開基は、遠く天平の世、諸国に建立された頃と伝えられている。古くは禅宗で善性寺といい、1573~1591年尾道権現山城(千光寺山城)主杉原民部太夫元垣の菩提所となった。杉原氏の没落後は寺運も衰えたが、1596~1614年の頃、性意が中興して真言宗にかわり善勝寺と改名した。
本尊は聖観世音菩薩(市重文)。これは一名「萩の観音」とも呼ばれている。現在の本尊は1694年住職隆慶・その弟子頼音のときに、当地の小物小屋浄甫が再建したものを1980年に修復したものである。1664年6月正遍建立の持仏堂がある。
8月 2024のアーカイブ
褒められない人間は心が歪む、かも!
以前は、異常な犯罪と考えられていた犯罪が、日常化しています。そお原因は、子供時代の生活には関係していないのでしょうか?
むかしは、法律以外に社会のマナーが大事にされていました。
政治家ですら、昔は異常なことが、通常となっています。
普通の人達の暮らしの歴史を、こっと明らかにし、学び直すことも必要なのでしょうね!
福山 「鞆の大仏」とも阿彌陀如来坐像も「阿弥陀寺」
1748(延享5)年に、宇和島藩の接待によって朝鮮通信使の宿が「阿弥陀寺」に移ったとき、眺めが悪いためか通信使一行は抗議して船に帰ったといいます。
通常、朝鮮通信使のための迎賓館として使用されていたのは、福禅寺の客殿で1711(正徳元)年、この客殿からの眺望を「日東第一形勝(対馬から江戸までの間で一番美しい景勝地という意味)」と称賛、従事官の李邦彦はその書を残しています。
朝鮮通信使とは、李氏朝鮮が1404年から日本に派遣した外交使節で、豊臣秀吉による朝鮮侵攻のあと途絶えていたが、1607年から再開されました。
江戸時代には、1811年まで12回、朝鮮通信使が日本を訪れている。その中心のメンバーは外交担当の役人や武官だが、さまざまな随行員も含めると、毎回なんと約400人もいました。
どうせ運に見放されているから!
「運が悪い」と、どうしますか? 神社にでも行きますか? 多くの人は諦めてしまうことでしょう。
最近は、インターネットでの批判が増えているようで、タチが悪くなってきているようですね。
以前は週刊誌が中心でしたが、その手法を学んだのでしょうか。
情報化社会は、便利になったのですが、良い面も、悪い面もあるので、社会のルールは必要ですね!
鎌倉 稲荷明神像もある「本成寺」
“ 本成寺(ほんじょうじ)は、神奈川県鎌倉市腰越にある日蓮宗の寺院。旧本山は小町本覚寺、潮師法縁。龍口寺輪番八ヶ寺の一つ。
延慶2年(1309年)、淡路阿闍梨日賢が建立した。
門を入った正面に本堂があり、右側に墓地、左側に庫裏(くり)があります。日蓮(にちれん)の弟子日賢(にっけん)が1309年(延慶2年) に開いたと伝えられています。本尊は、三宝本尊(さんぽうほんぞん)(祖師(そし))という「南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)」のお題目が書かれた塔と釈迦如来(しゃかにょらい)、多宝如来(たほうにょらい)で、日蓮上人像とともにまつられています。また、岩の上のキッネにまたがった稲荷明神像(いなりみょうじんぞう)もありますが、これは「教(経)-稲荷」と呼ばれ、左手に宝珠(ほうじゅ)を持つ江戸時代のものです。
(鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より)”
「くすぐったい」は他人がしたときだけ感じる!
「予報」があるときと、予期しないことが起こるときと、人間の感覚は異なる。
予期しないことが起きたとき、「びっくり」する、しかし、予報があると、自分の対応をどうするか? 考えることになる。
身に何らかの影響があることは、無理矢理でも「予報する」ことを広げてきた。
むかし、陰陽道という予測方法があり、支配者も大きな影響を受けた!
福山 鞆 「日東第一形勝」と賞賛「福善寺対潮楼」
海岸山千手院福禅寺の本堂に隣接する対潮楼は、江戸時代の元禄年間(1690年頃)に創建された客殿で国の史跡に指定されています。座敷からの海の眺めは素晴らしく、1711年、朝鮮通信使の李邦彦は「日東第一形勝」と賞賛。1748年、洪景海は「対潮楼」の書を残しています。
朝鮮通信使とは、李氏朝鮮が1404年から日本に派遣した外交使節で、豊臣秀吉による朝鮮侵攻のあと途絶えていたが、1607年から再開された。
江戸時代には、1811年まで12回、朝鮮通信使が日本を訪れている。その中心のメンバーは外交担当の役人や武官だが、さまざまな随行員も含めると、毎回なんと約400人もいた。
雨の降り方の異常が続いています!
今年の雨の降り方は異常ですね。狭い範囲に、短時間、豪雨が多発しています。
1時間に100mm(高さ10cm)降ったとすると、10m×10mの土地の水が、1ヶ所に集まると……。
排水のスピードにもよりますが、相当高くなります。自動車が水に浸かってしまうのは当然ですね。予報をもとに考えておかないと!
尾道 海雲塔とも呼ばれる「天寧寺 三重塔」
「五重塔から三重塔へ」という珍しい塔
ここには珍しい三重塔があります。当初は五重塔だったのですが、その後、四重と五重の傷みが激しくなったため、四重と五重を取り除いて、三重の上に新たに屋根をかけ、三重塔に姿を変えているのです。建立は1388年(嘉慶2年)。三重塔に姿を変えたのは、それから300年後の1692年(元禄5年)のことでした。
本当に最初は五重塔だったのだろうかと疑う人もいるかもしれませんが、まず、五重塔の姿で描かれた古い時代の掛け軸が残っている。それに加えて、この三重塔は心柱が下まで通っている。五重塔では心柱を下まで通しますが、三重塔では初重の上か
ら心柱を立てるのが普通です。梁の上に心柱を立てるのです。
(「宮大工と歩く千年の古寺」(松浦昭次著)より)
ストレスは、リンパ球が減少し、免疫力が落ちる!
ストレスがなくリンパ球が多めの人は、免疫力があると同時に、ゆったりした性格で感受性が強いのですが、視野が広い反面、やや散漫なところがあるようです。
物事を推し進めるときには瞬発力はないのですが、持続性があるようです。
相模原西部 一遍が草庵を設けたのが始まり「無量光寺」
1261年 23歳の一遍はこの地を訪れ、草庵を設けたのが始まり。その後上人は2度この地を訪れた。その高弟である他阿真教が1303年2月に遊行を終えて止住するために念仏道場を開いたのが起源であろう。1319年に真教が亡くなると、初期時衆教団の聖地となり、参詣者が引きも切らなかったことが他阿呑海の法語に遺っている。
鎌倉幕府が滅亡したとき、鎌倉幕府からの帰依を受けた無量光寺は一時衰退した。
戦国時代に無量光寺は歴代小田原北条氏の保護を受け、南関東を中心に勢力を誇った。しかし1590年に小田原北条氏が滅亡し、たび重なる火災のために、再び不振となった。
自分が知らないことを、知ることが、知るということ!
人と話をするとき、「知ったかぶり」をしてしまいがち。
自分が知らないことは、素直に聞くこと。素直に聞いていれば、自分の知識がどんどん増えていきます。
その知識と自分の体験の組み合わせがうまくいくと、本物の知識になります。
知らないこと、曖昧な知識、素直に聞く耳を持ちましょう!
鎌倉 幕府の守り神の夷神を祀った「本覚寺」
本覚寺の開山は、日出上人、駿河の国三島の出身の学者。後に日蓮宗の僧となった。
寺伝によると、日出上人は熱心に布教活動をしたが、日蓮聖人同様激しい反対に遭い、捕らえられたが、そのときの鎌倉公方足利持氏が、その熱意に感心し、日蓮聖人ゆかりの夷堂のあるこの場所を与え、1436年に建立された。
日出上人の後を継いだ日朝上人は、幼いときから神童とよばれた優れた人で、身延山より日蓮聖人の遺骨をここに分骨し、祖師分骨堂が建てらた。また、自分の名を呼びながらお祈りすれば目の病を治してあげようとも言ったそうで、いまでも本覚寺は「日朝(にっちょう)さま」の愛称で通っている。 日蓮の生まれ変わりといわれるほどウルトラ秀才だったので、本覚寺には大物過ぎ、身延山に移り法主となった。
ユダヤ人は3000年以上の歴史をもっている!
イスラエルは3000年以上の歴史がありながら、国家としては、古代には通算して700年余り、現代では70年余りだけだそうです。
そのような歴史風土があるためか、いまでもイスラエルに住んでいる人達は、男女とも徴兵が終わると、長く海外旅行に行く人が多いようです。(イスラム圏の国以外ですが)
そのためか、いろいろな国々に対する商売がうまいのでしょうか?
尾道 港の守護神を浄土寺から移す「住吉神社」
毎年旧暦の6月28日前後(7月の終わり頃)の土曜日、平山奉行の功績を称えると同時に、商売の繁盛と海上交通の安全を願ってをおのみち住吉花火まつりが行われます。
尾道住吉花火まつりは、正式名称を「住吉神社大祭礼」といい神事です。花火当日に「山型(やまがた)」「鳥居(とりい)」「御弊(ごへい)」の提灯船3隻に加え、「火船(ひぶね)」 「御座船(ござぶね」が渡御(とぎょう)…尾道水道を行ったり来たり…しております。
恋人の欠点を美点と思わない人間は、愛しているのではない!
好奇心は、観察が原点です。しかし、観察した結果、好奇心が鍛えられる、それだけです。
もっと好奇心を伸ばすには、情報収集が欠かせません。ここで、NET検索や生成AIが力を発揮します。
この機能が力を発揮すればするほど、専門性が深くなっていきます。しかしその結果、その専門外の情報に反応しなくなる人が出てきます。多様性が失われます。
日本語は、ある意味曖昧です。それが、多様性を生み出す原点になっています。
時代の進み方が、難しくなっていますね!
座間 日蓮人処刑を免れた刀とゆかりの「圓教寺」
1275年 刀工鈴木弥太郎貞勝が日蓮に帰依し、自邸を寺に改め、日範を開山、自身を開基として円教寺を建立しました。
1271年、日蓮が龍ノ口刑場(藤沢市片瀬の龍口寺)で斬首の刀が折れ処刑を免れたという龍ノ口法難後、依知(現在の厚木市)の本間重連の館に向かう日蓮を、折れた刀の刀工鈴木弥太郎貞勝が自邸に招き日蓮に帰依して円教坊と名を改めました。
日蓮上人が龍のロの難を逃れ佐渡国に流刑になるとき、座間の対岸の依智(知)郷(厚木市)にあった佐渡国の領主本間六郎左衛門重連の館へ預かりとなりました。このとき警護の役人として龍のロから依智まで付き添って行ったのが鈴木家先祖の弥太郎貞勝でした。
貞勝は昨夜の出来事に大変に感服し、依智に向かう道中で、日蓮上人に是非途中で座間の私の家へ立ち寄ってご休息をされるよう請い願いました。熱心な貞勝の勧めに日蓮上はお立ち寄りになり、心のこもったもてなしを受けました。
日蓮は貞勝の志を深くお感じになり、円教坊の法号と本尊を授与いたしました。
わかっていても、できるかどうかは、べつ!
知識教育が中心になり、それを助長するようにNETで手軽に情報を得られるようになり、とうとう生成AIの時代になろうとしています。
しかし、体験から五感を通して得られた情報は、自分自身の成長の糧になります。そして、第六感も育ってきます。
この第六感は、ときには自分の命を守ってくれることもあります。体験を大事にしましょう!
鎌倉 露天の大仏になってしまった「大仏(高徳院)」
開基(創立者)と開山(初代住職)はともに不詳だが、高徳院では法然上人を開祖としている。
当初は、阿弥陀大仏を安置する大仏殿以外には付属する建物はなく、もともとは「大仏殿」が正式名称だった。
1238年に着工した大仏は木造。1247年、大風で倒壊。1252年に現在の青銅で鋳造された。1495年の津波で大仏殿が流され、露天の大仏になってしまった。この年は北条早雲が小田原城を奪取した年であり、鎌倉はすでに大仏殿を再建する経済力はなかったのでしょう。
かってこのあたりは鎌倉の西の果て、そのため、刑場があったり、流人が集まる場であったり、ハンセン病患者の収容施設があった場所。そうした場所を大仏によって「悪書」を「聖化」し、都市鎌倉、そして関東地方を護持させようとした。
「あれもこれも」は、どれも、どっちつかず!
「あれも、これも」やらなくては、という状態になってしまうと、頭がいっぱいになり、手が動かなくなることがありますね。
せも、何かしらに手を出しましょう。何かしらのアイデアが浮かび、なんとかなっていくことが多いようです。
手を動かしましょう!