安心で安定したエネルギー政策!

 エコが叫ばれています。昭和30年(1955年)頃までの生活スタイルは、今に比べればはるかにエコ生活でした。
 そのエコ生活のノウハウを、実体験の人たちから早く教わっておきたいものです。知識人の人たちは、なかなか当時の生活体験が少ないので、難しいものかもしれないですね!

相模原市南区 多くの石仏がある「長松寺」

長松寺三世大林和尚逸話
 大林和尚は相州西郡小田原領田方村の出生である。若い時行脚ばかりしていて、師匠の義天和尚のもとにいることはほとんどなかった。ある時大林を呼んで「西行法師は歌詠みだから、一生諸国を廻り歩いて無庵であった。お前もその類だろう」と叱りつけた。大林答えて「お叱りはどもっともです。しかし私は死後にせめて西行の七分の一ぐらいの名を残したく存じています」といったという。
 義天和尚臨終の時、大林は西郡赤田村太鼓庵にいた。師匠危篤の知らせに驚いて、とるものもとりあえず駈けつけたが、ついに最期に間に合わなかった。あるものがつぎのような狂歌を詠んだ。

笑顔は元気のバロメーター!

 「笑顔」の効果が言われています。笑顔が少なくなってしまったのでしょうか?
 色々な人に、いつも笑顔で接するには、視野を広くしておかなければなりません。しかし、今の社会はスペシャリスト指向です。専門性を追求すると、視野が狭くなります。すると、どうしてもストレスが増え、笑顔も少なくなってしまいます。
 もっと「いいかげん」に生きて、色々な人に笑顔を多くした方が、気分良く、健康に過ごせるのではないでしょうか!

鎌倉 果てしなく大きな智慧と福徳がある「虚空蔵堂」

 正式な名称は、明鏡山円満院星井寺
 聖武天皇の時代の730年 行基が全国行脚の途中、ここで頭脳明晰、記憶力増進をかはる虚空蔵求聞持法(頭脳明晰・記憶力増進の秘宝)の修行したときの伝説が残されている。
 本尊は虚空菩薩(智慧と頭脳明晰と広大無辺の宇宙を掌る仏様)で、行基が彫って祀ったと伝えられている。その後、源頼朝が、秘仏として35年に1度だけ開帳するように命じたと伝わる。現在は毎年1月13日に御開帳して拝める。

日本的な社会では!

 「努力」と「結果」は必ずしも比例しない。しかし、努力した側は、その努力を評価して欲しい、と考える傾向がある。
 西洋的な考えでは、「結果が全て」、この考え方が日本にも普及してきた。
 その結果、自分の担当範囲を狭くし、それを深くしていったほうが、結果を出しやすくなる。
 そのためかスペシャリストを目指す人が多くなっているのでしょうか。
 知識の範囲が狭くなると、目の視野が狭くなるのと同様に、見えなくなっている分野が多くなるが、目と違って、それに気がつきにくくなります!

尾道 港の守護神を浄土寺から移す「住吉神社」

 尾道や瀬戸田は、中世から瀬戸内海交易の中継地として発展し、江戸時代においても有数の港町でした。北前船が寄港するようになると、さらなる飛躍をとげています。
 尾道では、1689年に薬師堂浜の西側を、1690年にさらに西の荒神堂浜を、1697年に土堂浜を埋め立てています。この埋立は商人たちの手によるもので、増大する船舶の出入りに応じる形となっていました。
 この後、さらなる港の活性化に伴い、住吉浜の築造が急務となりました。そこで、広島藩は、直接工事を計画し、1740年尾道町奉行に平山角左衛門を任命。平山角左衛門は、翌年工事に着手し、住吉浜を築造しました。
 (神社は昭和の初期までは、こちら側(海側)を向いていたようです。)

「いいこと」を考えるというのは!

 ネット社会になり、「他人を落とす」書き込み情報が発信されています。このような情報は、むかしから週刊誌で発信されていました。ということは、今に始まったことではなく、人眼のサガなのですね。
 このような情報に接したときは、「発信者は能力の無いもの」と考えるしかないですね。しかし、この情報を発信してしまうと、自分は力の無い者になってしまいます!

福山 鞆 最澄による創建「静観寺」

 平安時代には最澄により静観寺、空海により医王寺が創建され、それぞれ西日本の布教拠点となった。南北には北朝と南朝間で幾度も戦闘があり、静観寺五重塔など貴重な文化財が失われた。また鞆の浦が足利尊氏の再起の拠点となり、室町幕府成立へ重要な役割を担った。戦国時代に入ると、毛利、尼子勢の間で拠点争いの地となった。毛利氏擁護の下で室町幕府15代将軍足利義昭が長期滞在、鞆幕府とも呼ばれた。

組織とのつきあい方は工夫が必要!

 実力や実績が重視される世の中、その結果、スペシャリスト指向が強くなっています。そのためか、能力な範囲が深くはなるのですが、どんどん狭くなっています。
 異なる視点からものごとを見ることができないため、世の中が変化しているときは、その変化に対応できません。
 変化に対応できない、という生き方は、仕事を失ったとき、あるいは、リタイヤしたとき、その後の人生の幅を広げることが出来ないまま過ごすことになります。
 長寿社会の現在、なんとか工夫をしなければならないですね!

鎌倉 頼朝が戦いで大勝したため改名「大巧寺」

 創建は1320年と伝えられています。
 この寺は、はじめ大行寺(だいぎょうじ)といって十二所しありました。頼朝がある戦いのとき、この寺で練った作戦によって大勝したため、大巧寺と名を改めるよう命令したそうです。
 本尊は安産の神様とされる産女霊神(うぶすめれいじん)。550年前の室町時代、難産のために死んで霊となり人々を苦しめていた女の霊を、当時の住職であった日棟上人が鎮め、安産の神として祀ったことから、安産の神として「おんめ様」の通称で親しまれるようになりました。

みずからの高ぶりをコントロール!

 ネット社会になり、「ひと言多い」場面をよく目にするようになりました。その影響かテレビでもよく目にします。
 自分にブレーキをかけることができない人が増えているようです。
 これは核家族が増加した影響なのでしょうか。「気を使う」あるいは「我慢する」ということが、日常の生活で少なくなったためでしょうね。
 大家族ですと、いろいろと気遣いが必要なため、その環境で生活すると「自分をコントロール」する力がつくのでしょうね!

尾道 足利二代将軍義詮が寄進「天寧寺」

 開基は1367年に、尾道の人 万代道円の発願により、足利二代将軍義詮が父尊氏の遺志をついで工費を寄進し、普明国師を講じて開山したもので、宗旨は臨済宗、創建当時は東西三町にわたる宏荘な大寺院であった。本尊は宝冠の釈迦如来。
 仏教が成立した初期は、釈迦を像にすることが禁止されていました。しかし釈迦の死後、シンボルとして蓮華や法輪、仏塔が作られ、礼拝対象となります。さらに時が経ち、初めてできた仏像が釈迦如来です。

学問は大いにやりながら、それにとらわれない!

 学問にとらわれると、なぜか視野が狭くなりやすい。視野が狭いが、深くなっていく。狭く・深くなりがちなのは、社会のしくみとして、出世しやすいからなのでしょうか。
 学問はした上で、その学んだことをいかに捨てていくか。
 いまの社会は、記憶力がよい人が、学問をする傾向があるので、学んだことを捨てることができない。その結果、イライラ社会になっているのでしょう。SNSの情報には、考え方の狭さを感じさせるものが比較的多いようですね。
 イライラを減らすには、「いい加減」が良いのでしょうね!

厚木 天台宗の鎮守 山王権現を祀る「知恩寺」

【智恩寺山王大権現懸仏】
 江戸時代には、智恩寺境内にあった山王社にまつられていた懸仏(かけぼとけ)が、現在では本堂の中に保存されています。
 山王権現とは、日吉神社・日枝神社の祭神であり、権現とは仏・菩薩が化身してわが国の神として現れることを意味しています。また懸仏は銅などの円板上に、仏像・神像を半肉彫りにあらわし、柱や壁などにかけて礼拝したもので、特に鎌倉時代から室町時代にかけての資料が多く見られます。
 智恩寺の懸仏は、中央の仏像を、左右に配された猿が拝む形式であり、刻まれている銘文から寛永13年(1636)に荻野の鋳物師である森久左衛門重久が鋳造したことが分かります。

好きなことを知ってはじめて仕事は回る!

 仕事の処理が得意な分野と、その人が好きな分野は必ずしも一致しません。好きなことは、時間がたつのを忘れて取り組んでしまうため、必ずしも効率的とは言い切れません。
 しかし、好きな分野は、どんなに困難があろうとも、なんとか乗り越えようと取り組んで行くことができます。
 時代が変化しているときは、好きなことに取り組むべきなのでしょう!

福山 鞆 オリジナルの観心行を行う「顕政寺」

 足利義昭が身を寄せていた(後ろ山の奥、熊野町の)常国寺の末寺であったが絶えて、慶長年間(1596~1614年)1600年頃、福島正則(芸備藩主)によって、この顕政寺などの寺々をほぼ一直線に結ぶ寺町(町割り)が形成されました。正善院日実は顕政寺を再建し、日蓮宗に改め二代・日運は、本堂と庫裡を拡張する事績を遺し、四代目の日富は、延宝年中(1673~1680年)に、奉行・藤井六郎右衛門に願い出て門前の境内を拡め、今日の基礎を築いた、と伝えられています。

集中しておしゃべりしたあとは気が緩むもの!

 SNSなどでの情報交換が増えています。しかし、そこでは文字情報だけです。しかし、文字情報だけでは限界があります。その限界を感じ、乗り越えるために、絵文字がつくられました。
 日本語は、英語と違って、文字情報だけでは不十分です。言葉では「イヤ」と言いながら、その表情は{イエス」の場合もよくあります。
 英語を日本語に訳すのは比較的楽ですが、日本語を英語に訳すには、場面によってはかなり難しいですね。
 幼い時から英語教育をすると、複雑な日本の風土の理解が、難しくなることはないのでしょうか?

鎌倉 法然上人が開祖か「鎌倉大仏高徳院」

 開基(創立者)と開山(初代住職)はともに不詳だが、高徳院では法然上人を開祖としている。
 当初は、阿弥陀大仏を安置する大仏殿以外には付属する建物はなく、もともとは「大仏殿」が正式名称だった。
 1238年に着工した大仏は木造。1247年、大風で倒壊。1252年に現在の青銅で鋳造された。1495年の津波で大仏殿が流され、露天の大仏になってしまった。この年は北条早雲が小田原城を奪取した年であり、鎌倉はすでに大仏殿を再建する経済力はなかったのでしょう。
 かってこのあたりは鎌倉の西の果て、そのため、刑場があったり、流人が集まる場であったり、ハンセン病患者の収容施設があった場所。そうした場所を大仏によって「悪書」を「聖化」し、都市鎌倉、そして関東地方を護持させようとした。

「ホンネ」か、「タテマエ」か、まず疑ってかかる!

 ホンネ=本音(本当の音色)は、三味線や琴、太鼓などの日本の楽器、あるいは、演歌は、西洋の楽器や音楽のように倍音だけで構成されてはいません。音のゆらせ方が特殊なようです。
 その影響かどうかはわかりませんが、世間では「ホンネ」と「タテマエ」の両方が通用しています。そのような社会では、「ホンネ」を知った上で、「タテマエ」で対応していくことが大事なようです!

尾道 海雲塔とも呼ばれる「天寧寺 三重塔」

 天寧寺は室町二代将軍足利義詮(よしあきら)が父の足利尊氏の菩提を弔うため、 夢窓疎石に命じて建立させた。
 天寧寺三重塔は、1388年に建立された五重塔(当時は高さが35m前後ではないかと考えられるとか)を、1692年に傷みの激しい上二重を取り払って三重に改造したものです。このため三重塔にしては、全体に上からかぶさっているような重苦しい感じがしています。
 この塔は、海雲塔とも呼ばれ、高さ25m、足利時代をしのぶ貴重な建築物として国の重要文化財に指定されています。