金澤山 勝源寺(曹洞宗)
相模原市南区磯部  標高:63.3
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 曹洞宗愛甲郡小野村 龍鳳寺の末寺

 青面金剛尊霊場(札所)

 青面金剛は中国の道教が基礎となった庚申信仰の本尊です。庚申信仰では、人の身体には三匹の虫「三戸(さんし)」がいて、庚申の日の夜には人が寝ている間に抜け出し、天帝に宿主の罪科を報告すると考えられています。悪行が伝わると寿命を短くされてしまうため、皆で集まって徹夜する「庚申待ち」という風習が生まれました。
 この会合を「庚申講」と呼びます。庚申講は平安時代から貴族に広まり、やがて民間でも盛んとなり、夜通しの酒宴へと変化していきました。仏教では、青面金剛は帝釈天の使者で、悪霊を払い除く力があるとされています。

 このあたりでは、民衆は個人的な信仰行事ではなく、近隣の人々が集まって集団信仰の形で行っていたようです。庚申の日の夜に決められた家に集まり、「青面金剛」の像を描いた掛げ軸を下げて礼拝し、自分自身や家族の健康と長寿などを祈りました。
 その後は飲食や歓談などをして賑やかに夜明けを待ちました。このような集まりが定常化して“庚申講”と呼ぶ組織が作られ、講の人々が共同で庚申供養塔を造立し、それを信仰の証にするとともに講の仲間の結束を図ったのでした。
 また一面では、60日ごとの庚申行事は日頃の労働に追われて娯楽が少ない庶民にとっては慰労の機会となり、また互いに日常の協力の絆を強めるための社交の場でもあったと考えられます。
 
 勝坂の金沢山勝源寺は、曹洞宗愛甲郡小野竜鳳寺末で開山は笑山充間(寛永五年没)、開基は村民伊右衛門(寛永10年没)である。ここの青面金剛は明治時代に養蚕祈願の庚申さまとして賑わったお寺です。

 青面金剛( しょうめんこんごう) 「庚申信仰の祭神として病魔や悪獣を退散させる」
 道教と結びついて庚申信仰の本尊になる

〈青面金剛〉はもともと疫病を流行させる鬼神だったが、仏教に取り入れられて帝釈天の侍神になり、強力な呪力で病魔や風雷、悪獣を除く神になった。その姿は髪を逆立てた六腎の忿怒相で、人間の悪事に対し崇るとされる。
 中国の春秋戦国時代の思想家、〈老子〉を教祖として崇める道教は、不老長生をめざす神仙術やさまざまな民間信仰に、
甲・乙・丙・丁などの十干。これに子・丑・寅・卯・辰・巳などの十二支を順に割り当て、甲子・乙丑・丙寅……と組み合わせていくと、六十の組み合わせができ、年月日・時刻・方位などが表される。したがって庚申の日は、六十日に一回めぐってくることになる。
『庚申縁起』によれば、疫病の流行ったある年に、四天王寺の毫範という僧が仏の加護を祈っていると、青面金剛が現れ、まもなく疫病はおさまった。毫範の青面金剛感得の日が庚申の年、庚申の日だったので、この日を縁日として祀るようになった。
老荘思想や仏教を取り入れて形成された。道教は中国古来のアニミズムや魔除け、まじない、祈祷など、民衆のあいだで信仰される「除禍求福」の〈民衆道教〉と、易(えき)・陰陽・五行・天文・占星術など、教理や組織をもつ〈教団道教〉にわけられる。
 青面金剛は道教の〈庚申(こうしん)信仰〉と
結びつき、本尊とされたものである。
 庚申信仰では、干支の庚申の日に、身をつつしんで夜こもりをして〈庚申様〉拝する。
〈干支〉は十干と十二支を組み合わせたもの。木・火・土・金・水の五行を、それぞれ陽の気を表す〈え〉と陰の気を表す〈と〉とにわけたものが、










 本堂内部  本尊 千手観音