だれしも、自己表現欲求のかたまり!

 「自分を認めて貰いたい」は誰でも思っていますね。でも、こっれを主張しすぎると、イヤな人間に見えてしまいます。
 トランプさんを見ていると、自己主張は、人づきあいでは良くないことだと感じますね。
 人の話には、まづ聞くこと、それも反論せずに。自分が受け入れにくい場合は、聞き流すしかないのでしょうね!

相模原南区 石仏たちが集まる「長松寺」

 鎌倉公方足利氏満開基となり、曇芳(どんぽう)(1399年没)を開山として臨済宗建長寺宝珠庵の末寺として建立。
 1430年再建。その後何度か衰退を繰り返したが小田原北条氏の時代お堂が再建された。また、換室宗応(かんしつそうおう)という僧が代官平岡岡右衛門吉道とともに曹洞宗に改宗し、津久井の功雲寺末寺として再度開基された。
 1649年に寺領十石の朱印状(寄進状)が与えられている。

学校とは常に教育を受ける場、知識を授かる場!

 不登校の生徒が増えているようですが、今年は少し減少したようです。
 教科書から提供される情報は、NETから得ることも出来るので、学校の存在価値が減ったためという面もあるのでしょうか?
 不登校は、いじめが原因とされるようですが、最初はいじめなのでしょうが、学校に変わる情報取得方法があるため、むかしよりは不登校の損失が少なくなったようですね!

尾道 むかし北前船が寄港、今は「海の駅」

 ヨットやボートの停泊設備です.
 住吉浜といい、昔から船着場がありました。一部復元されています。
 ここの「海の駅」なのですが、食堂や売店の施設はが、ホテルや食堂、商店街がすぐそばなので、停泊施設以外は造らなかったのでしょう。

 「海の駅」は、瀬戸内海の豊かな自然環境と歴史や文化という貴重な地域の観光資源を多くの皆さんに発信することにより、瀬戸内海の島々への観光客を誘致し、賑わいをもたせて地域経済の活性化と産業振興を図り、人々に安らぎと癒しを与えることを目的に、平成12年3月に広島県豊町に設置された「ゆたかの海の駅」が発祥です。

町内会の会合や地域のボランティア活動!

 自治会または町内会とは、地方自治法により、市町村内の一定の区域に住所を有する者の地縁に基づいて形成された団体です。
 区域の住民相互の連絡、環境の整備、集会施設の維持管理等、良好な地域社会の維持及び形成に資する地域的な共同活動を行っています。とあります。
 しかし、加入者は減る傾向にあります。
 昔にはなかった犯罪や災害が多発する現在、「地縁(住む土地に基づく縁故関係)」は必要度が上がってきています。しかし、現実は災害などが起きないと、地域のつながりを築くのは難しくなってきているようですね!

鎌倉 不思議な雰囲気が漂っている「内藤家墓地」

 磐城平(福島県浜通南部)から日向延岡(宮崎県)へ移封となった内藤家の墓地。
 代々のものが一墓地に建立されている。 高さ3mに及ぶ大宝筺印塔などが多く、他に笠塔婆、仏像形、五輪塔形、各塔婆形がある。
 墓碑58基(宝筺印塔40基、笠塔婆12基、仏像形4基、五輪塔形1基、角塔婆形1基)、 灯籠118基、手水鉢17基、地蔵尊等9基 (鎌倉市教育委員会)

 不思議な雰囲気が漂っている墓地です。 入口は施錠されていて中には入れませんが、道路の位置が2~3m高い位置ですので、よく見えます。今は幼稚園で分離されていますが、光明寺の墓地の一部なのでしょう。このような大規模の大名の墓所がひとつにまとまっているのはめずらしいのだそうです。

わずかな時間でも、ひとりになる時間が必要!

 一人時間を得るため、結婚や子どもを作らない家庭が増えてきているのでしょうか?
 一人時間は、NETで得る情報がどんどん増えてきているため、自分時間がそれに取られてしまいます。
 むかしは、人からの情報が主体だったので、人と人のつながりが必要でした。そういえば、お寺なども情報提供の場だったのでしょう。
 今はNETからの情報が主体で、本から得る情報も少なくなり、閉店する本屋も増えていますね!

厚木 起立時は萬木千草地に満ちていた「宝泉寺」

 宝泉寺は室町時代の後期、1486年に起立。 当時は周囲萬木千草地に満ちて裏山は松が繁り昼なお暗く凄然としており、 そのため別名「松壽林宝泉寺」ともいわれていた。

 現在の地に初めて堂宇を建立したのが、曽我の小林平馬の弟、「宗珍和尚」 で、師は43年間の在住により布教を発展させ今日の基礎を築いた。
 その後6世「悟庵珊道和尚」の時(1654年)、厚木市三田「曹洞宗・ 清源院」6世玉山智存大和尚を法地の開山とし、曹洞宗・宝泉寺の1世に請した。それから今日まで、布教や伽藍・境内地の整備にと壇信徒と共に歩み、19世「大満悦道大和尚」の時に客殿庫裏を、20世「大光真道」の時、現本堂のそれぞれ落慶(2001年)を迎えた。

米は、精製されると毒性が強くなる!

 米の値上がりで、米を食べる回数が1日三食から一食になりました。その一食も玄米を食べるようになりました。
 「お米券」が配られると、お米が三食に戻るのでしょうか? おそらく戻らないでしょうね。
 むかし庶民はお米を食べていなかったようです。そのためか、日清戦争で陸軍は兵隊にお米を食べさせることで、兵隊さんを集めたようです(結果として、脚気で亡くなる人が増えましたが)。
 お米をあまり食べない民族もいますし、他の食材より安くならないと、庶民の食卓より消えていく方向になってしまう可能性もありようです!

尾道 江戸時代、港の中心地「住吉神社」

 1740年、尾道の町奉行に着任し広島藩の平山角左衛門《名誉市民》は、翌年の1741年に住吉浜を築造し尾道発展の基礎を築いた。
 尾道や瀬戸田は、中世から瀬戸内海交易の中継地として発展し、江戸時代においても有数の港町でした。
 さらなる港の活性化に伴い、船の繋留地と荷揚場が必要となり、住吉浜の築造が急務となりました。そこで、広島藩は、直接工事を計画し、1740年尾道町奉行に平山角左衛門が任命されます。平山角左衛門は、翌年工事に着手し、住吉浜を築造します。そして、完成した後には、商人たちの信仰厚い海上守護神であり、浄土寺境内にあった住吉神社をこの埋立地に安置しています。

水というのは塩分の薄い方から濃い方へと移動する!

 地球の温暖化が問題になっています。しかし、温暖化により氷山が融け、海の塩分濃度が薄くなることはそれほど報道されません。
 瀬戸内海では、流入する川の水がキレイになり過ぎ、貝類に影響が出ています。
 海水の塩分濃度の変化も、何かしら生物に影響があるのでしょうね?

北条義時法華堂跡、大江広元の墓

 大江広元、毛利秀光(大江広元の四男…長州藩主・毛利氏の祖)、島津忠久(薩摩藩主・島津氏の祖)の墓。
 発掘調査の結果、ここには北条義蒔(よしとき)の法華堂があったことが確認され、国の史跡となりました。義時は北条時政(ときまさ)の子で、鎌倉幕府の執権た。
 法華堂跡の奥の左側にやぐらがあり、中に五輪塔がならんでいます。これは、鎌倉時代次前半に大きな勢力を持った三浦一族の墓といわれています。
 やぐらの先に鳥居があり、その奥には二列になった石段があります。鳥居をくぐり、石段を上りつめると、石垣に囲まれた中に、古墳時代の末期にみられる横穴墓を改装したやぐらが三つ並んでいます。左側が、大江広元(おおえひろもと)の子で、後の中国地方の大名の毛利氏の祖といわれる毛利季光(すえみつ)の墓といわれます。

ほめ言葉を効果的に使うと!

 さりげなく「ほめる」、日常的に「ほめる」などは、子どもの成長だけでなく、大人でも有効なのです。
 しかし、ほめるには、ほめる側に知識や人を見る目が必要ですね。これがやっかいなので、なかなか人をほめることは難しいですね。
 ただ、「人を非難すること」は誰にでも出来ることですが、「人を褒める」ことは、自分を卑下すると思ってしまうのか難しいですね。
 人を褒めることが出来る人は、立派な人なのでしょうね!

厚木 鋳物師が活動に因んで「鐘鋳神社」

 旧名:妙見宮(天之御中主神)。北斗七星を神格化して祀ったもの。
 風土記稿によれば1629年 村民難波富右衛門が本国下総(千葉県)の原社を勧請したという。また地名の中金井について「古は金鋳と書し、上中下に分け唱へしなり、此所は鋳工銅銕を鋳し地にて、今も地中より銕屑でると云」 としている。 鋳物師が活動してゐた記録があり、当社の「鐘鋳」の社名はこれに因んでいる。ご神体は銅製の男神立像。
 天之御中主神(あめのみなかぬし)は、『古事記』の一番最初のくだりに「天地(あめつち)初めて起こりし時、高天原(たかまのはら)に成りませる神の名は、天之御中主神」とあります。天と地の始まりのとき、天の高天原に神々が自然と現れて出てきたときの最初の神。天の中心という意味の名を持つ神様ということです。

80対20の比率で、ほとんどの事象が説明できる!

 「80対20の比率で、ほとんどの事象が説明できる」と以前から言われています。実際に80対20を確かめたことはないのですが、ほぼそんな漢字はします。
 ただ最近はNET情報が多くなり、情報検索した人に沿った情報に絞られるため、現実が80対20であっても、情報検索すると、98%(?)位は情報検索者の意向に沿った情報になるようです。視野が狭くならないとよいのですが!

尾道 天寧寺から信行寺の途中に「幸神社」跡

 天寧寺下に「塞之神社」がありました。「幸之神社」ともいわれ、この神社前一帯を幸の前と呼んでいました。
 むかしこのあたりは海岸で、尾道港の中心地だったところです。千石船の出入りも多く、いつもたくさんの人出でにぎわって繁盛していました。
 塞之神社は建武年間に建てられました。文明年間(建立より百五十年後)になると、お宮はあちこちこわれ、雨もりがするようになったそうです。

「効率」を求められ、「早く、早く」と!

 「効率」を求められ、「早く、早く」とせかされる社会になってしまいました。
 むかしの職人気質はどこにいってしまったのでしょうか。むかしは、「いかに良いものをつくるか」でした。時間より、「良さ」優先していました。
 後世に対しても、「良さ」を追求するあまり、最後の「一部分を未完成状態」にしておく(建物の柱の一本だけ上下を反対にしておくとか、50段の継ぎ目のない石段の1本だけを2本つなぎにしておくなど)といういう職人気質もありました。
 「早く、早く」を求められるためか、ネットなど自分一人の時間を求めるようになったのでしょうか?

鎌倉 一向宗開祖が創建した「向福寺」

 1282年創建。開山は一向俊聖上人。本尊:阿弥陀三尊(木造南北朝作)…… 南北朝時代の作。
 一向俊聖上人は、時宗の開祖一遍上人同様、鎌倉時代、各地を遊行回国し、踊り念仏を広めた。しかし、一遍と違い一向の教えは踊り念仏を行うとはいえ、念仏そのものに特別な宗教的意義を見出す事は少なかったとされている。
 一向俊聖上人の一向宗は、江戸時代に幕府により強制的に時宗に統合された。その後、一向宗の復活をはかったが実現されていない。  大正12年の関東大震災によって、文政年間に建てられた本堂と表門が倒潰してしまった。現在の本堂は昭和5年に再建されたもの。

 敷地の広い住宅のようなお寺さんです。

大人になるにつれて「否定するチカラ」が強くなる!

 子供時代に五感を鍛え、できれば第六感まで身につくようになると良いですね。
 第六感まで育つと、「何となく危険」などを察知できるようになるのではないでしょうか。
 現代は知識優先の時代になっています。自分が知っている知識、自分が好む知識からでしか納得しません。
 感覚が優先していると、その状況に合った知識を受け入れます。その結果、大きな間違いはしなくなるようです!

尾道 瀬戸田 現代のお寺ビジネス「耕三寺」

 1936年から伽藍の建立が始められた新しい寺院で、日本各地の古建築を模して建てられた堂塔が建ち並び、「西の日光」とも呼ばれる。このうち、山門・本堂をはじめ15の建造物が国の登録有形文化財として登録されている。また、仏像、書画、茶道具などの美術品・文化財を多数所蔵し、寺全体が博物館法による博物館となっている。

 このお寺さんは、見慣れたお寺さんとはかなり印象が違います。日本に仏教の布教を始めた当時の様子を、想像できると思います。仏教を普及するにあたっては、ディズニーランドのような手法が必要だったのでしょう。当時の庶民の住居は掘っ立て小屋のようなもので、今と比べれば、圧倒的に貧しい生活でした。そこに、このお寺さんのような夢の国をつくり、人々を引きつけ、仏教を普及拡大し、なおかつ、人々を精神面で救おうと考えれば、このような派手さは当然だったと思います。