相模原南区 一遍に気が楽になるのか「無量光寺」

 1261年 23歳の一遍はこの地を訪れ、草庵を設けたのが始まり。その後上人は2度この地を訪れた。その高弟である他阿真教が1303年2月に遊行を終えて止住するために念仏道場を開いたのが起源であろう。1319年に真教が亡くなると、初期時衆教団の聖地となり、参詣者が引きも切らなかったことが他阿呑海の法語に遺っている。
 鎌倉幕府が滅亡したとき、鎌倉幕府からの帰依を受けた無量光寺は一時衰退した。
 戦国時代に無量光寺は歴代小田原北条氏の保護を受け、南関東を中心に勢力を誇った。しかし1590年に小田原北条氏が滅亡し、たび重なる火災のために、再び不振となった。

どうすれば明るくなれるのでしょうか!

 思考がマイナスになると、どんどんマイナスになって行きますね。「気分転換しろ」と言われても、なかなかできないものです。
 日本の歴史には、禅とか念仏とかの方法もありますが、現在のお寺さんの多くは、あまり生きている人達を相手にしていませんので、周囲の人達の力を借りなければなりません。
 しかし、核家族が定着し、また、都市化が進み、なかなか周囲の人達の力を借りることは難しくなってきています。そのためか、とじこもりの人達が増えているのでしょうか?

鎌倉 門前に[源頼朝公祈願所]の石碑「補陀洛寺」

 この寺は南向山(なんこうざん)という山号をもつ真言宗の寺で、源頼朝が文覚(もんがく)を開山として1181年(養和元年)に建てたといわれます。もとは七堂伽藍という建物がそろった大きな寺院であったということです。その後、だいぶ荒れてしまいましたが、文和年間(1352~1356年)に、鶴岡八幡宮の供僧(ぐそう)だった頼基(らいき)が復興したと伝えられています。
 補陀洛寺は別名竜巻寺(たつまきでら)ともいわれ、竜巻にあったり火災にあったりしたようです。寺に伝わるものとして、本尊の十一面観音をはじめとする仏像や貴重な文化財の多い寺です。

脳の抑制を外してあげた時!

 「自分」というものを、外から眺めることができれば、悩みの多くはかなり軽くなるものなのでしょう。それと、過去は、事実のみ覚えておき、感情は過去に置いてくることが出来れば、心は軽くなるのでしょう。
 というより、「今」を大事にしてゆけば、過去や未来の、どうしようもない思いから、逃れることも出来るのでしょう。
 「今」を大事にするには、新しい情報を貪欲に入手し、その情報を自分流に消化して行くしかないのでしょう!

尾道 806年、尾道で最古の「艮神社」

 艮神社は尾道で最初にできた神社で、806年の鎮座です。806年というと平安時代の初めで、千光寺と艮神社は創建の年が同じになっています。
 同時期にこんな大きな神社と山にへばりつくような寺が建てられたのです。千光寺の工事はさぞ大変だったのでしょう。しかし、なぜこんなに近くに同時に大きな寺と神社を建てなければならなかったのでしょうか。

ミトコンドリアの最大の役割!

 今回の新コロナウイルスの科学や医学の対応を見ていると、思っていたほど科学は発達していないと思いました。いままで「分かっていたつもり」にさせられていたのだと、改めて感じました。
 最近いろいろな場面やメディア、歌で、早口の場面が多いように感じていますが、早口は、相手に考えるスキを与えないので、その内容をそのまま受け入れてしまいがちです。このことも関係しているのでしょうか?

江の島 明治の陸軍大将児玉源太郎を祀る「児玉神社」

 明治時代の陸軍大将・児玉源太郎(1852(嘉永5)年~1906(明治39)年)を祀った児玉神社は、児玉が生前、江の島を非常に愛していたことから、この地に神社が創建された。
 児玉公は江の島の風景を愛し、しばしば清遊した由縁により1917(大正6)年官許を得て神社創建を決し、後藤新平らの尽力により、主要な社殿が建立され、1921(大正10)年主要な社殿が建立され、7月御鎮座を了えた。1940(昭和15)年県社に列し、公の遺徳を慕う人々の奉賽が多かった。ことに境内には台湾総督時代の関係者による献納の燈籠・水盤などが見られる。 

学習性の無気力を払いのける!

 昔の職人のように、技術を「見て盗む」という機能が劣化してきているようです。
 これは、教科書やマニュアルで学ぶというやり方が影響しているのでしょうか。
 また、子供時代に、自然の中で子供達だけで遊ぶ経験がなくなったためでしょうか。
 それに加え、ナット社会になり、実際に相手の表情やしぐさを見る機会が少なくなった為でしょうか。
 生物としてのヒト族の能力が、落ちてきているようですね!

福山 鞆 坂本龍馬「いろは丸展示館」

 いろは丸事件ば、慶応3年(1867)4月、龍馬は海援隊を組織し伊予大洲藩から借げ受けた西洋式の蒸気船「いろは丸」に乗って長崎から大坂に物資(鉄砲)を運ぶ途中、岡山県六島沖(現在の同県笠岡市)で、紀州藩の蒸気船「明光丸」に横から衝突されたのです。明光丸は鞆港へ向けて、いろは丸を曳航しようとしましたが、浸水のため宇治府沖で沈没してしまいました。
 このため両者は鞆の浦にとどまりの損害賠償について昼ゆ夜交渉を繰り返しましたが決裂し、舞台を長崎に移して再交渉を行いました。最終的に、龍馬側が賠償金を受け取る、ことでようやく決蒲ししました。
 この事件は、坂本龍馬が暗殺される半年前のことです。

赤飯の古いしきたり!

 お祝いの時に出される赤飯、これにも「物語り(しきたり)」があります。伝統的なものには、「物語り」や「しきたり」があるものが多いですね。
 「行事」や「その行事に使われるもの」、あるいは「お土産」などに物語があると、末永く続いていきますね。
 古くからの商人の町には、伝説や民話などの物語が言い伝えられています。やはり商売を長く続けるコツは、商品に物語を関連づけることなのでしょうね!

鎌倉 福の神が住でいる「銭洗弁天宇賀福神社」

 鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝の夢枕に、一人の老人が現われた。「西北の方向に仙境があり、きれいな泉が岩の間から湧き出ている。そこは清浄な地で、福の神が住でおり、その水を使っている。その水は神の霊水である。この水を使って神仏を祀(まつ)れば、国内は平穏に治まる。われこそは隠れ里の主の宇賀神(うががみ)である」といい、やがて消えてしまった。
 翌朝、頼朝が西北のほうへ行ってみたところ、たしかに泉があった。頼朝はさっそくそこに宇賀神を祀った。すると国は平穏になったという。
 北条時頼が当社に参詣のおり、この水で銭を洗い、福銭としたそうです。その話から、銭を洗うと二倍にふえるという、いい話が誕生したらしい。

人間が黙ってしまうのは!

 雰囲気が悪いときは黙ってしまいがちです。もうひとつ、自分の頭の中の整理が、まだ出来ていないときも黙ってしまいます。これは頭の回転が悪いのでしょうね。
 また関連する知識が多すぎて、どの視点から話すか迷っているとき話し出せない人もおられるのでしょうね。
 ただ、雰囲気などに関係なく、べらべらと話す人もいますね。自分の話すスタイルが出来上がっているのでしょうね!

厚木 古い石仏が数多く掘り出された「金剛寺」

 飯山金剛寺の大師堂に、神仏が八人の翁に化身して現れたという言い伝えがあります。
 最乗寺(南足柄市)の輪番にあたった三田村の清源院の四世忠州は、最乗寺へ向かう途中、この大師堂に立ち寄ってお経を上げていると、「ここで一夜を明かせ」という八人の翁の声がしました。翁達は、退廃しているお堂の再興を依頼して夜明けに帰っていきました。
 八人の翁は・観音様・黒地蔵・白地蔵・白山権現・不動尊・竜蔵権現・熊野権現・稲荷明神とわかり、大師堂は、金剛寺と忠州によって復興されました。
 この大師堂の向かって右側と奥に石仏が100体ほども置かれています。畑に埋まっていたそうです。

一部分だけを切り取って伝えるウソ!

 ネット社会になり情報が溢れています。これもそうですが、情報はある部分を切り取って発信しています。ということは、事実の一部分を切り取ったものが情報なのです。切り取り方で、意味が変わってしまうものもあります。
 専門指向が強ければ強いほど、特定の方向で情報を切り取ってしまいます。そのような情報の性格を十分意識して、情報に接するようにしなければなりませんね!

尾道 曲がりくねった道を「猫の細道」

  昇っていくと「猫の細道」です。
 福石猫の作り方は、日本海の荒波に長い年月もまれ、丸くなった石を拾ってきて、約半年間塩抜きをし、その後、特殊な絵の具で三度塗り重ね、作り上げていくそうで、福石猫が完成されるまでには、約1年もかるそうです。 ひとつひとつ丹念に作られていき、最後に艮神社でお祓いをうけ、晴れて福石猫となって、尾道に住んでいるのです。

本当にいじわるな人は間接的にいじわるを!

 意地悪な人が増えているのでしょうか。異常な行動をする人が増えているのでしょうか。
 子供時代から、「答えの正解は1つ」という環境で、教育や躾けられた環境で育ってしまうと、考え方が非常に狭くなってしまうのでしょうか?
 学者もスペシャリストも、狭い分野を追求した方が、社会の評価が上がるしくみになっているためか、考え方を狭くすることが奨励されていると、受け取ってしまうのでしょうか!

鎌倉 一時は約3,000坪の境内だった「薬王寺」

 昔は梅嶺山(ばいれいざん)夜光寺(やこうじ)とい真言宗の寺でしたが、1293年(永仁元年)日朗(にちろう)の高弟だった日像(にちぞう)が開山となって日蓮宗に改められたと伝えられています。また、梅立寺(ばいりゅうじ)とか梅嶺寺(ばいれいじ)とかの名も伝わっていますが、江戸時代の初めごろ日達(にちたつ)によって薬王寺と改められ再興されました。その後、徳川忠長(ただなが)が1633年(寛永10年)高崎で自刃しましたので、妻の松孝院(しょうこういん)殿(織田信長の次男信雄(のぶかつ)の娘)は、夫の霊を供養するためにこの寺に墓を建立し、多額のお金と広大な土地を寄進しました。

人生道草主義がいい!

 男性の脳の機能は、過去をあまり覚えないという。ということは、何か失敗をしたときは、すばやくその原因をつかまないと忘れてしまい、また、同じような失敗をするのでしょうか。
 「失敗は成功のもと」にするには、素早い対応を意識することが大事なのでしょうね!

福山 鞆・備前・備中・備後の日蓮宗の重要寺院「法宣寺」

 友光軒の前の四つ辻から、鞆小学校前を経て法宣寺に至る道筋を、「清正公道(せいしょうこうどう)」と呼びます。これは江戸末期、法宣寺境内に加藤清正を祀るお堂があり、多くの参拝者を集めていた名残です。法華信仰の篤かった清正は、死後主に日蓮宗徒の間で治病除災の神として崇められたのです。清正公堂はなくなりましたが、今でも法宣寺には二体の清正公像があります。そのうち一体はなんと、清正公自彫りとの伝承も!

本物のオーラを放つ人はその人の後ろ側に!

 知らない人でも、会釈や挨拶をしてしまう人がおられます。なにかしらのオーラがあるのでしょう。
 同じオーラでも、威圧的なオーラもあります。議員さんにもそのようなオーラがある人がおられますね。
 ヒトが持つ自衛の能力なのでしょうか。情報や知識ではこのような感覚は育ちません。やはり自然の中で身につけるものなのでしょうね!