なぜイネは水田で栽培されるのでしょうか!

 縄文時代の遺跡から、稲作の痕跡が次々と発見されている。少なくとも約6000年前。縄文時代の遺跡に水田の跡が見つからないため、稲作がなかったとされていた。しかし、焼き畑農業でも稲は作れる。ただ、当時の稲は熱帯に適した品種(熱帯ジャポニカ)で、西日本での栽培に適していたのです。

尾道 江戸時代の豪商橋本家の別荘「爽籟軒庭園」

 橋本家は、江戸期から尾道を代表する豪商として知られ、尾道市街地の中で広大な当地は橋本家の別荘であり、爽籟軒と言われていました。橋本家は江戸期に代々町年寄を務め、田能村竹田、菅茶山ら多くの文人墨客と交友し、頼山陽や本因坊秀策を支えたことで知られています。
 また橋本家は、重要文化財浄土寺方丈建立(1690年)をはじめ、神社仏閣への寄進や、飢饉に際して慈善事業(1834年慈観寺本堂建立)を行い、更に1878年には県内初の銀行である第六十六国立銀行(現広島銀行)の創業、尾道商業会議所の創設(1892年)など、近代産業や諸機関の普及、育成に尽力しました。

自分の過去の失敗を笑い飛ばす!

 「失敗は成功の母」、「失敗の原因は我にあり」と受け止めると、失敗の原因をなくすため一所懸命に努力します。そして時間がたつと笑い話にすることもできます。
 肝心なのは失敗の生かし方です。
 「この失敗は自分のやり方が間違っていたからだ」と考えれば、いろいろな反省ができます。すると同じ失敗を繰り返さなくなります。
 気をつけなければいけないことは、私たちの頭脳は、一つのことを続けていると慣れてきます。考え方や行動がワンパターン化する傾向が強くなります。
 すると、現状をきちんと観察しないで、ワンパターン化した発想で解決しようとします。社会が変化しているときは、失敗することが増えてきます!

鎌倉 鎌倉十井の一つ底脱ノ井「海蔵寺」

 海蔵寺の入口の右手に、鎌倉十井(じっせい)の一つ「底脱ノ井(そこぬけのい)」がありますが、この井戸には、次のような話が伝わっています。
 室町時代のころ、上杉氏の娘が尼になって修行していた時のことです。
 夕飯の仕度に水を汲むと桶(おけ)の底がすっぽり抜けてしまいました。そのとき心の中のもやもやがすっと解け、悟りが開けたといいいます。
 その尼の賤(しず)の女(め)が
   いただく桶の   底脱けて
    ひた身にかかる  有明の月
と歌ったと伝えられています。

好きなことをやっている人!

 好きなことをやる。その際は、上とか下という順位の評価をしないこと。ただ、ただ、「これはこうなのか」と、それだけで良いようです。
 料理でも、「うまい」「まずい」ではなく、「これはこうゆう味なのか」でよい。
 商売(ビジネス)では、うまい=多くの人が好みだ、という評価は重要ですが、個人の好き嫌いのレベルでは、事実を事実として受け入れる方が、長続きするようです!

愛川町 田代の半僧坊と呼ばれている「勝楽寺」

 半僧坊や田代の半僧坊と呼ばれている勝楽寺。遠州奥山方廣寺(静岡県浜松市北区)より勧請した半僧坊大権現が祭られていることから、「田代半僧坊」と呼ばれています。
 半僧坊大権現は、後醍醐天皇の皇子「無文元選禅師」が方廣寺へ御入山の際に出会った白髪の老人を弟子として、日々の作務等を怠ることなく随侍しました。
 禅師が「おまえは半ば僧形である」と言うと、老人は「私は半僧です。」と答えたことから半僧坊と呼ばれるようになったそうです。
 その後、無文元選禅師が亡くなると、姿を消したと言われています。

変化の時代、どのような人が残れるか!

 社会が大きく変化している今、マニュアル、特に市場に関係するマニュアルについては、参考にしつつ、新たな視点で見直す必要があるのでしょう。
 知識や書籍は、たとえ将来についての情報であっても、基本的には過去の視点でつくられたものです。
 常に今を観察し、今の情報から将来を考え、対応することが必要ですね!

尾道 石鎚山修験道の縮小版「浄土寺山鎖場」

 この「くさり」は、四国石鎚山に参詣できない人々のために石鎚山修験道の縮小版として、修験者の修行の場を海龍寺の裏山に設けた、と言われています。
 写真は 2013年~2014年の落石対策工事前です。
 鎖場が1番から3番あり、1番が一番長く、3番は“腕の力”だけで登る箇所もあります。
 ほぼ斜面を真っ直ぐ登りますので、かなり急斜面を登ることになります。
 各鎖場は、横に迂回もできますが、山道として整備されてはいません。

夜型の悪循環を断ち切りたい!

 夜も暑くてなかなか寝付けない日が続いています。このような季節、朝型の人と夜型の人と、どちらが有利なのでしょうか?
 どちらにしろ、思考力は落ちているのでしょうね。
 ところで、暑い地域で育った人と、寒い地方で所だった人では、暑さ・寒さへの対応力が違うようですが、からだのどこに違いが生まれているのでしょうか?

鎌倉 道路脇の小川を渡ると「八坂神社」

 八坂大神ともいいます。祭神は須佐の素戔嗚尊(すさのおのみこと)、桓武天皇、葛原親王、高望王。つまり、桓武平氏の先祖を祀っています。
 相馬師常がいまの巽神社付近に勧請したもので、かつては相馬天王と称しました。
 相馬師常は千葉常胤の二男で、頼朝挙兵に参加、平氏との一ノ谷の合戦にも参加、奥州合戦にも加わり、源氏の武将ととして名を高めた人です。
 銭洗弁天は当神社の境内末社であったが、1970年に独立しました。

右利きの人、左利きの人!

 右利きの人と、左利きの人の寿命に、差があるようです。脳の負担に違いがあることが原因なのでしょうか?
 左利きの人が、右手に箸を持ったり、鉛筆を持ったりしていると、やはり寿命に違いが出るのでしょうか?
 研究している人もおられるようですが、あまり情報がありませんね!

相模原 江戸時代には寺子屋も開かれていた「常福寺」

 1300年頃、鎌倉時代末期に建立。 開山は鎌倉建長寺の35代管長、本覚了堂禅師、開基は菅原長員。
  1316正和5年、文章博士などを務めた菅原長員が、その祖父菅原長貞の供養のため、鎌倉建長寺より本覚了堂禅師を招き開山した。 <br>
   その後、一時衰微したものを信濃の国出身の玉叟珍(1563年没)が中興したと伝えられている。 開山以来代々知識人として知られた菅原氏と縁が深く、1584年の北条氏直の版物状や、鎌倉仏師として知られる後藤四郎兵衛藤原義貴の作による地蔵菩薩立像などが残されている。

8歳~9歳の時代、「徒党を組み出し」ます!

 子供のとき、自然の中で遊んでいると、{なぜ?」「なぜ?」だらけです。そして小学校に上がると、学ぶことで「そうなのか」とわかってきます。
 「感覚からの情報が先」、「知識からの情報は後」、これが普通になってくると、1つの考え方にとらわれなくなり、曖昧さの中で暮らすことが普通になります。
 この曖昧さの受け入れは、多様な人を受け入れることにつながり、いじめもなくなっていくのでしょうね!

福山 鞆 きつい坂や階段を上って行くと「医王寺」

 きつい坂や階段を上って行くと、後山中腹に真言宗の医王寺があります。医王寺は平安時代に弘法大師によって開基されたと伝えられるお寺。
 坂の途中に、「平賀源内生祠」があります。

 眼下に広がる瀬戸内海や鞆港を一望できます。

穀物は、貧富の格差、そして戦争を生んだ!

 農業で穀物ができるようになり、しかも、農業従事者1人で約2人分の食料を生産できるようになると、穀物の貯蔵ができるようになった。
 そして、その貯蔵をたくさんできる人が出てきた。その結果、富が生まれ、権力を持つ人が出てきた、
 日本は、平安末期頃から念仏宗教が庶民に広まり、庶民は団結することで、権力者に対抗できることを知った。
 800年ほど前に、庶民も力を持つことができるようになった。この歴史が、他国に比べ、日本の平和が比較的永く保つことができた原因なのでしょうか!

鎌倉 もとは諏訪氏の屋敷内にあった守護神「諏訪神社」

 鎌倉市御成町にある諏訪神社は諏訪氏の屋敷内にあった守護神が移されたも。祭神は建御名方神(たけみのかたのかみ)。
 信濃国一宮の諏訪社大祝職である諏訪盛重は承久の乱(1221年)の後に北条泰時に被官し、1236年に泰時の邸宅が新造されると、尾藤景綱と共にその敷地内の北条屋敷横に屋敷を構え、諏訪池の東側に諏訪神社を祀ったとされる。
 現在の鎌倉市役所横、市立御成小学校付近は諏訪一族の屋敷跡と伝える場所で、この諏訪神社も諏訪一族の守護神として邸内に祀られていたという。もともとは御成小学校内にあったが、江ノ島電鉄の開通に伴い現在地に移した。御成の人々はもともと小町の蛭子神社の氏子であったが、鉄道線路による分断もあり、1950年頃から諏訪神社の氏子となった。

思い切り高い値段の商品を開発して売る!

 日本で長く売れている商品の中には、何かしらの物語と関連させているものがある。例えば、「きびだんご」と「桃太郎」。
 また、観光地にも伝説と結びついた場所が多くある。場所の魅力はともかくとして、物語と場所が結びつくと、その場所が長く記憶に残る。
 商品の魅力だけでは、飽きが来たときは、その商品の魅力が消えてしまうので、物語と結びつくと、長く愛用される商品になりやすいようです!

尾道 千光寺 から 市立美術館へ

「鼓岩(つづみ岩)=ぽんぽん岩」
 尾道の、海や町を見降ろす千光寺山の中腹に、ぽんぽん岩と呼ばれる大岩がある。小石を握ってその岩の真ん中を破くとぽんぽんと音がするので、そう呼ばれるのである。それはきっと、岩の内部が空洞になっている故なのだが、ぼくにはそれがまるで岩の声のように聞こえる。
 面白くて、楽しくて、そして恐ろしい。
 だから、こどもの頃から、ぼくはこのぽんぽん岩が大好きだった。面白くて楽しいだけでは駄目。こどもは恐ろしいものに心ひかれるのである。
(映画監督:大林宣彦)

これからの時代に必要な能力!

 日本の学習のやり方は、国際的には通用しないのでは? と、いわれています。
 ただ、ただ、テストでの正解の答えを記憶する、これでは変化の時代にも対応できません。テストでの正解は、過去の知識です。変化は、これからの時代です。過去の知識だけでは対応できません。現状の変化を洩れなく把握し、過去の知識を参考にし、自分の感覚をベースに判断しなくてはなりません。
 変化の時代に生きぬくのは、過去の知識だけに頼ってはいけないのです!

鎌倉 女性にとって圧政の時代に救いの寺「東慶寺」

 東慶寺は現在は男僧の寺ですが、明治36年(1903年)までは尼寺で、尼五山の第二位の寺でした。後醍醐天皇の皇女用堂尼が5世住持として入寺してから格式の高さを誇った。江戸時代には、豊臣秀頼の娘で、徳川秀忠の養外孫にあたる天秀尼が20世住持として入寺している。
 近代になって、中興の祖とされる釈宗演が寺観を復興した。釈の弟子にあたる鈴木大拙は禅を世界的に広めた人で、寺に隣接して鈴木の収集した仏教書を収めた松ヶ岡文庫があり、世界的禅文化の発展の拠点となりました。