厚木 荻野山中藩の陣屋が付近に「山中稲荷神社」

 現在の下荻野字山中には、荻野山中藩大久保家の陣屋がありました。
 この大久保家は、相模国愛甲郡中荻野村を中心として、合計1万3千石を領した小さな大名でした。初代の大久保教寛(のりひろ)は、小田原藩主大久保忠朝の次男で、元禄11年(1698)、相模国足柄上郡、駿河国駿東郡内の新開地6千石を分けられ、分家しました。宝永3年(1706)駿河国駿東郡、富士郡に5千石の加増を受けて1万1石の大名となり、更に享保3年(1718)には、相模国大住郡、高座郡、愛甲郡内に5千石の加増を受け、総計1万6千石となります。この頃、陣屋が駿河国駿東郡松永(現静岡県沼津市)に置かれたようです。2代教端(のりまさ)の時、弟に3千石を分けて、大久保家は1万3千石となり、明治維新に至ることになります。
 天明3年(1783)頃、5代教翅(のりのぶ)は、陣屋を松永からこの地に移し、以後、荻野山中藩と呼ばれるようになりました。
 その後、教翅から教義に至る三代、80余年間に渡って存在したこの陣屋は、慶応3年(1867)12月、幕末の騒乱の中で討幕派の浪士たちの襲撃によって一夜にして焼失してしまいました。この事件は、やがて京都の鳥羽・伏見の戦いの一つの原因になりました。

今夜から「夜型」から「朝型」にシフトチェンジ!

 昔の人は、早起きだったのですね。照明を日常的に庶民が使えるようになったのは、比較的最近のこと。
 太平洋戦争後でも、電気をつけるのは一部屋だけ、というじょうたいでした。
 そのためか。早寝・早起きでした。
 人類の歴史を考えると、照明がそれほどない時代が長く、進化してきたことを思うと、朝に思考力や観察力が効率よく働き、その情報をもとに、行動していたのでしょうね。
 今でも、早起きして午前中に考えごとをし、それから行動に移すが、正解なのでしょうね!

鎌倉 門前に[源頼朝公祈願所]の石碑「補陀洛寺」

 「補陀洛」サンスクリット語で「ポータラカ」(観音菩薩が住むという南海上にある山のことで、観音浄土を意味する)。日本語に翻訳するとき「補陀洛」の字をあてた。
 はじめは、阿弥陀仏の西方浄土が人々の信仰を集めるが、次第に南の補陀洛浄土への信仰が盛んになっていったという。
 この寺は南向山(なんこうざん)という山号をもつ真言宗の寺で、源頼朝が文覚(もんがく)を開山として1181年(養和元年)に建てたといわれます。もとは七堂伽藍という建物がそろった大きな寺院であったということです。その後、だいぶ荒れてしまいましたが、文和年間(1352~1356年)に、鶴岡八幡宮の供僧(ぐそう)だった頼基(らいき)が復興したと伝えられています。
 補陀洛寺は別名竜巻寺ともいわれ、竜巻にあったり火災にあったりしたようです。寺に伝わるものとして、本尊の十一面観音をはじめとする仏像や貴重な文化財の多い寺です。

「お月見」一年に二回する習慣があるのは日本だけ!

 冬になると、見通しの良い時期が続くので、「星見」に移っていくのでしょうか?
 見通しの良い夜に、空を眺めていると、心の雑念も晴れてきますね。
 春の種まき・夏の手入れ・秋の収穫までは、仕事がいそがしいので、秋が終わり頃になると、やっと心に余裕ができ、また、雑念もでき、心を晴れやかにする必要があったのでしょうか。
 春が来るまでは、夜空を楽しむことが出来ますね!

「お月見」一年に二回する習慣があるのは日本だけ!

 冬になると、見通しの良い時期が続くので、「星見」に移っていくのでしょうか?
 見通しの良い夜に、空を眺めていると、心の雑念も晴れてきますね。
 春の種まき・夏の手入れ・秋の収穫までは、仕事がいそがしいので、秋が終わり頃になると、やっと心に余裕ができ、また、雑念もでき、心を晴れやかにする必要があったのでしょうか。
 春が来るまでは、夜空を楽しむことが出来ますね!

尾道 瀬戸田 1936年に建立が始められた「耕三寺」

 耕三寺(こうさんじ)は、尾道市瀬戸田町(生口島)にある仏教寺院です。1936年から伽藍の建立が始められた新しい寺院で、日本各地の古建築を模して建てられた堂塔が建ち並び、「西の日光」「母の寺」とも呼ばれています。小高い山を利用しており、この第二段には、室生寺の五重塔を模した「五重塔」、また、四天王寺の金堂を模した「法宝蔵」などがあります。

福山 鞆 「心を観る行」ができる「顕政寺」

 足利義昭が身を寄せていた(後ろ山の奥、熊野町の)常国寺の末寺であったが絶えて、慶長年間(1596~1614年)1600年頃、福島正則(芸備藩主)によって、この顕政寺などの寺々をほぼ一直線に結ぶ寺町(町割り)が形成されました。
 正善院日実は顕政寺を再建し、日蓮宗に改め二代・日運は、本堂と庫裡を拡張する事績を遺し、四代目の日富は、延宝年中(1673~1680年)に、奉行・藤井六郎右衛門に願い出て門前の境内を拡め、今日の基礎を築いた。と伝えられています。

地蔵人気は、平安時代、地獄の恐怖心が強くなったことで!

 お寺の入口や道端で見掛ける地蔵菩薩。閻魔大王の裁きで地獄に落ちないように救ってくれる地蔵菩薩。
 平安時代に、富士山の延暦大噴火(800年頃~)と貞観大噴火(864年~)が代表的ですが、この恐怖に対し地蔵信仰が盛んになったとのこと。
 いま、富士山の噴火が起こるのではないか、すると、電子機器が障害を受け、交通機関だけでなく情報社会も壊滅的な障害を受けるのではないか? との恐怖心が起きても致し方ない時代になっています。
 なにか救いの菩薩が現れるのでしょうか?

鎌倉 開山は空海と伝えられる「浄泉寺」

 開山は空海(くうかい)と伝えられ、中興(ちゅうこう)開山は、1558年(弘治4年)に没している元秀(げんしゅう)です。赤い山門を入ると、正面に本堂があります。本堂は公開されていませんが、本尊は左手に剣を持つ珍しい不動明王(ふどうみょうおう)で、腕を前で交差させています(非公開)。
 境内には、本堂左側に地蔵堂や関東大震災の供養塔(くようとう)などが立っています。
(鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より)

現在の家庭は“ボス”不在の社会!

 自民党の総裁選挙がありましたが、昨今はボス教育を子供時代に受けて人がほとんどいないので、とんでもないことをするリーダー(大統領、首相など)が出てきます。
 これは民主主義の弱点のあるのでしょうが、社会そのものの問題なのかもしれませんね。
 ほとんどの人々を大事にしなくても成り立つ社会を造り上げてしまったのでしょうか?

二日酔いになるまで飲みすぎる!

 アルコールでストレス解消は、あくまで一時的なものだそうです。そのためか毎日お酒を飲むようになってしまうのでしょうか?
 アルコールに弱い人のストレス解消法を参考に出来ればよいのですが、よくわかりませんね。
 やはり、とことん悩み続けていると、ある日フゥット悩みが消えることもあります。そうするしかないのでしょうか?

厚木 白龍が池に棲むという「白山神社」

 昔より雨乞に霊験著しい池があり、 この池は、干ばつの時でも、池の水が涸れることがなく、それ故、人はこれを霊地と唱え、ここに古い石像、石碑が残存しています。  むかし、行基和尚がこの地に来て、この山に登り、この池を見た時、霊水の湧き出る清浄な霊地であることを発見して、この山を霊地と定め、楠木をもって霊御形を彫刻し、加賀国白山妙理大権現(石川県石川郡に鎮座)を勧請したとあります。
 下って江戸時代の1801年別当龍蔵院隆光は、山上に於いて、修行中に霊夢によって、 山に秋葉権現と蔵王権現を勧請し、諸難、火難消除の守護とすれば疑なしと云々 近郷、近在の住民、信仰者の力を得て、白山神社建立を企して、1804年再建をいたしました。

相手の顔をしっかり見て話すよう心がける!

 NETでの連絡が多くなると、向き合って話すことが少なくなります。これが続くと、向き合って話す方法が身につかなくなります。
 すると、向き合って話すときの表情などが乏しくなるのでしょうね。
 テレビを見る人も少なくなりつつあるので、いろいろな場面での向き合い方のノウハウが、わからなくなるのでしょうね。
 ユーチューバーの画面では、日常的な方法が少ないので、なかなかノウハウは身につかないのでしょうね!

座間 美濃齋藤氏の遺臣が開拓し祀る「日枝大神」

 当社の創建は、元亀年間(1570~1573)と伝えられています。
 創建者は織田信長に敗れた美濃国(岐阜県)の齋藤龍興(道三の孫)の遺臣四名で、この地を開拓し祭神を四ツ谷の氏神として祀ったと伝えられています。
 宝暦十三年(1763)に火災にあい、七十八年後の天保十二年(1841)に再建、棟札に「山王大権現」と記され、手水石や諏訪社の祠の奉納年号から見ると、社域もこのころから整えられてきたようです。
 明治二年(1869)、「山王大権現」から「日枝神社」に改称、祭神も「大山咋命」に変わり、同六年には村社に列され、同十八年八月に再遷宮の記録があります。
 昭和九年(1934)五月、社殿再建と共に神楽殿も完成し、外郭も整ったところで、当時の東京府麹町の日枝神社より新たに分霊し、社号も同年十月に「日枝大神」に改め現在にいたっています。

品格なき上司とは?

 「親の育て方」、「自然の中で五感を育てることが出来たか」で、大人になって“ウソ”をつく人間になるか、どうか、決まるのでしょうか。
 いい顔をしたいため、ウソをつくのが普通になってしまう人がいます。ある国の大統領を見ていると、ウソを、ウソだと感じていないようです。むしろ正しいと思っているようです。
 現在、戦争をしている国のトップの報道を見ていると、ウソなことを、本当のことと思っているのでは、感じます!

鎌倉 鎌倉幕府、滅亡の地「東勝寺跡」

 東勝寺は、13世紀前半に鎌倉幕府の三代執権・北条泰時が創建した寺院。1333年5月22日、新田義貞鎌倉攻めの時、新田軍が、若宮大路まで迫ってきた事を知った北条は一族郎党870名余りとここに立て篭もり、火をかけて最後を遂げた。鎌倉幕府滅亡の地。
 寺はその後、直に再興され、室町時代には関東十刹の第三位に列する名刹となりましたが、戦国時代には廃絶しました。
 北条得宗家の氏寺跡、鎌倉幕府滅亡の地として政治史的に極めて重要な遺跡で、1976年、1996、7年に行った発掘調査により寺院跡の一部が確認されています。この裏山に自害した一族の墓「腹切りやぐら」があります。

不安に対し、迎合・攻撃・ひきこもりの三つの反応をする!

 情報過多の時代になり、いろいろな情報に対し対応できず「不安」が増しているのでしょうか?
 不安は、迎合、攻撃、ひきこもりが起きるという、確かにNETでは、攻撃する人が増えましたね。これも不安解消のためなのでしょうか?
 また「攻撃する」に至らない人は、迎合するか、ひきこもりすることになってしまうのでしょうか?
 情報過多の時代、その時代についていくだけの態勢が、まだ我々には充分備わっていないようですね!

尾道 善勝寺 → 御袖天満宮へ

【天神さまの霊験碑】

 明治の初めころ、長江に生玉茂七さんという人がいました。
 一日の仕事をすませ、ゆっくりとくつろいでいたときです。茂七さんが日ごろお世話になっている畳問屋からお使いの人が来ました。ちょっと店まで来てほしいということです。茂七さんは、さっそく出かけて行きました。
「何かご用でも」
いぶかしげに尋ねる茂七さんに、
「いやいや、親類から珍しいものを送ってきましてね。いっしょに一杯やろうと思って」
と、問屋の主人の言葉が返ってきました。
 茂七さんが、ごちそうになって家に帰り着くと間もなく、畳問屋の番頭さんがやってきました。
「たいへんなことが起こりました。お店の手提げ金庫がなくなっているのです。家中調べたのですが、見当たらないのですよ。あなたに心当たりはないものかとお尋ねに上がったのです」