鎌倉 維新の先駆けと日野俊基卿を祀る「葛原岡神社」

 葛原岡神社は後醍醐天皇の忠臣として鎌倉幕府倒幕に活躍した日野俊基卿をお祀りする神社。
 明治天皇は日野俊基卿の足跡を明治維新の先駆けとして深く追慕せられ、1884年勅旨をもって従三位を追贈され、1887年に最期の地であるここ葛原岡に俊基卿を御祭神として神社を創建、宮内省よりの下賜金をもって御社殿を造営、鎮座祭が執り行われた。一説には、地名の起りは葛原親王・鎌倉権五郎景政を祭神とする梶原の御霊社の故地であったことに因むという。
 いわば南北朝のリターンマッチとして堀起したのが、桂小五郎をはじめとする長州の倒幕派です。薩摩の立場も南朝論であり、大久保利通や西郷隆盛が立ち上がったのは「南朝こそ正統であり、北朝は偽王朝である」という理念を実現するためです。

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 この寺の裏山は、かって源頼朝が由比ケ浜の放生会(ほうじょうえ)を見物するために、展望台のような桟敷を設けたところだといわれています。後に、ここに住んだ将軍宗尊親王(むねたかしんのう)の家臣で、日蓮宗の信者であった兵衛左衛門の妻は桟敷尼と呼ばれました。桟敷尼は、1271年(文永8年) 9月12日、捕われの身となった日蓮(にちれん)が馬で龍ノ口(たつのくち)の刑場に引かれていくとき、ごまのぼたもちを作って日蓮に「仏のご加護がありますように」と差し上げたということです。このぼたもちのおかげでしょうか、処刑されそうになった日蓮を助ける奇蹟が起こりました。このことから、「首つぎのぽたもち」ともいわれ、有名になりました。

鎌倉 目の神様として親しまれている「御霊神社」

 境内には、樹齢約350年、高さ20mのタブの木が高く枝を繁らせています。その下を進むと正面の石段があり、上がった所が社殿です。屋根には金色の二枚の矢羽根がついています。祭神である鎌倉権五郎景正の紋章が社紋となっていると伝えられています。拝殿の脇に彫刻があり、後ろの本殿にも豊かな彫刻がほどこされていて、立派な造りであることは、後ろに回るとよくわかります。社殿に向かって右側に、「景正の袂石(たもといし)」(約38kg)や「景正の手玉石(てだまいし)」(約68kg)という丸い石があります。また、社殿の前には「弓立ての松」が置かれています。これは景正が領内をまわるときに弓をたてかけて休んだという松の木の一部だといわれていますが、900年の年月を経て中が腐って穴があいたようになっています。いずれも景正の力が強かったことを伝えるものです。
 鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より

鎌倉 関東大震災で諸堂は潰滅したが「浄智寺」

 仏殿前から奥に進むと、高野槙(こうやまき)や沙羅双樹(さらそうじゅ)といわれている白雲木(はくうんぼく)などの樹木がおいしげり、墓地の脇を通って境内を一巡できるようになっています。また、境内の一角の洞窟には、鎌倉・江の島七福神の一つの布袋尊(ほていそん)もまつられています。
 鎌倉・江の島七福神とは、鶴岡八幡宮(つるおかはちまんぐう)の弁財天(べんざいてん)、浄智寺の布袋尊、妙隆寺(みょうりゅうじ)の寿老人(じゅろうじん)、本覚寺(ほんかくじ)の恵比寿(えびす)、宝戒寺(ほうかいじ)の毘沙門天(びしゃもんてん)、長谷寺(はせでら)の大黒天(だいこくてん)、御霊神社(ごりょうじじゃ)の福禄寿(ふくろくじ)と、弁財天は重なりますが、江島(えのしま)神社の弁財天です。

鎌倉 子育て観音の聖観音を祀る「来迎寺」

 1194年、源頼朝が鎌倉幕府の礎石となった三浦大介義明の霊を弔うため、真言宗能蔵寺を建立したのがはじまり。
 当時、能蔵寺の名前は、この付近の地名として使われていた。頼朝が亡くなった後、音阿上人が時宗に改宗し、来迎寺に改名した。
 本尊には義明の守護仏とされる阿弥陀三尊立像のほか、子育て観音と親しまれる聖観音が祀られている。墓地の奥には義明の墓や、平家方の畠山軍に17歳の若さで殺された多々良三郎重春の墓と伝えられる五輪塔もある。

鎌倉 十字架を模した紋がいまも残る「光照寺」

 1282年 鎌倉時代、布教の為に鎌倉に入ろうとした一遍上人の一行(おそらく尼を引き連れ、乞食同然の姿)は鎌倉につながる関所を守る武士達に拒絶され、やむなく、江ノ島に通じる街道筋に一夜の野宿をした、その野宿した跡地に建てられたのがこの光照寺で、一遍上人法難霊場となっている。
 時宗の成功を賭け鎌倉入りを目指した一遍にとっては、その直前で、鎌倉入りを阻止され、この地で不安な一夜を過ごしたのでしょう。翌日江ノ島に行き、そこで踊念仏を行い大成功することができひと安心した。
 光照寺の山門の梁に、十字架を模した30cmほどの紋がいまも残っている。もし、この十字架を模した紋が、隠れキリシタンの遺物だとしたら、そのキリシタンたちはこの鎌倉で、どんな生活をしていたのだろうか。想像するだけでも興味深い。

鎌倉 奥の岩屋に不動明王が「岩窟不動尊」

 不動明王の信仰が広まるきっかけの一つは、平安時代初期の平将門の乱でした。
 朱雀(すじゃく)天皇は、平将門の乱を鎮めるために、寛朝大僧正に命じて、京都の高雄山神護寺(じんごじ)から不動明王像を借りて関東に持って行き、成田の地で日夜調伏の法を行った。
 乱が鎮まると、像を京都に連れて帰ろうとしたが、不動明王は動かなかった。
 やがて寛朝大僧正の夢枕に不動明王が現れ、自分はこの地に留まって関東の守護者になると告げたのが、不動明王信仰のキッカケの一つ、とのことです。

鎌倉 石段下に星ノ井のある「虚空蔵堂」

 行基大菩薩は全国修行巡錫の途中、この辺りで虚空京聞持の法を修行しておりました。智慧と頭脳明噺と広大無辺の宇宙を掌る仏様・虚空蔵菩薩を本尊(念持仏)として、頭脳明噺・記憶力増進を計ろうという秘法であります。
 修行を続け、一心に祈っていると、ここに奇蹟が現われました。この井の中に三つの明星が輝き、夜も真昼のように付近の木々を照し、それは七日七夜にわたって起り土地の人達を怪しみ畏れさせたのです。
 それを見て「これはきっと、井の中に何か珍しいものが入つたに相違ない」と行基は言い、とり出してみるように、と指示して入ってみると、果してピカピカと光る黒い石がありました。その石を前にして、僧は厳かに言いました。
「これは虚空蔵菩薩が石になつて降り給うたに相違ない。石が明星の光を放って鏡のように四辺を照すのは、世の人々に信仰心を起させ、平和とよろこびとを招かんがためであろう」……

鎌倉 地震や津波で海辺から移された「円応寺」

 山号を新居山(しんきょさん)といい、十王堂(じゅうおうどう)とも呼ばれています。
「地獄の十王たち」

 地底をゆるがす大音声で断罪を下し、「いいえ、それは違います」と一言でも蚊細く抗弁しようものなら獄卒に目くばせし、間髪を入れず浄破璃の鏡の覆いを取りのけさせる。……と。
    親を足蹴にかけた。
    人妻の寝室に入り、邪な快楽を分け合った。
    隣の犬が吠えて八釜敷(やかまし)いとて毒殺。
    盗み。嘘言。偽り。虚栄。ハッタリ。怠惰。無慈悲。不まじめ。数知れず。

 かくて亡者は勝ち誇る牛頭馬頭(ごづめづ)の鬼に引きすえられ、口をこじ開けられ、大きな専用道具でギリギリグイッと舌をひん抜かれ、ギゃアと叫んで悶絶する。
 円応寺では正面の帳(とばり)の陰に一きわ巨大な間魔大王がすわっている。他の九王は一段低い左右に居流れ、普通の仏教寺院と違う、異様な圧迫感を漂わす。
 このエンマ様は伝運慶作。彼が死に、冥途を旅して閤魔大王の前まで来たところ生きているとき、天才仏師としての手腕と業績が顕著であると認められ、突如生き返った。そのときの大王の様子を刻んだものと伝えられるが、本当かどうか。
 エンマは梵語ヤマの漢音訳であって、瑛魔、炎魔、夜魔などとも音写されるし閣魔天とか死王とかいうこともある。

鎌倉 江ノ島電鉄設置で移した「諏訪神社」

 鎌倉市御成町にある諏訪神社は諏訪氏の屋敷内にあった守護神が移されたも。祭神は建御名方神(たけみのかたのかみ)。
 信濃国一宮の諏訪社大祝職である諏訪盛重は承久の乱(1221年)の後に北条泰時に被官し、1236年に泰時の邸宅が新造されると、尾藤景綱と共にその敷地内の北条屋敷横に屋敷を構え、諏訪池の東側に諏訪神社を祀ったとされる。
 現在の鎌倉市役所横、市立御成小学校付近は諏訪一族の屋敷跡と伝える場所で、この諏訪神社も諏訪一族の守護神として邸内に祀られていたという。もともとは御成小学校内にあったが、江ノ島電鉄の開通に伴い現在地に移した。御成の人々はもともと小町の蛭子神社の氏子であったが、鉄道線路による分断もあり、1950年頃から諏訪神社の氏子となった。

鎌倉 明治時代まで縁切り寺として連綿と寺法を維持「東慶寺」

 東慶寺は、山号を松岡山(しょうこうさん)という臨済宗の寺です。1285年(弘安8年)、北条時宗(ほうじょうときむね)の夫人の覚山志道尼(かくさんしどうに)を開山として、時宗の子貞時(さだとき)が建てたといわれていますが、源頼朝の叔母の美濃局(みののつぼね)が創建し、山尼が禅宗に改めたともいわれています。
 覚山尼は、時宗が仏門に入ったとき、一緒に尼となって東慶寺に入り、禅の修行に励みました。有名な「縁切寺法(えんきりてらほう)」をつくったといわれていますが、これが確立されたのは江戸時代だといわれます。
 江戸時代、鎌倉では鶴岡八幡宮・円覚寺につぐ寺領を持ち、建長寺よりも多くなりました。

鎌倉 浄土、真言、華厳、律の兼学の寺「浄光明寺」

 北条時頼と長時により創建され、「浄光明寺敷地絵図」に示されるような中世の状況を残しています。鎌倉歌壇の成立を物語る冷泉為相(れいぜんためすけ)の墓があります。
  冷泉為相(1263~1328年)は異母兄弟の二条為氏と播磨細川荘の相続争いで、訴訟で鎌倉に来ていた。(「十六夜日記」の作者 阿仏尼は冷泉為相の母。京都から16日間歩いて鎌倉に来たとのこと)
 1335年、一時足利尊氏がこの寺に引き篭り、後醍醐天皇に対し挙兵する決意を固めたという。尊氏、直義兄弟の帰依は厚く、尊氏による寺領寄進、直義による仏舎利の寄進などが行われたことを書いた古文書が残っています。

鎌倉 稲荷明神像もある「本成寺」

“ 本成寺(ほんじょうじ)は、神奈川県鎌倉市腰越にある日蓮宗の寺院。旧本山は小町本覚寺、潮師法縁。龍口寺輪番八ヶ寺の一つ。
延慶2年(1309年)、淡路阿闍梨日賢が建立した。

 門を入った正面に本堂があり、右側に墓地、左側に庫裏(くり)があります。日蓮(にちれん)の弟子日賢(にっけん)が1309年(延慶2年) に開いたと伝えられています。本尊は、三宝本尊(さんぽうほんぞん)(祖師(そし))という「南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)」のお題目が書かれた塔と釈迦如来(しゃかにょらい)、多宝如来(たほうにょらい)で、日蓮上人像とともにまつられています。また、岩の上のキッネにまたがった稲荷明神像(いなりみょうじんぞう)もありますが、これは「教(経)-稲荷」と呼ばれ、左手に宝珠(ほうじゅ)を持つ江戸時代のものです。

(鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より)”

鎌倉 幕府の守り神の夷神を祀った「本覚寺」

 本覚寺の開山は、日出上人、駿河の国三島の出身の学者。後に日蓮宗の僧となった。
 寺伝によると、日出上人は熱心に布教活動をしたが、日蓮聖人同様激しい反対に遭い、捕らえられたが、そのときの鎌倉公方足利持氏が、その熱意に感心し、日蓮聖人ゆかりの夷堂のあるこの場所を与え、1436年に建立された。
 日出上人の後を継いだ日朝上人は、幼いときから神童とよばれた優れた人で、身延山より日蓮聖人の遺骨をここに分骨し、祖師分骨堂が建てらた。また、自分の名を呼びながらお祈りすれば目の病を治してあげようとも言ったそうで、いまでも本覚寺は「日朝(にっちょう)さま」の愛称で通っている。 日蓮の生まれ変わりといわれるほどウルトラ秀才だったので、本覚寺には大物過ぎ、身延山に移り法主となった。

鎌倉 露天の大仏になってしまった「大仏(高徳院)」

 開基(創立者)と開山(初代住職)はともに不詳だが、高徳院では法然上人を開祖としている。
 当初は、阿弥陀大仏を安置する大仏殿以外には付属する建物はなく、もともとは「大仏殿」が正式名称だった。
 1238年に着工した大仏は木造。1247年、大風で倒壊。1252年に現在の青銅で鋳造された。1495年の津波で大仏殿が流され、露天の大仏になってしまった。この年は北条早雲が小田原城を奪取した年であり、鎌倉はすでに大仏殿を再建する経済力はなかったのでしょう。
 かってこのあたりは鎌倉の西の果て、そのため、刑場があったり、流人が集まる場であったり、ハンセン病患者の収容施設があった場所。そうした場所を大仏によって「悪書」を「聖化」し、都市鎌倉、そして関東地方を護持させようとした。

鎌倉 一時は約3,000坪の境内だった「薬王寺」

 薬王寺の釈迦堂の裏に、大きなやぐらがあります。不思議なことに、このやぐら内の地面に直接置いた石像は、どんな材質のものでもだんだんとけていくのだそうです。現在、やぐらの入口近くに4体の石像が並んでいますが、どれも像の輪郭がわからないくらいにとけています。このあたりは海底が隆起(りゅうき)したところなので、塩分の影響が大きいのではないかと考えられています。

鎌倉 四季の花が楽しめる「長谷寺」

 輪蔵の内部
 輪蔵は観音御縁日(毎月18日)、正月三が日、4月8日(灌仏会)、8月10日(四萬六阡日)のみ回すことができます。
 経典が入った回転式書架をまわすとすべてのお経を読んだことになるとか。

 寺の縁起によると、霊夢を得た徳道上人が721年に大和(奈良県)の初瀬で1本の楠から2体の像を造り、1体を奈良の長谷寺に、もう1体は縁ある土地で民衆を救ってくれるようにと祈り海に流しました。
 その16年後、三浦半島の長井の浜の漂着したものを現在の地に移し、長谷寺は創建されました。
 むかしは、奈良初瀬の長谷寺に対して新長谷寺とよばれていいました。奈良の長谷寺は真言宗豊山派の総本山で、この長谷寺とは宗派としてのつながりはありません。

鎌倉 開山は空海と伝えられる「浄泉寺」

 以前は、山門も本堂も、江ノ電の線路の方を向いて建っていましたが、1955年(昭和30年)に国道134号線が造られた際に現在の位置に移されました。国道の工事中の1954年(昭和29年)に、浄泉寺墓地の南側と小動神社境内から、開元通宝(かいげんつうほう)・治平(じへい)通宝・政和(せいわ)通宝・洪武(こうぶ)通宝その他、宋(そう)や明(みん)の古銭が1000枚以上、約60kgも出土しました。

鎌倉 廃寺禅興寺の名残りの塔頭「明月院」

 明月院にアジサイが植えられるようになったのは戦後。それまではなんの変哲もないお寺でした。垣根代わりに住職がアジサイを植え始め、次々と株を増やしてあじさい寺と呼ばれるようになりました。質素なお寺だった明月院かアジサイのおかげで有名になりました。

鎌倉 日蓮弟子の四条金吾頼基の屋敷跡「収玄寺」

 1271年 日蓮聖人の龍口法難の際、日蓮と共に殉死の覚悟を決した第二代執権義時の孫、江間光時の家臣の四条金吾の屋敷跡に金吾の滅後、捨身護法・法華色読の霊地として建立。
 創立当初は収玄庵と称したが大正末期の本堂改築を機に収玄寺と改称した。
 四条金吾は医術にも造詣が深く鎌倉、佐渡、身延にと終始日蓮聖人に給仕し法華信者の鑑として大聖人より厚い信頼を受けた。
 日蓮は、説法で「法華経こそ、仏の真の教えである」ということで、他の宗派を激しく批判したので、反発も強く、他宗を信じる民衆からは石や瓦を投げつけられてしまう。それでも、日蓮はひるむことなく布教活動を続け、確実に信者を増やしていった人。