水力発電,燃料費がかからない発電方式!

 水力発電は、燃料費がかからない発電方式ですが、日本ではダム発電が中心です。しかし、日本の電力消費量の10%未満だそうです。
 昨今は、マイクロ水力発電が取り上げられ始めました。しかし、水利権の問題があります。
 水の流れは、あちらこちらに有ります。瀬戸内海は、一定ではないですが、潮の流れもかなり早いです。
 水利権や漁業権が問題になることもあるのでしょうが、温暖化対策は優先されてもよいのでは? とも思ってしまいます!

尾道 巨大カラス天狗が住む「金毘羅大権現の社」でしたが!

 西國寺の仁王門をくぐり、西國寺本堂に通じる石段を登って行くと、ちょうど中間当たりの右手に金剛院があります。
 金剛院の境内には香川県琴平町の金刀比羅宮に向かって金毘羅大権現の社が建っている。
 永保3(1083)年の開基と伝えられ、願い事をして、軽く持ち上がれば願いがかなうと言われる「重軽さん」と呼ばれ石造りの三体の天狗石や、巨大なカラス天狗の作り物がありました。
 金剛院は新しく建て替えられたのですが、「金毘羅大権現の社」は一昨年には危険な状態になっていました。今はどうなっているのでしょうか?

昔の税金の「庸」は、技術を持って帰ることでもあった!

“ お寺の普請などに対して、税金、いわゆる「租・庸・調」を払います。「米」を納めるか、体で「働いて」納めるか、あるいは、土地の「産物」を納めるかということですね。
 特に寄進された人々は、庸、すなわち労働力として奉仕をしたのですね。
 そういう人たちは、労働力となって法隆寺に奉仕をすると同時に、これを自分たちのために役立てます。この経験を、ある程度持って帰りますよね。そうすると、そこで「技術を持って帰る」ことができるのです。”

鎌倉 日蓮の鎌倉での布教の中心の跡「安国論寺」

“ 日蓮上人の鎌倉草庵の地。

 日蓮が世間をあっと言わせた出来事があった。極楽寺の忍性との雨乞い競争で、まづ忍性が祈り始め、七日の内に雨を降らせると公言したが、結果はさんざんで、七日たっても一滴の雨も降らなかった。忍性と数百の供僧たちが更に24日間祈りに祈ったが、ついに雨は降らなかった。日蓮はこれを見て、民をかわいそうに思い、一人で七里ヶ浜の田辺ヶ池の畔で読経したところ、たちどころに雨がしとしと降り出し、異常乾燥も終止符を打ったという。この一件が敵方をより過激にし、激しい迫害を受ける一因になった。

 裏山の富士見台からは由比ガ浜海岸を含む市内を一望できる。”

「正解は1つ」は、ストレスが溜まり、起こりやすくなる!

 怒りのメカニズムを明らかにした結論は、「怒らない方が絶対に得だ」ということだそうです。
 ストレスが溜まると、起こりやすくなってきます。都会で、仕事に追われ続けると、ストレスが溜まってきます。
 また、知識100点主義で、100点ばかり追い掛けていると、やはりストレスが溜まります。
 むかしは、学校でも103点とか、105点をつける先生がおられました。教科書で教えた以外のことを調べ、記述式の問題に書き込んだ場合などです。
 知識は100点とればいい、ではありません。正解は1つだけではありません。いろいろな視点で見直す必要が常にあるのです!

尾道 温羅(うら)なる鬼神を退治「吉備津彦神社」

 寶土寺西側の鳥居のある一劃は吉備津彦神社、俗にいう一宮さんで、毎年11月1日から3日文化の日に、尾道全市の子供たちを湧き立たせる奇祭ベッチャー祭の祭神で、ベタ、ソバ、ショーキーはこの神社から繰り出すのである。

 神輿と獅子頭を先頭にベタ・ソバ・ショーキーの三鬼神が市内を練り歩き、子どもたちを追い回す神事。「ベタ」「ソバ」が持っている「祝棒」で突かれると子宝に恵まれ、「ショーキー」が持っている「ささら」で叩かれると頭が良くなるとされ、子供達は「ベッチャー、ベッチャー」とはやし立てる。江戸時代に流行した疫病退散祈願から始まった西日本有数の奇祭。

日常的に「いそがしい」は口に出さない!

 他人に対して「いそがしい」と云うことを、日常的には口に出さないこと。
 これがクセになってしまうと、人から頼まれることが減ってきて、次第に誰からも相手にされなくなってしまいます。
 この状態は、同僚から仕事仲間として信用されていない状態になったといっても好いのでしょう。
 しかし、依頼を受け入れ過ぎても働き過ぎになってしまいます。塩梅(あんばい:加減を調える)は難しいですね。
 相手と仕事をするときの「安心感」をうまく造り上げるしかないのですが、難しいですね!

厚木 地蔵様の伝説がある「広沢寺」

【豆腐地蔵】(本堂に安置されています)

  ある雪の積もった朝、七沢の豆腐屋が家の前を見ると、山に向かって誰かの足跡が付いた。
「こなに朝早く来た人もせいるもんだ」
と足跡をたどって行くと、、広沢寺奥の地蔵堂の所でとまっていた。主人は豆腐を置いて帰ってきた。
 その夜豆腐屋の夢の中に地蔵様が現れ
「私は及川村のある寺におった地蔵だが、及川村は豆腐屋がなくこの七沢にやってきた。これからも頼む、そのかわりこの村に来る疫病を追い払つてやる」
村の人々はこの地蔵様を豆腐地蔵と呼び、毎日毎日豆腐を上げお参りし、みんな長生きをしたそうな。

麻雀、将棋、チェス、ブリッジなどは、認知症予防に効果!

 生成AIは、将来認知症の促進につながらないのでしょうか?
 知識・情報は、いろいろな視点から組み合わせると、新たな思考が生まれてきます。
 その原点が半世紀ほど前に描かれた「知的生産の技術」にあるようです。この本には、情報や知識を「カード」に書き、それをいろいろと思いついた視点で並び替え、新たな情報を生み出すものです。
 この作業は、人間がやりたいものです。
 現代では、データベースソフトが手に入りますので、これに情報や知識を溜め込み、自分で単語検索をし、その検索した情報をいろいろ組み合わせ、遊びたいものです!

鎌倉 祇園社神霊を疫病流行時に勧請「八雲神社」

“ 元村社で山ノ内の鎮守である。祭神は素戔嗚尊(すさのおのみこと)。例祭7月15日。境内社に稲荷社がある。小高い丘から見下ろすと北鎌倉駅方面の街並みが良く見える。古くは牛頭天王を祀ったため牛頭天王社と称していた。「相模風土記」に記すことによると、村人がこの地で疫病退散のために京都八坂祇園社を勧進したのが始まりだという。その後、この地に居を構えた関東管領上杉憲房が篤く信仰した。一方、社伝によると文明年間(1469~1486)に上杉家が扇ガ谷と山ノ内に分かれて争ったとき、山ノ内上杉家の憲房が武運長久を祈って、京都の八坂神社から勧進したという。
 境内裏側には庚申塔群がある。この中には寛文5年(1665)の銘のある石造庚申塔が存在する。これは鎌倉市内最大最古。”

朝のスタートをスムーズにするには!

 朝のスタートがよいと、充実した1日につながります。子供時代から、朝から集中できることがあると(たとえ「遊び」でも)、大人になっても充実した1日を送ることができるようです。
 おそらく、いろいろなツボが刺激され、なにかしらの脳内物質が文尾為れるのでしょう。
 朝から元気になる習慣が身につくといいですね!

座間 伊勢鈴鹿郷の神輿が流れ着いた「鈴鹿明神社」

“ 欽明天皇(539年即位)の御代に創祀せられたという。

  伝説によると、伊勢の鈴鹿郷の神社例祭に神輿が海上を渡御した折、にわかの暴風に襲われ、漂流して相模国入海の東峯に漂着した。里人が社を創立してこれを鎮守とし、鈴鹿大明神と崇め奉ったと伝えられている。

 みこしがこの地に着いたとき、梨の木坂に住む龍神(座間にもともといた神)はみこしの中の宝物を欲しがり、七日七晩暴れました。これに対して流れついた鈴鹿の神は宝物を与えてしずめ、ここに落ち着くことにしました。
 そのころ勝坂(相模原市にある)に「あるか」という蛇の神がいました。あるかは鈴鹿の宝物をねらって戦いをいどんできましたが、これに地元の神も加わり、3つの神とも大蛇となってみつどもえの激しい戦いがくりひろげられました。結局「あるか」の神は負けて南へ逃れ、海老名の鎮守になりました。”

武器商人と宗教家は、人類の救済のためだという!

“ 狂信的な指導者や宗教家に、重要にされることがうまい人達は、どのような倫理観を持っているのでしょうか?
 戦争が続くいま、武器商人は金儲け以外の倫理観はあるのでしょうか?
 日本でも混乱期に、「善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」(善人でさえ救われるのだから、悪人はなおさら救われる)という宗教が普及しました。
 その後、だんだんに戦国の時代につながっていくのですが、いかに悪いことを「正しいこと」に思わせるかが、指導者になるため必要な部分もあるのでしょう.!
 武器商人の今井宗久や坂本龍馬など、後世ではなぜ立派な人といわれるのでしょうか?”

尾道 幼少時代尾道で過ごした「林芙美子像」

“『放浪記』(林 芙美子 著)の一節

 海が見えた。海が見える。五年振りに見る、尾道の海はなつかしい、汽車が尾道の海にさしかかると、慎煤けた小さい町の屋根が提灯のように拡がって来る。赤い千光寺の塔が見える、

 左の放浪記の一節を見たとき、この写真の光景が浮かんできます。”

宗教というものは、国家主義を定着する道具?

 宗教というものは、国家主義を定着するために使われています。宗教の「教え」を国家主義に有利なように解釈し、教団を使って普及します。
 日本にも、国家的に取り組んだのは、最近では「廃仏稀釈」です。
 金銭のためには最近では「統一教会」ですね。
 地域風土も関係しているのか、比較的「関東(昔の関ヶ原の関所より東側」)では、拡大する傾向があるようです。裏付けはないのですが、石仏の首が折れた地域と、そうでない地域がありますね!

鎌倉 例祭では神輿が海に入る「五所神社」

 この神社は、1908年(明治41年)に町内にあった三島(みしま)・八雲(やくも)・諏訪(すわ)・金比羅(こんぴら)・見女八坂(みるまやさか)の五つの神社を一緒にしてまつったものです。

 境内の神輿庫には、神輿が安置されていて、「寛永十九年」(1642年)の棟札(むねふだ)がかかっています。

 例祭では、五所神社を出発した神輿は、昔から伝わる「天王謡(てんのううた)」を唄いながら材木座の町内を練り歩いた後、材木座海岸で海に入ります。

 神さまが神輿に乗ったら、神社に神さまがいなくなってしまうのでは?
 それは心配無用。神さまは分身可能です。

 神社にも神輿にも、そして三社祭のように神輿が多いときにはそのすべてに、同じ神さまが同時に存在しているのです。

 そんな神輿の起源は、奈良時代の749年。

 八幡宮の総本社とされる宇佐(うさ)神宮の八幡神が「都に上り、東大寺の建立を援助する」と決意し、奈良に出向きました。このとき、紫色の「輦輿(れんよ)」という輿に乗ったのがはじまりです。

浅蜊(あさり)は旨味が勝った貝!

“ 最近、地球の温暖化が問題になっています。魚類の取れ高が変化しています。海に住む生物は、もともと温度変化が少ないため、温暖化の影響は大きいようです。
 瀬戸内海でも、獲れる魚が変化しています。また、温暖化だけでなく、瀬戸内海に流れ込む水がキレイになり過ぎたため、アサリが獲れなくなった場所もあるようです。
 環境が清潔になると、アレルギーの人も増えてきたようです。
 絶滅した生物も数多くいますが、まだ環境については、部分的な視点でしか研究されていないようですね!”

厚木 水害に合い現在の地に移された「厚木神社」

 現厚木神社(厚木市厚木町)は、古くは牛頭(ごず)天王社といい、同神社の由緒書(ゆいしょがき)には、今から八百年程前の円融天皇の時、天延年中藤原伊尹公により、厚木村字天王免に同社が勧請されたと言います。
 承徳年中この地が、水害に合い現在の地に移されました。江戸時代に、毎年6月5日から12日まで大祭を行い、神輿(みこし)を相模川に入れ、水中渡御(とぎょ)の行事をおこなっていました。
 正徳年中に、祭礼中誤って御神体を水中に落してしまいましたが、翌年、厚木村下町の告原伊兵衛の夢により神体のある所が分かり、祭礼前の5月相模川から探した神体を同家の庭に祭り6月の大祭に移し、盛大に祭が行われたといいます。

自分のエゴをおさえ、他人を立てれば、スムーズに流れる!

“ 社会生活をする上で、「他人を立てる」という原則は、まだ原則とは云えないようです。
 ネットでの情報発信では、「他人を立てる」のではなく、「自分を立てる」ことが原則になってしまいます。
 「自分を立てる」ことがうまくいかないと、よけいに自分を立てることにこだわってしまいます。
 自分ではなく、水のように、自分にこだわらず自然に流れて行きたいものですね。
 難しいですが!”

尾道 度々の災害に遭った西国寺塔頭「持善院」

 仁王門をくぐり、ちょっと行った左側にあります。西國寺の再興傑僧・慶ばんの開基と伝えられています。
 1829年大旦那灰屋茂助の寄進銀一貫目などによって本堂・庫裏を一棟として再建された。
 1976年9月、集中豪雨により裏山が崩壊し全壊したが、ただちに住職・檀信徒一体となって再建にあたった。
 1994年境内に祀られ長寿の神として知られる「多賀皇神社」も新しく建て替えられた。