血管の健康のために、肉より魚中心の食事を!

 「肉より魚」が推奨されるようです。でも、海にはマイクロプラスチック浮遊しており、海洋生物のからだにはそれが含まれているとか、とも言われております。
 まだ研究が進み始めたばかりで、よく分かってはいませんが、何かしら人体に悪い影響があるようです。
 つい最近、脳にもマイクロプラスチックが溜まるとか、と言われ始めています。
 ただマイクロプラスチックの影響だけでなく、海洋生物の人体に対する影響を、総合的に考えなくてはいけませんね!

尾道 咸臨丸へ便乗、帰国後英語塾をした「正授院」

 1394年の開基で、もとは禅宗であったが、1596~1614年純誉によって浄土宗に改宗された。
 本尊は阿弥陀如来。1698~1703年の頃、中興諦誉良頓が発願し常念仏を始めた。
 江戸増上寺法王祐天上人がこのことを賞し、五代将軍綱吉やその母桂昌院にも上申して、家康、秀忠、家光、家綱の歴代将軍とその御台所の尊碑、仏像並びに葵紋付香爐などを下賜された。
 この寺の了般は累進して増上寺四十二世の法主となり大僧正に昇爵した。
 鐘楼の南には常念仏一万日ごとに一基、合わせた五基の石柱が並び立ち五万日常念仏成就の功を物語っている。
 このお寺さんの鐘楼のそばを奥の方に入っていくと、ちょっと意外な場所を発見します。
 見過ごしてしまいそうなところを発見するとわくわくします。

脚気、ビタミンB1不足が原因とわかったのは1897年!

 日清、日露戦争で陸軍3万人以上が「脚気」で死亡(戦死者は4万7千人程度、日露戦争で脚気の発症者は21万人とか)、その原因に陸軍軍医であった森林太郎(森鴎外)が、細菌説にこだわったためだと。
 海軍軍医の高木兼寛は、脚気の原因が食べものにあることを見抜き、兵食に麦飯を取り入れ、海軍の脚気を激減させたとか。確か海軍で脚気の死亡者は3人だったとか。
 今もそうですが、「思い込み」は社会に大きな弊害ももたらすものです。特に専門分野にこだわり成功すると、他の意見を悪口としか見なくなります。
 事実を、ありのままに、受け入れること、これは難しいことなのですね。特に成功者は!

鎌倉 光明寺草創以前よりこの地に「蓮乗院」

 この寺院の創立年代や開山については、はっきりわかりませんが、光明寺より早い時期からこの地にあった寺で、蓮乗寺(れんじょうじ)といってはじめ真言宗(しんごんしゅう)だったということです。その後、光明寺が佐助ヶ谷(さすけがやつ)から移されてきてから、光明寺の子院となり、浄主宗(じょうどしゅう)の蓮乗院と改めたといわれてします。
 1243年(寛元元年)に光明寺が良忠によって創建されたといわれますが、寺院の落成まで良忠は蓮乗院に居住して、建築を監督(かんとく)したということです。こうしたことから、光明寺の新しい住職となると、まず蓮乗院に入ってから改めて光明寺の本山方丈(ほうじょう)に入る慣わしになりました。

 鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より

“自信”をなくす原因は、“過去の失敗体験”!

 「運」って何なのでしょうね。
広辞苑では、
①天命。方丈記「おのづから短き””運””をさとりぬ」
②めぐってくる吉凶の現象。幸・不幸、世の中の動きなどを支配する、人知・人力の及ばないなりゆき。まわりあわせ。「””運””が悪い」
③特に、よいめぐりあわせ。幸運。「””運””が向いてくる」
と説明しています。

 「運」といっても、その多くは本人の価値観で決まっています。価値観を共有する人達は、その運を羨ましく思います。が、価値観が異なる人にとっては、どうでもよいこと、ですね!

鎌倉 安産の神様とされる産女霊神を祀る「大巧寺」

「おんめさま」(おうめさま)の名で親しまれている安産祈願の寺。

 創建は1320年と伝えられています。

 本尊は安産の神様とされる産女霊神(うぶすめれいじん)。550年前の室町時代、難産のために死んで霊となり人々を苦しめていた女の霊を、当時の住職であった日棟上人が鎮め、安産の神として祀ったことから、安産の神として「おんめ様」の通称で親しまれるようになりました。

 境内にて 季節ごとに多くの種類の花々がさきます。

あまり歩かず脳に伝わる刺激が乏しいと、脳は活発に動かない!

 「歩く」ことが最近話題になっています。舗装された道を歩くのと、山道や川原などの未舗装の道を歩くのと、舗装道路を歩くのでは、脳に対する刺激に違いがあるのでしょうか?
 むかし、大きな川には「渡し」があったのでしょうが、小さな川には無かったので、歩いて渡っていたのでしょう。
 最近、川幅が10mほどの川を、棒(竿)を持って川底をさぐりながら渡っている人を初めて見かけました。むかしの人もこのようにしていたのでしょうか?
 修験者が持っていた金剛杖を思い出しました。これも川を渡るときに使用していたのでしょうね。鈴がついていると熊除けにもなりますね!

厚木 おひな様が飾られている「古民家 岸邸」

 厚木市古民家岸邸として開館されています。古民家岸邸は、郷土に残された貴重な文化遺産として、皆さんに公開しながら長く保存をしていきます、と。
 古民家は、当時の生活を色濃く伝えるものです。生活のスタイルが大きく変化してきた現代では、ますます注目されてきています。随所で見られる、職人が手をかけて作った凝った意匠も一遍ではなく、建築当時の時代の先端的な様式を併せ持ち、家を作った職人の技と、家を守ってきた人々の営みを感じてみてはいかかでしょうか。
 明治時代になってこのあたりで養蚕業を始められた岸家。絹の輸出で立派な建物を建てることが出来ました。このあたりは桑の木がたくさんあったそうです。今ではまったくありませんが。 

朝、白湯を飲むだけでもよいのですが、工夫も必要でしょうね!

 いろいろな健康法の情報が飛び交っています。正解は分かりません。いくら統計的な情報であっても、数字のある部分だけ取り出して、それを裏付けにする、という手法もあります。
 また、医者であっても、中には金儲け中心で薬を出すことも、無いとは言い切れません。
 やっかいですね。
 ウオーキングなどは、それほど心配はありませんが!

尾道 「完璧は災いの元」と石工の祈り「御袖天満宮」

 5mもの1本石が54段、それに、二本継ぎが1段(上から二段目)。
 「坂の町」尾道にとって石段は見なれたものであるが、浅野芸州藩主夫人が寄進した随神門から本殿までの五十五段は石段のなかの石段といえる圧巻。おそらく随神門と前後し享保年中(1716~36)につくられたものであろう。
 長さ5.2m、幅32cm、高さ17cmの見癖な一本物の花崗岩を使い、上から二段目だけは、完壁なものの脆さをこばむ日本的な宗教感覚にもとずいたものであろうか、継ぎ目をつくり完成させたもの。

 大林宣彦監督の映画「転校生」の撮影場所(男の子と女の子が入れ替わる場面)です。

日本の気象は外国と比べて、変化が急で複雑!

 温暖化と言いながら、極端な寒さも起こりました。
 平均気温では温暖なのでしょうが、気温の上下の幅が増えています。その対処を考えなければいけないようですね。
 生物も気温の上下の幅が激しい中で、生きていかなければならないので、今までの捉え方ではダメな場合もあるのでしょうね。
 冬場の熊の出没も何かしら関連があるのでしょうか?
 常識も、変化する時代になってきたのでしょうか?

鎌倉 関東大震災で倒潰、40年後再建「円覚寺 仏殿」

 幕末・維新の混乱で寺領も失い僧侶が坐禅などの修行をする道場である僧堂も閉じられましたが、1875年(明治8年)、今北洪川(いまきたこうせん)により再興され、関東屈指の禅道場として再生しました。

 1893年(明治26年)には、シカゴの万国宗教大会で、円覚寺の管長の洪嶽宗演(こうがくそうえん)(釈(しゃく)宗演)が講演を行い、国際的に禅が知られるようになりました。
 その後、関東大震災で建物のほとんどが倒れましたが、昭和に入って再興(さいこう)されました。

「時間がないから」「忙しいから」やりたいことが出来ない!

 「時間がないから」のとき、自分の生き方の優先順位に沿って行動する、と明確に判断できているでしょうか?
 上司やお客などに怒られることを避けるが、優先してしまうことが多いようです。
 しかし、自分ではなんとなく残念感が残ります。それが不安にまでつながってしまうと大変です。
 そうなる前から不安を膨らませるよりは、なったらなったで仕方ない、と考えたほうが楽になるような気もします。
 そういう生き方のほうが、毎日を楽しく、穏やかに生きられると思うのですが!

福山 鞆 足利尊氏が九州から東上の途中宿陣、軍義した「小松寺」

 寿永二(1183)年、平家福原都落ちの際、病死した重盛の二男・資盛は、一族より離れこの地を訪ね、亡き父の菩提を弔うため五、六日逗留した。平貞能、京より重盛公の遺髪を持参し、五輪塔を建立し盛大なる法会を営む。

 建武二(1335)年、小松寺は盛大となり、草谷(くさのたに)一帯の山麓を占め、伽藍も盛大だった。
 延元元(1336)年二月、足利尊氏が九州から大挙東上の途中、弟直義と当寺に宿陣して軍義した。光厳院の院宣を受け錦旗を掲げ意気衝天した。

あまり歩かず脳に伝わる刺激が乏しいと、脳は活発に動かない!

 「歩く」ことが最近話題になっています。舗装された道を歩くのと、山道や川原などの未舗装の道を歩くのと、舗装道路を歩くのでは、脳に対する刺激に違いがあるのでしょうか?
 むかし、大きな川には「渡し」があったのでしょうが、小さな川には無かったので、歩いて渡っていたのでしょう。
 最近、川幅が10mほどの川を、棒(竿)を持って川底をさぐりながら渡っている人を初めて見かけました。むかしの人もこのようにしていたのでしょうか?
 修験者が持っていた金剛杖を思い出しました。これも川を渡るときに使用していたのでしょうね。鈴がついていると熊除けにもなりますね!

座間 伊勢鈴鹿郷の神輿が流れ着いた「鈴鹿明神社」

 欽明天皇(539年即位)の御代に創祀せられたという。
  伝説によると、伊勢の鈴鹿郷の神社例祭に神輿が海上を渡御した折、にわかの暴風に襲われ、漂流して相模国入海の東峯に漂着した。里人が社を創立してこれを鎮守とし、鈴鹿大明神と崇め奉ったと伝えられている。
 欽明天皇二十八年(567)に、国中が天候不順で五穀が実らず人々が困窮していた。欽明天皇がト部伊吉若日子に天災の原因を占わせると、賀茂の神々の祟りだと分かった。そこで賀茂県主家が四月吉日を選んで馬に鈴をかけ、人は猪頭をつけて駆競をすると天候は回復して五穀は実り、人々も平穏を取り戻したという。このときから、水を司る竜神として、恵みの雨を降らし、また水害をもたらす雷神が注目されました。
 雷神は人びとを恐怖のどん底に突き落とす崇り神の象徴となったのですが、逆に、雷が落ちなければ豊作は望めないという信仰がありました。
 最近、科学的にも雷は稲の実りを良くすると言われています。

プライベートに深入りするな!

 テレビ番組で、ウソについての実験。3歳~6歳位までの子供に対し、ウソをつくかどうか実験した。すると年齢が上がると、ウソをつく確率が上がっていた。
 また、「目はウソをつかない」と思っている人が多いが、これも事実と異なっているそうで、平気で相手を真っ直ぐ見ながら、ウソをついていることもかなりあるとのこと。
 どうも人間は社会で生きていくために、ウソをつく習性を当然としているようです。
 言っている本人も、ウソと自覚しないままウソをついているようです。

鎌倉 腰越 比企高家の屋敷跡に「本龍寺」

 本龍寺(ほんりゅうじ)は、神奈川県鎌倉市にある日蓮宗の寺院。山号は龍口山。本尊は大曼荼羅。霊跡本山比企谷妙本寺の旧末寺(池上土富店法縁)。
 この寺は、日蓮聖人の直弟子である日朗聖人の弟子、朗門九鳳の一人、妙音坊日行聖人を開山とする。比企高家の屋敷跡に建てられたと伝えられ、境内には高家の墓が残る。
 龍口寺輪番八ヶ寺の一つ。慶長6年(1601年)に津村の国人で日蓮宗の信奉篤い島村采女により龍口寺が本格的な寺としての格式を整えられてから、江戸時代までは片瀬腰越八ヶ寺(通称片瀬八ヶ寺)が輪番で維持していた。本龍寺もそれまでは、「与蓮山」と号していたが、「龍口山」と改める。

どう生きていくかを、自分の心で考えて!

 数十年前までは、多くの町は夜はそれほど明るくなく、月や星がよく見えていました。
 夜空を眺めると無心になり、座禅と同じようになることもあるのでしょうか?
 昔の本を読む場合、その当時の環境も体験しておくと、感覚的により深く味わうことが出来るのでしょうね.
 それに自然の中で過ごすことが加わると、もっと深い味わいが出来るのでしょうね!

尾道 四十八夜念仏修行ののち入水往生「信行寺」

 1596~1614年に住職称住がこの草庵で四十八夜念仏修行をしたとき、その満願の暁方、阿弥陀如来の来迎に逢い、結集と共に入水往生したが、その時結集の中の一人は現世に残ってこの庵を相続せよというので、行欣が残ることになり、1603年現在地の下の山陽線路上の辺に移った。
  「浄土宗」は、誰でも悟りに至ることができる教えで、自分の力だけでは無理でも、阿弥陀仏の力を借り、阿弥陀仏が私たちのために用意いただいた極楽で修行するなら、私たちでも悟れるであろう、という教えです。
 では、その阿弥陀仏とはどのような仏かと申しますと、私たちのような修行に堪え得ない普通の者を救おうとして修行を積まれ、仏となられた方です。
 多くの仏の中で、特に阿弥陀仏に依るのは、まさに阿弥陀仏が私たちのような凡夫を救おうとされているからといえます。阿弥陀仏は、どこにいる人にも届く救いの光明を常に発し続けておられます、と。