円教寺に伝わる話
刀工鈴木弥太郎貞勝は、1271年、龍ノ口で日蓮上人に向かって振り上げられたものの、光る玉の出現で3つに折れた刀、「蛇胴丸」を作った人。
そしてあの事件の翌日9月13日、昨夜のうわさを聞きつけた鈴木弥太郎貞勝が、依知に向かって相模川を渡る前にぜひ自宅にお立ち寄り下さいと申し出たことにより日蓮の一行は貞勝の屋敷で休息を取ることになりました。 このとき貞勝は日蓮の教えに入信し、円教坊という名をいただきました。円教坊はこのあたりの水が刀作りに適さないことを話すと、日蓮は石に南無妙法蓮華経の文字を書き、「三十番神」をまつって地面を掘りました。その時わき出た泉がこの番神水だというのです。
2020年のアーカイブ
これからの東京は!
まだ東京集中が続いているのでしょうか? しかし、東京から地方へ移るひとも目につくようになりました。昨年のNHKの首都直下地震を想定した危険の具体映像、これから普及するテレワーク、そして、国のいろいろな施設の地方への移転、これらがもっと具体化して来るでしょう。事実すでに、ドイツの保険会社は、東京が世界一の災害の危険な都市として位置づけられています!
尾道 自然石に彫られた羅漢達「済法寺裏山 石仏群」
済法寺の裏山斜面の自然石に多くの磨崖の羅漢像が刻まれています。 済法寺の裏山の一面に広がる巨岩に、釈迦如来座像を頂点として、4段ぐらいの岩群に、光背状に彫りくぼめて半肉彫りする十六羅漢磨崖仏があり、江戸時代の尾道石工の技術の切れをノミ跡に見ることができます。
十六羅漢とは、お釈迦様の弟子で特に優れた代表的な16人の弟子を十六羅漢といいます。仏教を護持しようと誓ったとされる弟子達です。羅漢は阿羅漢の略で,供養に値する人という意味です。
中華文明は「核」を持たない文明!
麦や稲は、耕作者の年間消費量の二倍の収穫ができた。これが「戦い」の根本原因となった。残った半分の収穫が、土地や農具の借賃、収穫した倉庫の護衛などに使われ出した。農地の水の確保のため、大河の流域では巨大な開発事業となるため、大きな権力を持つリーダーが必要となった。乾燥地帯ではより巨大な権力を持った皇帝が出現した。日本でも、東日本は大きな河川があり、やはり、強権のリーダーたちが出現した。地域の風土は、自然環境がつくりだすのですね!
鎌倉 幕府の守り神の夷神を祀った「本覚寺」
この寺を開いた人は、一乗院日出(にっしゅつ)です。この人は、寺の縁起によればもとは学者でしたが後に日蓮宗の僧になりました。生まれた所は、駿河の国(今の静岡県)三島で、いろいろな迫害や苦労にたえられる修行をしました。その後、鎌倉の夷堂(えびすどう)に住み、教えを広めようとしましたが、他の宗派の人々の反対にあい、鎌倉公方足利持氏(あしかがもちうじ)に捕えられ、刑場で殺されそうになりました。しかし、夷神(えびすがみ)のお告げにより許されたといわれます。このことがあって持氏は、夷堂のあったところに本覚寺を建てて日出に寄進したそうです。
昔は「お裾分け」の習慣があった!
「お裾分け」への「おっ返し」は地域によって違いがあるようです。なんでもかんでも「お返しをする」という地域がある一方で、「このくらいならお返しはいいよ」という地域、それぞれの自然環境が影響しているようです。自分たちで自然環境に対応してきた地域は、「この程度でいい」と、強力なリーダーのもとで自然環境に対応した地域は「なんでもお返し」といったような風土があるようです。江戸時代までは、日本の中でもなかなか言葉が通じなかった(文字は通じた)のですから、それぞれの風土が異なっていても当然ですね!
尾道 本堂内に「泣き龍天井」がある「西郷寺」
1353年の開基。本堂・山門ともに国重文で、時宗の本堂形式としては他に比類のない名建築です鎌倉時代末期の正慶年間、遊行六代一鎮によって開かれたと伝えられています。当時は「西江寺」と称されていました。
本堂は文和2年(1353年)に発願され、時宗最古式の本堂として貴重なものです。堂内に「泣き龍天井」があり、手を打つと乾いた音が帰ってきます。
五分や十分の運動でも脂肪を燃える!
人間もクマのように、冬眠中にダイエットが出来ると良いのですが。クロクマの研究で、冬眠中の平均体温33度で、活動時と比べわずか5~6度低い程度、1分間の心拍数が通常の55回から9回にまで低下するという。ダイエット言うより、食糧事情への対応です。そういえば、人間以外の動物にも糖尿病はあるのでしょうか? 犬や猫のペットには糖尿病があるようです。冬眠する動物は、食糧事情に恵まれていないため、糖尿病にはならないのでしょう!
鎌倉 源氏の白旗を立て戦勝を祈願「源氏山公園」
源氏山は、奥羽を舞台とする後三年の役(1083~1087年)で八幡太郎義家が出陣するときに、この山上に源氏の白旗を立てて戦勝を祈ったところから「源氏山」とか「旗立山」といわれるようになったといいます。
白旗山または旗立山とよばれたこともあるようです。緑豊かな自然に囲まれ、公園のすぐわきには、鎌倉の七切通しの一つであり、国の史跡でもある化粧坂が、園内には頼朝像・広場などがあります。
春には桜、秋には紅葉が楽しめます。
「食物繊維を多くとりましょう」どうして!
最近、腸内の細菌が話題に上るようになりました。からだの健康に関しては、脳よりも腸のほうが重要な役割を果たしているようです。虫も食べない、地産外の野菜を食べるしかない時代、腸は大変な苦労をしているのでしょうか。都会から脱出し、家庭菜園でとれたものを、子供達に食べさせることが正解なのでしょうね!
尾道 足利尊氏を弔うため「天寧寺 三重塔」
もとは五重塔でした。なぜ、五重塔として修復せずに、三重塔に変えてしまったのか、その理由はよくわかりません。尾道には、壊れてものでも何かしらの物語をつくり、再利用する風土があります。商人たちは、物語をつくることで、商品の価値が永く続くことを知っていました。そのような風土が三重塔にして残すに至ったのでしょうか。いずれにしても珍しい塔です。
ビタミンAは細胞性免疫を強化する!
新型の肺炎が世界中に広がろうとしています。人類の歴史では、地球の総人口が1万人とか1万5千人とか、という時期もあったようです。食べ物の影響などから、その場面に適した免疫力を得られた人達が生き残れたのでしょうか。お酒で顔が赤くなる人は、アルコールが作り出す悪玉が、いのちに影響する悪玉を退治することで生き残ったとか。「毒を以て毒を制す」ですね!
鎌倉 百観音がある「円覚寺 大方丈」
円覚寺方丈前の百観音は江戸時代、拙隻尊者が百体の石仏を岩窟に泰安したことが由緒となり、明治に至って今北洪川老師が整備されました。
円覚寺の百観音を結願所として円覚寺派の寺院に百観音巡礼の札所が開設されました。
昔は、霊場に写経を納め、その際に納経印をいただいていましたが、それが現在の御納経帳または御朱印帳に変わったものとされています。行く先々の霊場で観音さまの由来を知り、観音さまの御利益にあずかり、観音さまを念じながらお参りされると、心が清浄になり安心を得られることと思います。
道端のお地蔵さんにはエネルギーが!
道祖神は村の辻などに祀られて悪霊の侵入を防ぐ神様。国際飛行場に道祖神を置いて、新型肺炎菌の侵入を防いでくれるとありがたいですね。「固く信じる」ということは、宗教などで広く行われており、心だけでなく、からだにも何らかの効果があるのでしょうか? 医療がまだ発達していないとき、いろいろと信じることで、なにかしらの効果があったから、長い歴史の中で続けられているのでしょう。「信じるという姿勢」こそが、未来を拓く大きな大きな力となってきた体験が、そうさせているのでしょうか!
尾道 石猿がお社を守る「山脇神社」
尾道の夏を告げる「山王祭」(別名ゆかた祭り)が行われる神社です。
「山王」とは日吉の神様の別名で、天台宗・比叡山延暦寺の守護神としての性格を意味します。それを「山王信仰」といい、天台宗のお寺の広がりと共に日吉の神様がまつられました。こうして全国に分霊社が増えるに伴い、「日吉さんといえばお猿さん」といわれるほど、魔除けの神猿さんも広く知れ渡ったとのことです。
人からの批判は成長の糧!
「後悔 臍(ほぞ)を噛む…(自分の臍(へそ)を噛もうとしても届かないように、後で悔やんでも及ばないこと)」ということわざのように、後悔にはメリットがないことに気がつきながら、後悔をしてしまう。反省するところまで、たどり着ければよいのですが。この原因は、その事柄が発生したときの、状況把握が不十分なことが原因なのでしょう。状況をきちんと把握するだけの感覚が、育っていないのでしょう。つねに「現状把握」が充分であれば、いつも的確な反省をすることができるのでしょう!
鎌倉 腰越状を書いた寺「満福寺」
元暦2年(1185年)5月、源義経が兄頼朝に怒りを買い、鎌倉入りを許されず腰越の地に留められた際に、頼朝に心情を訴える腰越状を書いた寺として知られる。寺には弁慶が書いた腰越状の下書きとされる書状が展示されており、境内には弁慶の腰掛け石や手玉石など、義経・弁慶ゆかりの品々が多数展示されている。
平清盛の温情に助けられた源頼朝は、結果として、弟の義経、範頼を見誤り自らの手で葬った。当時の武士は、いまの暴力団よりも怖い存在のようですから、組織の維持にはやむを得なかったのでしょうか?
政治は盲目の現実主義!
民主主義の政治は、「目先の問題だけがテーマ」になることは、防げないしくみなのでしょうか? そのためか「行き当たりばったり」になります。10年以上先に予測される問題は、政治家まかせでは対応できないようです。“別のしくみ”が必要なようです。100年ほど前までは、ビジネスに成功した人たちが、社会のための公共投資を担い、それが出来る人だけが、社会的に認められるしくみがあった町があったのですが!
福山 航海の安全を祈願する「阿武兎観音」
けわしい海食崖が続く沼隈半島の南端、阿伏兎岬は奇勝として知られ、岬の突端の断崖に立つ磐台寺観音堂は阿伏兎観音と呼ばれ、昔から海上交通の人びとの信仰を多く集めてきました。
岬の岩頭に建つ朱塗りの観音堂は、その美しさから安藤広重(歌川広重)の浮世絵や志賀直哉の「暗夜行路」などにも紹介されており、今も瀬戸内の自然と調和した見事な景色をつくり出しています。現在、観音堂は国の重要有形文化財に指定され、安産・子育ての観音様として信仰を集めています。
“自分さえよければ”と!
いまや、「法律さえ守ればよい」が最高のマナーになった感があります。むかし商売の町では、「法律は最低のマナーだ、商売をやるなら、もっとよいマナーを目指すことが必要だ!」とされていました。小さな八百屋さんは、売れ残りそうな野菜があれば、お客さんに丁寧に料理の方法を教え、買ってもらっていました。そのため廃棄される野菜が大変少なかったのです。これは、お客さんへのマナーにとどまらず、社会に対するマナーでもありました!