北朝鮮の金日成を、スターリンがでっち上げたエセ英雄だと!

 スターリンが、北朝鮮の金日成のことを「でっち上げたエセ英雄だ」と。
 この「エセ」という言葉は、「つまらない、とるにたりない、質の悪い、の意味」だそうですが、この能力をうまく利用した人物は、歴史上にはたくさんいるような感じがします。
 やはり、英雄になるためには、「庶民を騙す能力」が必要なのですね。
 兵庫県の知事選挙を見ていると、そんな気も?

鎌倉 洞窟の壁に磨崖仏「長谷寺」

 弘法大師参籠の地といわれる「弁天窟」があります。このあたりでは磨崖仏があまりありません。石の材質のためなのでしょうか?
 ここは洞窟の中なので、風雨にさらされることが無く、そのため洞窟内に掘られたのでしょう。
 長谷寺は山号を海光山(かいこうざん)といいます。その由来は、流れ着いた観音像が海中で光を放っていたからともいいますが、海が見える所にある寺なのでそういったのかもしれません。
 「長谷観音」とか、ただ「観音堂」の名で親しまれてきた長谷寺。「アジサイ寺」として知られています。正式には海光山慈照院(かいこうざんじしょういん)長谷寺と号し、浄土宗系の単立寺院です。

同じ内容を話すにも、人により話し方がまったく違うこともある!

 「話し方」はいろいろあるのですね。それを商売になるまでに発展したのが「話芸」ですね。
 他人に何かを伝える話芸・音楽・絵画など、人間は自分以外の人達に伝える工夫の歴史なのですね。
 いわゆる原人の180万年の歴史の中でいろいろと工夫してきたのでしょう。
 話芸ではないのですが、生成AIの答えも工夫し出しましたね。
 ただ、現代人(ホモサピエンス)より大きな脳を持っていたネアンデルタール人が絶滅している歴史を思うと、生成AIがホモサピエンスの絶滅につながらないと良いのですが!

福山 「鞆の大仏」とも阿彌陀如来坐像「阿弥陀寺」

 木造阿彌陀如来坐像(鞆の大仏) 光背までの高さ約4m 。元禄16年(1703)に作られた丈六の大仏。
 造像を発願した中興・雲洞上人は、多くの人々を救いたいと願っていたところ、現に阿弥陀さまが現れ、その姿をもとに仏師に願いこの像を作ったといいます。

「群れをなして行列する」威光を世間にアピールするねらいも!

 「威光(人に畏敬されるような、犯し難い威厳。威勢)」という言葉があります。権力を手に入れると、その権力を安定的なものにするため、豪勢な建物や人々をビックリさせるような行列をしたりします。
 すると庶民の中にも、それを見習う人達が出てきます。
 最近の異常な殺人事件も、世間の注目を集めるためなのか?
 情報社会になり、簡単に情報が広まるようになると、庶民の中にも、異常なことをして、その情報を広めたいと考える人が増えてきているようですね!

相模原南 北条氏照の娘貞心尼が中興開基「天應院」

 戦国時代に八王子を中心とした大石定久公(八王子滝山城主)の統治により、心源院、天應院等が季雲永嶽大和尚を開山にして、明応4年に建立されたと考えられます。
 虚空蔵菩薩を本尊とし、9石7斗の御朱印を賜り、5世太蔭師の時代、北条氏照の娘貞心尼を中興開基として、明応4年(1495)に当地に中興開山したと伝えられます。
 徳川家光の養育役であった青山忠俊により再中興されています。明治時代には、当地に麻溝小学校の前身にあたる下溝学校を開校、また下溝の松原集落にあった薬師堂を当地に移転、この薬師は関東九十一薬師霊場19番です。
 また、本堂、客殿、庫裡の新築が平成23年4月に終了し、落慶式を迎えました。

ロシア人の国民性は?

 ロシアの社会は、「強さが最高の価値」としているのでしょうか?
 北の苛酷な環境の中で生き残っていくには、「強さ」は必要不可欠なのでしょう。
 「和を以て貴しとする」価値観は、ロシアの風土では成立しないのでしょう。
 ただ一部には「善に善をもって応じるのは誰でも。悪に善をもって応じるのが、本当の人」という言葉もあり、広い国なのでいろいろなのですね。
 ということは、「広い国」というのは、そこに住む人々にとっては、必ずしもプラスとは云えないのですね!

鎌倉 円覚寺の塔頭の中でも最も古い「白雲庵」

 正和年間(1312~16)に退居寮として開創。 禅師は曹洞宗を修めた中国元の高僧で、1309年、時の執権北条貞時の招きで来日し、1310年円覚寺第10世となり、暦応3年当寺にて遷化するまで、建長寺(18世)、寿福寺などの住職を務めた。江戸時代前期には40の塔頭があった。 現在は18寺の塔頭があり、そのうち住職のおられるところは13寺。 白雲庵はその中で最も古い塔頭である。

茶色い色をした玄米や全粒小麦のほうが毒性が低い!

 太平洋戦争後「麦飯」を日常的に食べていました。お米に平たくつぶした麦を混ぜたご飯でした。麦飯は、脚気対策なのですが、おそらく麦は少し堅いため平たくつぶしていたのでしょうか?
 現在、米の値上がりが問題になっています。麦を混ぜたご飯は、かみごたえもあり、栄養的にも良いそうです。米に1~3割程度の麦を混ぜて食べれば、米の消費量は1~3割減ります。
 健康対策と米値上がり対策の両方が可能です!

尾道市「向島(むかいしま)一周自転車旅」

 尾道水道(海)を渡り自転車、向島を一周します。約20kmちょっとくらいでしょうか。
 現在は「しまなみ海道」を自転車で渡ることが一般的になっていますが、向島を一周するのも、なかなか良いものです。
 四季の移り変わりもいいですよ。特に島の南側(本土の反対側)は、波打ち側をのんびりと過ごすには最適です。
 しまなみ海道側は、向島の西側の一部を抜けますが、そこものんびりとできますが、それよりももっとのんびりできます。
 体力を試すには、歩くのもよいのですが(高校3年生のときは学校行事で歩きましたが)、これはのんびりとは過ごせません。
 「瀬戸内」の、のんびりとした雰囲気を味わうことができます!

少年殺人事件は、戦後の前半期には見られなかった!

 昨今の少年犯罪は、「貧困」が原因なのでしょうか?
 太平洋戦争後の貧困の時代、いまほど凶悪な事件はそれほどなかったように思います。
 食べることにそれほど困らないような人が、「自分は貧乏だ」と思い込むのが“貧困妄想”、妄想は説得によってもその考えを変えられないものです。
 金銭面に対する執着は、妄想の場合は変えることができないですね!

厚木 高遠藩の石工達が出稼ぎで石仏を「広沢寺」

 曹洞宗に属し薬師如来を本尊とし、創立は後花園天皇の時代、相州足柄上郡の最乗寺了庵彗明禅師が開山しました。
 禅師は、当時七沢城主であった上杉定正と親交が深く、寺内には領地の一部を寄附してもらった上杉定正夫婦の遺骨が埋葬されています。
 厚木の七沢から、清川村の煤ヶ谷および伊勢原の日向にかけては石造物に適した石を産する石山があったが、石を切出して細工する石工がいなかったために手付かずのままであった。その石山を開発したのが信州高遠の石工たちで、それが明治以降の石材業発展の礎となった。
、高遠の地は田畑が少なかっただめに農家の次、三男が働くほどの農作業の仕事がなかった。
 高遠藩はその対策として、元禄の初め頃に石工や木地師その他の職人になることを奨励した、それは、職人の中でも手間賃は石工が最も高かったので石工になる者が多かったといわれている。
 しかし高遠の領内だけでは仕事の量が限られているため、藩では石工の他国への出稼ぎを許した。それにより、信州の他にも甲斐・相模・武蔵・駿河・上野などの各地に石工が集団をつくって出稼ぎに出かけるようになった。但し、藩は村役人に外に出る石工の管理を厳重にさせ、また石工の稼ぎ高に応じた運上金(租税)を課したのであった。

病気の原因は多因子、一つの方法だけで治すことは不可能!

 病気になるとお医者さんに行きます。しかし、お医者さんは専門で区分されているので、ときには病気の症状と合わないこともあります。
 そのため、昨今の情報化時代は自分である程度調べてから、どのお医者さんに行くか決めなければいけません。
 ただNETで調べると、病気の情報にプラスして、医療機関に対する情報も見てしまうようです。
 医者にかからないよう、日頃から健康生活をしなければいけませんね!

鎌倉 新田義貞が北条方の戦死者を弔う「九品寺」

 開基は、新田義貞と伝えられています。1333年(元弘3年)新田義貞軍が北条氏を討つため鎌倉攻めをしたとき、この場所に本陣をかまえたということです。北条氏が滅びたあと、義貞は北条方の戦死者の霊を慰めるため、1336年(延元元年)この地に九品寺を建て、義貞が日ごろから尊敬していた風航順西(ふうこうじゅんさい)和尚(おしょう)を京都から招いて開山とし、戦死者の霊を厚く弔ったといいます。
 山門と本堂にそれぞれ掲げられている額の「内裏山」と「九品寺」の文字は、新田義貞が書いた字の写しと伝えられています。もとになった額は、傷みがひどいため本堂に保存されています。

 鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より

自分の「ビジネスマンとしての商品価値」

 退社を支援するサービスが始まっています。
 このサービスは、自分の能力に自信があれば、おそらくこのサービスは利用しなくても済むでしょう。
 しかし、どうも会社と合わない、といった程度で悩んでいると、このサービスを使わないと退職しにくいのでしょうか?
 このサービス、AIはどのように支援を始めているのでしょうか?

尾道 昔はここに魚市場があった「尾道駅前桟橋」

 島に行く船が出ています。
 前の島(向島(むかいしま))への渡しの乗り場が、一番東に独立してあります。
 「尾道~因島~生口島」方面、「尾道~百島~常石」方面の船が出ています。他に、春から秋までですが、「尾道~鞆の浦」への船が、土日に運航しています。
 この辺りの海は、干満の差が3m前後あり、海岸の景色も変化します。海底までの深さも変わりますし、隠れていた岩が水面に顔を出します。また、潮の流れも早いのです。 前に向島があるので、風の影響は少なくて済みます。
 1957年4月、瀬戸田港から尾道港に行く第五北川丸の海難事故がありました。岩礁に乗り上げ沈没、旅客112人及び乗組員1人が死亡。定員は旅客77人、乗っていた旅客は訳230人、約3倍の乗客を乗せていました。
 その頃、夏の海水浴場へ行く客船は、船の周囲が通路になっており、海水が足首まで来るくらい乗客を乗せていました。

日本列島に琉球がプラスされたのは1441年(室町時代)!

 国境問題は、基本的には経済的利益なのですが、権力闘争に於ける見栄(ミエ)中心の場合もあるようです。
 陸続きだけでなく、海上交通の発展とともに、海に囲まれた島であっても国境問題は起きています。
 北方領土(歯舞群島、色丹島、国後島、択捉島)は、1855年(安政2年)、日本(江戸幕府)とロシア(ロシア帝国)に日露和親条約を結び、択捉島と得撫島の間を国境線としました。
 しかし、太平洋戦争後はソ連(ロシア)が実効支配をし続けています。
 ロシアという国には、国境という概念がそれほどは無いようですね!

鎌倉 菅原道真の怨霊を鎮めめる「荏柄天神社」

 菅原道真を祀る天神社は、学問・武芸に関わる神として信仰を集めましたが、鎌倉では武家の誓約や武家政権を守る神社とされました。

 人殺しの歴史、それが世界史です。世界史の正体とは"ユーラシア大陸での殺し合いの歴史"です。
 そんな世界史を1100年以上も前に拒否した国がありました。わが日本です。決断を下したのは菅原道真という人でした。
 菅原道真が大陸との交わりを断つという決心をしてくれたおかげだったのです。
 それから幕末のペリー来航あたりまで、野蛮な世界史に関わらなくて済んだのは、菅原道真が大陸との交わりを断つという決心をしてくれたおかげだったのです。

つねに「なぜ」「どうして」「どうやって」と自問自答する!

 後向きで無い「考えごと」、続けていきたいものですね。それも「無意識な考えごと」。
 「後向きな考えごと」はストレスにつながってしまいますが、「無意識(前向き)な考えごと」は、脳の栄養分を消費し、脳に溜まった不要物の排泄も充分行い、脳を健康に保つことには貢献するのではないでしょうか!

福山 鞆 新羅へ出兵の淀媛命を祀る「淀媛神社」

 この神社の祭神は淀姫命(よどひめのみこと)。弥生時代に三韓征伐(新羅(しらぎ)に遠征して征服、さらに百済(くだら)と高句麗(こうくり)を征服)を行った神功(じんぐう)皇后の妹君で、はじめは、海神・大綿津見命(おおわたつみのみこと)を祀った沼名前神社(渡守神社)の祭主を務める身でした。
 しかし、後世、その徳が偲ばれて氏神として奉斎され、鞆湾の入口を守護する守り神となりました。
 以降、この高台に鎮座し続け、現在に至っています。
 現在の社殿は大正3年に建立されたもので、平成13年に修復されています。
 神功皇后が三韓征伐のため西国下向の際、鞆の浦の地に寄泊しました。
 帰路携帯していた「鞆」を奉納し、海神・大綿津見命を祀った際に、妹君の淀媛命を祭主として奉任させました。その神社が沼名前神社(渡守神社)の起源です。
 数年後に淀姫命は鞆の浦を去りましたが、後世その特を偲び氏神として奉斎し、鞆の浦湾の入口の丘の上に鎮座する護り神として現在に至ります。