最終的に生き残ったのは常に敗者!

 「生き残るのは敗者」と、歴史学者や生物学者が言っておられます。確かに、第二次世界大戦で敗者の国が、経済的な発展を実現しています。
 勝者であるソ連(現ロシア)は、終戦後にポツダム宣言に違反し「強制抑留」で、日本の軍人・軍属や一部の民間人も、ソ連兵からダモイ(帰国)と言われ、移動を命じられたのですが、着いた先は日本ではなく、シベリアを始めとするソ連領内やモンゴル地域などの酷寒の地でした。そこでは、わずかな食糧と不衛生な環境の中、過酷な労働を課せられる抑留生活を強いられました。抑留された約57万5千人のうち、約5万5千人が命を落としました。
 その勝者の現ロシヤは、歴史に学ぶことがなく、また勝者を目指しながら、亡びかねない行為をしています。
 ロシヤは文字の文化が千年程度、歴史に学ぶことがあまりないのでしょうか?

隠された憎しみは仮面をかぶる!

 核家族になり、都会では、自然の中での体験が減り、周りの人たちとの接触が減り、Netでのやりとりが増え、子ども時代から「加減」というものが身につかなくなくなっている子どもが多いようです。
 この「加減」というものが身についていないと、「Yes」か「No」という選択が中心になり、その間の選択が出来なくなります。
 それに、学校教育も「Yes」か「No」という評価になっているので、状況に応じた「加減」を、体験することが少なくなっているのでしょうね!

判断力は『あれか、これか』の中で!

 「確固たる思想を持つ」という考え方が主流です。しかし、これは「自分だけが正しい」という結果を生み出します。そして、多様性が阻害されます。
 日本のように、征夷大将軍(将軍)や天皇いて、神様も仏様もいて、クリスマスも祝います。「好(い)い加減」が広く許容される国は、日本ぐらいです。
 1つの考え方でしか生きていかなければならない国は、日本から見ると「かわいそう」と思ってしまいます。しかし、その国では、正解とされています。
 これは自然環境に多様性がないためなのでしょうか?
 日本は、地震、台風、洪水、干ばつなとど、多様な自然環境の中で、生き延びていくための智慧の結果なのでしょうか!

苦しみは真理が分からないから起きる!

 子ども時代から、「どうしてだろう」とその都度考えていれば、苦しみは少なくなるのでしょうね。
 昔話で、小さいときからお寺の小僧になった人が、大人になり智慧のある人になり、人々の暮らしを助けている、という話があります。
 やはり、小さいときから、それぞれの真理を見つけながら、暮らしてきた結果なのでしょう。
 情報・知識が容易に手に入る時代、それが真理だと勘違いしていると、苦しさからは、なかなか抜け出せないのでしょうね!

他人の不幸は蜜の味!

 市川猿之助容疑者「心中事件」発端の週刊誌や、ガーシー容疑者の投稿動画は、『他人の不幸は蜜の味』が基本になっています。このような「蜜」が大きなお金になると、止められなくなるのでしょうね。
 週刊誌の版元やネットサービスの提供者は、その蜜の味を覚えると、歯止めなど、どうでもよくなってしまうのでしょうね。
 以前に比べ、はるかに情報発信が容易になった今、法律に頼らない歯止めが、社会にできるとよいのですが!

自分と目先のことだけを考えて行動?

 「目先のことしか考えない」、それもNETからの情報で。
 事実(現状)を洩れなく把握することに、ほとんどの時間を使い、結論を出すのは、総時間の5%程度の時間配分が望ましいのでしょうが、現在は、現状把握ではなく、NETでの情報集め中心になってしまいました、これからは「生成AI」が結論を出す時代になるのかもしれません。
 「目先のことしか考えない」という事態は、核家族という社会も関係しているのでしょうか。「あれ、これ」考えることができなくなってしまっているようですね!

神道の“自他一如の法則”という教え!

 智慧は、学問的知識や頭の良さの発揮と思われがちですが、そうではないようです。辞書によると「人生経験や人格の完成を俟(ま)って初めて得られる,人生の目的・物事の根本の相にかかわる深い知識。叡智(えいち)。」とのこと。
 具体的には、「誰にも親切にする」と思った方が合っているようです。相手の立場で考え、相手のメリットになりそうなことが出来ることが「智慧」と、思った方がよいようです!

「自分」とは「自然の一部分」なのである!

 昨今は「いただきます」という言葉を、感覚で理解している人が少なくなっているようです。言葉での説明で、分かったつもりになっているようです。
 自然の中で生活していれば、少しの説明で「いただきます」の意味を感覚的に理解できます。
 自然の中で暮らし、食事のたびに「いただきます」と繰り返していると、自然に感謝する生活が根づいてきます。そして、周りの人たちへの気づかいもできるようになっていくのでしょう。
 この環境が壊れた結果が、異常な犯罪に結びついてしまうのでしょうか?

ものごとを理解するときには頭と体の二つを使う!

 むかしは、「仕事は、見て盗め」が原則でした。見ながら、やってみて、自分で悪いところを見つけ、改善し、それを繰り返していました。
 しかし、能率優先になり、マニュアル化し、あるいは、自動化してきました。その結果、経験が少なくても、安定した品質を保つことができるようになりました。
 これは、社会としては進化をしたのでしょうが、ヒトとして、個々人の進化を手に入れることが出来たのででしょうか。
 この流れは、ヒトの定められた進路なのでしょうから、どううまく乗って行くかを考えるしかないのでしょうね!

弱い存在がゆえに身につけたものがある!

 人はなぜ、強い者が生き残ると、考えてしまうのでしょうか?
 「自分は弱い」という意識が持続していれば、どんな状態であれ、いろいろと工夫を続けて、自分の弱みを少しでも改善しようと、がんばり続けます。
 しかし、「自分は強くなった」と思ったとたん、じわじわと弱みをが出始めます。 傲慢とは、「思い上がり=弱み」がはっきりと出始めた状態。この先は………。ロシアのプーチン大統領は、どうなるのでしょうか?

なぜ、未来はわれわれを必要としないのか!

 どうも、そろそろ人間の知恵が、惠(めぐみ)をもたらすことに限界が近づいてきたのでしょうか?
 便利さが、人間の機能を劣化(熱中症、もしかすると認知症も?)させ、そのうちロボットに養ってもらう時代が来るのかも知れません。
 もしかすると、無意識に、便利さを失うのなら、人間は滅亡してもよいのでは、と感じているのでしょうか?

「足るを知る」の思想で考える!

 人類自身が、「人類の滅亡の原因が、人類自身にあるのでは?」と気づき始めました。そして、人類の滅亡は、人類自身では防ぐことが出来ないであろう、と感じ始める時期が来そうです。
 「足(たる)を知る」ということができれば、人類の滅亡を防ぐことが出来そうですが、脳の設計上、どうも無理なようです。
 そういえば、人類が発明した技術の多くは、AIも含めて「無生物」を使うものです。無生物が、生物である人類を制御する時代がどんどん進化していますね!

50代、新しい一歩を踏み出す年齢だ!

 子ども時代から、100点を目指すように取り組んでいると、大人になり、働くようになっても、やはり100点を目指すようになってしまいます。
 そのままそれを40~50年も続けていると、そこから外れたときも、その影響が強く残ってしまいます。しかし、退職すると、その力を発揮するところがなくなってしまいます。
 早いうちから、趣味や習い事に取り組み、対策をしておくと、その後の20~30年、愉しく生きることにつながります!

これからは江戸時代以来のおけいこごとのブームが!

 「教育は投資」という状況が、少しづつ緩和されてくるようです。しかし、それが充実した人生づくりに、どの程度役立つのかは不明です。
 生成AIが進化・普及すると、知識を持っているだけでは、仕事上の優位とは言い切れない場面も増えてくるのでしょう。
 しかし、お稽古ごとは、人生を豊かにするものです。自分自身を豊かにするだけでなく、いろいろな人とのつながりも増えててきます。
 長寿社会を考えたとき、充実した人生を長く手に入れるためにも、「お稽古ごと」は大切ですね!

自分一人、間違いないと決め込むと!

 ほんのひとにぎりの人ですが、「自分だけが正しい」と思い込んでいる人がいます。これは、おそらく動物の中で、ヒト属だけの特徴なのでしょう。というより、4~5千年以降の人類からなのでしょうか。
 これは農業が広く普及しはじめたことと関係があるのでしょうか? 
 みんなで分け与え生き延びる作戦から、農業が広まり、生き延びることが比較的可能になった結果、より豊かな生活を望む機能が発達した人が出てきて、その結果、芸術家も出てきたのでしょうが、独裁者も出てきたのでしょうね!

話すことは書くよりも難しい技術!

 話す技術は、書く技術より、はるかに難しい、と言われる。書く技術は、自分が一方的に構成し、自分流の話の盛り上げをすれば、それで済む。
 しかし、話す場合は、必ず相手がおり、相手は何かしらの反応を、その都度行う。その反応に対応しながら、話を構成しなくてはならない。そのため難しい。
 ネットの普及は、この話すことの難しさから逃れることが出来る。ネットへの掲載は、自分流で一方的に書き、掲載すれば済む。このページもそうですが、そのため続けていけるのでしょうね!

相手のことをよく観察し「ほめる」!

 最近ネットの普及で、人を直接観察し、人同士が直接コミュニケーションをとる経験が少なくなりつつあるようです。
 ネットでつながっていることと、直接人同士がつながっていることが、同じと思っている人もいるようです。
 人同士が直接つながりをもつ場合は、相手を「良い」「悪い」で評価せず、「ああ、そうなのか」で止め、評価をしないことが大事だと思います。
 学校教育で、「良い」「悪い」の評価の延長で大人になっているためか、何でも評価してしまうようです。
 しかし、事実は、ありのまま「そうなんだ」で止め、点数づけはしたくないですね。料理もそうですが!

さまざまな電化製品生活を便利にはしたが!

 1960年代以降、家庭用に様々な電化製品が普及しました。便利になり、時間にも余裕ができるようになりました。
 最近は、様々なメニュー化、あるいは自動化で、人が考えてすることが、どんどん少なくなっています。
 料理にたとえると、人間はただ食べるだけ、といっても良いほどです。
 その結果、考えることが減り、手を使わなくなり、味わいも、ただこの味か、というだけになりました。
 もちろん、機械に助けられているため、人同士の協力も少なくなりました。
 ということは、先進国ほど、ヒトの進化が止まっている、あるいは、退化が始まっているのでしょうか?

意志をあまりにも強調する人!

 むかしは、自然や周りをを観察し解決策と考えました。それでも解決できない困難に出会うと、しかたなく神仏に頼っていました。
 現在は、言葉でネット検索し、あるいは「ChatGPT」に質問したりします。その結果、「観察し、考える」ことが激減してしまいそうです。
 人類の生き残りのための進化は、周囲を観察し、考えることが出来るように進化することで、生き残ってきました。
 考えることが不要なほど便利になることは、人類の生き残るという視点から見ると、どのような結果に導くのでしょうか?

カフェインは毒性物質の一種、注意も!

 国内では日本茶の需要が少し減っているようです。ましたて急須でお茶を入れることはかなり減ってきているようです。
 急須で入れると、お茶の種類やお湯の温度の違いで、お茶の味が微妙に変化するのですが、ペットボトルのお茶になれてしまうと、急須で入れるのが面倒になります。
 微妙な味の変化は感じる力、それを歳をとっても維持していくことは、きっと感覚の維持につなかり、老化予防に良いのだと思うのですが、ついつい、楽な方向に行ってしまいますね!