さまざまな電化製品生活を便利にはしたが!

 1960年代以降、家庭用に様々な電化製品が普及しました。便利になり、時間にも余裕ができるようになりました。
 最近は、様々なメニュー化、あるいは自動化で、人が考えてすることが、どんどん少なくなっています。
 料理にたとえると、人間はただ食べるだけ、といっても良いほどです。
 その結果、考えることが減り、手を使わなくなり、味わいも、ただこの味か、というだけになりました。
 もちろん、機械に助けられているため、人同士の協力も少なくなりました。
 ということは、先進国ほど、ヒトの進化が止まっている、あるいは、退化が始まっているのでしょうか?

高速化が深刻な弊害をもたらしている!

 交通や通信の技術が進歩すると同時に、人々の移動が激しくなりました。その結果、人や物に付着して、様々なものも移動するようになっています。たどり着いた土地の環境に合わせるため、様々な変化が起きているのでしょう。
 また、体力的にそれほど移動できなかった人達も、いろいろな交通機関を利用し、長距離の移動が出来ています。
 そして、移動中も、普段と同じように高速通信を使って、日常生活が送れるようになりました。
 高速通信で、多くの人がいろいろな情報に接するため、過去に学んだ知識も役に立たなくなってきています。何歳になっても、常に「学び」続けなければならない時代になりました。
 文字や画像データはこの恩恵を受けることが出来るのですが、五感で得る情報は少なくなりつつあるようです。感覚と文字・画像情報の接点を大事にしたいですね。そのためか、俳句が流行っているようですね!

「得ること」にのみ価値を置く社会!

 植物は、動物たちをささえる大切な食料です。稲作が始まり、耕作者1人で2人分の食料を確保でき、しかも、1年間蓄えができるようになりました。安心して暮らせる食料が手に入るようになりました。
 イネが進化し、少し寒くても米が収穫できるようになりました。
 そして戦国時代には、田んぼがどんどん増え、戦が始まりました。
 イネが、その地域の人口を適正にするため、人間に戦わせるという戦略をとったのでしょうか?
 もしかすると、植物の進化は、ヒトが想像している以上に、戦略的なのかも知れません。
 幻想ですが!

“のに”病から解放し、意気揚々と!

 「進め 進めと 上司逃げ」、「出る杭を 叩いて上司 上を見る」、「聞かれたら ウマクヤレヨの 言葉のみ」。人生、組織での暮らし方を身につけないと。これは、社会での暮らし方と同じですね。これを身につけないと、異常な犯罪に手を染めるキッカケにもなります。
 ヒトが生存し、人口を増やすことが出来たのは、「社会」という人のつながりをつくり、自分というものに、ガマンを覚えさせ、協力することができるようになったのではないのでしょうか。ネアンデルタール人より脳が小さいホモサピエンスが生き残れたのは、ネアンデルタール人より大きな集団をつくり、その中での暮らし方が出来たからでしょう!

頭が固くなってしまうとボケやすい!

 50才から60才にかけて、自分の興味を広げる対策を立てることが、定年後の充実した人生を送ることにつながるようです。
 この時期に責任のある地位にいると、なかなか自分の興味を広げることが難しくなります。
 年功序列を改め、能力主義になると、この問題は解決する可能性があるのでしょう。
 江戸時代に当てはめてみると、権限のある人は老中(石高が少ない)=能力のある人(しかし、収入はそれほど高くない人ということに)、収入のある人は外様大名(石高が高い)=年齢の高い人(収入が多い、しかし、権限はそれほどはない)、という年功方式であれば、歳をとっても、新しいことに興味を持ち、元気な高齢者が増え、定年後に社会に貢献できる余地も出てくる可能性が、広がってくる可能性があると思うのですが。また、子どもにも充実した教育環境を整えられるのでは、難しいですかね!

無欲になれなくても、小さな欲望に!

 人が求めるものの原点に、お金・権力・名誉・寿命がありますが、現代は多くの方が「お金」なのでしょうか。
 そのためか「能力主義」が叫ばれています。
 しかし、年功序列の時代は、先輩が後輩をよく指導していましたが、能力主義になると、先輩の指導はあまり期待できなくなります。自分で能力を高めていくしかなくなってしまいます。
 日本では、高度成長が出来た時代は、年功序列の時代でした。能力主義になると、日本全体では、どの程度の成長が期待できるのでしょうか。
 今回のワールド・ベースボール・クラシックでの日本の活躍は、日本の年功序列時代の組織を思い出してしまいました。先輩が熱心に後輩に教えていました!

第二次世界大戦、無差別爆撃が始まった!

 ウォルト・ディズニーは米国の将軍に心酔。国民や政府に空軍力の重要性を訴えようと、自ら無差別爆撃を想起させる(「飛行機の広大な飛行範囲と破壊力は、地球上全てを戦場に変える。兵士と一般市民を隔てるものはなくなる」)アニメ映画を制作し、せっせと航空軍の宣伝をしていた。
 そして、兵隊同士が戦うという戦争の原則を崩していった。しかし、戦勝国は罪を問われることはなかった。
 ヒトは、いつまで経っても「戦争に勝てば、罪を問われることはない」という観念はから、抜け出すことは出来ないのでしょうね。
 ロシアも勝つまでは、戦争を続けたいのでしょうね!

元気な高齢者が助ける社会を!

 手持ち無沙汰のお年寄りもおられます。この人達の中には、社会の戦力になる方々も多くおられるように感じます。
 現在、この戦力は十分には社会で使われていないように感じます。むかしの「村の知恵袋」のように、何かしらの貢献が出来ると思うのですが。
 ただ、社会に貢献する仕事には、何かしらの資格が必要な場合が多く、今の記憶力中心の資格試験では、難しいことも多いのでしょうね!

「テンパって」判断ができない!

 テッパってしまい、近くにいる家族に暴力を振るうニュースが増えています。それに加え最近は、見ず知らずの人にも、はけ口を求める人が出てきています。
 「人を育てる」ということに、社会のどこかに間違いがあるのでしょうか?
 人の社会の子育ては、生物ヒトとしてのしくみ上、肉親だけではなく、周囲の人達と共に、共同して社会で子育てをするとのこと。
 育つ過程で、いろいろな人達と接することで、社会性を身につけ、大人になっていく過程が必要なのでしょう。
 チンパンジーは、母親だけで7年かけて子育てをするが、その間は次の子どもを産むことが出来ないしくみとのこと。
 2年で次の子どもを作ることが出来るヒトは、社会で子育てをする必要があるのでしょう!

親子とは考えられぬことまで受けいれる!

 NETやスマホを使った犯罪が多発しています。犯罪者は比較的若い人が多いのですが、その人達の親はどのように考えたらよいのでしょうか?
 人間の脳が大人になるのは25才程度だそうですが、それまでどのように育てれば良いのでしょうか。
 核家族が一般化し、社会で子どもを育てるという感覚が消えてしまい、犯罪者だけ、またはその両親が責任があるという社会になっています。
 核家族という社会は、人類が初めて経験している社会体制だと思うのですが、その特性に応じた社会は、いつになったら整備されてくるのでしょうか!

頭のよさだけを目標にすると!

 高校までに法律を学ぶ機会は多くありません。憲法は若干学ぶのですが、商業高校以外では、民法や商法を学ぶ機会はほとんどありません。
 私は商業高校だったので、民法と商法の学課がありました。両方とも同じ先生だったのですが、最初の学習の場面で、「法律は最低のマナーだから………」で始まりました。この意味は、最低のマナーを守ればよいではなく、もっと上のマナーを目指せ、という意味で理解しました。古くからの商人の町でしたから、長く商売を続けて行くには、法律を守るだけではやっていけない、という意味も含んでいたのでしょう。
 立法を行う国会議員すら、最低のマナーである法律を守れない人もいます。国会での質問以外では、名誉毀損になりそうな質問をしている議員もいます。これらを見習ってしまうと、見習った人の人生は、終わってしまいかねないですね!

広く、深くという「体験」が必要だ!

 インターネットの普及で、情報の収集が手軽に出来るようになった今、いろいろな体験で、五感を使った情報収集力が、育たなくなったのではないかと、心配です。
 自然の中での体験は、ある面、危険な部分もありますが、一瞬で危険かどうかを判断するため、五感からの情報収集が敏感になり、しかも、即時に安全な行動を選択しなければなりません。
 インターネットでの情報収集は、そこまでの多才な器官から得た情報をもとにした、一瞬の判断を必要としません。
 ただ、いまは、自然の中といえども、あまりにま安全対策がされてしまい、五感からの情報をもとにした一瞬の判断は、必要がないようですね!

少ないもので八面六臂に活躍させる!

 最近の電化製品や道具類は便利、というより、便利さや多機能を追求しすぎのように感じます。その結果、手の器用さを失ってしまいました。
 手からの信号を脳に伝え、その信号を元に、器用に体を動かし、その状況に対応する、というしくみが身についていません。
 足も同様のようです。足の指を使わなくなり、足の指でバランスを取るのではなく、手でバランスを撮っているように見えます。足の指は、親指側で足の内側の筋肉に力が入り、足の小指側で足の外側の筋肉に力が入ります。足の指からの情報で、足の筋肉でもバランスを取っているようです!

殺伐たる世の中で「曖昧さ」が平和を!

 日本は「平和ボケしている」と思う人は多いのではないのでしょうか。その背景に、「曖昧さ」や「好い加減」を許容する社会があるのでは、と思います。
 一神教の社会のように、ハッキリと一貫した主張しか許さない社会では、その主張に反する社会との戦いに備えなくてはなりません。そのため、危機意識は当然にして高くなるものと思われます!

「老後はゆっくり暮らしたい」は大間違い!

 老後の暮らしは、せめて50歳前後から考えておきたいもの。たとえ漠然としたものでもかまいません。しかし、それを考えている人はそれほど多くはないのでしょう。
 考えもせず老後の生活になってしまうと、ただただ、ぼんやりと時間を過ごすことになりかねません。
 「老後の生活を充実させる」という意識を50歳くらいから持ち、なにかしらの準備をはじめましょう。
 そして、社会に対して力を尽くすことが見つかれば、その活動は長続きしますよ!

先が見えてると大きな夢が見られない!

 「ムダ」というものは、良くないものと言われ続けています。確かに文明として考えれば、ムダは無いほうがよい、ということになります。
 しかし、文化の面から考えると、魅力的でムダではないですね。
 思考においても、専門的で論理的な思考は説得力があります。
 しかし、芸術においては、そんな論理はむしろ邪魔と思われます。日本の国宝を見ても、生活必需品はあまり見かけません。
 経済的な視点で見るとそれほどの価値はありません。ただし、精神面・観光面では有効ですね!

週末は自然の豊かな郊外で!

 円安時代が続いています。こうゆう時期は「地産」優先策ですね。そして「輸出」ですね。インターネット時代になっていますので、海外からの受注も昔に比べて容易になっています。
 そして、国内消費は「地産地消」です。輸送費が少なくて済み、輸入も少なくて済みます。
 家庭菜園があれば、食料費の支出も少なくなっていきます。ネットで仕事が出来れば、田舎生活も可能な時代になってきます。
 近所の人達と物々交換も可能になっていきます。人のつながりが増え、子供達もいろいろな大人達と接触ができるようになります。視野が広がります!

日本的な社会では!

 「努力」と「結果」は必ずしも比例しない。しかし、努力した側は、その努力を評価して欲しい、と考える傾向がある。
 西洋的な考えでは、「結果が全て」、この考え方が日本にも普及してきた。
 その結果、自分の担当範囲を狭くし、それを深くしていったほうが、結果を出しやすくなる。
 そのためかスペシャリストを目指す人が多くなっているのでしょうか。
 知識の範囲が狭くなると、目の視野が狭くなるのと同様に、見えなくなっている分野が多くなるが、目と違って、それに気がつきにくくなります!

変化の時代、どのような人が残れるか!

 社会が大きく変化している今、マニュアル、特に市場に関係するマニュアルについては、参考にしつつ、新たな視点で見直す必要があるのでしょう。
 知識や書籍は、たとえ将来についての情報であっても、基本的には過去の視点でつくられたものです。
 常に今を観察し、今の情報から将来を考え、対応することが必要ですね!

穀物は、貧富の格差、そして戦争を生んだ!

 農業で穀物ができるようになり、しかも、農業従事者1人で約2人分の食料を生産できるようになると、穀物の貯蔵ができるようになった。
 そして、その貯蔵をたくさんできる人が出てきた。その結果、富が生まれ、権力を持つ人が出てきた、
 日本は、平安末期頃から念仏宗教が庶民に広まり、庶民は団結することで、権力者に対抗できることを知った。
 800年ほど前に、庶民も力を持つことができるようになった。この歴史が、他国に比べ、日本の平和が比較的永く保つことができた原因なのでしょうか!