円教寺に伝わる話
刀工鈴木弥太郎貞勝は、1271年、龍ノ口で日蓮上人に向かって振り上げられたものの、光る玉の出現で3つに折れた刀、「蛇胴丸」を作った人。
そしてあの事件の翌日9月13日、昨夜のうわさを聞きつけた鈴木弥太郎貞勝が、依知に向かって相模川を渡る前にぜひ自宅にお立ち寄り下さいと申し出たことにより日蓮の一行は貞勝の屋敷で休息を取ることになりました。 このとき貞勝は日蓮の教えに入信し、円教坊という名をいただきました。円教坊はこのあたりの水が刀作りに適さないことを話すと、日蓮は石に南無妙法蓮華経の文字を書き、「三十番神」をまつって地面を掘りました。その時わき出た泉がこの番神水だというのです。
タグアーカイブ: http net
鎌倉 百観音がある「円覚寺 大方丈」
円覚寺方丈前の百観音は江戸時代、拙隻尊者が百体の石仏を岩窟に泰安したことが由緒となり、明治に至って今北洪川老師が整備されました。
円覚寺の百観音を結願所として円覚寺派の寺院に百観音巡礼の札所が開設されました。
昔は、霊場に写経を納め、その際に納経印をいただいていましたが、それが現在の御納経帳または御朱印帳に変わったものとされています。行く先々の霊場で観音さまの由来を知り、観音さまの御利益にあずかり、観音さまを念じながらお参りされると、心が清浄になり安心を得られることと思います。
豊かに考えられる子!
「考える」は、「過去」、「現在」、「未来」について、それぞれ考えることができます。その中で「過去」と「未来」は言葉で考えています。しかし「現在」は、言葉だけではなく、五感からの情報を組み合わせて考えることができます。この多彩な情報を組み合わせることで、感情というものの基礎ができるのでしょう。9才までは、やはり自然の中で五感を育てることが大事なのでしょう!
笑顔ひとつつくれない人!
イヤなときでも、自分の笑い顔は、自分を元気にしてくれる効果があります。しかし、他人を元気にすることは、他人の笑顔だけでは難しいのでしょう。「親切」と「思いやり」を感じてもらうことでしょうか。他人に元気をふりまく人は、やはり貴重ですね!
いつもペンと手帳を持ち歩くと!
最近は音声でメモを取る方法もありますが、「書く」という動作が「脳への刺激」と、「考える」ということに、何かしら影響を与えているのでしょう。メモを書くという行為の積み重ねが、何かしらの成功に貢献することでしょう。来年から手帳にメモをしましょう!
冬眠のメカニズムはよくわかっていない!
冬の食糧事情は、春よりも良かったようです。木の葉が落ちた森は見通しがよく、冬眠をしない動物もいるので、狩をするには適していました。しかも、秋に収穫した穀物もありました。むかし、食糧事情が悪かった時期は、春のようです。春は動物が活発に動き出し、植物も主食とするにはまだ育っていません。なんとか食べられるものを見つけようとするため、春の七草という行事を根付かせたのでしょうか?
神は堕落した人間を見て!
自然環境の危機の話し合いがされています。しかし、歴史は繰り返すといいます。旧約聖書の「ノアの箱舟」が再び起きてしまうのでしょうか。また、第6絶滅期とも言われ出しました。火星も、むかしは生物が繁栄しており、そして絶滅したのでしょうか? 諸行無常なのですね!
愛川町 かって五十余の院・坊があった「八菅神社」
かって山内には七社権現と別当・光勝寺の伽藍、それを維持する五十余の院・坊があって相模の国峰として盛えていた。
八菅山縁起によると日本武尊が東征のおりにこの山を望み見て、山容が蛇の横わたるに似ているところから「蛇形山」と名付けたという。
また、703年、修験道の開祖役の小角(えんのおずぬ)が入峰し修法を行ったとき、忽然として「池中に八本の菅が生えたことから八菅山の名が起こり、709年には僧行基が入山、ご神体及び本地仏を彫刻し伽藍を建立して勅願所としたという。
しかし、明治の神仏分離令により光勝寺は廃され七社権現は八菅神社と改称、今日にいたっている。
1ヵ所だけからでは陰のところは見えない!
一般的には、知識が増えていくと、固定観念ができ、どんどん視野が狭くなっていきます。いまは専門家が尊重される傾向があるので、自分が蓄積してきた知識の延長で学んでいきます。その結果、ますます視野が狭くなります。一方的な見方が強くなります。人間以外は、感覚で情報を得て、先入観無しで、その情報を中心に判断するため、現状については人間より正確に判断しているのでしょう!
山の上は気象台がほとんどないので初冠雪!
初冠雪の時期が来ました。最近は気象の変化が激しく、今までの経験だけで判断していたのでは、危険になることが多くなりました。思い込みは止めて、自分で自然の変化に注意し、気象情報と照らし合わせ、自分で判断することも必要になってきています。危険なときは、今までのように数kmの避難だけではなく、100km以上避難することも必要になってくるのでしょうか?
都合の悪い情報が推理力を鍛える!
報告するとき(報告を受けるとき)、「良い・悪い」という判断をすることは、報告者(非報告者)の都合です。組織として、「事実に基づいて判断する」という基本が、出来ていないのでしょう。上司の顔色を見て動く組織になっているのでしょう。これは、変化の少ない時代、大組織においては、都合の良いこともあったのでしょう!
鎌倉 平政子(北条政子)が創建した「白旗神社」
白旗社については社伝によると正治二年(1200)白旗大明神の勅号を賜って、平政子(北条政子、北条政子という名は近世以降になってそう呼ぶようになったようです。1218年以降1225年までは、朝廷や寺社には吾妻鑑に記載されている「平政子」を名乗っていたと考えられる。)が創建、また源頼家の造立ともいう。
現在の祭神:源頼朝と源実朝
「天正修営目論見図」には本宮の西側に白旗社があり、明治十九年柳営社(源実朝)と合せて現在地に鎮祭した。
同情するものは強者だ!
他人を支援するとき、昔は「同情」が基本になっていたのではないでしょうか。財力があるひとなどが、才能があるが貧乏な人を支援する、といった場面が多かったのではないでしょうか。別宅に泊まれらせ絵を描いてもらう、学費を支援する、楽しませてくれた芸人の引退後の生活を支える、といった立場が上の人が、下の人を援助することが基本だったのでしょう。ボランティアが始まった以降は、同じような立場の人が、被災した人達を支援する、といった傾向に変わっているのでしょう!
聖徳太子の願掛けで勝利!
仏教の伝来は、政治の権力闘争の材料でした。仏教の教えが権力闘争に有効だったのか? 寺院や仏像が有効だったのか? どうも、寺院や仏像が有効のだったような気がします。教えという抽象的な概念は、ある程度仏教が理解されていないと、有効にはならないでしょう。しかし、寺院や仏像は見せ方で、有効な権力の象徴になります。古びたお寺が修理され、朱色に塗り直されると、圧倒されるようになりますね!
自分が思っている世界しか見えないもの!
多くの人は、自分が見たいものしか見えてはおらず、その見えている世界がすべてです。その見える世界をどのようにして広げていくか、を工夫するしかないですね。工夫していかないと、歳とともに、どんどん見える世界が狭くなってしまいます。悟ることができれば別ですが、それは、もっと難しいことなのでしょう!
生口島 島の災害鎮圧と興隆繁栄の祈願「向上寺」
1400年 生口守平の開基、臨済宗仏通寺派 愚中周及の開山により臨済宗の寺院として創建されたのに始まり、向上庵と号した。一旦衰退したが、江戸時代に入り1609年 関的が入寺して再興し、曹洞宗に改められた。
向上寺は町の北鬼門の鎮護として存立し御本尊聖観世音菩薩は、今日まで町 の災障を防除し、古来島の災害鎮圧と興隆繁栄の祈願寺。
臨済宗 仏通寺派開山勅特賜仏徳大通禅師愚中周及大和 尚(1323~1409年)を迎えて開きました。
厚木 美女神の木花咲耶姫命を祀る「子安神社」
子安神社の創立は不詳でありますが、古社調査事項取調書(明治二十九年(1896)によれば文明十八年(1486)以前の創立であります。
祭神は木花咲耶姫命(美女神として有名)が祀られておりますが、配祀祭神(主祭神にそえてまつる神。ふつう主祭神と縁故の深い神をまつる)として豊宇気命と須佐之男命が祀られております。
古社調査書によれば、境内地には稲荷神社があり祭神は宇加之魂命が祀られておりました。
厚木 小野小町の生誕地か?「小野神社」
この神社は、延長五年(1194年)の「延喜式」巻九に「相模国式内社の内愛甲郡一座小野神社」と書かれています。
現在の拝殿は、嘉永元年(1848年)に建てられ、わら葺屋根でありましたが、昭和四十三年に鉄板蓑きに替えられました。本殿は拝殿よりも1mほど高い地面に神明造(しんめいづく)りで造られています。「新編相模国風土記稿」に「閉香明神社(かんかみょうじんやしろ)、村の鎮なり延喜式に載(の)りし小野神社、当国十三社の一(いつ)にて祭神下春命(したはるのみこと)という」とあります。
自分の好きなことをたくさんもつ!
好きなこと、興味があること、いくつかあると良いですね。年齢とともにその興味が変化していくと、どんどん広がっていきます。リタイアしたとき、それまで培ってきた好奇心のもとが、充実した人生をつくりだす元になっていきます。新しい人達とのつながりも広がって行くのでしょう!
鎌倉 日蓮が斬首を免れた霊場跡「龍口寺」
龍口寺の始まりは、日蓮の弟子の日法が日蓮が亡くなった後、日蓮宗にとって記念すべきこの地を後世に残すために自分で日蓮の像を刻み、1337年(延元2年)に草庵を建てて安置したことだといわれますが、やはり日蓮の弟子である六老僧が建てたともいわれます。
室町時代のころは龍口院と呼ばれていたようで、龍口寺の名が出てくるのは戦国時代になってからです。