鎌倉 竜巻や火災にあったりした「補陀洛寺」

 文覚上人(は頼朝の挙兵をうながした人)の開山、源頼朝の開基。1181年に源頼朝の祈願所として創建。七堂伽を完備した大寺院だったが、火災や竜巻で多くの伽藍を失なった。当時は境内も1km四方あった。
 本尊の十一面観音菩薩像や薬師如来像(行基の作)、日光・月光菩薩(運慶作)、地蔵像(空海作)などが安置されている。

 源頼朝の供養をする位牌所。

 「補陀洛」サンスクリット語で「ポータラカ」(観音菩薩が住むという南海上にある山のことで、観音浄土を意味する)。日本語に翻訳するとき「補陀洛」の字をあてた。
 はじめは、阿弥陀仏の西方浄土が人々の信仰を集めるが、次第に南の補陀洛浄土への信仰が盛んになっていったという。

明るくなるためのヒケツ!

 このような危機的状況なときほど「笑顔」が大事ですね。たとえ作り笑顔でも、相手には伝わるようです。危機的な状況で耐えることを続けて行くには、笑顔が力を与えてくれます。自律神経のバランスを保つにも、また、大声を出さない場面づくりにも、笑顔が大事です!

尾道 良港鶴湾に昔、せりだしていた「丹花小路」

 江戸時代には、石見銀山の銀を運ぶ通路(丹花小路)だったようです。

「丹花小路」

 美しい天然の良港鶴湾にその昔、細長くせりだしていた丹花。鉄道以南唯一の高台としてその跡をとどめ、近所の人いがい通ることのなくなった丹花小路(元は長江一丁目荒神社前から久保一丁目橋本玩具店前)の中間あたりにスッキリした高さ2.1mの宮立型燈寵がたてる。
 灯範柱の北側から「願主家内安全」金比羅大権現が小さく「常夜灯」「町内安全」「文政六年」(1823)と刻まれ、同時代を代表する型のほか、その当時神社仏閣、豪商などの私邸に多く造られていた石造美術品にたいし、庶民の手により今で云う街路防犯灯の役目を果した灯籠としての意義は注目されよう。

会社から飛び出して何ができるか!

 親の言うこと、先生の言うこと、上司の言うこと、などを聞く(従う)ように育ってくると、現在の新型コロナウイルス対策においても、政府の言うこと、知事の言うことなどに従おうとして、ハッキリした指示がでないと不満を漏らします。テレビに出てくる評論家達の多くも、「国からハッキリした指示が出ない」とこぼしています。世の中には「指示待ち人間」が明らかに多くなってきているようです。高度な教育を受けるほど、他人(指導者・専門家)の知識で判断・行動するようになるのでしょうか? ハッキリしたことが分からないときには、自分の「体験や経験」で推測し、判断するしかないのですが、指示待ちになる人が多いようです!

鎌倉 洪鐘(おおがね)と呼ぶ「円覚寺 鐘楼弁天堂」

 急な石段を上ると、正面に弁天堂があります。その左側には、「正安三年」(1301年)の年号が記された梵鐘(国宝)があります。この梵鐘は、北条貞時が物部国光(もののべくにみつ)に造らせた鎌倉時代の代表的な名鐘の一つで、高さは2.59mもあり、関東地方最大の鐘です。また、鐘楼の鰐口(わにぐち)には「天文九年」(1540年)の年号が記されています。弁天堂は、麓鐘が江の島弁財天の教えによって鋳造に成功したという伝説により建てられています。

安心感は滅亡の最大原因!

 ダイナマイトを発明したノーベルは、戦争をなくすることを目的としてダイナマイトを発明しました。しかし、結果は、戦争がもっと悲惨になりました。そのことを反省し、ノーベル賞をつくりました。無差別爆撃を賞賛する映画をつくったディズニー、あるいは、原子爆弾を開発した科学者は、自分達を正当化する方法を探し回っていたのでしょう。後世に平和がやってくるような「しくみ」づくりには、取り組むことができなかったようです。大国になるには、やはり非常さが必須なのですね。中国もそうですが!

福山 鞆 キリシタンに友好的であった「慈徳院」

 慶長年間、備後国を領有した福島正則によって、鞆の浦の寺々はほぼ一直線に結ばれ、寺町が形成されました。その寺町筋に位置するお寺のひとつが、この慈徳院です。
 福島正則が大檀越(だいだんおつ/「檀越」とは、仏教を後援する人のことをいいます。仏僧に帰依し、衣・食・住に関してのお布施をしたり、お寺の経営を支えたりします)となり、ご本尊・聖観世音菩薩像を寄進。そして、高僧・松雪得松禅師が開基したと伝えられています。その後、中興の祖・月湛(げったん)亮和尚がご本堂を再建し―。現在でも、境内に美しい緑をたたえながら、鞆の浦の町に静かに佇んでいます。

安心感は滅亡の最大原因!

 戦後75年、戦前からの100年間は、歴史上かつてないほどの激動の時代のようです。戦前の時代、戦争中、戦後の貧しい時代、そして高度成長、オイルショック、バブル時代、バブルがはじけた時代、新コロナで激変が起こりそうな時代、そして、温暖化で地球環境が変化し災害の時代が来るのでしょうか。その変化に対応してきた日本。これからの変化にも何とか対応していくしかないですね!

鎌倉 恵比寿と同一視される「蛭子神社」

 昔、本覚寺の鎮守でその境内にあった夷三郎(えびすさぶろう)をまつる夷堂が、明治時代になって寺と分けられてこの地に移り、蛭子神社と名付けられました。この場所には、もと小町下町(こまちしもまち)の鎮守の七面大明神(しちめんだいみょうじん)が、小町上町(こまちかみまち)の宝戒寺の鎮守であった山王大権現(さんのうだいごんげん)とー緒にまつられていました。
 本版は、1923年(大正12年)の関東大震災で壊れましたが、1933年(昭和8年)改築されました。
 夷堂は、今は再び本覚寺に移されています。

人間的なバランス!

 十代後半から、「精神的に大人になるのは35歳までに」という意識があれば、若いときの思い上がりがもっと少なくて済んだことでしょう。二十歳になると、もう大人(精神的にも)と思ってしまい、他人の意見に耳を傾けることが、少なくなってしまいます(もちろん謙虚な人もいるのですが)。若いときから謙虚な人は、どんな危機的な社会であっても、冷静な判断ができるのでしょう!

尾道 綿密に検討し架けられた斜張橋「尾道大橋」

 1968年(昭和43年)3月に尾道大橋有料道路として開通。
2013年(平成25年)3月31日に料金徴収期間満了し無料開放された。
 本州本土と向島の間にある幅約200mの尾道水道を結んでいる。
  ・全 長 : 386m
  ・形 式 :3径間連続鋼箱桁放射形斜張橋
 尾道大橋は,我が国で建設される斜張橋では初めて最大支間が200mを超え、本格的斜張橋の先駆けとして、綿密な検討をし架けられました。
 尾道の旧市街地全体を見ることができます(しまなみ海道の新尾道大橋が少し邪魔ですが)。季節を選びます(冬の前後か?)が、夕日がきれいでしょう(季節によって、夕日が沈む位置が違います)。ただ、歩行者にとっては、少し歩きにくいです。自転車での通行は、狭い箇所があり、やっかいです。

「人」によく思ってもらいたい!

 世間体ばかりを気にしていると、自分というものの確立が難しくなってきます。「世間に振り回されるか」、「世間を振り回そうとするか」、そのどちらかになってしまうと、取り返しがつきません。世間体の基礎は、子供時代に過ごした土地の風土が大きく関係しているようです。県民性と言われるのは、その土地の風土が影響しているのでしょうね!

鎌倉 地震や津波で海辺から移された「円応寺」

 山号を新居山(しんきょさん)といい、十王堂(じゅうおうどう)とも呼ばれていますが、もとは新井(あらい)(荒井)の闇魔堂(えんまどう)というお堂だったといわれています。新居の閣魔堂は、知覚禅師(ちかくぜんじ)が1250(建長2年)に建てた寺で、はじめは甘縄神明(あまなわしんめい)神社の近くの「由井郷見越岩(ゆいごうみこしいわ)」にありましたが、足利尊氏によって海辺に移されました。

肉体的な疲労は声に迫力を欠く!

 迫力を持った声を出すには、体調が大きく影響します。実力がまだ未熟な若者は、周りの大人達と、声で同等に(無意識)なろうとします。そのため、大きめの声で話します。また、落ち込んだとき、元気がないときなど、カラオケや何かしらの応援に行って、元気を(無意識)取り戻そうとします。この特性が現在の新コロナ感染対策に弊害を起こす一つの原因なのでしょうか?

尾道 むかし曼荼羅堂といわれていた「海龍寺」

 奈良の西大寺の定証上人が西国巡礼の途路、当時の曼荼羅堂といわれていたこの寺に住み、荒廃していた浄土寺を建立したと伝えられている。
 その頃備後太田庄の荘官でこの寺の別当職であった和泉法眼渕信がこの寺を定証に寄進したという古記録がある。
 正中二年(1347年)には炎上したが、直ちに再建され、寺名を現在の海龍寺と改めたのは寛文二年(1662年)である。

こなときこそ、頭を上げ、背筋を伸ばし歩きたい!

 考え方・物のの見方を変えることは、ものすごく難しいことです。情報や本などを選ぶとき、青年期以降は自分で選ぶようになります。誰かに勧められたとしても、その誰かは、自分が選んでいるので、同じ流れの中で選んでしまいます。その結果、自分が選ぶ流れからは抜け出せないでいます。その流れから抜け出す一つの方法として「無の境地」を修行する「座禅」が生まれたのでしょうか!

福山 鞆 五ヶ寺を統合した寺院「大観寺」

 麾尼山大観寺は昭和初期に、増福寺・玉泉寺・地福院・宝嚴寺・常喜院の五ヶ寺を統合した寺院である。
 増福寺は、永禄年間(1558~1569年)に、玉泉寺・地福院(江戸初期は泉蔵坊)は天正年間(1573~1591年)に再興されたと伝えられる。宝嚴寺(江戸初期は長福寺)と常喜院は慶長10(1605年)年頃の建立と伝えられる(『あくた川のまき』天和3(1683)年)。
 再々、朝鮮通信使の上官の宿舎になった。江戸時代は真言宗明王院末寺。

ダーウィンの自然淘汰説!

 「現在の環境にどれほど適応できるか?」が現在問われています。岩手県の人達は、現在の状況に対する適応力が高いのでしょうか? 新コロナウイルスとっては、岩手県の環境が適応しにくいのでしょうか? どちらにせよ、現在の状況に適切に(結果的にかもしれないが)対応できた人達が生き残れるのでしょうね。

鎌倉 腰越 開山は空海と伝えられる「浄泉寺」

 以前は、山門も本堂も、江ノ電の線路の方を向いて建っていましたが、1955年(昭和30年)に国道134号線が造られた際に現在の位置に移されました。国道の工事中の1954年(昭和29年)に、浄泉寺墓地の南側と小動神社境内から、開元通宝(かいげんつうほう)・治平(じへい)通宝・政和(せいわ)通宝・洪武(こうぶ)通宝その他、宋(そう)や明(みん)の古銭が1000枚以上、約60kgも出土しました。

人よりも先々のことを考え、準備が大切!

 「先々ことを考える」ということは、一つの答えではなく、「想定されるさまざまなことに、どのような対応ができるか」を考えること。テストの答えは一つしかないので、これに慣れすぎると、先々のことを考えることができなくなってしまいます。そのためか「なんとかなる」という答えを導き出してしまいます。学校での知識教育には限界があるようですね。やはり、多彩な自然の中での体験を、数多く積むことが大切なようです!