円覚寺は禅寺として知られ、鎌倉五山第二位の寺格を持っていた名刹です。執権・北条時宗が創建。正式な名称は、瑞鹿山円覚興聖禅寺。
開山は、宋僧の無学祖元です。
蒙古襲来で有名な文永・弘安の役では、唐軍にも鎌倉方にも多くの死者が出ました。
北条時宗がそれら武将たちの菩提を弔うためと、鎮護国家を祈願して弘安五年(1282)に、この円覚寺で開堂供養が行われたのでした。
開山の無学祖元には逸話が残っています。
蒙古の元軍が乱入し、祖元の首筋に元軍の兵が白刃を当てたが、それに動じず、逆に説法したといいます。
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鎌倉 北鎌倉駅方面の街並みが良く見える「八雲神社」
元村社で山ノ内の鎮守である。祭神は素戔嗚尊(すさのおのみこと)。例祭7月15日。境内社に稲荷社がある。小高い丘から見下ろすと北鎌倉駅方面の街並みが良く見える。古くは牛頭天王を祀ったため牛頭天王社と称していた。「相模風土記」に記すことによると、村人がこの地で疫病退散のために京都八坂祇園社を勧進したのが始まりだという。その後、この地に居を構えた関東管領上杉憲房が篤く信仰した。一方、社伝によると文明年間(1469~1486)に上杉家が扇ガ谷と山ノ内に分かれて争ったとき、山ノ内上杉家の憲房が武運長久を祈って、京都の八坂神社から勧進したという。
境内裏側には庚申塔群がある。この中には寛文5年(1665)の銘のある石造庚申塔が存在する。これは鎌倉市内最大最古。
また境内には清明石なるものがある。昔は十王堂橋を渡った道路の真ん中にあったらしい。この石をわざと汚したり、踏みつけたりすると祟りがあるという。しかし、この石を知らずに踏むと足が丈夫になり、足を痛めた人は石を清水で洗い、塩や線香をあげて拝むと治るとも言われたという。
鎌倉 洞窟の壁に磨崖仏「長谷寺」
鎌倉 円覚寺の塔頭の中でも最も古い「白雲庵」
鎌倉 新田義貞が北条方の戦死者を弔う「九品寺」
開基は、新田義貞と伝えられています。1333年(元弘3年)新田義貞軍が北条氏を討つため鎌倉攻めをしたとき、この場所に本陣をかまえたということです。北条氏が滅びたあと、義貞は北条方の戦死者の霊を慰めるため、1336年(延元元年)この地に九品寺を建て、義貞が日ごろから尊敬していた風航順西(ふうこうじゅんさい)和尚(おしょう)を京都から招いて開山とし、戦死者の霊を厚く弔ったといいます。
山門と本堂にそれぞれ掲げられている額の「内裏山」と「九品寺」の文字は、新田義貞が書いた字の写しと伝えられています。もとになった額は、傷みがひどいため本堂に保存されています。
鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より
鎌倉 菅原道真の怨霊を鎮めめる「荏柄天神社」
鎌倉 望みが絶たれた徳川忠長を供養「薬王寺」
鎌倉 孟宗竹林の竹の庭「報国寺」
鎌倉 円覚寺、石段を上がると国宝の梵鐘「鐘楼弁天堂」
江の島 台湾近代化の尽力者を祀る「児玉神社」
明治時代の陸軍大将・児玉源太郎(1852(嘉永5)年~1906(明治39)年)を祀った児玉神社は、児玉が生前、江の島を非常に愛していたことから、この地に神社が創建された。
児玉公は江の島の風景を愛し、しばしば清遊した由縁により1917(大正6)年官許を得て神社創建を決し、後藤新平らの尽力により、主要な社殿が建立され、1921(大正10)年主要な社殿が建立され、7月御鎮座を了えた。1940(昭和15)年県社に列し、公の遺徳を慕う人々の奉賽が多かった。ことに境内には台湾総督時代の関係者による献納の燈籠・水盤などが見られる。
かつて児玉神社は荒れ果てていた。境内を浮浪者が徘徊したり、参拝者が拝殿に土足で上がるなど、廃絶寸前だった。こうした惨状を見かねて、山本宮司が現職を拝命(1980年5月)し、整備した。
鎌倉 夢窓国師が瑞泉院を建立、その後「瑞泉寺」
北条高時らの帰依を受けた夢窓疎石(むそうそせき)によって開かれ、鎌倉公方の菩提寺ともなりました。発掘調査により復元された初期禅宗庭園は、日本庭園の源流の一つで、国名勝です。
開山は夢窓国師(むそうこくし)(疎石(そせき))で、1327年(嘉暦2年)二階堂道蘊(どううん)がこの地に瑞泉院を建てました。この後、南北朝の時代に最初の鎌倉公方となった足利基氏(あしかがもとうじ)は夢窓国師に帰依して瑞泉寺と改め、1350年(貞和6年)に亡くなると、瑞泉寺に葬(ほうむ)られました。
以後鎌倉公方代々の菩提寺(ぼだいじ)として栄え、関東十刹(じゅっさつ)に名をつらねました。
関東十刹とは、室町時代に定められた、幕府が関東地方で保護する臨済宗のお寺の格のことで、五山の次に位置づけられたものです。塔頭(たっちゅう)も十余を数え、義堂周信(ぎどうしゅうしん)のような高僧も住職となり、また訪れる高僧も多く、五山文学の中心の一つともなりました。
鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より
鎌倉 北鎌倉駅方面の街並みが良く見える「八雲神社」
鎌倉 龍口寺を守るために開いた「東漸寺」
立正安国論を著してから4年後の文永5年(1268)に、元(蒙古)の国書が鎌倉に届き、元の襲来が現実のものとなった。日蓮は「元寇」の予言が的中したとして、再び幇府の要人に立正安国論を呈上し、また諸方の有力者にその趣旨を書いて送り、日蓮の持論による国難の回避を主張した。
文永8年には北条時宗が第8代の執権となったが、時宗はこのような日蓮の言動は世を惑わすものとして日蓮を捕え、龍の口の刑場で斬罪に処すことにした。その年の8月12日、日蓮は刑場に引かれて斬られることになったが、刑吏の武士が刀を振りかさした時、江の島の方角から満月のように光り輝くものが刑場に近づいた。刑吏は目が眩んで地に伏し警備の武士たちも恐れて逃げ散ったという。
鎌倉 鎌倉では珍しい五重塔「龍口寺」
日蓮の弟子日賢が1309年 に開いた「本成寺」
鎌倉 塩嘗(しおなめ)地蔵を収める「光触寺」
光触寺の境内。木々に囲まれた境内に、ひっそりと本堂がたたずんでいる。その本堂の脇に小さな地蔵堂があり、塩嘗(しおなめ)地蔵が収められている。この塩嘗地蔵、なぜそう呼ばれるのか。
ひとつは、六浦の塩売りが、初穂の祝いのために、「地蔵に備えた塩をなめたから」という説や、塩売りの供えた塩が「いつのまにかなくなっている」というので、そう名付けられたとも言われている。いずれにせよ、鎌倉には地蔵信仰が多く存在する。
鎌倉時代は、地蔵信仰が開花したりしたいとも言われている。もともと奈良時代に中国から伝えられた自動信号だったが鎌倉にその信仰が触ると名高い人が競って優れた地蔵を製作するようになり庶民に浸透していったのだった。この地蔵信仰の特徴はそれぞれに専門化された性格が与えられていたことでもある。安産眼病長寿などなど、現実に即した願いを書く地蔵が受け持ち庶民の心を癒す役割を担いよの反対に一役買ったのだった。
(「鎌倉なるほど事典」 楠本勝治著 実業之日本社 より)
鎌倉 平政子(後世北条政子と呼ばれた)の墓がある「寿福寺」
1200年 源頼朝夫人政子が、明庵栄西禅師(緑茶を伝えた人物—茶そのものは奈良時代に伝わっていた。)を開山として建てたもので、鎌倉五山の第三位の寺。
源実朝、北条政子の墓と伝わる五輪塔があります。
明治維新で神仏分離で鶴岡八幡宮(鶴岡八幡宮寺)の仁王門にに祀られていた仁王様が移築されています。
開山(初代住職)の栄西は、二度の入唐(28歳と47歳)をへて、日本に臨済宗を伝えましたが、比叡山延暦寺の官層(公務員の僧)たちの反感をかい、活躍の場を鎌倉に求め、寿福寺建立の許可を得ました。その後、鎌倉幕府の後援を受けて建仁寺(京都市)を建立しました。当時は、鎌倉で勢力を得て、京都へUターンする事例も多かったのです。
山門前には高い樹木があり、ふと石に腰をおろし、一息つきたいような雰囲気があります。
鎌倉 風情のある住居のような「長寿寺(長寿禅寺)」
鎌倉 光明寺草創以前よりこの地に「蓮乗院」
この寺院の創立年代や開山については、はっきりわかりませんが、光明寺より早い時期からこの地にあった寺で、蓮乗寺(れんじょうじ)といってはじめ真言宗(しんごんしゅう)だったということです。その後、光明寺が佐助ヶ谷(さすけがやつ)から移されてきてから、光明寺の子院となり、浄主宗(じょうどしゅう)の蓮乗院と改めたといわれてします。
1243年(寛元元年)に光明寺が良忠によって創建されたといわれますが、寺院の落成まで良忠は蓮乗院に居住して、建築を監督(かんとく)したということです。こうしたことから、光明寺の新しい住職となると、まず蓮乗院に入ってから改めて光明寺の本山方丈(ほうじょう)に入る慣わしになりました。
鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より