浄土寺山には、大阪城の石垣につかわれた石の残りも残っています。豊臣秀吉が天正十一年(1583)全国制覇の根拠地として大阪に壮麗な城を築きましたが、その石垣に瀬戸内海沿岸の石が多く用いられました。尾道の浄土寺山からも大阪へ船で積み出されていました。 どのようにして運んだのか分かりませんが、この辺りは海の干潮と満潮の潮の高低差が3m以上もあるので、干潮のときに、海の中にある石にロープをかけ船に結びつけ、満潮になると、船と一緒に石も海底から離れるので、沖に出ることができます。そのようにして運んだのでしょうか?
2020年のアーカイブ
「ひとり遊び」のバランス!
むかしは「ひとり遊び」は、多くの子供達が経験していたことと思います。特に狭い坂道が多い地域では、幼稚園や保育所までの送り迎えは無理なところが多くありました。それに、電化製品も少なく、主婦は忙しかったので、時間に余裕もありませんでした。「ひとり遊び」の経験が多い子は、逆に友達作りもうまく、また、イジメに遭っても一人で過ごすことも身につけていたようです。そのためか、イジメが今のように問題になることも少なかったようです!
厚木 鋳物師が活動に因んで「鐘鋳神社」
旧名:妙見宮(天之御中主神)。北斗七星を神格化して祭ったもの。
風土記稿によれば1629年 村民難波富右衛門が本国下総(千葉県)の原社を勧請したという。また地名の中金井について「古は金鋳と書し、上中下に分け唱へしなり、此所は鋳工銅銕を鋳し地にて、今も地中より銕屑でると云」 としている。 鋳物師が活動してゐた記録があり、当社の「鐘鋳」の社名はこれに因んでいる。ご神体は銅製の男神立像。
感覚的な判断力を持った人工知能はない!
インターネットで検索すると、AIが検索した単語に関連した情報を、素早く検索してくれます。専門指向の人にとっては大きなメリットです。しかし、関連情報が多く検索されるため、どんどん視野が狭くなっていきます。新しいアイディアや、視野(興味)を広げたい人にとっては、大きな欠点になってしまいます。私はPHP文庫の内容を中心に、現在8万5千件ほどのデータベースをつくって、単語検索をし、思いつきで関連づけ、組合せをして遊んでいます。そうしていると、自分の固定した考え方が徐々に消えていき、少しずつですが、いろいろと見えてくるものがあり、視野が広がってきたように感じます。AIにも欠点はあるものです!
鎌倉 日蓮が「立正安国論」を執筆した「安国論寺」
日蓮が鎌倉に来て初めて道場とした岩穴を御法窟といい、『立正安国論』もここで書いたといいます。昔は「日蓮窟」と呼んでいました。
この法窟がこの寺の造られるもとになったので、開山は日蓮になっています。また寺の名は『立正安国論』を書いたことからきています。
どんなものに対しても「礼を尽くす」こと!
何に対しても、どんなことに対しても、「礼を尽くす」が社会で生きていく基本なのでしょう。と同時に、日本での「礼を尽くす」というルールは、疫病対策にも有効だと考えた人々が、苦労して定着させてきたのでしょう。このルールを守ることができる人達が、日本では子孫を繁栄させ、より社会に定着してきたのでしょうか? 災害や疫病を数多く体験してきた人達は、生き残りの確率アップのため「礼を尽くす」というしくみを、社会に定着させようとしたのでしょう!
福山 鞆 たくさんの石仏立ちが「正法寺」
境内のお堂には、鞆町の信者により寄進された十六羅漢像が安置されていますが、実はもうひとつ、隠された十六羅漢があるのです。それが、奥座敷にある十六羅漢の屏風絵です。この水墨画は、鞆の絵師・門田勝人さんの筆によるもの。ふたつの十六羅漢、ぜひ鑑賞したいものです。また、お寺の鬼門の北方には、毘沙門天も安置されています。
きちんと「ありがとう」と言う!
ちょっとしたことでも、何かしてもらったら「ありがとう」と言いましょう。この繰り返しが、自分を見つけることにつながります。自分を見つけるということは、人が「自分の、どの能力を評価してくれているか」、これが自分を見つけることなのでしょう。人から評価してもらっていることを、人にしてあげ、その結果ほんとうの「ありがとう」と言ってもらえることが、自分を見つけることになるのでしょう。自分がやりたいことは、必ずしも自分を見つけることにはならないのでしょう!
鎌倉 関東大震災で諸堂は潰滅したが「浄智寺」
浄智寺は山号を金宝(峰)山(きんぽうざん)といい、臨済宗の寺で、北条時頼の三男宗政とその子の師時(もろとき)の二人が開基となり、1281年(弘安4年)ころに建てられたようです。また、開山は、宋の僧である元庵普寧(ごったんふねい)と大休正念(だいきゅうしょうねん)、準開山は、南州宏海(なんしゅうこうかい)(真応禅師(しんおうぜんじ)となっています。宗政が若くして亡くなったため宗政夫人が夫の宗政と子の師時の二人を開基とし、また、開山に招かれた宏海が、自分はまだ若いのでその師の正念をたて、正念はその師の普寧を開山にたてたため、このように複雑な形になったようです。
20世紀はお金を中心に動いた物質文明の時代でした!
明治以降「幸福」を求めてきました。「幸」は枠にはめる、枠から逃れるという深層イメージがあり、はめられた枠から逃れようと望む、まぐれ的な幸運を求めるという意味があるそうです。ここから転じて、かなわぬ願いを得たことによるしあわせとなります。また「福」は、丸くふくれる、いっぱい満ちるというイメージから、さいわいの意味があります。「福」は現代で言えば「お金」ということになります。明治以降は「お金持ち=幸福」になっているようです。しかし、新コロナウイルスの影響で、以前よりは「幸せ」に目が行くようになったのかな? と少し感じられます!
尾道 後醍醐天皇の第三王子が開基「妙宣寺」
後醍醐天皇の第三王子でありながら出家した大覚大僧正が正平年中(1346~)全国を旅し布教の途次、鞆から本郷に出て尾道入りし、番所からこの谷を下られ、同所で説法され滞在されたとか。このあと長江一丁目妙宣寺の建立を発願され、同寺は1354年に完成している。
本尊は法華宝塔釈迦牟尼仏である。寺記によると、1615~1623年の頃、寺運が衰えたが、1708年本堂を再興し、次いで1782年現在の本堂を再建した。
本堂の後ろには加藤清正を祀る清正公堂があり、熊本の本妙寺のと同作の清正等身大の肖像が安置されている。
もっと違う生き方ができるはず!
ふと、いま現在に??を持つことにもあるでしょう。「このままでは、生きがいを見つけられない」と。でも、それは頭の中だけの考え事ではないでしょうか。体験からそのような疑問が出ているのなら、「あの練習(勉強)をすれば、できるようになるかもしれない」など、何かしらの方法を見つけようとしているはずです。情報や知識だけから「ああなりたい」と考えていると、具体的な行動に移ることができないまま、頭の中に??を残したまま、過ごしてしまうことになるのでしょうか?
鎌倉 銭を洗うと百倍、千倍になるという「銭洗弁天」
鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝の夢枕に、一人の老人が現われた。「西北の方向に仙境があり、きれいな泉が岩の間から湧き出ている。そこは清浄な地で、福の神が住でおり、その水を使っている。その水は神の霊水である。この水を使って神仏を祀(まつ)れば、国内は平穏に治まる。われこそは隠れ里の主の宇賀神(うががみ)である」といい、やがて消えてしまった。
翌朝、頼朝が西北のほうへ行ってみたところ、たしかに泉があった。頼朝はさっそくそこに宇賀神を祀った。すると国は平穏になったという。
北条時頼が当社に参詣のおり、この水で銭を洗い、福銭としたそうです。その話から、銭を洗うと二倍にふえるという、いい話が誕生したらしい。
DNAに魂はあるか!
生物が生き残りのために子孫に、どのようにして生き残りのための情報を伝えるか? 言葉での伝達はできません(人類数十万年の歴史上の最近では言葉で伝達ができますが)。DNAのスイッチの、On/Offで子孫に伝えるしくみになっているのでしょう。疫病での生き残りも、DNAのスイッチの切換で対応してきたのでしょうか? このスイッチの切換がうまく機能しないと、絶滅していく運命なのでしょうか!
尾道 咲き競うボタンの「天寧寺」
開基は1367年に、尾道の人 万代道円の発願により、足利二代将軍義詮が父尊氏の遺志をついで工費を寄進し、普明国師を講じて開山したもので、宗旨は臨済宗、創建当時は東西三町にわたる宏荘な大寺院であった。本尊は宝冠の釈迦如来。
1389年3月、足利三代将軍義満は厳島参詣の帰途、船を天寧沖にとどめ舟橋をかけさせて上陸し、この寺に一泊して備後の守護山名氏の饗応を受けた。1688~1703年に、三原の宗光寺の一雲椿道によって再興され、そのとき改宗して曹洞宗になったが、1682年雷火のため全山消亡、わずかに後山の海雲塔を残すのみであった。
自律神経のバランスを正して!
足の裏からの情報は脳の活性化にも大事な情報ですね。足の裏は、痛みには少し鈍感なようですが、そのほかの情報にはものすごく敏感なようです。小さな異物でもすぐ感知します。また、バランスに関する情報収集も鋭敏なようです。歩行力の低下について「筋肉が弱っているからだ」とよく言われていますが、バランス能力の方が大事なようです。河原の小石がゴチャゴチャしている所を、下を見ないで歩けるようになるには、数十日以上の練習が必要です。バランス感覚の習得には時間がかかるようです!
愛川 「私は半僧です」と答えた「勝楽寺 半僧坊」
半僧坊や田代の半僧坊と呼ばれている勝楽寺。遠州奥山方廣寺(静岡県浜松市北区)より勧請した半僧坊大権現が祭られていることから、「田代半僧坊」と呼ばれています。
半僧坊大権現は、後醍醐天皇の皇子「無文元選禅師」が方廣寺へ御入山の際に出会った白髪の老人を弟子として、日々の作務等を怠ることなく随侍しました。
禅師が「おまえは半ば僧形である」と言うと、老人は「私は半僧です」と答えたことから半僧坊と呼ばれるようになったそうです。
その後、無文元選禅師が亡くなると、姿を消したと言われています。
具体的な指示をしてあげるまでは動かない!
変化の時代に突入した今、指示待ちでは、変化について行くのは大変です。そんなときは、変化に対応できるリーダーに、ついて行くしかないのでしょう。それも懸命な一つの選択なのでしょう。子ども時代に、自由に過ごせた人は、現状の変化をよく観察し、何かしらのきざしを見つけていくことも一つの選択なのでしょう!
鎌倉 芝増上寺から移設も「建長寺 仏殿、法堂」
仏殿は、芝増上寺にあった崇源院(徳川秀忠の夫人、浅井長政の娘、お江)の霊屋を1646年に譲り受けたもの。
現在の仏殿(国重文)は、1628年(寛永5年)に芝増上寺建てた、江戸幕府第2代将軍の徳川秀忠の夫人だった崇源院(すうげんいん)の御霊屋(みたまや)の拝殿を、1647年(正保4年)に移転したもので、天井や壁に華麗な装飾がみられます。
マグロは水銀濃度が高い!
今では水銀は毒物として認識されていますが、50~60年前までは、皮膚・キズの殺菌・消毒に用いられていました(通称:赤チン)。もっと昔は、中国で不老不死の薬として皇帝も利用していました。また、奈良の大仏のように金メッキをするときに大量に使用され、お寺などの朱塗りにも使われていました。日本では水銀は、古くから戦国時代の頃まで重要な輸出物質だったようです。奈良から長岡京へ遷都したのも、水銀や銅の精錬時の毒物の原因の一つだったのでしょう!