厚木 長野、高遠石工の作か地蔵様がある「広沢寺」

 曹洞宗に属し薬師如来を本尊とし、創立は後花園天皇の時代、相州足柄上郡の最乗寺了庵彗明禅師が開山しました。
 禅師は、当時七沢城主であった上杉定正と親交が深く、寺内には領地の一部を寄附してもらった上杉定正夫婦の遺骨が埋葬されています。
 入り口の石段の途中に、長野の高遠から来た石工たちがつくったのでしょうか、江戸時代に作られたと思われる石仏があります。

ミスを報告してくれたことを評価する!

 いまはミスに厳しい社会になっていますね。その基本にあるのは、損害賠償の判決で、賠償金が入るようになったからなのでしょうか? クレーマー社会のためなのでしょうか? ミスに厳しい社会のため、専門家を目指す人が増えいるようです。専門家は自分の分野だけやっているので、ミスが少なくてすみます。しかしミスをした場合は、ミスに対して厳しいですね。しかし視野が狭いため、専門領域以外は口を出さないですね。もっとミスに対して、優しい社会になって欲しいですね!

鎌倉 日蓮も一時幽閉された土牢「光則寺」

 行時山光則寺と号し、もと妙本寺末。開山日朗。開基は北条時頼の近臣宿屋光則。境域は光則の居宅跡という。文永八年(1271)九月、日蓮が龍ノロ法難で佐渡に流罪になったとき、日朗ら門弟は捕えられて光則にあずけられ、光則は彼らを土牢に幽閉した。この間に、日蓮に帰依した光則は居宅を寺に改め、父行時の名を山号に、自分の名を寺名にしたと寺伝する。詳し寺史は不明。
 境内奥の墓地上にある。文永八年(1271)龍ノロ法難で日蓮は斬首をまぬがれ、佐渡へ流されるまで、他の僧俗とこの土牢に幽閉されたという。

自分での価値は手に入れた過程で決まる!

 「断捨離」という片付けの技術が、もてはやされる時代になっています。豊かな時代の証なのでしょうか。すぐに捨てられる背景に、設計者が専門家し過ぎて、修理可能な製品設計の技術が失われたことも一因なのでしょう。修理が出来る設計をするには、幅広い知識が必要です。現在の専門家は、知識の範囲が狭く、ついついその知識の範囲で設計してしまいます。また、製品を買う側にも、スペシャルな製品を買う傾向があります。修理せず、多くのモノが捨てられることは、温暖化の原因にもなるのでしょう!

尾道 日本最古の交通安全標識が「尾道東高等学校」

 ここは林芙美子の母校である。林芙美子の文学碑と対照的祥碑のすぐ後方に風雅な頼山陽遺墨の「往来安全」灯籠がひっそりたっている。
 この灯籠は頼山陽と交りが深かった籔内流茶道の宗匠内海自得斉が山陽来遊のさい揮毫を依頼して天保年中(1830-)当時山陽道の脇道として往来の激しかった東高下の防地川に建てたもの。
 1973年頃ここに移した、おそらく日本最古の交通安全標識なのでしょう。

自分でつくった固定観念から解放されたら!

 事実は神であると言われています。事実の前には、どんな不遜な人でも頭を垂れるほかないからでしょう。しかし、何が事実かについては、解釈と事実が混同され易いのです。事実には目印がついていません。隠れている事実に光を当てるには、それなりの知恵が必要です。大切な事実ほど、偏見、固定観念の陰に隠れます。アイデアを多く出すには、固定観念を捨てて柔軟な頭を保つ必要があります。着想の斬新性は、固定観念のしがらみから、どれだけ自分を離脱させうるか…にかかっています!

「知識の組合せ遊び」で柔軟な思考へ!https://risetu.net/01tisiki_asobiba/PP_tisiki/tisiki_powerpoint01.html

鎌倉 北条時頼公の墓がある「明月院」

 明月院の由緒を述べますと、当寺は北条時頼公の墓といわれる宝笹印塔があることでもわかるように、北条氏執権第五代の最明寺入道時頼の仏道修行の小堂がはじめであります。名君時頼を記念して時宗は禅興寺を建て、後に廃寺となったが、その名残りのたった一つの塔頭が明月院なのです。
 さすが由緒ある古い寺、上杉重房木像、北条時頼塑像という名彫刻を持ち、古都鎌倉の伝統を脈々と伝えているのです。
(「鎌倉 趣味の史跡めぐり」長峰五幸著より)

人間も自然の一部、一番よいのは「身土不二」!

 以前より「地産地消」が良いと言われています。体に優しいですね。昔のように人の出入りが少なかったときは、地産地消に勝るものはなかったのでしょう。しかし、人の移動が国内だけでなく海外にも広がると、海外から病原菌なども入ってきます。そのような現代、いろいろな食べ物を食べた方が良いのでしょうか? ただし、育成促進剤や除虫剤のような薬品類を使って育った食材は、避けた方が良いのでしょうが!

福山 武器商人の使い?坂本龍馬「いろは丸展示館」

 いろは丸事件ば、慶応3年(1867)4月、龍馬は海援隊を組織し伊予大洲藩から借げ受けた西洋式の蒸気船「いろは丸」に乗って長崎から大坂に物資(鉄砲)を運ぶ途中、岡山県六島沖(現在の同県笠岡市)で、紀州藩の蒸気船「明光丸」に横から衝突されたのです。明光丸は鞆港へ向けて、いろは丸を曳航しようとしましたが、浸水のため宇治府沖で沈没してしまいました。
 このため両者は鞆の浦にとどまりの損害賠償について昼ゆ夜交渉を繰り返しましたが決裂し、舞台を長崎に移して再交渉を行いました。最終的に、龍馬側が賠償金を受け取る、ことでようやく決蒲ししました。
 この事件は、坂本龍馬が暗殺される半年前のことです。

薬草は文字のない大昔から利用!

 薬草は太古の時代から使われていました。漢方の医学は紀元前に成立しています。中国の漢の時代、征服した人達を、50年あるいは100年もかけて、人体実験とも言える方法を利用し、漢方の医学が成立したようです。人類も自然から成立したもの、自然のものを利用した方が、長く煩っている病には、からだに良いのでしょう。近頃は、西洋医学と漢方の併用が試されています。新コロナウイルスでも、人種による違いが感じられます。食べ物と免疫の種類も関係しているのでしょうか!