戦国時代に八王子を中心とした大石定久公(八王子滝山城主)の統治により、心源院、天應院等が季雲永嶽大和尚を開山にして、明応4年に建立されたと考えられます。虚空蔵菩薩を本尊とし、9石7斗の御朱印を賜り、5世太蔭師の時代、北条氏照の娘貞心尼を中興開基として、明応4年(1495)に当地に中興開山したと伝えられます。 徳川家光の養育役であった青山忠俊により再中興されています。明治時代には、当地に麻溝小学校の前身にあたる下溝学校を開校、また下溝の松原集落にあった薬師堂を当地に移転、この薬師は関東九十一薬師霊場19番です。 また、本堂、客殿、庫裡の新築が平成23年4月に終了し、落慶式を迎えました。 |
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相模原南区西部 旧磯部村の鎮守「八幡宮」
磯部八幡宮はもともと源氏の氏神であるとされ、境内には三社神、金刀比羅神社、山神宮、疱瘡神、稲荷社などが点在しているほか、御神像の仏弥陀が奉斉されている。 神社の創建時期は明らかでないが、1358年以前にはすでに旧磯部村の鎮守としてこの地で民衆の信仰を集めていたと見られている。 この社を開いたのは鎌倉から来訪した山伏祐圓で、別当は小田原玉瀧坊觸下の佛像院磯幡山神宮寺。1478年、太田道灌勢により陥落するまで磯部地内には城(城主長尾景春)があった。 |
相模原南区 仏師作による地蔵菩薩立像が残る「常福寺」
1300年頃、鎌倉時代末期に建立。 開山は鎌倉建長寺の35代管長、本覚了堂禅師、開基は菅原長員。
1584年の北条氏直の版物状や、鎌倉仏師として知られる後藤四郎兵衛藤原義貴の作による地蔵菩薩立像などが残されている。
お地蔵さまの前身はバラモンの大地の女神プリティヴィーで、天空の神ディヤウスと合体してディヤーヴァプリティヴィーとなり、他のすべての神と人間を生んだといわれている神です。そして、釈迦が悟りを開いた時、この神が地中から現れて釈迦の悟りを証明したといわれています。
相模原西部 庚申信仰の“青面金剛”が本尊「勝源寺」
勝坂の金沢山勝源寺は、曹洞宗愛甲郡小野竜鳳寺末で開山は笑山充間(寛永五年没)、開基は村民伊右衛門(寛永10年没)である。ここの青面金剛は明治時代に養蚕祈願の庚申さまとして賑わったお寺です。 本尊の「青面金剛」は中国の道教が基礎となった庚申信仰の本尊です。庚申信仰では、人の身体には三匹の虫「三戸(さんし)」がいて、庚申の日の夜には人が寝ている間に抜け出し、天帝に宿主の罪科を報告すると考えられています。悪行が伝わると寿命を短くされてしまうため、皆で集まって徹夜する「庚申待ち」という風習が生まれました。 |
相模原南区 前田家が鷹狩りによく来た「長松寺」
鎌倉公方足利氏満開基となり、曇芳(どんぽう)(1399年没)を開山として臨済宗建長寺宝珠庵の末寺として建立。
1430年再建。その後何度か衰退を繰り返したが小田原北条氏の時代お堂が再建された。また、換室宗応(かんしつそうおう)という僧が代官平岡岡右衛門吉道とともに曹洞宗に改宗し、津久井の功雲寺末寺として再度開基された。
1649年に寺領十石の朱印状(寄進状)が与えられている。
相模原南区 石仏たちが集まる「長松寺」
鎌倉公方足利氏満開基となり、曇芳(どんぽう)(1399年没)を開山として臨済宗建長寺宝珠庵の末寺として建立。
1430年再建。その後何度か衰退を繰り返したが小田原北条氏の時代お堂が再建された。また、換室宗応(かんしつそうおう)という僧が代官平岡岡右衛門吉道とともに曹洞宗に改宗し、津久井の功雲寺末寺として再度開基された。
1649年に寺領十石の朱印状(寄進状)が与えられている。
相模原南 縄文の住居を再現した「勝坂遺跡」
縄文時代中期(約5000年前)の大集落跡であり、この集落遺跡の一部約2ヘクタール(勝坂D区)が国指定史跡となっている。
勝坂遺跡は相模川によって形成された河岸段丘上に立地し、西側の段丘の下には鳩川が流れている。また、段丘崖には現在でも湧水や、天然記念物として市の登録文化財となっている照葉樹林がみられる。
相模原磯部 昔、火渡りの護摩が有名「八幡宮」
八幡社はもともと源氏の氏神です。1356年以前より磯部村らの鎮守として信仰厚く御神像として仏弥陀を奉斎しております。この社を開いたのは鎌倉から来訪した山伏祐圓で、別当は小田原玉瀧坊觸下の佛像院磯幡山神宮寺です。1478年太田道灌勢により陥落するまで磯部地内には城(城主長尾景春)がありました。
江戸初期の不動尊と寺社奉行宛古文書等推定樹齢五百年の銀杏が現存しております。
相模原 一遍の草庵跡に「無量光寺」
1261年 23歳の一遍はこの地を訪れ、草庵を設けたのが始まり。その後上人は2度この地を訪れた。その高弟である他阿真教が1303年2月に遊行を終えて止住するために念仏道場を開いたのが起源であろう。1319年に真教が亡くなると、初期時衆教団の聖地となり、参詣者が引きも切らなかったことが他阿呑海の法語に遺っている。
相模原 南区 一遍が訪れた「無量光寺」
1261年 23歳の一遍はこの地を訪れ、草庵を設けたのが始まり。その後上人は2度この地を訪れた。その高弟である他阿真教が1303年2月に遊行を終えて止住するために念仏道場を開いたのが起源であろう。1319年に真教が亡くなると、初期時衆教団の聖地となり、参詣者が引きも切らなかったことが他阿呑海の法語に遺っている。
相模原南 道元禅師像が建っている「天應
781年の創立、1495年に曹洞宗の寺として再建。開山は季雲永岳禅師(実質的な開山は2世天叟順孝禅師)、静岡県の石雲院(静岡県榛原町)末寺。
現在の本堂と客殿は2011年4月に落成したもの。
本尊は虚空菩薩(智慧・功徳の広大無辺なことが虚空即ち天を蔵する如くなる仏様)。
相模原の曹洞宗の寺院の中では一番古いお寺ですが、数度の火災に遭っています。