今は口コミサイトもあり、それで調べることができるが!

 SNSがこれだけ普及すると、それらの反応を研究し、ビジネスに取り入れるしかないのでしょうね。
 SNSで批判する人の傾向をつかみ、それを利用し、NETに拡散させる、という手法を研究し活用する。
 NET批判者を、ビジネスに積極的に活用する時代になれば、逆に、NET批判者が少なくなっては行かないのでしょうか?

尾道 よく「見よう・言おう・聞こう」三猿の教え「大山寺」

 「見ざる、言わざる、聞かざる」の真逆。
 「見てご猿、言うてご猿、聞いてご猿」で、世の中の正しいことを「よく見よう」、「よく言おう」、「よく聞こう」という願い。
 江戸時代から尾道は、実質的には豪商が町を治めていた。この風土がこの猿達を生んだのでしょうか。

  NET社会になってしまった現在、「見てご猿、言うてご猿、聞いてご猿」の時代になってしまったようですね。
 NET詐欺の合わないようにお参りしますか!

いろいろ不安材料の多い日常生活の中で!

 災害の多い日本、精神的な負担をいかに軽くするか、古くから工夫してきました。
 「神様」がその中心ですが、動物たちもいろいろと貢献してきたいます。
 今年はへび年ですが、十二支の動物もなにかしら活躍しています。地震とナマズ、洪水と大蛇や龍など
 また、風や地震などの災害時に、鎮守の杜の周辺では被害が小さかったという報告もあるようです。
 疫病が蔓延すると、むかしは朝廷がよく祈祷を行っていました。
 このような言い伝えや行事などで、精神的な負担を和らげていたのでしょうね!
 

厚木 天正時代徳川家康が訪れた「松石寺」

 松石寺の歴史は古く、寺に伝わる縁起によれば平安時代初期の大同年間(806~809)に、後に弘法大師と呼ばれた空海が33歳の時にこの地に来て、起立華厳経の経文の一文字ずつ小石に書き写した。その小石を国家鎮護の為として裏山の頂にあった盤石に収め、この地に一宇を開いたのがこの寺の始まりという。
 その後は「華厳山乗碩寺」と号し律宗の寺院として続いていたが次第に衰微していき、鎌倉時代に入ると荒廃していた。南北朝時代の貞治4年(1369)に雲血由(ウンシュウ)律師という僧によって寺の再興が成り、その寺号も林徳院に変わった。
 室町時代中期の広山白陽律師の代に、曹洞宗を開いた道元の子孫にあたる天巽(リン)慶順に寺を譲ったことにより、それまでの律宗から曹洞宗に改宗して寺号も創建当初の乗碩寺に戻して開創したのであった。

日本はいつしか花粉症大国になってしまいました!

 花粉症の時期、困る人がどんどん増えてきました。
 食事が昔に比べ豊かになったことも原因の1つ。
 人類の歴史では、今の日本の食事は異例な豊かさなのでしょうか?
 豊かさに、人間のからだがついて行けないことも考えなくてはならないのでしょうね。
 人々が豊かさを求めて社会をつくってきたのですが、地球の温暖化も含め、見直さなければならないのでしょうか?

鎌倉 風情のある住居のような「長寿寺(長寿禅寺)」

 建長寺から小袋坂を下って、明月院踏切へさしかかる途中の左側の小高い石段の上が長寿寺である。亀ケ谷坂はこのお寺の脇へ下りてくる。
 石段を昇ると山門前にはこの坂の象徴亀公をふまえた石塔がある。なるほど、亀は万年というから、それで長寿寺か。昔の人は智慧がある。
 開山は古先印元。開基は足利尊氏といわれる。
 開山は古先印元(こせんいんげん)禅師。創建は1323年から1336年頃。開基は足利尊氏。
 足利尊氏が自邸の跡地に創建、尊氏没後に子の足利基氏が堂宇をととのえたという。

発達障害は、遺伝的な影響が強い障害と見られています!

 発達障害の人達の才能が、マスコミがよく取り上げるようになりました。
 しかし、小学校からの友達が中学生になった時、病気で失明した友人がいました。
 その後、何十年も付き合っていた友人を思うと、その人を「世間が思う障害者」という感覚では付き合っていませんでした。
 目の見えないことは、単にその人の個性のような感じでした。
 「障碍」というものは、単なる個性と思う時代になるとよいのですが! 

福山 鞆の浦 鞆湾の全景が一望の「医王寺」

 医王寺は、平安時代に弘法大師によって開基されたと伝えられるお寺です。
 医王寺のご本尊は「木造薬師如来立像」。6年に一度ご開帳されます。広島県の重要文化財にも指定されています。
 坂道や階段を上った先の後山(うしろやま)の中腹に、鞆の浦で2番目に古いお寺 医王寺があります。このお寺は826(天長3)年に弘法大師空海によって開基されたと伝えられています。その後、火災で焼失していますが、慶長年間に、鞆城代・大崎玄藩により再興されました。
 高台にあるため眺めは最高で、鞆湾の全景が一望の下に見渡せます。