座間 行基が金光星の如く輝くのを見た「星谷寺」

 行基菩薩が諸国教化の際当地で金光星の如く山谷に輝くのを見て、自ら聖観音の像を彫刻し、堂宇を営み星の谷観音堂として建立されたもの。
 観音堂は鎌倉時代に焼失し、現在地に移されたと伝えられる。江戸時代には、坂東三十三ヶ所の第八番として崇敬を集め、1591年には徳川家康より寺領2石の朱印状を拝領している。関東以北では2番目に古いという梵鐘の他、星谷寺七不思議など古くからの言い伝えが数多くある。
 古くから「星谷寺の七不思議」(銅鐘・星の井・楠の化石・咲き分け散りの椿・観音草・根不断開花の桜・下りの紅葉)の言い伝えがある。

 仏教の布教が禁止された時代に、階層を問わず困窮者を救うため布教を行った行基。民衆から絶大な支持を得て、日本で初めて大僧正の位を授かった。また、奈良の東大寺造立の際には責任者にも任命されている。
 富山県高岡市に残る伝説によれば、かつて越中国(えっちゅうのくに)で悪王子(あくおうじ)という名の妖怪が民衆に生贄を要求していた時、天皇の命で越中国に赴き、これと対決して封じ込めたという。

老後の生活費をどうするか?

“ 新NISAが始まりました。これは「老後の生活は自分で準備しろ」ということなのでしょう。
 若いうちから、自分のためにお金を貯める、これは、何パーセントの人が実行するでしょうか? 出来ない人は生活保護を受ける生活になるのでしょうか?
 人口減少が始まっている現在、若いうちから老後の準備をする、ということになると、「子供のことなど考えてはいられないので、結婚しない」という人が、増えてこないのでしょうか? 
 年金がある程度充分な戦後の昭和の時代は、子供がある程度いました。これからどんな時代が来るのでしょうか、良いほうに向かうとよいのですが!”

鎌倉 菅原道真の怨霊を鎮めめる「荏柄天神社」

“ 荏柄天神社は日本三天神の一つ。他は太宰府天満宮(福岡)と北野天満宮(京都)です。菅原道真が祀られています。
 右大臣だった道真は、政敵・藤原時平の陰謀で大宰府に流され、生涯を終えます。
 その死後から、皇居に雷が落ちたり、道真の失脚にかかわった人びとに不幸が襲ったりしました。人びとはこれらを道真のたたりと考え、霊をしずめるために社を建ててまつりました。
 このとき、ちょうど天神(雷神)信仰が芽吹きはじめていたこともあって、道真は天神さまと呼ばれるようになったのです。
 こうした、強烈な恨みを抱えながら亡くなり、たたりをなすようになった人びとの霊を「御霊」といいます。
 天神社は学問・武芸に関わる神として信仰を集めまています。”

自然界には互いに利益を得る共生がみられる!

“ 私達生物は、地球環境の変化に対応し、現在があります。苛酷な環境で進化してきた基本原則は「助け合い」でした。この助け合いがあったからこそ、現在、地球に生物が生息しているのです。
 この基本原則を忘れた生物は、きっと絶滅していったのでしょう。
 人間同士でも、やはり助け合いが風土として定着している地域は、やはり生き残っていく可能性が高いのでしょうね!”

尾道 「おどり念仏」を今に伝える「正念寺」

“ 当山は第三十一代遊行上人によって開かれた念仏道場です。堂宇の創建には覚阿という時衆が力を発揮したと言います。
 本堂に安置する阿弥陀如来像は、全国的にも珍しい半跏座木像で、鎌倉期の趣があります。尾道市の民族文化財に指定されている「下陣の格天井の彩色画」、延命地蔵堂に安置されている「木造地蔵菩薩立像」があります。
 また、今も境内に滾々と湧く「延命水」は尾道随一の名水です。
 「おどり念仏」を今に伝える当山は、まさに時宗の町寺というべき存在と言えるでしょう。
 尾道市には奇跡的にも未だ六カ寺の時宗寺院が存在しております。”

他人と自分を比較する相対的考えを断つ!

 今までの学校教育では「記憶力」中心でした。そのためか他の同級生との比較が簡単に行うことが出来ました。
 優劣の比較が簡単にできるため、他人の目を気にする人が多くなりました。
 最近はNET検索で、簡単に知識・情報を手に入れることが出来るので、変わっていくのでしょうか。
 ただ心配なのは、自分が興味を持つ分野でのNET検索をする人が増えると、思考は深くなりますが、視野はどんどん狭くなって行きます。視野が狭くなると、他人を認める範囲も狭くなってしまいます。
 それに加え、社会に出てからも専門化した方が収入がよくなり、人からも認められるので、ますます視野が狭くなります。
 それが、「良い社会」につながるのでしょうか?

鎌倉 鎌倉らしさを漂わせる「覚園寺」

 この寺の前身は建保六年(1218)に北条義時が建てた大倉薬師堂だという。それ年寺に改め覚園寺としたのは永仁四年(1296)のことである。元冦の難を逃がれることを祈願してのことでした。鎌倉時代を通じて北条氏の滅亡後建武中興に際しては後醍醐天皇の勅願所となり、建武の中興後は足利氏の祈願所ともなり、代々の為政者に保護されました。初期の伽藍は火災によって失われましたが、文長三年(1354)には足利尊氏の援助で仏殿が復興されました。尊氏のこの寺に対すなみなみならぬ力の入れ方がよくわかります。

改革は改悪になる危険を常にはらんでいる!

 支配者は、人々を支配するとき、いろいろな宗教や思想や儀礼を利用します。その時代の多くの人々を納得させた人が支配者として認められます。
 個々人は、自分の自由を求めていながら、何故、支配者が利用する思想を、人々が認め、不自由をガマンするのでしょうか?
 貨幣経済では、お金が大きな影響をするようになっています。
 ヨーロッパは、16世紀の大航海時代の貿易で儲け、それを維持継続するため、キリスト教を利用しました。
 中東は、人頭税を廃止するとしたイスラム教で、支配を継続するしくみを創りました。
 ただ、生命を維持することに一番影響を与えるのは「自然」です。地球の温暖化対策は、思想を越えて手が打てる時代が出来上がってほしいものです!

福山 鞆 新羅へ出兵の淀媛命を祀る「淀媛神社」

 この神社の祭神は淀姫命(よどひめのみこと)。三韓征伐を行った神功(じんぐう)皇后の妹君で、はじめは、海神・大綿津見命(おおわたつみのみこと)を祀った沼名前神社(渡守神社)の祭主を務める身でした。しかし、後世、その徳が偲ばれて氏神として奉斎され、鞆湾の入口を守護する守り神となりました。以降、この高台に鎮座し続け、現在に至っています。
 神功皇后が三韓征伐のため西国下向の際、鞆の浦の地に寄泊しました。帰路携帯していた「鞆」を奉納し、海神・大綿津見命を祀った際に、妹君の淀媛命を祭主として奉任させました。その神社が沼名前神社(渡守神社)の起源です。
 数年後に淀姫命は鞆の浦を去りましたが、後世その特を偲び氏神として奉斎し、鞆の浦湾の入口の丘の上に鎮座する護り神として現在に至ります。

日本の古い社会は出来損いを見事にとりこんだ!

 現代は多様な人達が、社会から認められようとしています。昔の日本がそうでした。平安時代の中頃までは、中国や朝鮮半島から、政権を失ったり、政権から阻害された人達が、日本に流れて来ていたようです。
 また、山に囲まれた地域や、島に住んでいた人達も、その土地になじめないと他の土地に移っていました。
 文化や風土が異なる人でも、容易に受け入れる場所があったのでしょう。
 そんなむかしの日本が、また、復活してきているのでしょうか!

鎌倉 後醍醐天皇の側近「日野俊基朝臣の墓」

「葛原岡神社、日野俊基朝臣の墓が建てられた背景」

 室町時代から天皇家は北朝の流れが続き、南朝の天皇の手から政権を収奪したまま、幕末まで至ります。そして明治維新が起こるのですが、この維新も幕府を倒して実現した王政復古です。
 いわば南北朝のリターンマッチとして堀起したのが、桂小五郎をはじめとする長州の倒幕派です。薩摩の立場も南朝論であり、大久保利通や西郷隆盛が立ち上がったのは「南朝こそ正統であり、北朝は偽王朝である」という理念を実現するためです。
 長きにわたり北朝が帝位についているのは、大名が日本の政府を聾断(ろうだん)したからであり、理念からは正統な「南朝」に政権をお戻しすることこそ国の基を正す道である、と考えました。
 これほどの深く、かつ生々しい思想・理念の大闘争が、明治維新の本質なのです。

年齢が上がってくると傍若無人に!

 年齢を重ねると、その人の考えに沿った情報しか受け付けなくなります。そうすると、ますます考え方が狭くなって行きます。
 歴史上の有名人の多くがそんな感じがします。プーチンさんもそんな感じがしますね。
 男性脳は、狩のため余分な情報を排除し、必要な情報だけを重視する構造を作ってきたようで、それが今も続いているようです。特にロシアは近年まで動物の皮が重要な輸出物だったので、今も強く残っているのでしょうか?

尾道 元は天台宗でしたが浄土宗へと改宗「光明寺」

 834~847年、円仁和尚の草創といわれています。元々は天台宗のお寺でしたが、鎌倉時代の末期の建武3年(1336年)2月、足利尊氏の従軍僧だった道宗雙救上人が今川貞世と共に、光明寺に足を止めたとき智海和尚を助け、自らが大願主となり光明寺を再興し、浄土宗へと改宗しました。
 室町時代には村上水軍の信仰を集め、1588年、豊臣秀吉の「海上鎮圧令」により武士を捨て回漕問屋へと生業を変えた後も檀家として寺を支えました。

 海上鎮圧令(海賊取締令・海賊停止令)とは、1588年(天正16年)に豊臣秀吉が倭寇に対し
  ①豊臣氏に従い、大名となる
  ②豊臣政権の大名の家臣となる
  ③武装を放棄し、百姓になる」。
 この3つを迫った政策です。

学校歴だけで昇進できる世の中は終わった!

 小学校の時、家庭科の時間で教科書に「新鮮な魚の見分け方」で、「魚の目を見る」とか、「エラを見る」とかなどと書いてありました。でも、その当時住んでいた街では、魚に触って「動くか」、タコやイカは「吸盤が吸い付くか」どうかが、新鮮さを判断する基準でした。
 それまでは、教科書は正しいものと思っていましたが、疑問が湧きました。
 また高校の時、テストでの五段階評価が、統計的な手法に変わりました。しかし、一人の先生は、「103点」とか「105点」をつける先生がいました。しかもその教科の平均点は40点代でした。
 その経験は(数十年前ですが)、情報は「いろいろな面から考えなければ……」が必要だと思うようになりました!

厚木 鋳物が盛んだった「鐘鋳神社」

 厚木の荻野には、鉄や銅を使って鋳物を作る鋳物師(いものし)(「いもじ」ともいう)がたくさん住んでいました。もとは飯山に住んでいたものが、移り住んできたようです。難波氏、木村氏、毛利氏などが鋳物師として活圖しました。荻野で鋳物が盛んになったのは、荻野川から原料の砂鉄が手に入りやすかった上に、砂鉄を溶かすための木材も手に入りやすかったからでしょう。

がんばった自分否定する必要はない!

 一生懸命頑張ったがうまくいかないとき、「しょうが無い」と諦めますか、それを引き摺ってしまいますか。
 いつまでも引き摺っていると、つぎに失敗すると、失敗の上乗せになってしまい、どんどんつらくなってしまいます。
 失敗の経験を上乗せしない方法はなんでしょうか。
 子供時代に自然の中で遊んでいると、ケガをしたり、転んだり、ぶつかったり、失敗を数多く体験します。
 このような経験がたくさんあると、失敗の忘れ方、覚えておかなければならない対策などが、数多く積み重ねることができます。
 この経験があると、失敗も冷静に対処でき、引き摺ることも少なくなります!

鎌倉 北条時頼の夫人により創建か「延命寺」

 本尊「阿弥陀如来像」は、圓應寺の閻魔大王を彫ったあまりの木で作られたことから「木あまりの像」、また、予定より早く完成したことから「日あまりの像」と呼ばれている。<br>
 運慶作と伝えられる「木造地蔵菩薩立像」は、夫人の身代わりとなったことで夫人の守護仏とされている。裸形彫刻で普段は袈裟を纏っている。
  1923年の関東大震災では、滑川を遡上した津波がこの辺りまで来たという。
 赤穂浪士の岡島八十右衛門の三男が住持したと伝え、義士の画像もあつたというが、いまはない。

今は、自分をさらけ出す時代だ!

 情報化社会になり、「自分をさらけ出す時代」になりました。
 Netで流す情報も、気をつけなければならない時代になっています。
 Netでは、むかしでは「ほら吹き」と言われる情報も流れているので、そのつもりで見なければいけません。
 法律も整備されなければならないのですが、日本の立法府では、政治資金問題で手一杯のため、与党・野党には期待はできないようです。
 「世間体(せけんてい:世間の人々に対する体裁、体面)」で乗り切れると良いのですが!

江の島 閻魔大王が鎮座する石窟「延命寺」

「此処は何なのかしら・・・・?」
 たびたびの崖崩れした墓地。墓石も遺骨も誰のものか判らなくなり、それらを祀るためる石窟を造り、納骨堂にしました。
 閻魔大王が鎮座している石窟の奥が納骨堂になっています。
 閻魔大王を筆頭とする十王の信仰は、鎌倉時代に流行した信仰で、死後に人は天国か地獄に行くと信じられていました。
 天国か地獄かの裁きを司るのが、十王で、裁きは七日ごとに七回行われるので、四十九日目には天国か地獄かが決定します。
 最初の七日目は三途の川を渡り、冥府でまず秦広王の裁きを受ける。
 次の七日目(十四日目)には、初江王のもとで裁かれる。
 次々とさらに七人の王のもとで裁かれて、最後に閻魔大王に引導を渡されることになりまする。
 さらに、その後、百か日、一年、三年と、合計十回裁きがあり、それぞれ、そのときの十人の王が裁きが行なわれます。

「砂上の楼閣関係」の人眼関係!

 人との付き合いが長続きする人と、そうでない人がいます。
 数年ぶり、数十年ぶりに会っても、何の違和感もなく、むかしどおりのに話しが出来る人は、気づかいをしないで付き合っていた人ですね。
 そのような人がたくさんいる人と、そうでない人の差は何なのでしょうか?
 内気で人見知りの人が気を許した人は、やはり長続きする人が多いようですね!