ミトコンドリアは暑さ・寒さに弱い!

 熱中症は、細胞の中にあるミトコンドリアが、温度の「高・低」に弱いためだそうです。人類は高温対策として、まず「毛を捨て」、「汗をかく」ことで対応してきました。寒さには、「毛皮や服を着る」、「火を焚く」ことで対応してきました。
 最近はエアコンの使用で対応しています。しかし、これは温暖化にもつながっているため、もっと新しい方法を見つけなければならないですね。そういえば、日本では「打ち水」をしていましたね!
 

厚木 雨乞いの行事をした「白山神社」

 昔より雨乞に霊験著しい池があり、 この池は、干ばつの時でも、池の水が涸れることがなく、 それ故、人はこれを霊地と唱え、ここに古い石像、石碑が残存しています。  むかし、行基和尚がこの地に来て、この山に登り、 この池を見た時、霊水の湧き出る清浄な霊地であることを発見して、 この山を霊地と定め、楠木をもって霊御形を彫刻し、 加賀国白山妙理大権現(石川県石川郡に鎮座)を勧請したとあります。
 下って江戸時代の1801年別当龍蔵院隆光は、山上に於いて、修行中に霊夢によって、 同山に秋葉権現と蔵王権現を勧請し、諸難、火難消除の守護とすれば疑なしと云々 近郷、近在の住民、信仰者の力を得て、 白山神社建立を企して、1804年再建をいたしました。

社会環境が変化のとき、これを謙虚に受け止める!

 新コロナの感染症の拡大、気候の温暖化、社会の状況が今までにない大きな変化を起こし始めています。
 日本には千年を超える歴史を持った会社が六社あるそうです。これらの会社は、同じものを造っていたわけではありません。同じ技術は使っていたとしても、社会の変化に応じた製品や商品を作っていったのです。
 社会の変化に対応して行くには、知識はあまり役に立ちません。知識というものの基本は「過去の知識」なのです。未来の知識ではありません。
 現在の状況を、洩れなく把握(現状把握)した上で、自分達が持っている技術、これから持つことができそうな技術を基本として、社会の変化に対応して来たのでしょう!

福山 鞆 江戸時代の石造では全国最大級「常夜灯」

 江戸時代の石造り常夜燈としては全国最大級で、北面に「営所祇園宮」、南面に「金毘羅大権現」の石額と掲げて、それぞれ該当する方向の神社に対する寄進・灯龍という形式を取っているんです。
 航海の無事を祈願する一方で、港湾施設として海に突き出して配置し、航行の際の目印として安全を図っています。
 この辺り(備後地方)が瀬戸内海の中央になります。海流が東西からぶつかり、海水が上下に撹拌されるため、このあたりの魚は味が良いと言われています。

化石燃料はいずれ枯渇する!

 地球の温暖化が止まらないですね。産業革命は、数十年後には、人類にとって最も大きな間違いと評価されるかも知れないですね。
 いま温暖化対策で考えていることは、新しい技術を開発して乗り切ろう、と考えています。
 ここでもう一度、伝統的な暮らし方を、一部でもいいので、復活させることを考えないといけないですね。伝統的な暮らし方を体験している人が、どんどん少なくなっているので、いまが引き継げる最後の時期ですね!

鎌倉 新田義貞が戦勝を祈願「小動神社」

 1333年(元弘3年)、新田義貞(にったよしさだ)が鎌倉攻めをして北条氏を滅ぼしたとき、神社に戦勝を祈願し、成就(じょうじゅ)の後に黄金(こがね)作りの太刀(たち)と黄金(おうごん)を寄進(きしん)したので、それで社殿を再興したと伝えられます。
 その後もたびたび修理や再建が行われました。現在の社殿のうち本殿は、江戸時代の1817年(文化14年)に、腰越全町の人々が協力して建てたものですが、改修されています。また拝殿は、1929年(昭和4年)に建てられたもので、これも改修されています。
 1868年(明治元年)の神仏分離(しんぶつぶんり)で小動神社と名を改めました。また、1909年(明治42年)は村内にあった諏訪社がここに移されたので、建御名方神(たてみなかたのかみ)もいっしょにまつっています。

社会全体が息苦しくなるのは!

 釈迦、孔子や老子は多くの人に対し、いろいろな立派な教えを説いています。
 そのような立派な人を生み出す国は、無意識に立派な国と思っていました。
 しかし、よく考えてみると、立派な言葉には到底該当しない国だがらこそ、立派な言葉が生まれるのですね。あるいは、立派な国にしようと努力しても、それが定着しない風土だから、立派な言葉が生まれるのでしょうね!

尾道 幼少時代尾道で過ごした「林芙美子像」

 林芙美子は尾道で13歳(第二尾道尋常小学校・現土堂小学校)から19歳(尾道高等女学校・現尾道東高校)まで住んでいました。
 芙美子にとって尾道の生活は生まれて初めてとも言えるような平和な日々でした。
 何回も引っ越ししながら、住んでいたようです。
 また、東京に出た後も、お金が乏しくなると尾道に戻り、知人の家に泊まっていたようです。
 作家目指して苦難の日が続きますが1929年「放浪記」がベストセラーとなり、作家として大成しました。
 文学の町にちなんで像が設けられました。

男性よりも女性のほうがカンが鋭い!

 ヒトの脳は、歳とともに神経細胞の数が少なくなるのでしょうか? 他の動物などに比べ脳が大きいため、生物としての余分な部分が、不必要となり、そのためか、細胞の数が少なくなるのでしょうね。
 人生が80年を超えると考えると、年齢を重ねても、いろいろな方面に興味を持ち、左脳だけでなく、感性も磨いて右脳も活用しなければならないですね。多様な脳の使い方に励み、細胞に老廃物を貯めることなく、脳の機能を維持していかなければならないですね!

鎌倉 焼き討ち時、日蓮救った白い猿「長勝寺」

【日蓮と白猿の話】
 1260年(文応元年) 8月のある日、日蓮は草庵で静かに読経をしていました。夜もふけたころ、机に寄りかかってとろとろ眠っていると、白い猿が3匹現われ、上人の衣にすがり、袖を引いて表の方へ引き出そうとします。上人は引かれるままに表へ出ると、ふもとの庵の方で割れるような大声とともに、たい松の火が20や30くらいちらついて見えました。何事かと思う間もなく、草庵に火をつけたらしく、火の手はたちまち燃え上がり、人々の叫び声が手にとるように聞えてきました。洞窟の前に立ってこのありさまを見ていた日蓮は、猿の手をとって洞窟の奥深く入りました。

からだの熱の逃がし方は二種類!

 むかしより夏と冬が長く、春と秋が短くなってきています。夏は汗をかいて、からだの熱を逃がすのですが、この機能はエアコンを多用していると弱くなっていくのでしょうか? また、生まれたときからエアコンを多用する環境で育つと、汗をかく機能はきちんと成長するのでしょうか?
 ヒトはからだの毛を無くし、からだを冷やす機能を充実させたことで、長時間の移動が可能となり、他の生物と比べると優位になってきました。エアコンは、進化の過程で手に入れた、からだを冷やす機能の劣化に影響しないのでしょうか? むかしより夏と冬が長く、春と秋が短くなってきています。夏は汗をかいて、からだの熱を逃がすのですが、この機能はエアコンを多用していると弱くなっていくのでしょうか? また、生まれたときからエアコンを多用する環境で育つと、汗をかく機能はきちんと成長するのでしょうか?
 ヒトはからだの毛を無くし、からだを冷やす機能を充実させたことで、長時間の移動が可能となり、他の生物と比べると優位になってきました。エアコンは、進化の過程で手に入れた、からだを冷やす機能の劣化に影響しないのでしょうか?

座間 齋藤龍興(道三の孫)の遺臣四名が氏神「日枝大神」

 創建者は織田信長に敗れた美濃国(岐阜県)の齋藤龍興(道三の孫)の遺臣四名で、この地を開拓し祭神を四ツ谷の氏神として祀ったと伝えられています。
 宝暦十三年(1763)に火災にあい、七十八年後の天保十二年(1841)に再建、棟札に「山王大権現」と記され、手水石や諏訪社の祠の奉納年号から見ると、社域もこのころから整えられてきたようです。
 明治二年(1869)、「山王大権現」から「日枝神社」に改称、祭神も「大山咋命」に変わり、同六年には村社に列され、同十八年八月に再遷宮の記録があります。

ダラダラ世界の中で過ごしてきた!

 サラリーマンの仕事ぶりは、むかしからダラダラした働き方、という印象がありました。能率重視の社会では、この働き方は批判的に見られた来ました。
 能率を重視し、短時間で仕事をする方法を見つけ、空いた時間を有効に使う、ということが大前提です。
 空いた時間、有効に使えていますか? ゲームをなどしていては能率アップの意味はありませんね。
 大学生もネット授業を早送りで見て、空いた時間をどのように使っているのでしょうか? 
 ダラダラ仕事でも、何かしら考えつき、何かしらのコミュニケーションをしたりした方が、メリットがあるかも知れないですね。
 能率アップは、新たに生まれた時間を有効に使った、ということが必須条件ですね!

福山 鞆 かわいい石仏立ちが「正法寺」

 当寺は慶長三年(1598年)京都・臨済宗東福寺派の守意を開基とし、元和九年(1623年)深溪和尚(しんけいおしょう)により妙心寺の末寺として再興されました。
 深溪和尚は布教とともに庭造りにも熱心で、奇木や珍石を多く集めて庭に数奇を凝らしたといわれ、江戸時代には朝鮮通信使の常宿としても利用されました。
 本堂の掲示:「1日一度は静かに坐って身(からだ)と呼吸を整えましょう。人間の尊さにめざめ、自分の生活も他人の生活も大切にしましょう。生かされている自分を感謝し、報恩の行を積みましょう。」
 ロシアのプーチンさんに読んでもらいたいですね!

どうして人間は戦争を起こすんだ!

 「どうして人間は戦争を起こすんだろうね?」、それも圧倒的に男性が。
 今日も安倍元首相が銃撃され亡くなりました。犯人は男性。最近の不可解な犯罪も、犯人の多くは男性ですね。どうしてなのでしょうね?
 男性は考え方に幅がなく、1つの方向になりやすいようです。特に100点主義の教育で、いつも答えは一つしかないと思い込んでしまう傾向にあります。でも、答えというものは一つではありません。
 私は、小学校の家庭科で「新鮮な魚の見分け方」を習ったとき、「魚の目やエラを見て見分ける」と習いましたが、住んでいたところでは「魚に触って動くかどうか、タコやイカは吸盤に触って吸い付くかどうか」で新鮮かどうか見分けていました。どうして教科書にヘンなことが書いてあるのだろう? と思いました。
 答えというものに、「曖昧」を許容していれば、社会人になっても、一つの考え方に固執することが少なくなるのではないでしょうか!

鎌倉 忍性が熊野本宮から勧請した「熊野神社」

 もとは新宮社と称し、1269年(文永六年)忍性が熊野本宮から勧請したと伝えられ、鎌倉時代、極楽寺全盛時より熊野新宮と号し、極楽寺の鎮守社として広く神域を領して鎌倉幕府の崇敬を受けていた。
 祭神は、日本武尊(やまとたけるのみこと)、速玉男命(はやたまのおのみこと)、素斐鳴命(すさのうのみこと)、建御名方命(たけみなかたのみこと)である。
 極楽寺一帯には、もともと熊野新宮のほか、八雲神社と諏訪明神社の二社があったが、関東大震災で倒壊したため、昭和三年に当社に合祀された。

頭を使う仕事は朝にまとめて行う!

 ホモサピエンスの脳は、生物としての必要な機能を越えた大きさになっています。そして、脳はエネルギーを多く消費してしまいます。
 SDGzの視点から考えると、ホモサピエンス以外の生物から見ると、最もSDGzに反する生き物です。そうであるならば、全ての生物に住みやすい環境づくりに貢献する必要があるのでしょう!

尾道 もとは向島にあった信行庵が移転「信行寺」

 1214年に浄土宗第二祖の聖光が開いた寺で本尊は阿弥陀如来。元は聖光が向島の三ツ石に一草庵を結んで住んだのがはじめである。
 1596~1614年に住職称住がこの草庵で四十八夜念仏修行をしたとき、その満願の暁方、阿弥陀如来の来迎に逢い、結集と共に入水往生したが、その時結集の中の一人は現世に残ってこの庵を相続せよというので、行欣が残ることになり、1603年現在地の下の山陽線路上の辺に移った。
 1891年山陽鉄道が開通したので、堂舎を現在地に移した。

 1214年に浄土宗第二祖の聖光が開いた寺で本尊は阿弥陀如来。元は聖光が向島の三ツ石に一草庵を結んで住んだのがはじめである。
 1596~1614年に住職称住がこの草庵で四十八夜念仏修行をしたとき、その満願の暁方、阿弥陀如来の来迎に逢い、結集と共に入水往生したが、その時結集の中の一人は現世に残ってこの庵を相続せよというので、行欣が残ることになり、1603年現在地の下の山陽線路上の辺に移った。
 1891年山陽鉄道が開通したので、堂舎を現在地に移した。

ひどい体験をすると心に傷を残す!

 「失敗は成功のもと」(失敗すれば,方法の誤りなど失敗の原因もわかるので成功へ一歩近づくことになる)なのですが、一番の問題は、やってみないこと。
 そして、考えもしないうちに、やってしまうこと。
 「失敗は成功のもと」にするには、行動を起こす前に考えること。それが出来ていれば、失敗の原因を追求でき、成功のもとになるのですが、これはなかなか出来ていないものです。
 でも、失敗後の状況はつかめるもの。すくなくとも、失敗後の状況はしっかりつかんでいきましょう!

厚木 鎌倉幕府の御家人安達藤九郎盛長が勧請「八幡神社」

 八幡神社は三田村の鎮守です。「新編相模国風土記稿」によれば、安達藤九郎盛長が勧請したと言い伝えられているとあります。本殿の規模は桁行(問口)6尺、梁行(奥行)5尺を測り、一問社流造としては荻野神社に次ぐ大きさです。
 建築年代ぽ残された棟札(むなふだ)から元禄3年(1690)とみられます。
 朱塗りを基調として、彫刻や組物などは極彩色としています。
 元禄3年(1690)の八幡宮再興棟札には大工として、三増村((愛川町三増)の高木半左衛門、宮本清兵衛の二人の名前が記されています。また「進神ノ大施主 川口長三郎」とあり。これは三田郷の領主です。