「自分を認めて貰いたい」は誰でも思っていますね。でも、こっれを主張しすぎると、イヤな人間に見えてしまいます。
トランプさんを見ていると、自己主張は、人づきあいでは良くないことだと感じますね。
人の話には、まづ聞くこと、それも反論せずに。自分が受け入れにくい場合は、聞き流すしかないのでしょうね!
2025年のアーカイブ
学校とは常に教育を受ける場、知識を授かる場!
尾道 むかし北前船が寄港、今は「海の駅」
町内会の会合や地域のボランティア活動!
鎌倉 不思議な雰囲気が漂っている「内藤家墓地」
磐城平(福島県浜通南部)から日向延岡(宮崎県)へ移封となった内藤家の墓地。
代々のものが一墓地に建立されている。 高さ3mに及ぶ大宝筺印塔などが多く、他に笠塔婆、仏像形、五輪塔形、各塔婆形がある。
墓碑58基(宝筺印塔40基、笠塔婆12基、仏像形4基、五輪塔形1基、角塔婆形1基)、 灯籠118基、手水鉢17基、地蔵尊等9基 (鎌倉市教育委員会)
不思議な雰囲気が漂っている墓地です。 入口は施錠されていて中には入れませんが、道路の位置が2~3m高い位置ですので、よく見えます。今は幼稚園で分離されていますが、光明寺の墓地の一部なのでしょう。このような大規模の大名の墓所がひとつにまとまっているのはめずらしいのだそうです。
わずかな時間でも、ひとりになる時間が必要!
厚木 起立時は萬木千草地に満ちていた「宝泉寺」
宝泉寺は室町時代の後期、1486年に起立。 当時は周囲萬木千草地に満ちて裏山は松が繁り昼なお暗く凄然としており、 そのため別名「松壽林宝泉寺」ともいわれていた。
現在の地に初めて堂宇を建立したのが、曽我の小林平馬の弟、「宗珍和尚」 で、師は43年間の在住により布教を発展させ今日の基礎を築いた。
その後6世「悟庵珊道和尚」の時(1654年)、厚木市三田「曹洞宗・ 清源院」6世玉山智存大和尚を法地の開山とし、曹洞宗・宝泉寺の1世に請した。それから今日まで、布教や伽藍・境内地の整備にと壇信徒と共に歩み、19世「大満悦道大和尚」の時に客殿庫裏を、20世「大光真道」の時、現本堂のそれぞれ落慶(2001年)を迎えた。
米は、精製されると毒性が強くなる!
尾道 江戸時代、港の中心地「住吉神社」
水というのは塩分の薄い方から濃い方へと移動する!
北条義時法華堂跡、大江広元の墓
大江広元、毛利秀光(大江広元の四男…長州藩主・毛利氏の祖)、島津忠久(薩摩藩主・島津氏の祖)の墓。
発掘調査の結果、ここには北条義蒔(よしとき)の法華堂があったことが確認され、国の史跡となりました。義時は北条時政(ときまさ)の子で、鎌倉幕府の執権た。
法華堂跡の奥の左側にやぐらがあり、中に五輪塔がならんでいます。これは、鎌倉時代次前半に大きな勢力を持った三浦一族の墓といわれています。
やぐらの先に鳥居があり、その奥には二列になった石段があります。鳥居をくぐり、石段を上りつめると、石垣に囲まれた中に、古墳時代の末期にみられる横穴墓を改装したやぐらが三つ並んでいます。左側が、大江広元(おおえひろもと)の子で、後の中国地方の大名の毛利氏の祖といわれる毛利季光(すえみつ)の墓といわれます。
ほめ言葉を効果的に使うと!
厚木 鋳物師が活動に因んで「鐘鋳神社」
旧名:妙見宮(天之御中主神)。北斗七星を神格化して祀ったもの。
風土記稿によれば1629年 村民難波富右衛門が本国下総(千葉県)の原社を勧請したという。また地名の中金井について「古は金鋳と書し、上中下に分け唱へしなり、此所は鋳工銅銕を鋳し地にて、今も地中より銕屑でると云」 としている。 鋳物師が活動してゐた記録があり、当社の「鐘鋳」の社名はこれに因んでいる。ご神体は銅製の男神立像。
天之御中主神(あめのみなかぬし)は、『古事記』の一番最初のくだりに「天地(あめつち)初めて起こりし時、高天原(たかまのはら)に成りませる神の名は、天之御中主神」とあります。天と地の始まりのとき、天の高天原に神々が自然と現れて出てきたときの最初の神。天の中心という意味の名を持つ神様ということです。
80対20の比率で、ほとんどの事象が説明できる!
尾道 天寧寺から信行寺の途中に「幸神社」跡
「効率」を求められ、「早く、早く」と!
鎌倉 一向宗開祖が創建した「向福寺」
大人になるにつれて「否定するチカラ」が強くなる!
尾道 瀬戸田 現代のお寺ビジネス「耕三寺」

1936年から伽藍の建立が始められた新しい寺院で、日本各地の古建築を模して建てられた堂塔が建ち並び、「西の日光」とも呼ばれる。このうち、山門・本堂をはじめ15の建造物が国の登録有形文化財として登録されている。また、仏像、書画、茶道具などの美術品・文化財を多数所蔵し、寺全体が博物館法による博物館となっている。
このお寺さんは、見慣れたお寺さんとはかなり印象が違います。日本に仏教の布教を始めた当時の様子を、想像できると思います。仏教を普及するにあたっては、ディズニーランドのような手法が必要だったのでしょう。当時の庶民の住居は掘っ立て小屋のようなもので、今と比べれば、圧倒的に貧しい生活でした。そこに、このお寺さんのような夢の国をつくり、人々を引きつけ、仏教を普及拡大し、なおかつ、人々を精神面で救おうと考えれば、このような派手さは当然だったと思います。


















