誰かがわかってくれたら!

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 子どものいじめ問題を、今の大人は解決できるのでしょうか? 児童相談所や警察を、子どもは頼りにしてくれるのでしょうか? 親は、そのような機関を、子どもに対し「こわいところ」と教えると、子どもはどうしたらよいのでしょうか。子ども達が、多くの大人と接触できない核家族社会は、子ども達には、危険な社会なのでしょう(大人には都合がよいのでしょうが)。

鎌倉 加賀の白山を開いた泰澄が開山「寶善院」

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 もとは泰澄山瑠璃光寺ともいったと伝えられています。奈良時代の天平神護年間(765年~767年)に越後の国の僧で越の大徳といわれた泰澄が、日ごろ信仰していた十一面観音をこの土地にまつったのが寺の起こりだと伝えられていますがはっきりしていません。泰澄は、加賀(今の石川県)の白山を開いたといわれる人です。越というのは、越前・越中・越後の三国をまとめた呼び名で、今の福井・富山・新潟の三県のことです。また大徳というのは、並ぶ者のないほど徳の高い僧であるということです。

「相手」に「意識」を向ける練習!

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 人間、子ども時代から大人になるにつれて、「思い込み」が蓄積していき、「自分だけのモノサシ」が出来ていきます。これは「言葉」による蓄積です。言葉による蓄積は、現状が異なっていても、そのことには関係なく、今までの蓄積で判断してしまいます。しかし、感覚による蓄積(たとえば、自転車に乗れるとか)では、いつまでたっても、ありのままに現状を把握し、適切に対応できます。幼かった頃のように、常にいま現在を、五感+第六感を働かせ、その感覚情報を大事にして判断したいものですね!

尾道 供出した鐘、無傷で戻った「浄泉寺」

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 鐘撞堂は享保八年(1723)九月に建立され、文政十三年(1830)三月 八世順盛代に修復され明治二十四年(1891)山陽鉄道開通にともない現在地に移建されました。
 梵鐘は文政十年(1827)四月に鋳造され、口広三尺高さ六尺あります。
 昭和十七年(1942)第二次世界大戦の折、金属回収令によって供出されましたが、昭和二十年(1945)終職後、岡山玉野の精練所で発見、無傷で返還されたものです。

自分だけしか通用しないモノサシ!

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 現在は、五感からの情報を大切にしなくなっています。子ども時代から、言葉(教科書などで)で情報を得て、判断する方法を学んでいます。たとえば、「新鮮な魚の見分け方」だと、「目が光っている」、「お腹がピンと張って弾力がある」、「魚の色があざやか」などと。しかし、もっと新鮮な魚が手に入る地域では、「指で触って魚が動くかどうか」、「タコやイカは、吸盤に指を当てると吸い付くかどうか」で判断します(うまいかどうかの判断とは多少違うのですが)。まず、五感で判断し、それから知識と組み合わせるほうが、正確な判断が出来るのです!

福山 かつて鞆製網合資会社の「鞆の津の商家」

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 「鞆の津の商家」は、江戸時代末に建築された建物で、かつて「鞆製網合資会社」などに用いられていましたが、今日では市の重要文化財に指定され再生・保存されています 外観の美しい建物ですが、なかでも正面右側の土蔵は、2階建ての町家に見えるようにひさしを設けており、他に例を見ないユニークな意匠となっています。

ニコニコ笑っているけれども「怖いぞ」!

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 普段はやさしい人でも、「すごみ」を感じる人がいます。また、「思い上がり」を感じさせる人(議員さん?)もいます。この二つの印象の違いは、案外判るものですね。「深み」がある人には「すごみ」を感じ、「底の浅い」人には「思い上がり」を感じるのでしょう。これは、知識の差というより、体験(五感+第六感の感覚情報)と知識がうまく結びついている人のなのでしょう!

鎌倉 最近は恋愛成就で人気の「佐助稲荷神社」

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 佐助二丁目鎮座。祭神宇迦御魂命・大己貴命・大宮女命・事代主命。例祭二月初午、元無格社。社伝によると、当社の神霊が翁の姿に現れて、佐殿源頼朝に旗挙げをすすめて助けたので佐助というと伝える。社は鶴岡八幡宮非常の際の御旅所として古くは同社の飛地境内社であった。『金兼稿』に見える源十郎・弥十郎の話は当社の霊験によって、苦難をのり越え、魚腹より財宝を得て栄える昔話の伝説化したもので、古縁起とも見られる。[文献]『市史』社寺編

情報は自分の全身で目で耳で!

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 テレビ番組「人間ってナンだ?超AI入門」で、「知識」について、人間の知識を二階建ての建物にたとえ、一階は「感覚」で得た情報、二階は「言葉」で得た情報と位置づけ、この両方の関連付けがうまくいくと、理解が深まっていくとのこと。AIは二階の部分を高度化しており、一階の感覚情報の部分は、犬や猫よりはるかに劣っているため、二階の言葉情報を大量に蓄積することで、一階の部分をカバーしようとしているとのこと。人間も、昨今は一階の感覚部分の情報量が少なくなっており、言葉情報を正確には理解できていないようです。このため、自然がもっている「多様性」を、感覚的に理解していないため、同じような人を仲間にし、異質な人を除外(いじめを)するのでしょうか!

尾道 2019年2月地蔵堂が放火された「海龍寺」

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 2019年2月19日午前2時10分頃、尾道市の寺で火事があり、地蔵堂など2棟が焼けました。
けが人はいませんでした。「寺の地蔵堂が燃えている」と住職から119番通報があり、消防車5台が出動し、火はおよそ40分後に消し止められましたが、この火事で寺の地蔵堂と倉庫合わせて35平方メートルが全焼しました。本堂への延焼はなく、けが人はいませんでした。
 本堂(ご本尊千手観世音菩薩)と阿弥陀堂(位牌堂)(ご本尊阿弥陀如来)は無事でした。
 2019年3月7日、地蔵堂から仏像を盗み、放火したとして送検されました。

他人をばかだと思っている人!

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 「評価」という行為は、本来は生き残りのために備わった機能なのでしょう。それが、生き残りのためではなく、「何でも評価してしまう」ということになると、どうでもいいことまで評価し、結局は、自分が息苦しくなってしまうことになるのでしょう。やっかいですね!

鎌倉 もとは蓮乗寺といい真言宗だった「蓮乗院」

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 この寺院の創立年代や開山については、はっきりわかりませんが、光明寺より早い時期からこの地にあった寺で、蓮乗寺(れんじょうじ)といってはじめ真言宗だったということです。その後、光明寺が佐助ヶ谷(さすけがやつ)から移されてきてから、光明寺の子院となり、浄主宗の蓮乗院と改めたといわれてします。
 1243年(寛元元年)に光明寺が良忠によって創建されたといわれますが、寺院の落成まで良忠は蓮乗院に居住して、建築を監督(かんとく)したということです。こうしたことから、光明寺の新しい住職となると、まず蓮乗院に入ってから改めて光明寺の本山方丈に入る慣わしになりました。

妬み深い性格の人!

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 「過去に執着する」という意識は、なぜ発生するのでしょうか? 「いま」が精一杯であれば、過去など振り返る余裕はありません。戦後の貧しかった時代(生きることが精一杯な時代)は、いま置かれている状況を、五感を駆使し情報収集し、よりベターな状況にするために、智慧を絞って生きていかなければなりません。豊かな時代になると、”いま”に、それほどこだわらなくてよくなるのですが、反面、過去にこだわり、こころが貧しくなる人の確率が上がるのでしょうか!

尾道 林芙美子著「風琴と魚の町」ー尾道ー

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林芙美子著  「風琴と魚の町」より
 蜒々(えんえん)とした汀(なぎさ)を汽車は這(は)っている。動かない海と、屹立(きつりつ)した雲の景色は十四歳の私の眼に壁のように照り輝いて写った。その春の海を囲んで、たくさん、日の丸の旗をかかげた町があった。目蓋をとじていた父は、朱(あか)い日の丸の旗を見ると、せわしく立ちあがって汽車の窓から首を出した。
「この町は、祭でもあるらしい、降りてみんかやのう」
 母も経文を合財袋(がっさいぶくろ)にしまいながら、立ちあがった。………

自分の仕事をしていればいい?

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 職場仲間で、会社が終わると飲みに行くことが無くなった今、職場内で声かけをしていかないと、チームとしての力が発揮できない。かっては、トヨタ方式の「小集団活動」が盛んに行われていた時代は、飲み会がなくても、チーム力が十分発揮できていたのでしょうが、昨今は、それもそれほど活発でないところも多い。相談や雑談などが少なくなると、発想力も弱くなり、固定観念が強くなり、個人主義も強くなるのでしょう!

鎌倉 昔、極楽寺の境内でした「熊野神社」

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 正面にみかげ石の鳥居があります。石段を上がると美しい緑色の銅葺き屋根の社殿が建っています。かたわらに、神輿を納めてある神輿庫もあります。境内の囲いもなく開放的な割には荒れた感じのないこの神社は、いかにも地域の人々によって守られているという雰囲気をもっています。

食事の欧米化が大腸がんの増加に!

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 食事は「地産地消」、日本人は縄文人と弥生人の遺伝子を持っているとのこと(人それぞれに比率に違いはありますが)。縄文人は、4万年前から2万年前の間に、大陸から日本に渡った人々で、それからずっと、日本で採れる食物に適合するように、体質を造り上げてきました。しかし、ここ半世紀の間に、食事の内容が変わってきました。欧米の食事が入り込み、しかも、農薬が使用され、小さな虫すら食べない野菜などを、食べるようになりました。医療の技術の進歩で、長生きをするようになってはいますが、和食は大事にしたいですね!

鎌倉 大地震で亡くなった人々を弔う「来迎寺」

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 鎌倉時代の1293年(正応6年)に、鎌倉の大地震で亡くなった人々を弔うため、一向が建てた寺だということがわかりました。明治時代になって頼朝の墓のそばにあった法華堂がなくなったので、そこにまつられた地蔵菩薩・如意輪観音・跋陀婆羅尊者の三仏像と鰐口や手洗い石が移されました。

過去に蓄積した産業廃棄物!

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 最近は、廃棄物に減少に取り組んでいるので、少しは良くなったのかな、と思い込んでいました。しかし、NHKの東北大震災時の「黒いヘドロ」の放送では、気仙沼湾の海底に7mの厚さでヘドロが溜まっていたため、「黒い津波」となり、海水だけの津波より大きなエネルギーとなり、被害を大きくしたという。過去の廃棄物は、いつまでも大きな被害をもたらす危険性を持っているのですね!

鎌倉 水戸家から住持をむかえた「英勝寺」

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 太田道灌の屋敷跡と伝える。扇ケ谷にある浄土宗寺院。鎌倉唯一の尼寺。山号は東光山。寺地は太田道灌の屋敷跡と伝える。開山は英勝院長誉清春。徳川家康の側室でお勝の局といい、太田康資の女(むすめ)。寛永十三年え(1636)開堂供養。第一世庵主は水戸頼房の女小良姫(清因尼)。以来、住持は水戸家からむかえたので、水戸様の尼寺とされた。仏殿・祠堂・鐘楼・庫裡・書院・宝蔵庫などのたたずまいは美事である。
(長峰五幸著「鎌倉 趣味の史跡めぐり」より)