縄文 勝坂遺跡
相模原市南区磯部  標高:66.1m
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 縄文時代中期(約5000年前)の大集落跡であり、この集落遺跡の一部約2ヘクタール(勝坂D区)が国指定史跡となっている。

 勝坂遺跡は相模川によって形成された河岸段丘上に立地し、西側の段丘の下には鳩川が流れている。また、段丘崖には現在でも湧水や、天然記念物として市の登録文化財となっている照葉樹林がみられる。

勝坂遺跡発掘調査現地説明

 遺跡の中の凸凹したものが土器などの出土品である。
 相模原市では、「史跡勝坂遺跡」を中心とした勝坂遺跡公園の整備を計画しており、遺跡公園内には、縄文時代の人々の生活を理解してもらうため、復元住居の建設がされている。
 遺跡は、大正15年(1926年)の夏、当時の新磯村字勝坂で「石器時代土器が甚だ多く出土する」畑地があり、そこから縄文土器が発見されたことに端を発している。
 発見された土器は、装飾的な文様や顔面把手(顔を表現した取って)などによって注目をあび、後に「勝坂式土器」として縄文時代中期のめやすとされるようになった。
 また、同時に発見された多くの打製石斧(だせいせきふ)を、土を掘る道具と考えて縄文時代の農耕の存在も指摘された。
 勝坂遺跡の調査の歴史は古く、大正15(1926)年にまでさかのぼります。その年の夏に休暇で帰省した学生の清水二郎さんが、中村家当主であった中村忠亮氏の所有する畑に散在していた多くの土器を見つけ、考古学者の大山柏先生に標本として渡したことが発端です。大山先生は同年10月3日に、
勝坂の地を訪れ、最初の発掘調査が行われました。多数の石器(打製石斧等)や、完全あるいは、それに近い土器と顔面握手その他多数の土器の破片を採集しました。このとき発見された厚手の土器が注目され、後年、「坂式土器」として、中部・関東地方の縄文時代中期の指標となりました。






 縄文時代の住居を再現。
 縄文時代の住居を再現。
 住居内部
 縄文土器土は、こねて器の形にして焼き固め、食物の保存容器として、また、煮炊きの容器として使われました。土器は、最初の「工業製品」といえる。
 煮炊きすることで、肉などやわらかくうま味が出て消化しやすくなり、キノコや堅果・根茎などの渋みやあくが抜けたり、やわらかくなりました。
 もっとも重要なことは病原菌を殺菌できたことです。煮炊きすることで、病原菌を殺すことができました。


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