尾道 昔から船着場があった「海の駅」

 海の駅とは、国土交通省により登録された、一般利用者に開かれた船舶係留施設(マリーナ)のことで、ヨットやボートの停泊設備です。
 「海から、誰でも、いつでも、気軽に、安心して立ち寄り、利用でき、憩える」ことをめざしています。
 ここは、住吉浜といい、昔から船着場がありました。一部復元されています。
 ここの「海の駅」は、食堂や売店の施設はありません。ホテルや食堂、商店街が近いので、停泊施設以外は造らなかったのでしょうか。

取り調べは夕食後に!

 「取り調べの技術」の使い方は難しいことなのでしょう。検察官の定年延長でもめていますが、冤罪に対する改善は何ら議論されていないようです。取り調べには、最新の知見が試されているのでしょう。歴史に残る冤罪事件の有名なものは、天満宮に祀られた「菅原道真」。当時も現在と同じように、冤罪をはらすことは大変難しかったのでしょう。その結果、道真が死んだ後に、怨霊となって都に戻り、雷を落とし、天災をもたらしたのでしょう。道真の怨霊が鎮まると、一転して「除難招福」の神さまと慕われるようになり、天神様に祀られることになったのですが。現在も冤罪を晴らすことができない人もある程度おられるのでしょう。裁判官、検察官、警官達の反省と改善は見えてきません。やはり冤罪を受けた場合は「祟り」しか方法がないのでしょうか!

座間 裏山の湧水が不動池に「心岩寺」

 開山年代は寛正元(1460)年頃で、鎌倉建長寺第七十五世悦岩興惟禅師の法弟成英玉大和尚が開山し、この地の郷士白井織部是房が開基となって、白井氏の持仏堂を寺としたものと伝えている。
 当山の記録によると、山号は初め久光山心願寺、後に座間山心巌寺、そして江戸時代になって座間山心岩寺と改められている。
開山以来五百数十年、法嗣二十二世この間法灯絶えることなく栄えている。

説明書を改めて読み直してみる!

 最近の説明書は、薄く・日本語の部分はほんのわずか、という時代になりました。何かあれば「ネットで調べてください」というスタイルになっています。日本でつくり、日本でしか使われないものの中には、昔流の分厚い説明書もあるのですが、それも少なくなってしまいました。メニューを選び、自動で作動するものが多くなり、人間が操作するときに考えなくてよい、という状態になっています。苦労しなくてもよいのですが、脳の働きにとっては、悪い面もあるのでしょう!

鎌倉 関東大震災で倒潰、40年後再建「円覚寺 仏殿」

 円覚寺仏殿は、1923年(大正12年)関東大震災で壊れた後、1964年(昭和39年)に再建されました。鉄筋コンクリート造ですが、戦国時代の1573年(元亀4年)の仏殿の図面をもとにして建てられたので、昔の様子を残しています。正面の軒下には、後光厳天皇の筆跡にもとづく「大光明宝殿(だいこうみょうでん)」の額が掲げられています。本尊の宝冠釈迦如来像は、頭部は鎌倉時代の作で、体部は江戸時代の作といわれています。両脇に安置されている梵天と帝釈天は、1692年(元禄5年)に再興されたものです。また、天井には前田青邨の指導で守屋多々志が描いた「白竜の図」があります。

ストレス状態では免疫力は約30%減弱!

 最近、新コロナウイルスが、血管を老化させることに関係していると言われ出しています。高血圧、糖尿病、脂質異常症(高脂血症)といった生活習慣病の人達は、血管の老化現象が起きているので、症状を促進させ、危険率が上がってしまうのでしょうか。また、ストレスで血液の粘性が高くなり、凝固しやすくなることと重なった場合、やはり危険率が上がるのでしょうか!

尾道 心願成就の守り本尊の日限地蔵「大山寺」

 古くから「天神坊」とも呼ばれ、西隣の御袖天満宮との深い関係をしのばせている。開基の詳細は不明であるが、平安時代の初期、空海(弘法大師)入唐(803年)の頃には既に開かれていたと伝えている。
 901年菅原道真が太宰府へ流されるとき尾道に船を寄せたという話は、当地では有名な伝説である。これはこの寺にも深い関係がある。1069~1073年頃に、西国寺の慶ばんが多くの末寺を建てているが、この寺もその頃興されたものと思われる。
 寺に祀られている日限地蔵は心願成就の守り本尊として参詣祈願する人が多い。

必要な水の量は20世紀初頭の六倍以上!

 生物が生きていくための一番大切な「水」。その資源は、地球人口の増加に対し確保できていくのでしょうか。気候の温暖化で雨の振り方が変わってきています。その量も地域も変わってしまうのでしょう。生物は環境変化の過程で、それぞれの変化に対応していかなければなりません。現在は、以前に比べ大きな変化が起こっているのでしょう。「新」コロナウイルスも、そんな変化の過程と関係しているのでしょうか?

厚木 白龍が池に棲むという「白山神社」

 昔より雨乞に霊験著しい池があり、 この池は、干ばつの時でも、池の水が涸れることがなく、 それ故、人はこれを霊地と唱え、ここに古い石像、石碑が残存しています。  むかし、行基和尚がこの地に来て、この山に登り、 この池を見た時、霊水の湧き出る清浄な霊地であることを発見して、 この山を霊地と定め、楠木をもって霊御形を彫刻し、 加賀国白山妙理大権現(石川県石川郡に鎮座)を勧請したとあります。
 下って江戸時代の1801年別当龍蔵院隆光は、山上に於いて、修行中に霊夢によって、 同山に秋葉権現と蔵王権現を勧請し、諸難、火難消除の守護とすれば疑なしと云々 近郷、近在の住民、信仰者の力を得て、 白山神社建立を企して、1804年再建をいたしました。

生きていくのが強い人!

 新コロナウイルスによって、社会での過ごし方を変えざるを得ない今。変化していく社会の現状を、正確に、先入観なく把握し、その中で、心に余裕を持ち、他人に対し寛容であり、しかも、何らかの利益を与えることが出来る人は、生きていくことが強い人ですね。社会の変化に柔軟に対応していくのでしょう。また、そのような人に、ついて行くことが出来る人達も、社会の変化について行けるのでしょう!

福山 鞆 多彩な歴史の足跡が刻まれる「小松寺」

 瀬戸内の要港にある古刹であり、同寺へは高憎や将軍の足利尊氏・義昭、朝鮮通信使等の多彩な歴史の足跡が刻まれる。
 特に、本堂に掲げられた琉球使節の扁額、境内の「琉球司楽向生碑」は、よく知られるところである。
 また、境内には昭和二十九年(1954)まで、国の天然記念物の見事な巨大・松があり、名所となっていた。オランダ人医師シーボルトもその松之図(版画)を収集している。なお、この松は寺伝によると、平清盛の長男の平重盛(武勇に優れて清盛の後継者として地位を確立したが、清盛より早く、42歳で死去した)が植えたと伝える。

相手の話をじっくり聴こう!

 余裕のない時間の過ごし方に馴染んでしまったためか、新ウイルスで自宅待機がつづくと、戸惑ってしまう人が多いようです。家の中の片付けや、季節の移り変わりで衣類の片付けも良いのですが、忙しくしてじっくりと調べることが出来なかったことを、自分の「手持ちの本」をもとに、ネットで調べてみてもいいのではないでしょうか。ただし、ネットだけで調べると、今までの日常と変わらないので、「手持ちの本」の内容をもとにすると、時間の使い方が変わりますね!

鎌倉  若狭局を祀る社「蛇苫止堂」

 源頼朝が1199年に死ぬと、1202年、子の頼家が18歳の若さで将軍となった。しかし、経験と統率力に乏しかったため、御家人の信望を得られず、幕府の基礎を危うくするかに思われた。そこで頼家の母(頼朝の妻)北条政子は、将軍がすべてを決済する従来の方針を改め、有力御家人13人による合議体制を採用し、政子の父時政がその中心となって活動した。
 すると、それに不満な源頼家は、比企能員(ひきのよしかず)と共に北条征伐を計画する。 北条時政は、比企能員を自宅に招いて暗殺、比企ヶ谷の比企一族は、北条義時らに攻められ滅ぼされた。また、源頼家を伊豆の修善寺に幽閉した。
 蛇苦止明神は妙本寺(みょうほんじ)の守護神となっています。

腸の中の免疫バランスが崩れてくると!

 乳製品については、遊牧人種と農耕民族では腸内細菌に違いがあり、栄養としての吸収力が違います。アルコールについても違いがあります。「腸は第2の脳」と言われ出していますが、人間の免疫力の70%は腸が生産しており、食べ物に含まれている成分や各種の菌類が、体にとって「害があるか」、「有用か」正しい判断をし、害があれば、それらをやっつける物質を差し向けたり、作り出しています。腸は、この作業のほとんどを脳からの司令ではなく、独自の判断で行っています。「地産地消」は、これらの腸の作業を、正確に行うことに関わっているのでしょう!

尾道にこんなところが「日比崎 石仏群」

 この竜王山は広島県尾道市日比崎町にある山で標高144.6mです。(尾道市には「竜王山」という名前の山が5つもあります。)
 そこに、天狗や蔵王権現・不動明王など修験道や密教に関わるの石仏が林立している。この地も「さびしんぼう」のロケ地となっている。
竜王山は、四国の石鎚山を信仰する人々の修験道場であった。竜王山の霊場の石垣の上には石造りの石鎚社があり、その周りには石鎚権現や修験道に関わる石仏などが数十体、林立する。石鎚山は役行者が開いた神仏習合の修験の道場で、石鎚権現として全国で信仰を集めている。

意識の変革ができなかった人は絶滅する?

 「行動」が、動物の生存の原点にあるのでしょう。言葉がない動物たち、そして、人類がまだ言葉を使っていない時代でも、「行動=体験」したもののうち、生き残りに優位な情報を、子供達に伝えていかなければならない。そのしくみが遺伝子スイッチのOn/Offなのでしょう。このスイッチのOn/Offは動物の歴史から考えると、言葉ではなく、広い意味での行動なのでしょう。言葉を使い出したのは、人類の歴史から考えるとつい最近です。歴史的な体験が浅いため、言葉では遺伝子スイッチのOn/Offが出来ないので、文字にして伝える方法を見つけたのでしょうか? そして最近ではインターネット情報で、言葉に振り回されることになるのでしょうか?

鎌倉 維新の先駆けと日野俊基卿を祀る「葛原岡神社」

 葛原岡神社は後醍醐天皇の忠臣として鎌倉幕府倒幕に活躍した日野俊基卿をお祀りする神社。
 後醍醐天皇の鎌倉倒幕の計画の際、天皇とともに日野俊基も楠木正成を説得して味方にするなど、天皇をお助けしたが、1331年、計画が幕府に知られ、日野俊基が天皇をかばうため、捕らわれの身になった。その後、後醍醐天皇による幕府打倒計画は着々と進められ、皇子の大塔宮護良親王の指揮のもと、楠木正成、新田義貞らの活躍により、日野俊基卿が葛原岡の露と消えられてから約一年後の1333年、ついに鎌倉幕府は滅亡した。

「いい言葉」に接し美意識を養おう!

 現在は、情報の発信が簡単に行われる時代になりました。そのためか、過激な言葉で批評する情報が多くなっています。マスコミも、個人の情報発信に負けまいと、過激な場面を報道することが多くなったり、あるいは反省して、あえて過激な場面を外したりしているようです。しかし、大人からは、「いい言葉」はあまり聞かなくなったように思います。逆に、子供達から「いい言葉」を聞くことが昔より多くなってきた感じもします!

尾道 一畑薬師如来も祀る浄土寺「薬師堂」

 方三間、宝形造、本瓦葺の開山堂です。「延命薬師如来」、「一畑薬師如来」を祀る薬師堂となっています。
 「一畑薬師如来」は、出雲の一畑山頂にある臨済宗「一畑寺」に祀られる薬師如来と関係があるのでしょうか? 浄土寺は真言宗泉涌寺派なのですが、泉涌寺は「密・禅・律・浄」の四宗兼学の道場としての歴史があるので、禅寺である一畑寺であっても関係があってもおかしくはないのでしょう。
 浄土寺歴住墓の灯籠には「出雲国 堅田定五郎忠成」と刻まれたものがあり、出雲との繋がりが深いため、「一畑薬師様」という通称で呼ばれている、特に目のお薬師様として信仰されている薬師様にいらっしてもらったのでしょうか。

日本は一億総利己主義を確立?

 日本では、ここ150~160年ほどの間に、大変革が起こりました。また、この80年ほどの変化は、人類の歴史上初めて変化が起きてしまいました。ただ、この変化には人々がついて行けるスピードでの変化でした。ただし、社会は、変化について行くのが精一杯で、社会を整えることは出来ていません。そのツケが、今回の新コロナウイルスの流行で、やっと気がつく機会が生まれたようです!