取り越し苦労から生じた毒素!

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 「笑いはガンに効果がある」と、言われ出してかなりたちました。反対に、心配や不安、恐れ、疑いなどが、健康にとってマイナスになるといわれだしました。からだの健康には、笑いを含めて、うれしいこと、新鮮な食べ物などが、毎日、安定的に手に入れて過ごしことが、できるかどうかなのですね。良いこと、うまい食べ物といったものと、若干ちがいがあるのでしょう。しかし、良いこと(周囲で良いとされていること)、うまい食べ物を求めてしまいますね!

鎌倉 元寇に対応した北条時宗を葬る「仏日庵」

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 北条時宗は公安9年(1284)に死去したのだが、その菩提はこの円覚寺の仏日庵に葬られた。
 その後北条貞時の時代になり、円覚寺は朝廷から太政官符を与えられ、官寺の寺格を得ることになる。貞時の死に際しては法堂が完成し、法要が営まれた。建武・暦応年間(1333~1342)に描かれた「円覚寺境内絵図」には、総門から山門、仏殿などが中国の宋にならって一直線に並び、その隆盛を今に伝えている。(「鎌倉なるほど事典」楠本勝治著より)

一神教や終末論は争いを激化する思想!

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 宗教であれ、一神(一人)に権力や名誉が集中すると、不安定な社会になることが、人類の歴史で証明されています。にもかかわらず、なぜ、そのしくみを改革できないのでしょうか。人類史上、どの段階で権力・名誉・財力に特別な魅力を持つようになったのでしょうか。やはり、農耕で麦を栽培するようになり、その麦が保存可能だったためなのでしょうか?

厚木 武田信玄に焼かれたことがある「妻田薬師院」

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 妻田薬師は、もともと古義真言宗の白根山東光寺遍照院という別当寺が管理する仏堂で、古くから近隣の人々の厚い信仰を受けていました。
薬師堂(市指定有形文化財)
 この薬師堂は、薬師如来を安置するための仏堂で、「新編相模巨t記稿」には、永禄12年(1569)、三増(愛川町)で武田信玄と北条氏との戦いがあり、その前に武田信玄によって焼かれたと記されています。 「文化財散策ガイドあつぎ」(厚木市教育委員会発行)より

「授かりもの」という言葉!

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 「かぐや姫」では、竹取りのお爺さんが山で竹をとっていると、一本の竹が金色に光っているのを見かけた。その竹を切ってみると中に小さな女の子が座っていた。おじいさんはこれは神様からの授かりものに違いないと言って、家に連れて帰り、かぐや姫と名付けて育てることにした。となっています。子どもを「神様からの授かったもの」という考え方が、人類の生き残りに大きな影響を与えていたのでしょう。神様からの授かり物でないAIロボット時代が、間近に控えている今、どうなるのでしょうか?

鎌倉 徳川・蒲生家ゆかりの寺「薬王寺」

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 この地にはもとは真言宗梅嶺山夜光寺があったとされているが、日像が由比ガ浜でお経を百日間読誦する修行を行った際、寺が荒廃しているのを見て真言宗の住職と数日間宗教論争した末日蓮宗に改宗したと言われている。
徳川忠長公供養塔の存在により、徳川・蒲生家ゆかりの寺として寺紋に三葉葵が用いられていた為、一般住民の埋骨を許さない格式由緒ある寺であった、と。

雑音の中にいても聞き分け可能!

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 子ども時代、夏は日の出と共にクマゼミの鳴き声がすごかったのですが、毎日聞いていると、まったく気にならないものですね。しかし、数年前からカラスがセミを襲うようになると、カラスが数匹上空を舞うと、セミがピタリと黙ってしまうようになりました!

厚木 奈良時代後期の創設「七沢観音寺」

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 観音寺は奈良時代後期、元正天皇の頃の創設と伝えられています。
 元正天皇の時代、着物の着方を右前に統一する衣服令が出されています。衣服令は、遣唐使が唐から授けられた朝服を持ち帰り、717年正月10日に、その朝服を着て参内したのですが、それが右前でした。その直後、百姓の衣服は右前にするようにとの衣服令が出されたのです。参考までに、元正天皇は独身を通した女帝です。

どうしたら自信を持てるの?

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 いろいろなことをやって一度成功すると、その後、失敗したとき、その過程を考えるようになると、どんどん成功体験が増えていきます。成功か、失敗か、にこだわるより、その過程(五感で得た感覚)に目を向け、それを是正することで、成功できるのです。現在は、五感から得られる情報より、言葉をもとにした情報で、是正しようとする訓練を積み重ねているので、本来の成功体験は少なくなってきているのでしょう!

尾道 地元でも見知らぬ石仏の山「竜王山」

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 尾道には竜王山と名がつけられた山が5つあります。この日比崎中学校の上にある竜王山は、地元の人にもあまり知られていないようです。「蔵王権現」を中心とした修験道や密教に関わるの石仏が林立しています。急な石段で、しかも、その幅が狭く、枯れ葉などがあると滑りやすく注意が必要な場所ですが、石仏をひとつひとつゆっくりと見たいものです。

恨みは、もっとも深く根を残す感情!

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  むかしの人は「恨み」が、自分にとっても害があることを知っていたのでしょう。草木も眠る丑三つどき(午前二時から二時半ごろ)、寺社に参詣し、呪う相手に見立てた藁(わら)人形を境内の神木に取りつけ、人形の体に五寸釘を打ち込む。そうすると呪われた相手は、釘が打ち込まれた部分を損傷するという。「丑の刻参り」である。この丑の刻参りは、平安時代ごろから始まったようです。こんな時間帯になぜ寺社へ赴くのか。丑の刻参りは人に知られずにこっそり行なわなければならないとされているからです。

鎌倉 厳しい座禅会が行われる「報国寺」

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 報国寺坐禅会は、二十九世 義道和尚の下に昭和三十四年十一月より始められました。
 「残業しないで通常の3倍の成果が上がる時間術」(箱田忠昭著)より
 仕事だけ、金儲けだけであると、どうしても人としての「幅」がなくなり魅力がない。仕事以外の面で何かやりがいのある勉強をしていきたい。私の場合は坐禅を鎌倉の報国寺坐禅道場でやるようになって、ちょっと人生が充実したような気がする。………

早くから天皇は国の祭祀をつかさどる存在!

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 日本の政治は、古くから名誉と権力を分離していました。江戸時代には、それに加え財力を分離し、名誉・権力・財力を分離する体制になりました。名誉は天皇や貴族、従五位上か正五位などの武士達の官位。権力は老中達に、この老中になれるのは、二万石とか三万石の直参の小さな大名。財力は数十万石の外様大名。この体制が日本の体制を安定的なものにしたのでしょう。日産のゴーン氏のように、一極集中は非常に危険な体制のため、長期政権は難しいことになりますね!

江の島 ひっそりと無縁仏を祀る「延命寺」

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「此処は何なのかしら・・・・?」
 たびたびの崖崩れした墓地。墓石も遺骨も誰のものか判らなくなり、それらを祀るためる石窟を造り、納骨堂にしました。
 閻魔大王が鎮座している石窟の奥が納骨堂になっています。

誰かがわかってくれたら!

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 子どものいじめ問題を、今の大人は解決できるのでしょうか? 児童相談所や警察を、子どもは頼りにしてくれるのでしょうか? 親は、そのような機関を、子どもに対し「こわいところ」と教えると、子どもはどうしたらよいのでしょうか。子ども達が、多くの大人と接触できない核家族社会は、子ども達には、危険な社会なのでしょう(大人には都合がよいのでしょうが)。

鎌倉 加賀の白山を開いた泰澄が開山「寶善院」

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 もとは泰澄山瑠璃光寺ともいったと伝えられています。奈良時代の天平神護年間(765年~767年)に越後の国の僧で越の大徳といわれた泰澄が、日ごろ信仰していた十一面観音をこの土地にまつったのが寺の起こりだと伝えられていますがはっきりしていません。泰澄は、加賀(今の石川県)の白山を開いたといわれる人です。越というのは、越前・越中・越後の三国をまとめた呼び名で、今の福井・富山・新潟の三県のことです。また大徳というのは、並ぶ者のないほど徳の高い僧であるということです。

「相手」に「意識」を向ける練習!

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 人間、子ども時代から大人になるにつれて、「思い込み」が蓄積していき、「自分だけのモノサシ」が出来ていきます。これは「言葉」による蓄積です。言葉による蓄積は、現状が異なっていても、そのことには関係なく、今までの蓄積で判断してしまいます。しかし、感覚による蓄積(たとえば、自転車に乗れるとか)では、いつまでたっても、ありのままに現状を把握し、適切に対応できます。幼かった頃のように、常にいま現在を、五感+第六感を働かせ、その感覚情報を大事にして判断したいものですね!

尾道 供出した鐘、無傷で戻った「浄泉寺」

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 鐘撞堂は享保八年(1723)九月に建立され、文政十三年(1830)三月 八世順盛代に修復され明治二十四年(1891)山陽鉄道開通にともない現在地に移建されました。
 梵鐘は文政十年(1827)四月に鋳造され、口広三尺高さ六尺あります。
 昭和十七年(1942)第二次世界大戦の折、金属回収令によって供出されましたが、昭和二十年(1945)終職後、岡山玉野の精練所で発見、無傷で返還されたものです。

自分だけしか通用しないモノサシ!

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 現在は、五感からの情報を大切にしなくなっています。子ども時代から、言葉(教科書などで)で情報を得て、判断する方法を学んでいます。たとえば、「新鮮な魚の見分け方」だと、「目が光っている」、「お腹がピンと張って弾力がある」、「魚の色があざやか」などと。しかし、もっと新鮮な魚が手に入る地域では、「指で触って魚が動くかどうか」、「タコやイカは、吸盤に指を当てると吸い付くかどうか」で判断します(うまいかどうかの判断とは多少違うのですが)。まず、五感で判断し、それから知識と組み合わせるほうが、正確な判断が出来るのです!

福山 かつて鞆製網合資会社の「鞆の津の商家」

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 「鞆の津の商家」は、江戸時代末に建築された建物で、かつて「鞆製網合資会社」などに用いられていましたが、今日では市の重要文化財に指定され再生・保存されています 外観の美しい建物ですが、なかでも正面右側の土蔵は、2階建ての町家に見えるようにひさしを設けており、他に例を見ないユニークな意匠となっています。