尾道 渡船でミニクルージング 60円「福本渡船」

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 福本渡船(0.25km 3分)
【概要】 尾道駅前広場の東端付近と、向島の小歌島(おかじま)とを結ぶ航路です。3つある航路の中で最も運賃が安い渡船でもあります。尾道側桟橋入口の赤く塗られたゲートが特徴です。
【運賃】 ・旅客運賃:大人60円,小児30円
     ・自転車(手荷物扱い) +10円


鎌倉 三浦一族が立て篭もった「法華堂跡」

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 1247年6月5日、三浦対北条・安達の宝治の乱のおり、三浦泰村は館を攻められ、一族を率いて、この法華堂に立て篭もった。北条時頼の兵に攻められ、終に泰村、光村以下の三浦一族と此れに加担した島津、毛利を含めて500人が、この法華堂で自害した。
すぐ上に、大江広元、毛利秀光(大江広元の四男…長州藩主・毛利氏の祖)、島津忠久(薩摩藩主・島津氏の祖)の墓があります。

厚木 かって袈裟掛けの松があった「弘徳寺」

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 寺の縁起によれば、親鸞が東国布教の折りに滞在した旧跡で、親鸞の嫡男・善鸞がここに草庵を結び心光院と号したのが始まりと伝わる。
 1960年まで「袈裟掛けの松」というのがありました。ふつうの松の葉は二本ですが、この松の葉は不思議なことに一本だったので、「一葉の松」ともよばれました。


海老名 有鹿姫の伝説「有鹿神社」

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 市内でも大型の一間社流造の建築です。内部は前後2室に分かれ、前室は正面扉口のほかに両倶1」面にも一本引きの建具を入れることや、向拝の造りなど特徴がある珍しい造りです。また、肘木は鋭い錆を持つ絵様肘木で、社殿に独特の印象を与えています。
 建立年代は、虹梁の絵様等の意匠から18世紀中頃と考えられています。

鎌倉 昼なお暗く静まりかえる「佐助稲荷神社」

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 佐助稲荷神社の下社と社務所があります。さらに行くと、奉納された鳥居やのぼりが立ち並ぶ参道の両側にたくさんの狐の置物がありその突き当たりに急な石段があります。その石段を上ると杉木立の中に拝殿が建っています。その裏手の石段を上がると本殿があります。境内は巨木が空をおおい、昼なお暗く静まりかえり、人里離れたかくれ里のふんいきがただよっています。

尾道 のんびりとした島「向島」

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 現在、今治の刑務所脱走者が潜むという向島ですが、のんびりとした島です。
2007年の夏に一周したときの様子を紹介します。
 今回は、尾道大橋から向島の東側から南に廻り、西側を経由し、最後は渡し船で尾道駅前まで回りました。

厚木 相模国式内社(しきないしゃ)の「小野神社」

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 この神社は、延長五年(1194年)の「延喜式」巻九に「相模国式内社の内愛甲郡一座小野神社」と書かれています。
 現在の拝殿は、嘉永元年(1848年)に建てられ、わら葺屋根でありましたが、、昭和四十三年に鉄板蓑きに替えられました。本殿は拝殿よりも1mほど高い地面に神明造りで造られています。「新編相模国風土記稿」に「閉香明神社、村の鎮守なり延喜式に載りし小野神社、当国十三社の一にて祭神下春命という」とあります。

鎌倉 やぐら内の石像がとけていく「薬王寺」

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 この地にはもとは真言宗梅嶺山夜光寺があったとされているが、日像が由比ガ浜でお経を百日間読誦する修行を行った際、寺が荒廃しているのを見て真言宗の住職と数日間宗教論争した末日蓮宗に改宗したと言われている。
徳川忠長公供養塔の存在により、徳川・蒲生家ゆかりの寺として寺紋に三葉葵が用いられていた為、一般住民の埋骨を許さない格式由緒ある寺であった、と。

尾道 水祭りが復活した「熊野神社」

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 古く江戸時代から続く水祭りが復活したようです。
旧水尾町(現久保)に伝わる夏祭りで、水細工人形を陳列し、水尾町の豊かな水源を慶ぶ熊野権現神社の祭祀です。
からくり人形をで水細工の場面がつくられ、人形の手の先から水が噴水のように吹き出します。

鎌倉 江戸時代中頃から寺子屋「 千手院」

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 光明寺が「檀林」という仏教の最高の学問をおさめるところであったとき、各地から多くの学僧が集まってきました。千手院は、そうした学僧達の修行道場である僧坊の一つでした。代々の住職は学頭といわれ、学僧達の指導者だったといわれています。学頭の墓のいくつかが本堂左手の墓地にあります。
江戸時代の中頃からは学僧の数も少なくなったので、住職は近所の子ども達に読み書き、そろばんを教えるようになったようで、境内には寺子屋の記念碑が立っています。

尾道 生口島の耕三寺 「未来心の丘」

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 この 「未来心の丘(みらいしんのおか)」は、広さ5000平方メートルにもおよぶ白い大理石の庭園で、世界を舞台に活躍されている彫刻家  杭谷一東(くえたにいっとう) 氏にその制作を依頼しているものです。
ここに使用されている大理石のすべては氏のアトリエ(仕事場)があるイタリア・カッラーラで採掘し、コンテナ船で運んできています。丘にそびえ立つ大小様々な形をしたモニュメントや広場、道… 氏は制作に当たっては常に、その石のひとつひとつと対話し、また周囲の景色の形や色、風雨、光といったあらゆる自然との調和(バランス)も考えて創造してこられました。
https://risetu.net/03mati_tanken/01onomiti/308/3088/3088-4303Amiraisin_oka/3088-4303Amiraisin_oka_1.html

鎌倉 鎌倉の苔寺とも、「妙法寺」

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 本堂の右手奥にある朱塗りの仁王門の先に、正面に美しい苔の石段があり、「鎌倉の苔寺」ともいわれますが、この石段は保護のため通ることはできません。新しく作られた脇の石段を上がった山の中腹に、江戸時代の1812年(文化9年)に水戸徳川家が建てたといわれる装飾も見事な法華堂があります。

尾道 今は、ヨットやボートの停泊設備「海の駅」

 昭和初年の写真。商船桟橋を離れて東航する大阪商船会社の汽船が見える。まん中から左側には、このころから帆船に代って流行した機帆船。中にまじって帆船の姿も見える。対岸向島の造船所には大型船が三隻も着いている。

鎌倉 関東大震災で壊れ改築された「蛭子神社」

 昔、夷堂橋付近にあった夷三郎社という神社が、本覚寺創建の際に境内に移され夷堂となった。その後、明治の神仏分離の際にこの地に移り、同地に祀られていた七面大明神と宝戒寺前の部落の氏神であり、北条氏の守神だった山王大権現とともに合祀されて蛭子神社となった。