尾道 昔はここに魚市場があった「尾道駅前桟橋」

 島に行く船が出ています。
 前の島(向島(むかいしま))への渡しの乗り場が、一番東に独立してあります。
 「尾道~因島~生口島」方面、「尾道~百島~常石」方面の船が出ています。他に、春から秋までですが、「尾道~鞆の浦」への船が、土日に運航しています。
 この辺りの海は、干満の差が3m前後あり、海岸の景色も変化します。海底までの深さも変わりますし、隠れていた岩が水面に顔を出します。また、潮の流れも早いのです。 前に向島があるので、風の影響は少なくて済みます。
 1957年4月、瀬戸田港から尾道港に行く第五北川丸の海難事故がありました。岩礁に乗り上げ沈没、旅客112人及び乗組員1人が死亡。定員は旅客77人、乗っていた旅客は訳230人、約3倍の乗客を乗せていました。
 その頃、夏の海水浴場へ行く客船は、船の周囲が通路になっており、海水が足首まで来るくらい乗客を乗せていました。

日本列島に琉球がプラスされたのは1441年(室町時代)!

 国境問題は、基本的には経済的利益なのですが、権力闘争に於ける見栄(ミエ)中心の場合もあるようです。
 陸続きだけでなく、海上交通の発展とともに、海に囲まれた島であっても国境問題は起きています。
 北方領土(歯舞群島、色丹島、国後島、択捉島)は、1855年(安政2年)、日本(江戸幕府)とロシア(ロシア帝国)に日露和親条約を結び、択捉島と得撫島の間を国境線としました。
 しかし、太平洋戦争後はソ連(ロシア)が実効支配をし続けています。
 ロシアという国には、国境という概念がそれほどは無いようですね!

鎌倉 菅原道真の怨霊を鎮めめる「荏柄天神社」

 菅原道真を祀る天神社は、学問・武芸に関わる神として信仰を集めましたが、鎌倉では武家の誓約や武家政権を守る神社とされました。

 人殺しの歴史、それが世界史です。世界史の正体とは"ユーラシア大陸での殺し合いの歴史"です。
 そんな世界史を1100年以上も前に拒否した国がありました。わが日本です。決断を下したのは菅原道真という人でした。
 菅原道真が大陸との交わりを断つという決心をしてくれたおかげだったのです。
 それから幕末のペリー来航あたりまで、野蛮な世界史に関わらなくて済んだのは、菅原道真が大陸との交わりを断つという決心をしてくれたおかげだったのです。

つねに「なぜ」「どうして」「どうやって」と自問自答する!

 後向きで無い「考えごと」、続けていきたいものですね。それも「無意識な考えごと」。
 「後向きな考えごと」はストレスにつながってしまいますが、「無意識(前向き)な考えごと」は、脳の栄養分を消費し、脳に溜まった不要物の排泄も充分行い、脳を健康に保つことには貢献するのではないでしょうか!

福山 鞆 新羅へ出兵の淀媛命を祀る「淀媛神社」

 この神社の祭神は淀姫命(よどひめのみこと)。弥生時代に三韓征伐(新羅(しらぎ)に遠征して征服、さらに百済(くだら)と高句麗(こうくり)を征服)を行った神功(じんぐう)皇后の妹君で、はじめは、海神・大綿津見命(おおわたつみのみこと)を祀った沼名前神社(渡守神社)の祭主を務める身でした。
 しかし、後世、その徳が偲ばれて氏神として奉斎され、鞆湾の入口を守護する守り神となりました。
 以降、この高台に鎮座し続け、現在に至っています。
 現在の社殿は大正3年に建立されたもので、平成13年に修復されています。
 神功皇后が三韓征伐のため西国下向の際、鞆の浦の地に寄泊しました。
 帰路携帯していた「鞆」を奉納し、海神・大綿津見命を祀った際に、妹君の淀媛命を祭主として奉任させました。その神社が沼名前神社(渡守神社)の起源です。
 数年後に淀姫命は鞆の浦を去りましたが、後世その特を偲び氏神として奉斎し、鞆の浦湾の入口の丘の上に鎮座する護り神として現在に至ります。

相手の目を意識して、過剰に気を使ってしまいまう!

 以前から、上司という立場になったら、気を使う必要が出てきます。しかし、昨今は、この気づかいが拡大化し、管理職になることを嫌い、転職を考える人も出ているのでしょうね。
 子供に時代に「ガキ大将」のしくみがなくなり、縦社会の基本を学ぶことなく大人になっています。
 その大人が、上司という立場になると、部下も「ガキ大将」のしくみを学んでいないので、大変ですね!

座間 野火が延焼して焼失、現在の地へ「星谷寺」

 星の谷観音堂が坂東八番の札所になったの源頼朝在世中のことと思われます。
 この頃は今でも本堂山と呼ばれている400mほど北東の丘の中腹にあったと伝えられていますが、いつの時代か、相模野の野火が延焼して焼失、現在の地へ移ったといわれています。
 戦国時代には北條氏の保護を受け、小田原から府中へ人至る街道上の宿泊所としても利用されましたが、徳川氏はあまり重要視せず、朱印地(非課税の領地)も三石しか与えませんでしたが、正保国図(元年・1644年)などには北相模で唯一(随一)の社寺として観音堂が書かれており、民衆の間には相当重視されていたものと思われます。
 江戸時代に入り、天下が太平になると、民衆の間にも百ヵ所観音、あるいは、坂東三十三ヶ所参りが流行しました。市内で最古の百ヵ所参りの記念物は、星の谷観音堂にある貞四年(1687年)の額です。

ストレスがたまると、甘いものを食べてしまう!

 甘いものは1週間に1度、決めてしまいましょう、と。
 甘いものには、ついつい手が出てしまうものです。それも、あまり疲れていないときでも。
 豊かな時代になると、ケーキやお菓子が贅沢品ではなくなります。
 また、情報が飛び交い、ストレス社会にもなっています。
 その結果、肥満気味の人が増えてしまいました。医療技術が進んだとはいえ、健康に暮らしたいですね!

鎌倉 望みが絶たれた徳川忠長を供養「薬王寺」

 この地にはもとは真言宗梅嶺山夜光寺があったとされているが、日像が由比ガ浜でお経を百日間読誦する修行を行った際、寺が荒廃しているのを見て真言宗の住職と数日間宗教論争した末日蓮宗に改宗したと言われている。

 徳川忠長公供養塔の存在により、徳川・蒲生家ゆかりの寺として寺紋に三葉葵が用いられていた為、一般住民の埋骨を許さない格式由緒ある寺であった、と。

「市場に接点を持つ流通」が力を持っているという過渡期!

 備蓄米の放出がありましたが、これは米の流通ルート上で行われました。ということは、「高値で仕入れた米を、先に売りたい」という心理が働きます。
 その結果、備蓄米はなかなか流通ルートに流れません。
 米以外の流通ルートに流せば、米の値段はすぐに下がったのでしょう。
 全国にたくさんあるコンビニの流通ルートに乗せれば、直ぐに米の値段は下がったことでしょうね。
 残念!

尾道 国宝の寺、江戸時代、伝書鳩と米相場 「浄土寺」

 聖徳太子が創建したと伝えられる。多くの文化財をがあり“寺の町尾道”の中でも由緒ある寺院として、訪れる人も多く、境内にハトがたくさんいます。ハトのえさを持っていると腕や手に飛んできます。
 足利尊氏が九州平定や湊川の戦の際、戦勝祈願をした寺としても有名です。
 「本堂」「多宝塔」は国宝、「山門」「阿弥陀堂」は国重文、境内一帯は国指定文化財に指定されています。
 裏の竹林には伏見城から移築したといわれる茶室 「露滴庵(国重文)」が寂然と建っています。
 ここの多宝塔(二重の塔)は日本の三大多宝塔の一つとされています。また、裏庭には茶室があり、わびさびの世界を漂わせています。
 爰にハトがいる理由は、江戸時代、幕府が禁止していた伝書鳩を使って、大阪の米相場の情報を撮っていたからです。お寺を維持していくビジネス(?)感覚は大事ですね!

相手の目を意識して、過剰に気を使ってしまいまう!

 以前から、上司という立場になったら、気を使う必要が出てきます。しかし、昨今は、この気づかいが拡大化し、管理職になることを嫌い、転職を考える人も出ているのでしょうね。
 子供に時代に「ガキ大将」のしくみがなくなり、縦社会の基本を学ぶことなく大人になっています。
 その大人が、上司という立場になると、部下も「ガキ大将」のしくみを学んでいないので、大変ですね!

厚木 天台宗の鎮守 山王権現を祀る「知恩寺」

 江戸時代には、智恩寺境内にあった山王社にまつられていた懸仏(かけぼとけ)が、現在では本堂の中に保存されています。
 山王権現とは、日吉神社・日枝神社の祭神であり、権現とは仏・菩薩が化身してわが国の神として現れることを意味しています。また懸仏は銅などの円板上に、仏像・神像を半肉彫りにあらわし、柱や壁などにかけて礼拝したもので、特に鎌倉時代から室町時代にかけての資料が多く見られます。
 智恩寺の懸仏は、中央の仏像を、左右に配された猿が拝む形式であり、刻まれている銘文から寛永13年(1636)に荻野の鋳物師である森久左衛門重久が鋳造したことが分かります。
 戦国時代から明治初期に至る間、下荻野は鋳物師集団の活動の地として知られていましたが、この懸仏は江戸時代初期の鋳物師である森氏の作例として貴重です。

友人が多い人というのは、愛情乞食タイプの人!

 友人が多いと、ひとりでいると辛い者になってしまいがち。
 愛情に飢えがちなタイプは、いじめに遭うと苦しいもの。
 一匹狼でいることができる人は、いじめには強いのでしょう。
 親が、子供を大事にしすぎ、甘やかしすぎると、子供にとってプラスになるとは言い切れないのでしょうね。
 「いいかげん(良い加減)」は難しいですね!

鎌倉 孟宗竹林の竹の庭「報国寺」

 1334年創建。開基は、足利尊氏の祖父、足利家時で、開山は天岸慧広(てんがんえこう)。
 1438年の永享の乱で敗れた鎌倉公方足利持氏の子義久がこの寺で自刃(10歳または14歳)している。
 この寺で自刃した足利義久は将軍職をうかがう姿勢をとったこともあって、討伐の軍をさし向けられ(永享の乱)永安寺で自害、長男義久も報国寺で自害したという。
 古くから境内の1,000本の孟宗竹林で知られています。
 ところで孟宗竹は、動物園ではジャイアントパンダのエサとして与えられているとのこと。

桃太郎は、イヌ(信頼)・サル(知恵)・キジ(情報)を連れて鬼退治に!

 桃太郎の伝説、吉備の国(第四十一代持統天皇の時、吉備の国は備前・微衷・備後・美作:主に現在の岡山県と広島県東部)の伝説です。
 意外と知られていないのが、「鬼を殺したりしません。悪いことは悪いときちんと教えるけれど、反省したら許しています」。
 日本の文化の基本に、このような考え方が根づいていたのですね!

尾道東高等学校(林芙美子の母校)

 NHKアーカイブに、戦後まだ6年の1951年に放送されたもので、作家の林芙美子さん47歳の肉声が残っていました。放送終了後、林さんは4日後に亡くなった。本当に最後の音声となったという貴重なものです。その中の一部をかきとめました。
 女学校時代に、その女学校もやっぱり私、自分で業実(実業をもじった語:学生のスラング)を働いておりましてね。今で言えばアルバイトの先駆者みたいなんですけれども。こうは言っても、私の育ったとこは尾道というところで、景色のいいとこなんですよね。「この女学校入っておりましてね。そして親が女学校には入れてくれないって言うんですけども、勝手に試験を受けに行ったら6番ぐらいで入っちゃったんです。得意になって入ってたんですけど、袴も買えないし、教科書も買えない。仕方がないから、これが工場に入ってあの太い針で本縫になって、そして日給をもらって、それでもって貯めたりして、日給といっても夜に行ってましたからね。だから、あるいは袴だとかそういうものを、自分のお金で稼いで、そして学校に入った。
 学校に入った時に私は地方での土着のものじゃないもんですから、非常に排斥されていた。自然に図書室に入ったりするようになって、その頃のものだとか、………。その頃たいへん詩が大変遊行していて、はやって若い人に読まれていたので、わたくしも詩を読んで、大変好きでした。先生が、また非常に好きで、読んでくださいました。自然に、自然発生的に、そういうものが好きになっていきました。…………

「きっかけ」という言葉、「切りかける」タイミングの意味だった!

 何かを成し遂げるには、何かしらの「きっかけ」があるようです。これは、後になって気がつくものです。
 “なにかしら”を続けているうちに、何時の間にか、何かを成し遂げている、しかし、それほど成し遂げたという実感はないかもしれません。
 なにかを「やってやろう」という意気込みで、成し遂げる人は僅かのようです(スポーツを除き)

尾道 技芸が上達する「お経の塚」がある「海龍寺」

 奈良の西大寺の定証上人が西国巡礼の途路、当時の曼荼羅堂といわれていたこの寺に住み、荒廃していた浄土寺を建立したと伝えられている。
 その頃備後太田の荘官でこの寺の別当職であった和泉法眼渕信がこの寺を定証に寄進したという古記録がある。
 正中二年(1347年)には炎上したが、直ちに再建され、寺名を現在の海龍寺と改めたのは寛文二年(1662年)である。
 本尊は鎌倉末期のものといわれ千手観音菩薩である。山門の直ぐ右側に文化七年(1810年)の文楽之墓と文政三年(1820年)の竹本弥太夫の墓があるが、これは江戸の末期に尾道の浜問屋の檀那集が大阪から文楽師匠を招いて余暇を楽しんでいて師匠の死語追善供養の為建てたものである。
 庫裡の裏庭山麓に広がる大盤石は花崗岩の多い尾道地方でもめずらしい巨岩である。

老いるとは懐古的境地になることだ!

 「もったいない」という気持、自分の生きていることを大切と思いはじめることから生れると思うと、自分の時間や健康を大切にするようになるのでしょうね。
 そうすると、他人を大切にする気持ちが強くなっていくのでしょうか。
 自分の時間を大切にし、自分の経験や知識が、人のためになるようにしないと「もったいない」ですね!