この地は、日蓮にかかわりのある本圀寺(ほんこくじ)の旧地といわれています。この地の領主石井長勝(ながかつ)が日蓮に帰依(きえ)し、日蓮が伊豆に流され、そこから許されて鎌倉に戻ったとき、自分の邸内に小庵(しょうあん)を建て日蓮に寄進したのが、本圀寺のはじまりといわれています。本圀寺が室町時代の初期に京都に移って、この地が廃寺(はいじ)になったのを日静(にっせい)が復興し、山号と寺号をもとの開基である石井長勝の名にちなんで、石井山(せきせいざん)長勝寺(ちょうしょうじ)と名付けられたと伝えています。
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鎌倉 常に粛然と静まっている「成就院」
鎌倉 四季花が絶えない美しい庭もある「光則寺」
鎌倉 太田道灌の屋敷跡と伝わる「英勝寺」
“ 英勝寺は、鎌倉にある唯一の尼寺。1636年(寛永13年)に建立された。
開基は、英勝院尼で扇谷上杉氏に仕えた太田道灌の曾孫、太田資宗の娘。徳川家康に仕え、家康の命により水戸家初代の徳川頼房の養母となった。家康が没すると、出家して名を英勝院とあらためた。そして、先祖の供養とみずからの後生のため、寺を開くことを幕府に申し入れ、1636年11月に仏殿が完成した。その後、代々、水戸家の娘が住持となった。
お勝の方(英勝院尼)の逸話。あるとき江戸城内で家康公が大勢の家臣たちとの雑談の折、「およそ食物のうち、一番うまいものは何じゃ?」とご下問があった。めいめい一番うまいものを言ったが、お勝の方は「塩でございます。およそ食物の味をひきたて、旨くするも、まずくするも、塩加減ひとつでございます」と答えた。料理で苦労した人でもあったのでしょう。”
鎌倉 江戸の増上寺に次ぐ学問所「光明寺」
“ 浄土宗の寺で、建長寺(けんちょうじ)・円覚寺(えんがくじ)などとならぶ鎌倉の大きな寺の一つです。
一時衰えたようですが、江戸時代に徳川家康(とくがわいえやす)が、浄土宗の学問所として関東の主な寺院十八寺を十八檀林(じゅうはちだんりん)という有名な学問所と定めたとき、光明寺は江戸の芝にある増上寺(ぞうじょうじ)に次ぐ学問所として選ばれ、大いに栄えました。また、光明寺は、家康などの将軍から寺領の寄進を受けただけでなく、大名の内藤家(ないとうけ)からも寄進を受け、内藤家の菩提寺(ぼだいじ)となってからは大名寺(だいみょうじ)としても栄えました。
広々とした境内の正面には、大殿(本堂)が建っています。1698年(元禄十一年)の建立。現存する木造の古建築では鎌倉一の大堂で、本尊阿弥陀三尊ほか諸仏が祀られています。”
鎌倉 義経が鎌倉入り許されずここに留められた「満福寺」
鎌倉 この谷戸あたりが腰越の中心部だった「東漸寺」
“ 山門をくぐると正面に本堂があります。この寺は、龍口寺を守るために千葉県中山の法華経寺から差し向けられたといわれる日東(にっとう)が1352年(正平7年)に開いたと伝えられます。
本堂には、日蓮上人(にちれんしょうにん)像と釈迦如来(しゃかにょらい)像がまつられています。「腰越駅」近くの諏訪神社は、もとはこの寺の境内にあったそうです。寺の裏山には、エフェドリンという咳止めの薬を作り、日本薬学の基礎を築いた長井長義(ながいながよし)博士夫妻の墓がありましたが、現在は墓は移され、墓地に記念碑が立っています。
この寺の近くには妙典寺(みょうてんじ)、勧行寺(かんぎょうじ)、本成寺(ほんじょうじ)、本龍寺(ほんりゅうじ)があり、輪番八ヵ寺のうち五寺が集まっています。昔は、この谷戸あたりが腰越の中心部だったそうです。”
鎌倉 日蓮が斬首を免れた霊場跡「龍口寺」
鎌倉 孟宗竹林の竹の庭「報国寺」
1334年(建武元年)、足利尊氏(あしかがたかうじ)の祖父蒙蒔が開いたといわれていますが、宅問(たくま)上杉氏の祖とされる重兼(しげかね)が建てたという説もあります。開山は、仏乗禅師(ぶつじょうぜんし)ともいう天岸慧広(てんがんえこう)です。中国に渡り修行を積んだ高僧で、五山文学の代表の一人に数えられています。
報国寺は、足利氏と上杉氏の菩提寺(ぼだいじ)として栄え、5kmほど先の衣張(きぬばり)山まで境内に含むような大きなお寺でした。足利持氏(もちうじ)の子義久(よしひさ)が永享(えいきょう)の乱で自殺したのはこの寺です。
【伝説】
室町時代この谷にも宅間猫という年老いた大猫が住みつき、里へ出ては子どもを取って食べるので、当時住職だった暘谷乾幢和尚(ようこくかんどうおしょう)が山に向かって一喝したら、熊のような猫が崖の下で死んでいたという話が残っています。
鎌倉 菅原道真の怨霊を鎮めめる「荏柄天神社」
“ 荏柄天神社は日本三天神の一つ。他は太宰府天満宮(福岡)と北野天満宮(京都)です。菅原道真が祀られています。
右大臣だった道真は、政敵・藤原時平の陰謀で大宰府に流され、生涯を終えます。
その死後から、皇居に雷が落ちたり、道真の失脚にかかわった人びとに不幸が襲ったりしました。人びとはこれらを道真のたたりと考え、霊をしずめるために社を建ててまつりました。
このとき、ちょうど天神(雷神)信仰が芽吹きはじめていたこともあって、道真は天神さまと呼ばれるようになったのです。
こうした、強烈な恨みを抱えながら亡くなり、たたりをなすようになった人びとの霊を「御霊」といいます。
天神社は学問・武芸に関わる神として信仰を集めまています。”
鎌倉 鎌倉らしさを漂わせる「覚園寺」
鎌倉 後醍醐天皇の側近「日野俊基朝臣の墓」
「葛原岡神社、日野俊基朝臣の墓が建てられた背景」
室町時代から天皇家は北朝の流れが続き、南朝の天皇の手から政権を収奪したまま、幕末まで至ります。そして明治維新が起こるのですが、この維新も幕府を倒して実現した王政復古です。
いわば南北朝のリターンマッチとして堀起したのが、桂小五郎をはじめとする長州の倒幕派です。薩摩の立場も南朝論であり、大久保利通や西郷隆盛が立ち上がったのは「南朝こそ正統であり、北朝は偽王朝である」という理念を実現するためです。
長きにわたり北朝が帝位についているのは、大名が日本の政府を聾断(ろうだん)したからであり、理念からは正統な「南朝」に政権をお戻しすることこそ国の基を正す道である、と考えました。
これほどの深く、かつ生々しい思想・理念の大闘争が、明治維新の本質なのです。
鎌倉 北条時頼の夫人により創建か「延命寺」
鎌倉 石仏「百観音」を安置 「円覚寺 大方丈」

百観音霊場の由来は、養老二年(718年)徳道上人が開設した西国三十三観音霊場と、鎌倉時代、観音信仰に篤かった源頼朝が開いた板東三十三観音霊場と、その後にできた秩父三十四観音霊場の総称とされています。
円覚寺方丈前の百観音は江戸時代、拙隻尊者が百体の石仏を岩窟に泰安したことが由緒となり、明治に至って今北洪川老師が整備されました。
円覚寺の百観音を結願所として円覚寺派の寺院に百観音巡礼の札所が開設されました。
昔は、霊場に写経を納め、その際に納経印をいただいていましたが、それが現在の御納経帳または御朱印帳に変わったものとされています。行く先々の霊場で観音さまの由来を知り、観音さまの御利益にあずかり、観音さまを念じながらお参りされると、心が清浄になり安心を得られることと思います。
鎌倉 由比若宮、由比八幡宮ともいう「元鶴岡八幡宮」
鎌倉 この谷戸あたりが腰越の中心部だった「東漸寺」
鎌倉 昔、ここに律宗の多宝寺があった「妙傳寺」
鎌倉 平政子(北条政子)の墓がある「寿福寺」
鎌倉 円覚寺の塔頭の中でも最も古い「白雲庵」
鎌倉 七堂伽藍の大寺だった「海蔵寺」
海蔵寺は臨済宗建長寺派の寺です。この寺は、1253年に鎌倉幕府六代将軍宗尊親王の命によって、藤原仲能(道知禅師)が願主となって、七堂伽藍の大寺を建立したが1333年5月、鎌倉滅亡の際の兵火によって全焼してしまった。
本堂は龍護殿(りゅうごでん)とも呼ばれ、関東大震災で倒壊した後、1925年(大正14年)に再建されました。
本堂には、中央に開山である心昭空外坐像その前にタイから伝わったといわれる銅造釈迦如来(しゃかにょらい)像、右の方に厨子(ずし)に入った十一面観音菩薩(かんのんぼさつ)立像(りゅうぞう)などがまつられ、堂内の襖(ふすま)には竜や牡丹(ぼたん)とか唐獅子(からじし)などが描かれています。