日、捕われの身となった日蓮(にちれん)が馬で龍ノ口(たつのくち)の刑場に引かれていくとき、ごまのぼたもちを作って日蓮に「仏のご加護がありますように」と差し上げたということです。このぼたもちのおかげでしょうか、処刑されそうになった日蓮を助ける奇蹟が起こりました。このことから、「首つぎのぽたもち」ともいわれ、有名になりました。

ダイズの豆は炭水化物に加えてタンパク質・脂質を含む!

 豆腐、納豆、味噌など大豆を利用した食品は、からだに良いと推奨されています。
 徳川家康と三河の赤味噌、武田信玄と信州味噌、伊達政宗と仙台味噌など、戦国時代に栄養豊富な保存食として飛躍的に発展をしました。
 また、いろいろな食材と相性が良く、ご飯と味噌汁、納豆、豆腐、醤油などの組み合わせは栄養学的にも最高のもので、日本人の健康・長寿にとって、大切な食物の一つになっているのでしょう!

座間 裏山から湧水 し、水量も豊富「心岩寺」

 開山年代は寛正元(1460)年頃で、鎌倉建長寺第七十五世悦岩興惟禅師の法弟成英玉大和尚が開山し、この地の郷士白井織部是房が開基となって、白井氏の持仏堂を寺としたものと伝えている。
 当山の記録によると、山号は初め久光山心願寺、後に座間山心巌寺、そして江戸時代になって座間山心岩寺と改められている。
 開山以来五百数十年、法嗣二十二世この間法灯絶えることなく栄えている。

いま「良心」が最も感じられない人たちは政治家!

 衆議院選挙が済みました。しかし、当選した政治家(与党も、野党も)は、「最も良心が感じられない人達」と、思われていることを忘れないでほしいですね。
 権力や名誉、財力を持つと、良心よりも、権力や名誉などが優先し、良心は忘れられるようですね。
 歴史も権力を手に入れると、自分に都合の悪い情報は、まず、流れないようにし、抹消するか、都合の良いように書き換えるようです。
 歴史的な文献も、残されているものは、どうもそのようです!

尾道 もともとは海徳寺の鎮守だった「勇徳稲荷神社」

 祭神:倉稲魂命(うかのみたまのみこと) 須佐之男命(すさのおのみこと)
 もともとは海徳寺の鎮守であったが、1926年海徳寺が火災にあい、山手に引っ越した。そのため、神社は独立しました。
 現在でこそ、神道と仏教は明確に区別されていますが、明治時代までは、両者の境界線は非常にあいまいでした。
 仏教寺院を建てるさい、その土地で古来あがめられてきた神さまを、寺の守護神(鎮守)としてまつることが、ごくふつうに行なわれるようになり、神社とお寺が同じ敷地内に同居することも、あたりまえになったのです。
 こうした傾向を、「神仏習合(しんぶつしゅうごう)」と呼びます。神社とお寺が分離されたのは、明治時代に「神仏判然令(しんぶつはんぜんれい)」が出されてからなのです。

歩く趣味は、足腰を鍛えるだけでなく、脳も若返らせる!

 「満足」という言葉が在ります。なぜ「足を満たす」のでしょうか?
 「充足」という言葉もあります。また 「不足」という言葉もあります。
 むかしから、歩くことが大事だと気づいていたのでしょうか。
 しかし、歩き方については、一般的には習うことはそれほどありません。
 坂道が多く、クルマが使えない地域では、歩き方に違いがあるようです。
 足を前に出すとき、太ももの筋肉ではなく、腰の筋肉を多く使っているようです。太ももの筋肉は、足を上下に動かすときに使っているようです。
 確かに、腰の筋肉で足を前に出すように心掛けると、疲れても歩けますね!

鎌倉 目の神様として親しまれている「御霊神社」

 境内には、樹齢約350年、高さ20mのタブの木が高く枝を繁らせています。その下を進むと正面の石段があり、上がった所が社殿です。屋根には金色の二枚の矢羽根がついています。祭神である鎌倉権五郎景正の紋章が社紋となっていると伝えられています。拝殿の脇に彫刻があり、後ろの本殿にも豊かな彫刻がほどこされていて、立派な造りであることは、後ろに回るとよくわかります。社殿に向かって右側に、「景正の袂石(たもといし)」(約38kg)や「景正の手玉石(てだまいし)」(約68kg)という丸い石があります。また、社殿の前には「弓立ての松」が置かれています。これは景正が領内をまわるときに弓をたてかけて休んだという松の木の一部だといわれていますが、900年の年月を経て中が腐って穴があいたようになっています。いずれも景正の力が強かったことを伝えるものです。
 鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より

薩摩芋は甘いので野菜のうちには入らない?

 糖尿病の原因は、高カロリー食品である高脂肪食品の摂取過剰と、糖分を消費する最大の器官である筋肉による労働や運動の不足が原因のようです。
 米が主食で、おかずは野菜だった頃、糖尿病はそんなに聞きませんでした。
 米の消費量は1955年と比べると約半分になっているそうです。ということは、生産量も半分になっているのでしょうね。
 円安でしかも食糧の自給率も少ない日本、米の料理法や米の生産場所の拡大などを、考えなければいけない時期が迫っているのでしょうね!

愛川 半僧坊大権現を祀る「勝楽寺」

 山門に立ち、伽藍を護る仁王は共通して一面二臂の怒怒相。上半身は裸で筋骨隆々、下半身は裳をたくし上げています。金剛杵が代表的な持物です。
 もともとは、執金剛神(しゅこんごうしん)という、釈迦を守護する独尊でしたが、しだいに二体一対で安置されるようになりました。基本は、口を開いた阿形(あぎょう)が向かって右(東)、口を結んだ吽形(うんぎょう)が左(西)です。阿形を金剛や金剛力士、吽形を力士や密迹(みっしゃく)力士と呼ぶこともあります。(「イラストでわかる『日本の仏さま』」 日本の仏研究会より)

前頭葉機能が低下すると認知症の心配が!

 頭を使っている方、おそらく同じぐらい脳が縮んでいても、認知症の症状が出ない。物忘れにしても、知能低下にしても、遅れる。
 ところが頭を使ってない人は、同じぐらい脳が縮んでいても、それだけ記憶障害であれ、知能低下であれ、ひどい、ということで、頭使い続けるってことが大事。
 認知症予防のため、本を読むということで予想外なことは、意外に小説だったり、漫画だったりするんです。だから漫画だって、読書なんだから、バカにしちゃいけない。予想外なことがガンガン起こる、漫画なんてぜひ読んでほしいと思うぐらいです。小説もやっぱり割と人々の心情を描く、おっと思わせるとか、予想通りの展開になっていかない時に、前頭炎も刺激されるし、喜べると思うんですね、と。
 NHKラジオで、和田秀樹の放送がありました。

尾道 太宰府に左遷さる道真が寄った「御袖天満宮」

 社殿の斜め前に菅原道真と縁の深い牛の石造物があります。この石像は尾道石工の傑作(けっさく)中の傑作といってもよい。御影石(みかげいし)をここまで繊細に刻み込むのは至難(しなん)の業なのでしょう。菅原道真は学問の神さまで筆を祀ってあるのですが、本殿わきの石造りの筆があります。これも尾道石工の立派な作品です。
 毛筆そのままを型どり、中央に「生華」と刻まれ、島屋勘十郎がノミをふるい、奉納した肇を埋め完成させたもの。
 学問および書道の神様として崇められている菅公にちなみ、その徳をたたえてつくったもので、終戦直後まで学門書道の上達を願う者の参拝が絶えなかったそうです。

「海千山千」は経験豊かな立派な人という意味だった!

 「海千山千」は、海に千年山に千年住んだ蛇は竜になるという言い伝えからきているようですが、せちがらい世の中の裏も表も知っていて、老獪(悪賢い)な人、という意味になっています。
 もう一度、経験豊かで、広く世の中を知っていて、適切なアドバイスができる人、という意味になってほしいですね。
 そうゆう人は、おそらく、ほめ上手で、人をやる気にさせ、あるいは、救ってくれる人なのでしょう!

相模原 江戸時代 山伏の修験が行われた「八幡宮(磯部)」

 この社を開いたのは鎌倉から来訪した山伏祐圓で、別当は小田原玉瀧坊觸下の佛像院磯幡山神宮寺。1478年、太田道灌勢により陥落するまで磯部地内には城(城主長尾景春)がありました。
 江戸時代には当社では山伏の修験が行われ、沢山の家業繁昌厄除の護摩が焚かれた。また、この地域は大山詣りの宿場のため境内は非常に賑わったと伝へられています。当時は対岸の依知山際等からも参拝があり、特に火渡りの護摩が有名でした。
 明治始めの神仏混淆の禁止令により別当職が解かれ八幡大神となった。
 1923年3月老朽に伴い氏子の奉賛により社殿を新改築し、1985年、電線神社用地上空通過に伴う神社補償料にて御社殿末社鳥居石段手水舎等の改築整備しました。

キャリアを積みたい人は、若いうちに転職したほうがいい!

 能力主義の社会になりました。スキルがないと安定した収入が得られません。
 すると、どうしてもスペシャリストを目指してしまいます。
 専門性は高まるのですが、思考の幅は狭くなってしまいます。
 学校教育で、「記憶力」中心で脳を育ててきたため、もともと思考能力はそれほど育っていないようです。
 そのような社会では、専門性を重視するスペシャリスト優先になって行くようです。
 ただ、年を取り、退職すると、思考範囲が狭い人達は、どのようになっていくのでしょうか?

福山 鞆 最澄による創建「静観寺」

 創建は806(大同元)年、最澄によると伝えられています。当時は、7000坪の大敷地に七堂伽藍が建ち並んで、五重塔も天を衝き、たいへんに栄えていたといいます。
 のちの小松寺が境内に建立されことからも静観寺がいかに大寺院であったかを示しています。
 しかし、相次ぐ戦乱や火災によって、創建から千二百年の間に五回も焼けています。多くの文化財は焼失してしまいました。残念ながら現在では往時の栄華を物語るものは残されていません。
 平安時代には最澄により静観寺、空海により医王寺が創建され、それぞれ西日本の布教拠点となっりました。

おせちは、神前に料理を供え、お下がりを食べたのが始まり!

 おせち料理の予約時期になっています。一方で、忘れられていく年中行事もあります。
 地域によって違いますが、お正月だけでも、三が日、七草がゆ、山の神、蔵開き、せいの神、えびすさまなどに、お供えしたり、お祈りしたり、いろいろな行事を行っていたようです。
 お雑煮でも、地域によって、各家によって、それぞれの作り方がありますね。
 それぞれに、意味づけし、その継続に腐心していたようです。
 そのようなことが、日本の風土をつくり、それぞれの地域での暮らし方を工夫してきたのですね!

鎌倉 関東大震災で諸堂は潰滅したが「浄智寺」

 仏殿前から奥に進むと、高野槙(こうやまき)や沙羅双樹(さらそうじゅ)といわれている白雲木(はくうんぼく)などの樹木がおいしげり、墓地の脇を通って境内を一巡できるようになっています。また、境内の一角の洞窟には、鎌倉・江の島七福神の一つの布袋尊(ほていそん)もまつられています。
 鎌倉・江の島七福神とは、鶴岡八幡宮(つるおかはちまんぐう)の弁財天(べんざいてん)、浄智寺の布袋尊、妙隆寺(みょうりゅうじ)の寿老人(じゅろうじん)、本覚寺(ほんかくじ)の恵比寿(えびす)、宝戒寺(ほうかいじ)の毘沙門天(びしゃもんてん)、長谷寺(はせでら)の大黒天(だいこくてん)、御霊神社(ごりょうじじゃ)の福禄寿(ふくろくじ)と、弁財天は重なりますが、江島(えのしま)神社の弁財天です。

本当に歴史を動かしているのは、お金、経済なのだ!

 歴史を見ると、貯蓄(米や麦などの穀物、そしてお金)できるものができると、戦いが始まっています。
 いまでも、お金目当ての戦いは、社会では当たり前です。
 人々の中で「このくらいでよい」という人は、まあ良いのですが、その「たが」が外れ人は、お金・権力・名誉を手に入れるため、良い悪いとは関係なく、なんでもやってしまいます。
 また、その人達に協力する人・支援する人・従う人と、どんどん増えていくことになります。
 また、社会的・歴史的に、評価されてしきます。
 人類の生存にとって、プラスなのでしょうか?

尾道 千光寺山山頂に変わった展望台が!

 2022年3月 新しい展望台がオープンしました。愛称は、「頂上」を意味する「PEAK(ピーク)」だそうです。展望デッキの長さ63m、東-南-西側の尾道水道や旧市街大パノラマで楽しむことができます。

 ロープウェイの山頂駅と接続したエレベータが設置されているので、ベビーカーや車いすの人も安心してご利用いただけます。
 設計は、建築設計事務所「AS」です。