「教わる」ことは何歳になっても重要なこと。歳をとっても、若い人たちからお教わりたいものです。特に技術の変化が激しい現代、若い人たちから、素直に教わりたいものです。
若い人たちも、核家族化し、子供時代から多くの大人との接触が少なく、教わるチャンスが少なくなっています。
年配者も、若い人たちも、子供たちも、お互いに教えあう場が広がるといいですね!
2023年のアーカイブ
鎌倉 門前に[源頼朝公祈願所]の石碑「補陀洛寺」
この寺は南向山(なんこうざん)という山号をもつ真言宗の寺で、源頼朝が文覚(もんがく)を開山として1181年(養和元年)に建てたといわれます。もとは七堂伽藍という建物がそろった大きな寺院であったということです。その後、だいぶ荒れてしまいましたが、文和年間(1352~1356年)に、鶴岡八幡宮の供僧(ぐそう)だった頼基(らいき)が復興したと伝えられています。
補陀洛寺は別名竜巻寺(たつまきでら)ともいわれ、竜巻にあったり火災にあったりしたようです。寺に伝わるものとして、本尊の十一面観音をはじめとする仏像や貴重な文化財の多い寺です。
質の競争・個性の競争で生き残る老舗!
老舗はどのようにして続けていけるのでしょうか?
やはり、「個性」と「質」がその基本にあるのでしょうね。それにプラスして、単に法律を守るだけでなく、もっと上のビジネスマナーを持ち続けているのでしょうね。
古くからの商人の町では、「法律は最低レベルのマナーであり、もっと上のマナーを持って商売をしなければ……」と言われていました。
そして「お客さんの声を聞く」、このことを大事にし、その声を商品に反映する下地を持ち続けているのでしょうね!
尾道 歴史や文化の発信を願う「海の駅」
ヨットやボートの停泊設備です。
住吉浜といい、昔から船着場がありました。一部復元されています。
ここの「海の駅」なのですが、食堂や売店の施設はが、ホテルや食堂、商店街がすぐそばなので、停泊施設以外は造らなかったのでしょう。
「海の駅」は、瀬戸内海の豊かな自然環境と歴史や文化という貴重な地域の観光資源を多くの皆さんに発信することにより、瀬戸内海の島々への観光客を誘致し、賑わいをもたせて地域経済の活性化と産業振興を図り、人々に安らぎと癒しを与えることを目的に、平成12年3月に広島県豊町に設置された「ゆたかの海の駅」が発祥です。
ユーモア・ジョーク、機転を身につけるには!
ユーモアやジョークを言える人は、視野が広く、固定観念がなく、経験が豊富だけでは、言えないですよね。それにプラス「機転」が必要ですね。
また、風土も関係しているようです。
よく大阪の人はおもしろい、と言われています。子供の時から、状況をつかみ、なにかしら視点を変えて言う、という風土があるのでしょうね。
川や海、台風や地震といったものに、権力争い、いくさ、それに貿易や商売など、歴史的な風土も影響しているのでしょうね!
厚木 子供や水子の供養の地蔵信仰「子合地蔵尊」
『子合地蔵牌山来記』によると、この地蔵尊は、八幡太郎義家の六男・森冠者義隆に縁のあるものといいます。保元・平治の乱の折、義隆は妻子をおいて相模国毛利荘荻野郷に落ちてきました。義隆の死後その終焉の地に参ろうとこの地にやってきたのは、義隆の遺児の僧・浄慶でした。浄慶は、子合に住まっていた義隆の郎党・毛利のもとを訪ねました。主計は、義隆追善のため上京、河内国(大阪府)壷井にて義隆縁の地蔵尊をいただき、郷里・荻野郷子合に戻り、浮慶に託して、義隆公三十三回忌の法要を営みました。その折に建立したのが、子合地蔵尊です。
成長・退行の葛藤に常にさらされている!
「ついつい楽をしてしまう」、これが生活の全てに及んでしまうと、いつの間にか習慣になり、そこから脱出しようとする意欲も湧いてきません。 健康年齢を短くしてしまいます。
からだも頭も、血の巡りをよくするように、努力する習慣を身につければ、健康寿命は長くなると思われます。
自分が楽をするという前提で、人づきあいをしてしまうと、それが無意識であれ、浅い人間関係しか築けません。
すべてでなくても良いですから、ひとつでも一生懸命やれるものがあると良いですね。それとも「あきらめます」か!
厚木 武田信玄に焼かれたことがある「妻田薬師院」
薬師堂のある地名は、白根といいます。言い伝えによれば、良(ろう)弁(べん)という僧がお堂で休んでいて夢を見ました。東の方を見ると、庭の大楠が灯籠になり、お堂は昼のように明るくなりました。良弁が身を清めようとして池の側へ行くと、一夜のうちに蓮の花が咲いて、白い根が池一面に広がりました。そこでこの地を白根と呼ぶようになったそうです。
境内の楠は、県指定の天然記念物で、戦国時代の1569年、武田信玄が小田原を攻めた帰り道、夜中に軍を進めるためにこの木に火を付けて灯りとしたという話も伝えられています。
コミュニケーションに“ずれ”!
コミュニケーションが苦手の人は、どこに原因があるのでしょうか。
子供時代に接触する大人の数も原因の1つかも知れません。多くの大人との接触があれば、受け入れてくれる人も多くなり、また、体験の種類も増えていきます。
このことが、多彩な経験から知識も増え、いろいろな人との対応が出来るようになるのでしょう。すると、多彩な人との接触が知識を増やしていきます。するとまた、その多彩な知識が、新しい人達とのコミュニケーションにつながっていきます。
子供時代、地方での田舎暮らしは、大人と接触する経験が豊かになります。むかしは都会でも下町暮らしの中にも、同じような経験ができたのですが!
鎌倉 光明寺草創以前よりこの地に「蓮乗院」
この寺院の創立年代や開山については、はっきりわかりませんが、光明寺より早い時期からこの地にあった寺で、蓮乗寺(れんじょうじ)といってはじめ真言宗(しんごんしゅう)だったということです。その後、光明寺が佐助ヶ谷(さすけがやつ)から移されてきてから、光明寺の子院となり、浄主宗(じょうどしゅう)の蓮乗院と改めたといわれてします。
1243年(寛元元年)に光明寺が良忠によって創建されたといわれますが、寺院の落成まで良忠は蓮乗院に居住して、建築を監督(かんとく)したということです。こうしたことから、光明寺の新しい住職となると、まず蓮乗院に入ってから改めて光明寺の本山方丈(ほうじょう)に入る慣わしになりました。
国際関係で大事なのは道徳的な姿勢!
戦争の原因の多くは、国益と考えられています。しかし、戦争の原因の実情は、トップの「怒り」のようです。
国益を求める段階では、まだ交渉でなんとかなります。しかし、交渉中やその後に、トップのプライドが傷つけられるような怒りが生じると、独裁国家では戦争が始まるのではないのでしょうか。
トップにあまりにも権力が集中している場合、トップの怒りを静めるスタッフの機能が働きません。
武器が高度に強力化した現在、独裁者を生まない人間の知恵を、見つけなければならないですね!
尾道 京からお連れした仁王さん「西国寺山門」
この仁王門は、門中にまつられている二体の仁王尊像とともに室町末期の作で、仁王尊像の躍動感と、威厳を感じます。正面に下がる大草履は、健脚を願っての奉納と伝えられています。
西國寺は天平年中、行基菩薩創建と伝えられ、真言宗醍醐派の大本山。
ある日、尾道に立ち寄られた行脚の中の行基はその夜、加茂明神の霊夢を見て、その御告げによってこの地に開山したと言い伝えられます。
「民話 西国寺の仁王さん」では、京都に有名な仏師が彫った素晴らしい仁王さんを、船で淀川を下り、京から大阪へ、そして海路尾道まで運んだと。
潔癖性は理想主義に通ずる!
劣等感は他人と比較するところから始まります。あるいは、何かしらから手に入れた理想との比較で、自分が劣っていると感じたところから始まります。
この比較はなぜ起こるのでしょうか、自分の向上心が原点にあるのでしょう。
日本は劣等感の強い国だといわれています。しかし、その劣等感を生かして、「追いつけ、追い越せ」で発達してきました。
他人(他国)など気にしないで、のんびりと生活する人(風土)と、他人(他国)を気にし、なんとか「追いつけ、追い越せ」精神で努力することと、どちらが自分(自国)に適しているのか、冷静に判断ができると良いのですが!
鎌倉 塩嘗(しおなめ)地蔵を収める「光触寺」
光触寺の境内。木々に囲まれた境内に、ひっそりと本堂がたたずんでいる。その本堂の脇に小さな地蔵堂があり、塩嘗(しおなめ)地蔵が収められている。この塩嘗地蔵、なぜそう呼ばれるのか。
ひとつは、六浦の塩売りが、初穂の祝いのために、「地蔵に備えた塩をなめたから」という説や、塩売りの供えた塩が「いつのまにかなくなっている」というので、そう名付けられたとも言われている。いずれにせよ、鎌倉には地蔵信仰が多く存在する。
「ダメだ」と言いそうになったら、「タメだ」と!
「失敗」=「やりそこなうこと。目的を果たせないこと。予期した効果をあげられないこと。」なのですが、「このやり方ではダメだ」という実績でもあるのです。
ということは、別のやり方を見つけるための準備でもあります。
「失敗=終わり」ではないのです。失敗の事実をしっかり調査・分析し、また同じような機会が訪れたとき、前回失敗の分析結果を反映すれば、成功の確率が上がります。その繰り返しが人生です。この体験が大事ですね。
福山 鞆の浦 仏庭十三仏がある「地蔵院」
鞆城跡の高台の南西あたりに位置する「鶴林山地蔵院」。この地蔵院は、慶長年間の後半に徳川家康が立案し、徳川秀忠が発令した「一国一城令」のため廃城となった鞆城の二ノ丸の跡地に再建された、真言宗のお寺です。
1408(応永15)年に宥真法師によって中興され、室町時代には将軍家の祈願所とされていたようです。金色に輝く本堂には、ご本尊である秘仏地蔵菩薩が鎮座。中国地蔵尊霊場第八番として信仰を集めています。また、山門や本堂脇には達筆なご説法が貼られており、じわっと心に染み渡ります。
選択は、いつも自力で行うのが基本!
「選択」を行う場合、自分ではあまり考えないで、NETなどで検索し、結論を出す場面が増えているのでは、と心配です。
これに、生成AIが普及すると、余計に自分で考える場面が少なくなるのでは、と心配です。
やはり、いろいろな体験をし、その上で、多彩な知識・情報を集め、それらを比較し、取捨選択をし、そして結論を出す、という過程が必要なようです。
いろいろな情報が手に入らない国もあります。また、を宗教的な理由で、判断が制約されている国もあります。
思考は、やはり多様なほうが良いのでしょうね!
鎌倉 望みが絶たれた徳川忠長を供養「薬王寺」
この地にはもとは真言宗梅嶺山夜光寺があったとされているが、日像が由比ガ浜でお経を百日間読誦する修行を行った際、寺が荒廃しているのを見て真言宗の住職と数日間宗教論争した末日蓮宗に改宗したと言われている。
一時は3,000坪(約1ha)ほどの境内に五重塔やいろいろな建物が造られるほどの大きな寺になりましたが1720年(享保5年)にすべてが焼失してしまいました。
徳川忠長公供養塔の存在により、徳川・蒲生家ゆかりの寺として寺紋に三葉葵が用いられていた為、一般住民の埋骨を許さない格式由緒ある寺であった、と。
古代の人類は太陽信仰みを持っていた!
自然信仰や先祖を敬う信仰が少なくなってきています。もちろん国によってかなり違いはあるのでしょうが、自然に学び、自然を大切にすることは、人類の生き残りの期間を延ばすことにつながっているのでしょう。
ただ日常では、ついついエアコンを使い、蓄電池つきの電化製品を使ってしまいます。どうしてなのか、コード付きの電化製品ですむ場合でも、蓄電池つきの電化製品になっています。
この無意識が温暖化につながり、人類の生存期間減少に影響を与えるのでしょうね。これを救うのは、太陽信仰や自然信仰なのでしょうが、これを取り戻すことは出来るのでしょうか?
尾道 蓮花坂(れんが坂)入口 → 大山寺へ
旧市内でもっとも古い東西を結ぶ本道とされていた蓮花坂。尾道は坂のまちとして知られていますが、坂道のほとんどにに名前がありません。ひとつだけ例外の坂道があります。それが「蓮花坂(れんが坂)」といい、西国寺下から大山寺下まで、愛宕山の中腹を上っていく坂道です。
尾道には、確かに坂道がたくさんあります。しかし、ほとんどの坂道の途中に石段があります。
「坂」という文字は、その原点に「土のイメージ」があり、崖に手をかけてよじ登るという意味があります。坂道の途中に石段があると、坂道に「○○坂」と名前をつけるには抵抗があったのでしょうか?