座間 日蓮が石に文字を書くと泉が「圓教寺」

【円教寺に伝わる話】
 鈴木弥太郎貞勝は、龍ノ口で日蓮上人に向かって振り上げられたものの、光る玉の出現で3つに折れた刀、「蛇胴丸」を作った人。
 そしてあの事件の翌日9月13日、昨夜のうわさを聞きつけた鈴木弥太郎貞勝が、依知に向かって相模川を渡る前にぜひ自宅にお立ち寄り下さいと申し出たことにより日蓮の一行は貞勝の屋敷で休息を取ることになりました。 このとき貞勝は日蓮の教えに入信し、円教坊(えんきょうぼう)という名をいただきました。円教坊はこのあたりの水が刀作りに適さないことを話すと、日蓮は石に南無妙法蓮華経の文字を書き、「三十番神」をまつって地面を掘りました。その時わき出た泉がこの番神水だというのです。

道に迷うことも歩く楽しみ!

 自然が多くあるところで育つと、周囲の状況に敏感になるようです、大人になって街中を歩いていても、周囲の状況を皮膚で感じて楽しんで歩くようです。「皮膚感覚」という言葉があります。この感覚は生物が古くから持つ感覚で、人間で言えば「第六感」というものに相当するのでしょう。脳で判断する前に、皮膚感覚で判断しているようです。危険を感じたとき、脳が危険と判断する前に、第六感で、その危険を回避する感覚です。無意識に皮膚で周りを感じることは、重要な感覚ですね!

福山 鞆 観心行ができる「顕政寺」

 足利義昭が身を寄せていた(後ろ山の奥、熊野町の)常国寺の末寺であったが絶えて、慶長年間(1596~1614年)1600年頃、福島正則(芸備藩主)によって、この顕政寺などの寺々をほぼ一直線に結ぶ寺町(町割り)が形成された。正善院日実は顕政寺を再建し、日蓮宗に改め二代・日運は、本堂と庫裡を拡張する事績を遺し、四代目の日富は、延宝年中(1673~1680年)に、奉行・藤井六郎右衛門に願い出て門前の境内を拡め、今日の基礎を築いた。と伝えられる。

社会に出てからは学びの質を変えること!

 定年退職後は、特に学びの質を変えなければなりません。組織の中で身についた思考を続けていると、いわゆる“老害”という状態になりかねません。定年後、年月がたつにつれ、ひどくなっていきかねません。過去に蓄積した“思い込み”を捨てるためには、まずは学ぶこと、それも、「学びの質を変える」ことが必要です。たた注意しなければならないことは、定年になってからでは少し遅いようです。少なくとも、定年の五年前から、できれば十年前から学びの質を変える準備が必要だと思います!

鎌倉 病にご利益があるる瘡守稲荷も祀る「上行寺」

 上行寺は、日範(にちはん)が1313年(正和2年)に創建したといわれる日蓮宗(にちれんしゅう)の寺で、山号は法久山(ほうきゅうざん)といいます。現在の本堂は1886年(明治19年)に、名越松葉ヶ谷(なごえまつばがやつ)の妙法寺(みょうほうじ)の法華堂(ほっけどう)を移築したものといわれています。本堂の中は公開されていませんが、その格天井(ごうてんじょう)には美しい花鳥の絵が、表の欄間には十二支の彫刻がほどこされています。

うるおいに満ちた精神性!

 日本の風土の基本に、「相手を思いやる」ということがあります。災害が多く、大小の争いも西日本(琵琶湖周辺以西)では数多くあったためか、庶民か生き残っていくために「相手を思いやる」ことが大事になったのでしょう。いくさでは、武士が農民たちから食料を略奪し、京都の昇ると織田信長のように、無理矢理に米を庶民に貸し付けて三割もの利息をとるなど、庶民たちはお互いに助け合わないと生き残れなかったのでしょう。新コロナで緊急事態解除が首都圏で予定されています。この地域の風土は、他の地域に比べて助け合いが弱く、能力主義で自己中心の人が集まっているため、再度コロナ蔓延の心配がありますね!

尾道 昔は入江で渡しがあった「磯の辨天神社」

 遠い昔、長江が文字どおり長い入り江であった頃、この一帯は海辺だったので、磯の弁天と呼ぶようになったそうです。今は建物の陰にひっそりと残っています。
 現在の神社はあまりにも小さもく、昔からこの狭さであったとは思えません。
 横のお店の裏側に名前もいわれも不明の神社があります。この神社と関係があるのでしょうか?
 この不明の神社は現在もお祭りをしているようですが、近所の人や市役所に聞いても情報はありませんでした。

文化のことは自然に任すのが一番!

 日本の文化は、歴史を尊重しながら、新しいもののなかから、受け入れられるもの、そうでないものを見極め、協力しながら風土を造り上げてきました。年配の人の多くは、日本人は単一民族、と思っている人が多いと思います。しかし、実際には多くの人種の遺伝子を持っているようです。異なる人々が、災害が多発する環境で、協力しながら生き延びていくことで、現在の私たちが生存しているのでしょう。ただ残念なことに、新コロナ伝染の状況を見ていると、その風土が首都圏では、弱体化していっている気がしています。自己中の人が多くなっています!

厚木 安産の命、木花咲耶姫命を祀る「子安神社」

 子安神社の創立は不詳でありますが、古社調査事項取調書(明治二十九年(1896)によれば文明十八年(1486)以前の創立。
 祭神は木花咲耶姫命が祀られておりますが、配祀祭神として豊宇気命と須佐之男命が祀られております。
 古社調査書によれば、境内地には稲荷神社があり祭神は宇加之魂命が祀られておりました。
 境内には御神木の楠木がありますが、樹齢八百年以上の古木と言われ、見るからに子安神社の歴史を物語っています。

自分は冷静だ、騙されるほどバカではない!

 詐欺が横行する社会になっています。それも災害が多発し、お互いの助け合いが必要な時期にです。人間が生存し続けることができたのは、なにも求めることなく、「助けっぱなし」ができたからだと考えられます。災害が多発する日本では、四国路での「おせったい」のように、見返りを求めない、見返りの意識すらない、助け合いが、生存に大きく関係していたのでしょう。能力主義の時代では、自分の利益が中心になり、「未来に何かを残す」という発想は消えてしまいます。災害や疫病などで、物資が不足し、独占したり、奪い合いで戦争になったり、人類の生存にとって、危機的な状況が起きやすくなるようです!

鎌倉 石仏「百観音」を安置 「円覚寺 大方丈」

 百観音霊場の由来は、養老二年(718年)徳道上人が開設した西国三十三観音霊場と、鎌倉時代、観音信仰に篤かった源頼朝が開いた板東三十三観音霊場と、その後にできた秩父三十四観音霊場の総称とされています。
 円覚寺方丈前の百観音は江戸時代、拙隻尊者が百体の石仏を岩窟に泰安したことが由緒となり、明治に至って今北洪川老師が整備されました。
 円覚寺の百観音を結願所として円覚寺派の寺院に百観音巡礼の札所が開設されました。

平気で身勝手なことをしている人!

 戦国時代のような能力重視の時代(現代もそうですが)では、自己中の人も能力が発揮できるようです。織田信長や豊臣秀吉は、“未来に何か残そう”と考えていたのでしょうか? 詳しくないのでよく分かりませんが、“現在”にしか興味がなかったような印象です。能力重視の風土を持った国々でも、成功する人は、自己中で優秀な人達なのでしょう。ただの優秀な人は、学者や研究者になっているのでしょうか?

尾道 四十八夜念仏修行ののち入水往生「信行寺」

 1596~1614年に住職称住がこの草庵で四十八夜念仏修行をしたとき、その満願の暁方、阿弥陀如来の来迎に逢い、結集と共に入水往生したが、その時結集の中の一人は現世に残ってこの庵を相続せよというので、行欣が残ることになり、1603年現在地の下の山陽線路上の辺に移った。
  「浄土宗」は、誰でも悟りに至ることができる教えで、自分の力だけでは無理でも、阿弥陀仏の力を借り、阿弥陀仏が私たちのために用意いただいた極楽で修行するなら、私たちでも悟れるであろう、という教えです。
 では、その阿弥陀仏とはどのような仏かと申しますと、私たちのような修行に堪え得ない普通の者を救おうとして修行を積まれ、仏となられた方です。

潮干狩りは三月はじめの巳の日に!

 温暖化や河川の清浄化の行き過ぎで、アサリの生息域が少なくなっているようです。以前の生息環境に戻すことが必要なのですが、それもなかなかうまくいきません。現在の環境で生活できる生物を受け入れた方がよいのでしょうか? 江戸時代、富士山が噴火したとき、神奈川県の西部の秦野では火山灰が数十cm積もったため、今までの野菜が収穫できなくなりました。そこで、行者さんが指導してタバコを植えるようになったとか。やはり、環境の変化に応じて工夫していくしかないのでしょう!

鎌倉 平政子(北条政子)の墓がある「寿福寺」

 このあたりは源義朝の屋敷のあった所といわれています。源頼朝は鎌倉に入ると、父義朝ゆかりのこの地に屋敷や幕府を造ろうとしたのですが、狭いことと、すでに義朝の家来の岡崎義実が義朝をとむらうためのお堂を建てていたので、大倉(蔵)というところに、幕府や屋敷を構えました。
 頼朝が亡くなった後、夫人の政子は頼朝の遺志を継ぎ、1200年(正治2年)、栄西を開山に招き、2代将軍頼家を開基として、ここに亀谷(きこく)という山号の寺を建てました。3代将実朝もしばしば訪れ、やがて七堂伽藍というお堂をもつ立派な寺になり、塔頭も14を数えたといわれ、鎌倉五山の第三位となりました。1323年(元亨3年)の北条貞時十三回忌に、260人もの僧衆が参加する大寺院でした。

自分自身と「競争」する!

 新コロナの伝染での社会の変化にうまくついて行く人は何パーセントくらいなのでしょうか? 回りが変化の状況を正確に(思い込みなしに)把握し、現在の自分も正確に把握し、やれることを見つけ、実行に移すことができる人。学校での学びでだけは社会の変化にはついていけません。ただ、幸いなことに、劇的な社会変化にはならないのでしょう。
 日本は、四季があり、自然災害があり、地域風土の違いもあり、日常的にある程度の変化に、ごく普通に対応できています。このように変化が日常的にある環境は、ある程度の社会変化にも対応できるのでしょう!

尾道 生口島の北鬼門の鎮護「向上寺」

 1400年 生口守平の開基、臨済宗仏通寺派 愚中周及の開山により臨済宗の寺院として創建されたのに始まり、向上庵と号した。一旦衰退したが、江戸時代に入り1609年 関的が入寺して再興し、曹洞宗に改められた。
 向上寺は町の北鬼門の鎮護として存立し御本尊聖観世音菩薩は、今日まで町 の災障を防除し、古来島の災害鎮圧と興隆繁栄の祈願寺。
 臨済宗 仏通寺派開山勅特賜仏徳大通禅師愚中周及大和 尚(1323~1409年)を迎えて開きました。

本当に愛しているのでしょうか?

 国会で、菅総理の息子の接待に関する責任を親(総理)に要求していますが、国会議員は、法律を担当する立場にあり、親の責任を問うなら「どのような法律を作るつもりか」を審議してほしいものです。異常な犯罪が増えていますが、その犯罪者の「親の責任」に対して、法律をどうするのか、考えているのでしょうか? ただ、票を集めるだけの批判なら、週刊誌を利用する策を考えればよいのではないのでしょうか。また、ネットでの誹謗中傷(根拠のない悪口を言い広め,その人の人格や名誉を傷つけること)についても、裁判では親の責任(損害賠償)を問われることはありません。統計学的・科学的に「子育て」について、親の責任が明確になった場合、どのようにしたらよいのでしょうか?

座間 崖下に湧く清水悪疫を止めた「座間神社」

 約八百年前の源頼朝が鎌倉へ幕府を開いたころ、悪疫が流行したした時に白衣の老人が来て、日本武尊を祀れば悪疫が治まると教えたので、日本武尊を祀ったといいますが、その時代は1313年で、祭神は飯綱権現だという説もあります。
 1313年に社殿を再建した頃より武家の参詣が相次ぎ、1602年には領主内藤修理亮清成が一統を率いて参拝し、武運長久、氏子の繁栄を祈られたという記録もあります。また、古くからこの地は、八王子街道の宿場街として栄え、ここを往来する人々、また生糸を運ぶ車両の安全を祈念した人々で社頭が賑わいをみせたとも伝えられています。

「できないに決まっている」という思い込み!

 「思い込み」には気をつける必要があります。特に、一神教の社会では多彩な考え方の受入が難しいようです。アメリカ大統領のトランプ氏が選挙の時に、「選挙に不正があって実際は俺が当選してるんだ」という情報を流した。トランプの支持者たちは、「トランプが選挙に負けることははずがない」と思い込んでいるため、「選挙に不正があるかどうあるか」は関係なく、自分の思い込みを正当化する情報を信じている、ということだそうです!