「今どきの若い者は」とこぼしたくなる!

 年齢を重ねるにしたがって、知識や経験は深くなります。ただし、問題があります。年齢を重ねた結果として思考の視野が狭くなることです。興味の範囲が狭くなることです。その結果、範囲外のことについては、興味が持てなくなり、情報があったとしても、それを生かすことが出来なくなってきます。
 情報の更新ができないまま、古くなった経験値の視点で世の中を見ていますので、現代の変化の激しい時代には、なかなかついて行けないことが多くなってきます。
 産業革命、そして、昨今の情報革命についていくのは、今までの発想ではついていけないのです!

あなたには自由な道を歩んでほしい!

 「自由」というものは、住んでいる土地によって違いがあるようです。思いがけない災害がよく起きる地域では、災害が起きたときの助け合いが必要で、当然のこととして周囲の人達に気を使っています。そして、その気遣いを配慮した範囲で「自由」を考えてしまいます。
 自然環境が安定している地域、あるいは、都会のように人工的に環境を制御している地域においての「自由」は、周囲からの助けがそれほど必要ないためか(行政に助けを頼れば良いのか)、自由の幅が広いようです。
 ただ、行政の援助の範囲を超えたときは、どうなるのでしょうか!

「正しさ」とは「自分の都合」にすぎない!

 自分が正しいと子供のときから主張しながら育ちます。しかし、なかなかそれが「自分の都合からくる主張」だとは気がつきません。なぜなのでしょうか?
 これは大人になっても変わりません。ただ、主張の頑固さの程度は風土によって違っているようです。
 日本は自分の主張にそれほど強くこだわっていないようです。それは、災害の多い自然環境から学んで来たのでしょうか。
 台風、地震、津波、火山噴火、干ばつなど、予測がつかない自然災害が多く、なかなか論理的には対応できなかった環境の中で、なんとか対応していかなければいけなかった。その結果、自己主張より、今置かれている環境の中で、何をしなければならないか、という命題の中で生き続けてきた結果なのでしょう。
 ただ、日本でも都会暮らしの人達は、どちらかというと自己主張が強いようです。これも自然環境の違いなのでしょうね!

強く穏やかに生きていこう!

 強く穏やかに生きていくことを目指すこと。出来ると良いのですが、これを自分の論理だけで実現することは大変なことです。
 日本の風土は、出来損ないを認め、曖昧に生きることを認める風土があります。この風土を無視し、自分の考え方しか認めない時代は、日本においては戦いに明け暮れた時代ですね。 
 現存する日本最古の国が編集した「日本書紀」ですら、朝廷の成立はAが正統だが、Bもある、Cもある,Dもある,というように、国家が、曖昧さを許容しています。そんな国は世界中どこにもないようです。
 日本書紀より古い聖徳太子の十七条憲法の最後の17条目には「物事は独断で行ってはならない。必ず皆で適切に議論しなくてはならない。とくに重大な案件については判断に過失・誤りが無いか疑い、慎重にならなくてはいけないので、皆で議論する必要があるし、そうしていれば(自ずと)道理に適った結論を得ることができる。」と、もとになった中国のものにつけ加えています。
 自分の論理では補えない世界があることを、大昔から感じていたのですね!

生活の快適さはなかなか放棄できない!

 私たちは「豊かさ」を経済感覚で捉えています。お金至上主義です。それが正解なのでしょう。
 ただ、その傍らに「親切」は置いておきたいですね。心の豊かさにつながるかも知れないので。
 いろいろな食べ物を、物々交換で手に入れることができた時代、あるいは、それが今でもできる地域では、心豊かな暮らしを、そのことに気づかずにしているのでしょうね。
 ただ、地球の人口が50年で二倍以上になっているので、そんなことは言っていられないのでしょう!

自分なりの人生哲学を身につけること!

 人生百年と言われ出しています。「自分という個業」を設計しなければならない時代になったようです。
 能力が重視される時代ですが、この能力はお金に関わる能力のこと。お金に関係ない能力は、現役時代は評価されません。
 たとえ、オリンピック選手であっても、その競技の監督やコーチになることが出来なければ、その能力は評価されません。
 しかし人生百年、お金に関わらない時間も長くなっています。自分のお金に関わらない能力も、日ごろから磨きをかけておく必要がありますね!

知識は「広く」から、そして「深く」へ、そして「広く」へ!

 今はスペシャリストを目指す方が多いように感じます。それだけでは片寄った思考になりやすいですね。
 いくつかの専門分野を身につけた上で、雑学に手を染め、そして、状況を洩れなく把握した上で判断するゼネラリストを目指してほしいものです。
 知識は、現状に即した上で、バランス良く利用できると、大きな力を発揮できるものではないでしょうか。そのためには幅広い知識が必要ですが、実際に行うには難しいことですけど!

イライラの原因は何か?

 現代はストレス社会ちっても言い時代になっています。SNSなどで簡単に情報発信ができるので、ストレスをかかえている人は、批判情報を簡単に発信できますね。また、マスコミですら批判情報を発信ることがあるので、「批判上を発信しても良いのだ」と思ってしまいます。
 修行して「どう思われてもなんでもない」という境地にたどり着けると、周囲に対して、やさしく親切な行動が、何気なく出来るようになるのでしょうね!

熱くならないと行動できない!

 「一歩踏み出す」は、出来るようで出来にくいもの。失敗の経験、あるいは失敗とは言えないものの、誉めてもらえなかったことを長く経験していると、やはり一歩踏み出すことは出来ないものです。
 また一方で、踏み出しすぎると、これも厄介なもの。そうなると穏やかな日々を送りたくなるものです。
 いろいろあっても良いのですが、「社会」という環境の中で生きて行くには、その社会の風土(価値観)に合わす必要も出てきますね。そうなると、いろいろな主張が出てきしまいますね。そして、力がある主張に会わさざるを得なくなってきますね!

自然の感情を大切にしているか!

 「自分であれ、他人であれ『気持ち』の理解は、言葉ではできない」と、もと京都大学の学長でゴリラの研究をされていた方が言っておられました。この方はゴリラの集団と一緒に生活をした体験があり、その中で気がついたそうです。
 ゴリラとの気持ちのやりとりができるようになり、その体験をもとに人間社会を見たとき、「言葉」というものは気持ちを正確には伝えていないことが多く、自分が置かれた環境の中で、自分の都合が良いように話しており、本来の自分の気持ちは表現できないもののようです。
 言葉だけで自分の気持ちを考えるようになると、同じように自分の気持ちを正確に捉えられなくなってしまう可能性がありますね。
 やはり、自然の中でいろいろな感覚を磨き、その感覚を大事にしながら「気持ち」というものを摑んでいく必要があるのでしょうね!

自分の弱点に気づかないと!

 自分に余裕がないと、冷静に自分の弱点を見ることは難しいですね。しかし、自分の弱点を冷静に見ることができないと、落ち込んだり、反対に過剰反応を示したり、厄介な状態になりやすいようです。
 パラリンピックで活躍している人は、冷静に自分の弱点を把握し、その対策ができた人達ですね。弱点に冷静に見つめることができると、別の感覚が研ぎ澄まされることもありますね!

生涯を通じて快活に生きる!

 それぞれの人々が生きている時代の変化は、決して同じではないですね。昔の時代、あるいは、異なる風土の人達のことを考えるとき、かなり努力したとしても、やはり自分の経験で考えてしまいます。真実在の世界を個々人が描くことは不可能ということなのでしょう。そんなことに気がつくことができれば、どんな世の中でも、できれば笑って暮らせば明るく乗り切ることができる、と思います。
 しかし、世間では「オレが言っていることが真実だ」という意識で、あれこれ情報を発信しています(この情報もそうですが)。そのとき自分というモノにこだわってしまうと、視野がどんどん狭くなり、真実在の世界からどんどん遠ざかっていくのでしょうね。
 新コロナ対策でも、医学関係の方がいろいろな意見を言っておられますが、もしかして、ヒアリ対策を行っているような昆虫学者の方のほうが、新コロナ対策においても、有効な提案を行うこともあるのかもしれないですね。そんな人が昔おられ、薬師如来のモデルになったのでしょうかな!

緊急事態は突然やってくる!

 緊急事態は突然やって来ます。この「突然=予想外の物事が前触れもなく急に起こる」のときは、自分でとっさに判断するしかないのでしょう。

 ただ、都会暮らしのときは、事前に情報を集め、考えさえすれば、予想内の出来事です。

 しかし、自然の中では、多くのことが突然起こってしまうことがありす。そこでの対応力は、やはり子供時代に自然の中でどの程度遊び回ったかでしょう。例えば、足をかけたら枝が急に折れた、石に足をかけたらぐらつき転がってしまった、枝を払いのけたら顔に跳ね返ってきた、スズメバチの羽音が急に耳元でうなった………。

 こんな経験が多いと、突然の緊急事態でもなんとかなるのでしょう。もっとも、後から学ぶことが多いのですが!

「自分らしさ」は幅広い学びから!

 {自分らしさ」にこだわっているうちは、自分らしさはまだ出ていないのでしょう。自分が興味のある分野を、広げるか、深掘りしていくうちに、自分らしさがでてくるのでしょう。そのときは、もう「自分らしさ」は意識していないのでしょうね。
 ところで、「自分らしさ」を持つために、スペシャリストになろうとしていませんか?
 スペシャリストは、見方を変えれば、狭い範囲の知識しか得ようとしていません。まして、住む世界は同じ分野の人達の集まりになるので、そこで「自分らしさ」を出すことは大変です。むしろ、ゼネラリスト的な世界ですと、知識を得ることは大変ですが、「自分らしさ」は発揮しやすいのでしょうね!

自分の世界を「公正」で「正しい」世界だ、と!

 正確に、間違いなく、他人から落ち度を指摘されることのないように、整然と仕上げないと気がすまない人。仕事上では良い面もあるのですが、退職後もこの状態では、本人は気づいていないかも知れませんが、周りは大変ですね。
 変化を受け入れる柔軟な前向きな心をもつことは、ボケないことにもつながりますが、周りにも、孫達にも良い影響が起きてくるのでしょう。そして、歳を取っても人間として成長する機会を得ることができるのでしょうね!

知性を獲得するのに年齢は関係ない!

 思考の老化防止のため、まず「ほんとかな?」でスタートし、次ぎに「提示されていることの反対のやり方だと、どうなるかな?」と頭を使うと、思考の老化を防ぐことができるのでしょう。
 現在は専門家指向が高くなっているようです。これが思考老化の原因になります。また、ネットでの検索の結果がAIの活用で、ますます情報が絞り込まれてしまいます。情報を絞ると多様な考え方ができなくなってしまいます。
 また、社会のしくみが整備されればされるほど、考え方が固定化します。
 極端な例ですが、「一夫一婦制度が人類が生き残っていくために一番有効な制度か?」と問われたとき、新コロナが蔓延している現在、数人の子供ができ、その中で「免疫力が強い子供が生き残っていく」と考えた場合、その可能性を広げるには「一婦多夫」で、多彩な遺伝子を持つ子供をつくったほうが人類が生き残れるのではないか、という思考もあります。実際に現在もそんな社会は多少ですが存在しています!

自己投資は年収の1割以内ならOK!

 出身大学や資格に頼る時代は終わりつつあるようです。AIの進歩は、予測できないほど早く、知識をベースにした資格は、不要になってしまう可能性が強くなってきています。
 AI中心の時代になった時、どの言語が専門分野において有効か、という現象も起きてくるのでしょう。単純な言語はAI化は行いやすいのでしょうが、機能的にはどうなのでしょうか。
 自分で、本をもとに8万件以上の日本語のデータベースをもとに、単語検索をしながら、いろいろな知識を組み合わせ遊んでいる私からみると、日本語はAIには難しい部分が多い面があるようです。また、地域・時代によって意味の解釈が少し異なるため、より難しいのでしょう。
 ただ、この面が、より面白く、意味深いものができる可能性を秘めていると思われます。

はつらつとして生きていること!

 「笑い」は、人とのつながりにおいては必須のもの。イラク戦争のときか、米軍の部隊がイスラムの牧師を訪ねるため町に入ったとき、その町の人々に囲まれ険悪な状態になった時、米軍の隊長が「笑え」と命令し、隊員が笑顔になると、険悪な状況が一変したという。その隊長は世界中を一人旅した経験があり、「笑い効果」を実感していたのだそうです、笑いは大事ですね。また、笑いは健康にも良いのですね。白血球が元気になり、免疫力アップにもよい影響があるようですね!

良いこともあれば悪いこともある!

 人の悩み事を聞くには、まづ「思い込み(先入観)」を捨てることですが、これが難しい。テストで満点が多いほど、経験が深いほど、専門的な知識が豊富なほど、長く生きていればいるほど、自分の考え方で相手を理解しようとします。これは、相手の話を、相手の立場で理解しようとはしていないのでしょう。自分の立場で理解しているのです。このような場合は、自分の意見は言わず、ただ、ただ、聴くことに徹した方がいいのでしょう!

人には親切にしたいもの!

 何も見返りを期待していない「親切」というものがあります。四国のお遍路のときの御接待(おせったい)など古くからあります。西日本に多いようですが、「てごうする」といって、「お手伝い」と無意識に使い分け、お返しをまったく気にしない手伝いがあります。この基本になっているのは、仏教の考え方なのでしょう。自分が生きている内に、できるだけ施しをすることができれば、極楽に行ける、と。そういえば、何かもらい物をすると、すぐお返しをする地域と、ついでのときに何かを上げる、といった地域があります。日本の中でも、各地でいろいろな風土があります。情報発信が東京中心になってしまったため、各地域の風土に無関心な人が多くなってきているのでしょうか?