時は金(かね)なり!

 みんな時間は平等だと思っていませんか? でも、頭の中を流れている時間には違いがあるようです。
 これは特別な例ですが、自分が本当に命を落とす危険があると感じたとき、時計の1秒が、10秒くらいにゆっくりと流れます。おそらく、危険な状態を抜け出す方法を見つけようとしているのでしょう。
 これは特別な例ですが、一級レーサーの人達は、一般道でのクルマの運転の時は、まるで散歩をしている時のように、ものすごくゆっくりと時間が流れているようです。
 アタマの回転が早い人は、情報の処理の能力がものすごく早いのでしょう。その情報処理能力を、思い込みを深くする方向でなく、範囲をどんどん広げて行く方向に向けてほしいものです。
 どこかの独裁者のようにならないために。

鎌倉 寺地工事中、地中から石櫃が現れた「円覚寺仏殿」

 寺名・寺地は、はじめ北条時宗と蘭溪道隆(らんけい どうりゅう)によりえらばれたが、工事を起すと地中から石櫃(いしびつ)が現れ、中に円覚経が納められていたため、それにちなんで円覚寺と名づけるいたったという。山号・仏光国師が開堂供養の説法を行っていると一群の白鹿が人びとにまじって聴聞したところからえらばれたと伝え、鹿の出現した洞穴-白鹿洞が仏日庵前に残る。白鷺池・国師来朝の際、八幡の神霊が白鷺に化身、国師を導いてこの池に降りたったのを記念して名づけられたという。
(「鎌倉 趣味の史跡めぐり」長峰五幸著より)

食料の豊かな地域でも農業を受け入れたのか!

 戦争の原点は、種子の食べ方(料理の仕方)を見つけたこと。種子は、生きたまま眠り続けるので、貯蔵ができます。その結果、食べることができる種子は、富になりました。狩猟時代のように、食料が余れば分け合っていた時代から、余れば貯える時代になりました。そして、たくさん食べられる種を貯蔵している人が、力を持つようになったのでしょう。そういった力を持つ人に、分けて貰うチャンスを増やすため、日ごろからご機嫌を伺うようになり、尊敬されるようになったのでしょう。尊敬されると、気分が良くなる物質が分泌されるのか、より多くの種子を貯え、言い寄ってくる人(部下)に分け与え、いい気分になったのでしょう。これも生きるための本能なのでしょうか!

福山 航海の安全を祈る「陸奥稲荷神社」

 ここでは、航海の安全を祈る港の鎮守社です。
 稲荷は、もともと五穀豊穣をもたらす農耕神ですが、稲荷神を氏神とした秦(はた)氏が、機織りを仕事のひとつとしていたため、機織りは商業にも工業にも通じるので、商工業の発展につれて守備範囲を広げ、産業全体を司る神さまとなっていきました。
 そのため、農村部では農業神として、都市部では商業の神さまとして、商人にも人気があったのです。また、勝負師やギャンブル愛好家にも、なかなか頼りになる神様になりました。
 祭神はお稲荷さんの宇迦御魂神(うかのみたまのかみ)です。

日本人の体温は50年前に比べ、0.7℃下がった!

 病気は、検査機器で測定し、そのデータを見て判断する時代になっています。漢方は、50年とか100年も人体実験(征服した人達を実験に)をし、症状を観察し、薬を見つけ出したようです。当時は体温計すらない時代でしたので、病人の言葉、触った感覚などで、薬の効果を判断していたのでしょう。
 ところで、症状を伝える言葉は、なかなか整理されていませんね。方言の中には特有の痛みを表現する言葉があるのでしょうに。いま思いつくのはのは、「はしる」、「にがる」ですが、きっともっとたくさんあるのでしょうね。インターネットでの診断が普及すると、症状を伝える言葉が整理されるのでしょうね!

尾道 大草鞋サイズの足の大男がいる?「西国寺山門」

 この仁王門は、門中にまつられている二体の仁王尊像とともに室町末期の作で、仁王尊像の躍動感と、威厳を感じます。正面に下がる大草履は、健脚を願っての奉納と伝えられています。
 「この先には、この大きな草鞋サイズの足を持つ大男がいるよ、悪いことして入ったら返り討ちに遭うよ」と。
 西國寺は天平年中、行基菩薩創建と伝えられ、真言宗醍醐派の大本山。
 ある日、尾道に立ち寄られた行脚の中の行基はその夜、加茂明神の霊夢を見て、その御告げによってこの地に開山したと言い伝えられます。

人生とは、止(とど)まることのない変化である!

 青春時代の頃から、誰かをマネし、成長していく時代に入ります。その時代、周りにどのような人と出会えるか、そして、どの程度マネできるか、人生を大きく左右していくようです。もちろん、独特の創造性を持った人もおられるでしょうが、そう多くはないのでしょうが。
 ただ、どこかで単なるマネから脱して、自分流を持つことができる時代がやってくると理想なのですが、なかなか厄介ですね。
 というのは、独自性より、自分の都合の良い情報のみ収集しはじめ、どんどん「思い込み」を溜め込み、それを自分の個性だと思ってしまうことがあるからです!

鎌倉 時宗宗祖・一遍は「ものを捨てよ」と「光触寺」

 光触寺は、もともと、作阿上人による真言宗の寺だでした。しかし遊行中の一遍上人が弘安五年(1282)、このお寺を訪れたとき、一遍上人に帰依したことで時宗に改宗したといわれています。一遍に帰依した作阿を開山とし、時宗(に改めたました。
 現在の本堂は、改修されていますが江戸時代の建物で、内部の正面には後醍醐(ごだいご)天皇が書かれたと伝えられる「光触寺」の額が掲げられ、本堂内陣の装飾は美しい極楽の世界を作り出しています。

民主主義の最大の欠点は誤導された世論!

 民主主義は、投票で決まっていきます。しかし、その背景には、教育も含めた情報操作があり、民意に大きく影響します。
 京都の言葉で、単語の意味通りに解釈してはならない場面もあるそうです。
 古くからの政治の中心都市京都、言葉遣いに苦労してきた結果なのでしょうか?
 地域の風土の中には、上からの命令に従っているフリをしながら、実際には、自分達のやりたいことをやれるように、工夫している地域もあるようです。
 ロシアもそのような風土づくりに取り組んでほしいものです!

尾道 1957年死者・行方不明113名沈没事故「瀬戸田港」

 1957年4月12日「第五北川丸沈没事故」がありました。午後0時30分に瀬戸田港から尾道港への帰途についた芸備商船の定期客船・第5北川丸が出航。この客船は、定員が84名であったにもかかわらず、235名(うち子供12名)が乗船。旅客定員の3倍超の乗客と乗員4名を乗せていました。しかも同船は建造から33年(1924年建造)経過した老朽木造船でした。乗員5名のうちひとりを別の用事のために下船させたため、船長自らが切符整理を行い、舵を当時16歳の甲板員見習(事故により死亡)に任せていました。
 生口島の瀬戸田港から尾道港に向け出航しておよそ10分後、佐木島西方にある寅丸礁(事故後、灯台が設置された)と呼ばれている暗礁に座礁・転覆し、あっというまに沈没してしまいました。付近を航行していた運搬船や漁船がただちに救助に当たったのですが、船内に閉じ込められるなどして死者・行方不明113名、負傷者49名を出す惨事が起きてしまいました。

本当の自分の気持ちを見極めること!

 幼い時は、できるだけ自然環境の中で生活することが良いのでしょう。自然環境が、生物としての基本的な生きる機能を、身につけることができるのでしょう。
 多くの生物は幼い時に、その生物としての生き方を学んでいます。人間も同じなのでしょう。
 しかし、先進国の人々は、過ごしやすい環境で、言葉を基本とした教育を受けています。動物としての学びが少なくなっています。
 子供達が育っていく場面も、言葉による情報がほとんどの部分を占めており、なかなか自然から学ぶ環境がありません。
 いろいろな精神的な障害も、背景にはこのような問題があるのかも知れません。
 危険察知の能力が身についていないこと、これが一番心配ですね!