尾道 三人の義賊、三つ首様をを祀る「海福寺」

 本堂の西側にある「三ツ首様」は処刑された盗賊の首をまつったもの。1828年の頃、尾道地方に想兵衛・亀蔵・利助という三人の盗賊がいたが、一風変わった連中で常に貧者に施しをしていた。
 三人が捕らえられ処刑された夜、この寺の住職勘応の夢枕に三人の霊が現れて、「我々三人の首を埋葬供養されたら、首より上の病を癒すであろう」と告げたので、住職は三人の首を請い受けて本堂の横に埋葬し、三人の戒名を刻んでねんごろに供養した。それから霊験まことにあらたかであるので「三ツ首様」はお香の煙が絶えない。

子供に無関心な親が、いわゆる"最悪の親"!

 いま「こもり」の原因の一つに、厳しい親が原因では、と言われています。現在の能力主義のもとで、成功している親は、何らかの形でお金につながる組織、権力につながる組織などで、言葉から学んだ「知識」をもとにして成功しているのでしょう。これらの能力以外の能力に、気づくことができないようです。思い込みが激しい親、言葉から得た知識・理論が優先の親、このタイプは五感から入ってくる情報を、いろいろと繋がりをつけ、柔軟の智慧を活用することができなくなっているのでしょう!

鎌倉 天狗の姿をした像を祀る「半僧坊大権現」

 後醍醐天皇の皇子「無文元選禅師」(むもんげんせんぜんじ)が開いた方広寺(静岡県浜松市)が半僧坊の本元と言われています。
 お堂の中には、天狗の姿をした半僧坊(はんそうぼう)像がまつられ、神と仏が一緒になった信仰を伝えています。ここからの眺めはたいへん素晴らしく、毎月17日にお祭が行われます。

能力主義には限界がある!

 いまは能力主義の社会になっています。この能力というのは「お金」に関わる能力のことで、それ以外の能力は、それほど社会では認められません。戦国時代の能力は「いくさに関する能力」が評価されていました。そうした能力主義の時代は、自分が生きている時代中心のことしか考えません。子孫代々の繁栄は二の次です。そのためか、織田信長や豊臣秀吉は、実質一代のみです。そうゆう社会の弱さに気がつき、多方面の能力を社会に生かす時代ができたのが江戸時代です。社会に幸せをもたらすことは、お金による豊かさだけではないのでしょう。もっと多彩な能力が必要なのでしょう!

福山 鞆 鬼子母尊講中お題目碑がある「妙蓮寺」

 慶長年間(1596~1614)に実相院日玖が創建したと伝えられています。実相院日玖は元気で充実した年頃に日常のつきあいを断ち、法宣寺十四世恵性院日親の弟子となり、修行し、法華経を読すること40年、一万二千余巻におよんだ。
 福山藩主・水野勝成殊勝に願い、寛永の末(1644年頃)今の地を賜い、三人扶持十一石を賜る。
 本堂は、主として浄財を募り建立。上京し、本山から山号・寺号を請受した。庇護もあり、その勝俊の位牌が伝わる。承応年間(1652~1654年)に建立したと伝えられる三十番神堂があり、二代・日護の時、延宝年中(1673~1681)奉行・藤井六郎右衛門に願い出て、境内門前を広げ、四代・日義、元文四(1739)年に鐘を鋳造した。妙蓮寺本堂、鐘楼、山門とも元文年間(1736~1741)に再建された。

東洋医学的にいうと、病気は血の汚れが原因!

 西洋医学は、測定が可能なデータをもとに、それまでの知見をもとに、病気を判断し対処しています。測定ができない場合は、専門分野を勉強すればするほど「直せない」という判断になるのでしょう。もちろん、専門分野の知識と、経験で感性を磨き、常になにかよい対処法がないかと思いながら、経験を積み、考えに考えてきた医者は、検査データは参考程度に利用し、対処法を見つけ出してしているのでしょう。多くの医者は、検査データだけに頼っているのだろうと感じる理由は、患者が自分の症状を伝えるための「ことば」が、非常に少なく、地方によって独特の言葉ありながら、「症状を表現する言葉」を整理し、表現しやすい言葉を見つけ出すなどの作業を、医学会がやっていないように見えるからです!

鎌倉 明治中頃まで住職を置かなかった「龍口寺」

 龍口寺の始まりは、日蓮の弟子の日法が日蓮が亡くなった後、日蓮宗にとって記念すべきこの地を後世に残すために自分で日蓮の像を刻み、1337年(延元2年)に草庵を建てて安置したことだといわれますが、やはり日蓮の弟子である六老僧が建てたともいわれます。1883年(明治16年)ごろに住職を置くようになるまで、龍口寺には住職を置かず、輪番八ヵ寺といって、近くの八つの寺が順番に龍口寺を守っていました。室町時代のころは龍口院と呼ばれていたようで、龍口寺の名が出てくるのは戦国時代になってからです。

「考えること」を教えることはできません!

 向上寺は応年七(1400)年地頭・生口守平公が 瀬戸田潮音山の観音の霊場に一寺を建立し、臨済宗 仏通寺派開山勅特賜仏徳大通禅師愚中周及大和 尚(1323~1409年)を迎えて開きました。 聖観世音菩薩(秘仏)を本尊とし、古来、災害鎮圧と興隆繁栄の祈願寺として 崇敬されました。
 伽藍は明治6年に焼失、本堂は三原近在の寺院解体による古材で 再建しましたが、その後、老朽破損・解体し、現在は仮本堂にて 創建六百周年の復興を目指しています。

尾道 明治の火災の時、三重塔が残った「向上寺」

 向上寺は応年七(1400)年地頭・生口守平公が 瀬戸田潮音山の観音の霊場に一寺を建立し、臨済宗 仏通寺派開山勅特賜仏徳大通禅師愚中周及大和 尚(1323~1409年)を迎えて開きました。 聖観世音菩薩(秘仏)を本尊とし、古来、災害鎮圧と興隆繁栄の祈願寺として 崇敬されました。
 伽藍は明治6年に焼失、本堂は三原近在の寺院解体による古材で 再建しましたが、その後、老朽破損・解体し、現在は仮本堂にて 創建六百周年の復興を目指しています。

「毒のある人々」は善人ぶる!

 何の見返りも期待しないでボランティアに参加する人が多いのですが、中には回りの評価を気にしてボランティアに参加する人がいます。育った土地の風土が影響するのか、地域差もあるようです。土地の風土の違いがよく分かることに、「お返し」があります。お土産をもらったり、何かをしてもらったりすると、すぐお返しをする地域と、日常的に、あげたり・貰ったりしている地域は、「お返し」にはこだわりません。地域の風土は、生活スタイルに影響していると共に、性格にも影響を与えているようです!

鎌倉 昔、ここに律宗の多宝寺があった「妙傳寺」

 ずっと昔はここは極楽寺と同じ律宗の多宝寺と言うお寺があり、裏山には巨大五輪塔があり、その中には「多宝寺覚賢長老遺骨也」がありました。
 その多宝寺については正確なところは判りませが、山号は扇谷山。開基は鎌倉幕府連署・北条重時の子業時とされています。
 開山は忍性で1262年(弘長2年)、忍性はその5年後に極楽寺に移っています。覚賢はその後の住職だったのかもしれません。学堂のある学山、要するにお寺大学院。当時極楽寺・称名寺と並ぶ、西大寺系律宗の拠点寺院であったそうです。

M&A(企業の買収)は投資家向け!

 商売を考えるとき、現在は「目先のことがすべて」という時代になっています。経済の専門家集団が導いてきた結果なのでしょう。商売の規模に頓着せず「たとえ細くても、息の長い商売を目指す」というビジネスが、見向きもされなくなってしまいました。むかしは、岡山の土産「きびだんご」のように、桃太郎の昔話と結びつけることで、息の長い商品に仕立て上げました。このように、商品と物語などと結びつけ、息の長い商品にしたり、こだわりが湧く商品で、しかも、いつまでも修理が可能な商品を提供するなどのビジネスが、衰退してしまいました!

厚木 江戸時代、大山詣での街道沿いに「法界寺」

 法界寺は荻野新宿の中央に現存し、戦国時代の末期北条氏家臣松田右兵衛大夫康長の創建によるもの、その後近世初期僧党誉の中興もあり壮大なる本堂を中心にして現存している浄土宗の寺です。
 また、この法界寺は、明治期の県央教育界に大きな足跡を残している。1872年に「学制」が発布され、それまで県央地区に存在した41の寺子屋と4つの郷学校が廃止され、「尋常小学校」が開設された。 この廃止された学校に替わり法界寺では住職・曽我明随により私塾が開設されている。

ヒトは大人になっても子供の形質を持つ!

 「日本人(アジア人も)は、大人になっても子供の形質をたくさんもっている」とのこと、この形質は、新コロナウイルスの感染にも影響しているのでしょうか。人類が各地域での生き残り対策が、DNAに組み込まれ、その結果が住んでいる地域の環境に適応できた人達が、現在まで生き残ることが出来たのでしょう。だから、現在に生きている我々も、確実な感染対策ができる素質を発揮できる人が、生き残っていくのでしょうか。日本人は、法律で規制しなくても対応できる人が多い、関西や西日本の古くからの商人の町では、半世紀ほど前までは「法律は最低のマナーだ」といわれていました。だから、法律で規制しなくてもルールを守る人が多いのでしょう。これはやはり歴史の産物で、DNAにもある程度組み込まれているのでしょうか!

鎌倉 新田義貞が北条方の戦死者を弔う「九品寺」

 創建は1336年 九品寺は、新田義貞が京より招いた風航順西が開山。この地は義貞が鎌倉攻めの際に本陣を構えたところとされ、北条方の戦死者を弔うために建立された。
 1333年 新田義貞は5月8日自国を出発、徐々に軍勢を整え、鎌倉に攻め上った。5月22日 稲村ケ崎で“剣を投じて奇跡”を起し、そして一気に中心に向かって侵攻。材木座海岸からまわりこんで、この地に陣を構えた。 町の中はあちらこちらに火が放たれ、猛火が罪のない人々を襲い、阿鼻地獄のようになった。
 北条方も勇猛に戦ったが利あらず、同日東勝寺にて、北条高時はじめ多くの一族郎党、八百七十余人が自刃したと 伝えられている。『太平記』
 鎌倉では唯一の義貞が建立した寺で、山門の「内裏山」、本堂の「九品寺」の掲額は、義貞の筆蹟と伝えられている。

自分の無力さに気づくと!

 「自分は無力だ」と気づきながらも、社会に対し「少しは貢献できている」と思うことが出来れば、良い人生を送ることが出来るのでしょう。そのように感じている人は、顔つきが穏やかになり、見知らぬ人からも会釈されるようになるようです。不思議ですね!

尾道 平安時代の初め806年の鎮座の「艮神社」

 非常に神聖な感じを受ける神社です。
 この神社の真上を千光寺山へのロープウェイが通っています。ロープウェイの駅も直ぐそばにあります。
 “神様の真上をロープウエイで通るなんて”この感覚は尾道的なのでしょうか。尾道には神様も仏様も(隣近所に)たくさんいらっしゃるので、あまり気にしないのですね。
 名前の艮(うしとら)は北東はの方位で、時刻にすれば夜中の3時前後、「草木も眠る丑三つ時」にあたります。

ヒマな人間も忙しいと思っている!

 「ヒマな人間も忙しいと思っている」と思う人は、おそらく要領(物事をうまく処理する方法・手段)が良い人なのでしょう。要領が良い人は、やはり仕事の量が増えていきます。成果主義の時代には有利です。ただし”人生”において、ほんとうに有利かどうかは、なんともいえないですね。現代の価値観は、自分の時代だけを見て「成功したかどうか」ですから、子供や孫に対して、家庭内で冷遇していないか、という心配もあります!

鎌倉 安産の神様とされる産女霊神を祀る「大巧寺」

「おんめさま」(おうめさま)の名で親しまれている安産祈願の寺。
 創建は1320年と伝えられています。
 本尊は安産の神様とされる産女霊神(うぶすめれいじん)。550年前の室町時代、難産のために死んで霊となり人々を苦しめていた女の霊を、当時の住職であった日棟上人が鎮め、安産の神として祀ったことから、安産の神として「おんめ様」の通称で親しまれるようになった。
 この寺は、はじめ大行寺(だいぎょうじ)といって十二所しありました。頼朝がある戦いのとき、この寺で練った作戦によって大勝したため、大巧寺と名を改めるよう命令したそうです。

人は誰でもが出来損いである!

 中国の主君に対する格言で、一番良い主君は、人民から見て「主君が、いるのか、いないのか、分からない社会が一番良い」とされています。庶民が自由に生活しながら秩序が保たれ、安定した社会が理想の社会ということです。その風土か現在でも何とか残っているのは、日本だけになっているのでしょうか。今でもたくさんの神々がおり、仏教があり、いろいろな宗教もそれほで否定しない風土があるのも珍しい国です。ただ、外国の情報が大量に流れ込み、英語教育も強化される社会、強いリーダーが良いとする社会に移っていくのでしょうか? 生物としての人間は「子孫に繁栄を引き継いでいくこと」が大切とされています。織田信長も豊臣秀吉も、子孫に繁栄を残していません。しかし、現代では、すごい英雄と考えられていますね!