「自信過剰」といわれるが、自信はどのようにして、できてくるのでしょうか。自信のでき方は二つあるように思います。一つは、他人との比較において、できてくるもの。もう一つは、自然の体験の中から、できてくるもの。この二つの自信の違いは、他人との関係での自信は、「過剰」になる危険性があり、自然の体験からできた自信は、謙虚になることだと思います!
2019年のアーカイブ
福山鞆の浦 多彩な歴史の足跡が「小松寺」
瀬戸内の要港にある古刹であり、同寺へは高憎や将軍の足利尊氏・義昭、朝鮮通信使等の多彩な歴史の足跡が刻まれる。
特に、本堂に掲げられた琉球使節の扁額、境内の「琉球司楽向生碑」は、よく知られるところである。
また、境内には昭和二十九年(一九五四)まで、国の天然記念物の見事な巨大・松があり、名所となっていた。シーボルトもその松之図(版画)を収集している。なお、この松は寺伝によると、平重盛が植えたと伝える。
よいことを思えば、よいことが起こる!
「人づきあい」は、ホモサピエンスが生き残れた大きな理由のひとつ。ネアンデルタール人よりも、大きな集団をつくることができたので、個人の能力では、ネアンデルタール人より劣っていたホモサピエンスが生き残れた。お互いに良い関係を広くつくり、血縁関係に必ずしもこだわらない大家族をつくり、協力する“しくみ”をつくり、大災害を乗り越えてきたのでしょう!
鎌倉 弘法大師空海の修行の地「成就院」
平安時代の初期、真言宗の開祖である弘法大師空海がこの地を訪れ、景勝地だったこの地で数日間に渡り護摩供・虚空蔵菩薩求聞持法(真言を百日間かけて百万回唱えるというもの)を修したという霊跡に、1219年に鎌倉幕府第三代の執権北条泰時は京都より高僧を招き、本尊に不動明王をまつり寺を建立し、普明山法立寺成就院と称した。
1333年新田義貞の鎌倉攻めの戦火にて寺は焼失し、奥の西が谷に移っていたが江戸時代の元禄期(1688年~1703年)に再びこの地に戻り、僧祐尊により再興され現在にいたっている。
親が神経症的であるとどうなるか!
子供の虐待事件は治まらないですね。核家族で、しかも都会での生活だと、まわりの目は届きません。また、届いたとしても、ただそのまま、ということになります。核家族という、人類史上はじめてのしくみでの、子育ての方法・社会のしくみがまた未発達です。もう一度、人類史上初めての「核家族」というしくみでの、社会のあり方を考えなければなりませんね!
鎌倉 火防の守護神「秋葉大権現」
秋葉山大権現というのは、本山は静岡県の松の方の秋葉神社で、火事を防ぐ夫伏(ひぶ)せや水難除けの神として、江戸時代には各地に秋葉講中という信者の団体がつくられ、代参という代表者の本山詣でが盛んに行われました。光明寺やその信者を火災や水難から守るため、1714年(正徳4年) に神社を秋葉山から光明寺裏山へ移してまつりました。材木座や小坪をはじめ各地に秋葉講が作られ、火災と海上安全を祈願する人々が訪れ、社殿も立派だったそうです。
ビニールハウスで作られたいちご!
かなり以前から、食べ物が「見た目」中心になっています。言い方を変えれば、「小さな虫ですら食べない」ものに、なってしまいしました。多くの日本人は、生物としての基本原理すら忘れたしまったのでしょうか。生産者は、農薬を使わない野菜を食べ、商品として出荷する野菜は、農薬を使う、といったことが、普通になっているのでしょう!
鎌倉 山門に、十字架?「光照寺」
石段を上ると、山門の右側に「子育て地蔵」と呼ばれるお地蔵さまが立っています。このお地蔵さまに、子どものことについてお願いするとかなえてくれると信仰されています。
山門は明治のはじめごろ廃寺となった東渓院(とうけいいん)から移したもので、「くるす門」ともいわれ、キリスト教の十字の紋がある珍しい門です。江戸時代に鎌倉にもキリスト教の信者がいたのではないかと思われい本堂内にはキリシタンが使用したとみられる燭台が2基あります。
上手な嘘のつき方を教えるべき!
日本では、単純に「嘘をつくな」では、世間のなかに溶け込めないですね。日本には「三本の指に入る」という言い方があります。自分が一番だと思っている人でも、「三本の指に入る」という言い方をすることになっています。このようにトップになった人でもウソを言います。自分を、自分が思っているより低く表現する、という風土が日本にはあるのです!
尾道 巨岩に不動明王が住む「不動岩」
浄土寺山の8合目あたりに巨石が「不動岩」です。巨岩に不動明王が刻まれています。
不動明王は、真言宗をはじめ、天台宗、禅宗、日蓮宗等の日本仏教の諸派および修験道で幅広く信仰されています。
密教の根本尊である大日如来の化身で「お不動さん」の名で親しまれ、大日大聖不動明王、無動明王、無動尊、不動尊などとも呼ばれており、特に日本において根強い信仰を得ております。真言宗では大日如来の脇待として、天台宗では在家の本尊として置かれる事もあります。
浄土寺山の麓に真言宗の浄土寺があり、不動明王を刻み込んだのでしょうか。
「運命」より、「因果応報」の原則が優位だ!
「情けは人のためならず」は、科学的にも正しいようです。良いことをすると、自分自信の気分がよくなり、また、相手からも感謝され、その結果、免疫力を強くする物質が分泌されるようです。これは、人類の歴史の中で、協力していかないと生き残ることができない、という環境の中で、からだの中に組み込まれた、生存機能なのでしょうか?
福山 鞆の浦で2番目に古い「医王寺」
「医王寺(いおうじ)」は他の社寺から少し離れた山手に位置しています。医王寺までの坂道は少なからず急で遠いのですが、境内からの眺望はその苦労に十分値するものです。
医王寺の足下の街道沿いには、江の浦・「焚場(たでば)」の集落が道沿いに細長く広がり、その向こう側に鞆港が大きく弧を描いています。さらに、港の北に広がる鞆の町並みの向こうには、仙酔島(せんすいじま)が望まれます。晴れた日の早朝にここを訪れれば、その景色を茜に染める朝に出会うこともできます。
自信は子供時代に身につく!
「優越感」は、知識でも身につけることができるのですが、ほんとうの「自信」は、体験・経験から身につくのでしょう。優越感を自信だと思っている人も多いと思われますが、優越感には脆さがあります。子供時代に多くの体験・経験をし、成功はもちろん、失敗(こうしたらダメだ)も自信につながっていきますので、自然の中にある多様性に接してほしいものです!
鎌倉 旗立山とよばれる「源氏山公園」
英勝寺と寿福寺の裏にまたがる山をいう。後三年の役(平安時代後期の陸奥・出羽を舞台とした戦役)に際して東国に下った八幡太郎義家が山上に白旗を立てたという伝説に因って、源氏山・旗立山とよばれている。『詞林採葉抄』では鎌倉第一の勝地だという。この山は武庫山といわれていたようで、義堂周信の詩にも載せられている。 (大三輪) [文献]『鎌倉志』『相模風土記』
感動・感謝・褒めることは、免疫力アップ!
「感動・感謝・ほめる」などは、自分の免疫力アップという大きなメリットがあると、実験で証明されているとのこと。ことわざ「情けは人の為ならず」、他人に親切にし、相手から感謝を貰うと、「自分の免疫力アップ」という恩恵があるのですね。ボランティアなども、自分の名誉のためでなく、ただゝゝ親切にし、相手が感動する姿を見ることが、大事なのですね。「助けっぱなし!」、「助けられっぱなし!」でいいのですね!
鎌倉 昔、熊野十二所権現社といっていた「十二所神社」
この神社は昔、熊野十二所権現社といって1278年(弘安元年)には光触寺の境内にありました。1838年(天保9年)に今の土地を寄付する人がおり、当時30戸の村人の協力で神社を移しました。明治になって神仏分離となり、天神七柱(あまつかみななはしら)、地神五柱(くにつかみいつはしら)の十二柱の神様をまつり、社名を十二所神社と改め、今日に至っています。
退職する人に、気持ちを込めて別れの挨拶!
ここ数十年の核家族化で、子供時代に人との接し方を学ぶチャンスが、思っている以上に減少しています。先生を除くと、両親の2人の大人と、お母さんの友人が1~2人、その人達を入れても3~4人との接触くらいです。都会では近所づきあいもあまりないので、子供時代は人類史上初めての、少人数の大人達の中で成長していきます。大人になって、いろいろな人々の中で、過ごしていくためのノウハウを身につけていないので、かなりきびしい生活になる人達がでてくるのでしょう!
尾道 東大卒の歌人「中村憲吉旧居」
中村憲吉はアララギ派のリーダーとして現代日本歌人の第一人者として短歌界に重きをなしました。(アララギは、正岡子規門下の歌人たちによって結成された短歌結社誌)
1933年12月25日に病気の療養のために、おだやかな尾道の千光寺山中腹に転地し、1934年5月5日に亡くなった。斎藤茂吉をはじめとする多くの文人たちが見舞いに訪れたといわれています。
ここでは、離れの建物のみ見学できる。中村の資料などは文学記念室の方で展示されています。
人間は二足歩行でお尻の回りが大きく変化!
人間(類人猿)は体の構造上、歩くのが苦手です。ほとんどの動物の足首は、人間の膝にあたるところにあります。動物の膝は、からだのものすごく近いところにあります。鳥も先祖は恐竜なので、足首の位置は、やはり人間の膝の位置にあります。歩くに適した構造は、膝がからだに近いところにあり、腰やお尻の大きな筋肉を使う構造のほうが、歩くことに適しているのでしょう。人間はからだの構造上、歩き方をもっと意識し、練習しなければならないのでしょう!
鎌倉 家康が駆け込み寺として保障した「東慶寺」
東慶寺が開かれたのは、鎌倉時代の1285年。八代執権・北条時宗が34歳という若さで急死、時宗の夫人だった覚山志道尼が、その菩提を弔うために開山したといわれている。
関ヶ原の合戦から大阪夏冬の陣を経て、豊臣家が滅亡した折、豊臣秀頼の娘を「まだ幼い」ということでこの尼寺に移す。このときに家康が駆け込み寺としての寺法を保障した。この助命された娘は、家康の孫娘の千姫を義母としていたことから助命された。そして東慶寺の二十代住持となり、子の尼寺の寺法を守り続けたと言われている。