漢方では、食べ物と健康との関係を長年調べ、場合によっては、占領した地域の住人を人体実験に使い、開発してきたようです。
いろいろな測定器などがなかった時代、健康に暮らすにはそうするしか無かったのでしょう。
その結果、食べ物について蓄積された情報は、厖大な情報があるのでしょうが、学ぶチャンスはコマーシャル中心で、漢方に興味のある人達以外は、食べ物の人体に対する影響を、あまり知らないですね!
福山 鞆 法華経こそ仏の真の教えと日蓮宗「妙蓮寺」
慶長年間(1596~1614)に実相院日玖が創建したと伝えられています。実相院日玖は元気で充実した年頃に日常のつきあいを断ち、法宣寺十四世恵性院日親の弟子となり、修行し、法華経を読すること40年、一万二千余巻におよんだ。
福山藩主・水野勝成殊勝に願い、寛永の末(1644年頃)今の地を賜い、三人扶持十一石を賜る。
本堂は、主として浄財を募り建立。上京し、本山から山号・寺号を請受した。
福山二代藩主・水野勝俊からの庇護もあり、その勝俊の位牌が伝わる。
承応年間(1652~1654年)に建立したと伝えられる三十番神堂があり、二代・日護の時、延宝年中(1673~1681)奉行・藤井六郎右衛門に願い出て、境内門前を広げ、四代・日義、元文四(1739)年に鐘を鋳造した。
妙蓮寺本堂、鐘楼、山門とも元文年間(1736~1741)に再建された。
関税は、国の経済を発展させるが戦争も起こす!
鎌倉 北鎌倉駅方面の街並みが良く見える「八雲神社」
チャレンジと失敗を繰り返すことで、うまくいくようになる!
尾道最大の磨崖仏、浄土寺山「不動岩」
江戸末期の木版画にはすでに描かれており、年号作者らと岩のまわりをみまわしたものの発見できず。
(岩の向きと背景は、現実には一致しません)
浄土寺山は瑠璃山の別名をもつ。浄土寺山8合目あたりに巨石が「不動岩」です。巨岩に不動明王が刻まれています。
不動明王は、真言宗をはじめ、天台宗、禅宗、日蓮宗等の日本仏教の諸派および修験道で幅広く信仰されています。
密教の根本尊である大日如来の化身で「お不動さん」の名で親しまれ、大日大聖不動明王、無動明王、無動尊、不動尊などとも呼ばれており、特に日本において根強い信仰を得ております。真言宗では大日如来の脇待として、天台宗では在家の本尊として置かれる事もあります。
浄土寺山の麓に真言宗の浄土寺があり、不動明王を刻み込んだのでしょうか。
この巨石の上部が展望台になっています。上から岩を見ると、大阪城築城のため岩を割ろうとしたのか、彫ったくぼみがいくつかあります。
お金に重きを置くと、お金はあっても人々が飢えてしまう!
厚木 平安初期の美人小野小町を祀る「小町神社」
この小町神社は、その昔鎌倉時代「丹後の局」という世にもまれな美人がおり、ひそかに源頼朝のご寵愛を受け終に局は身ごもりました。これを知った婦人政子は大変ねたみ、畠山重忠に局を由比ヶ浜で首をはねよと命じました。重忠は家臣の本多次郎に命じ局を浜へ伴い殺そうとしましたが、局の身を哀れみ身代わりを立てその場をつくろい、乳兄弟で小野の住人川上酒匂の屋敷にかくまい局を助けました。然しいつとはなくその事が政子の耳に入りその怒りは骨髄に徹する程厳しく、局は俄かに白髪の姿になってしまいました。局は心を静め考えた末、俤(おもかげ)のかわらで年の積れかし、たとえ命に限りあるとも」という古歌を短冊に書き心身を清め十七日間一心に小町姫を祈った処、満願の日に元の黒髪に戻りました。局は霊験の尊さを感じ小野の林中に小町神社を建てました。それ以後三十歳以下の男女で白髪の人が心厚く小町神社へ祈ると黒髪に変わり、遠方の人々も参詣に来る様になりました。その後局は泉州住吉で玉の様な男子を生みました。その子が後の薩摩の島津家の祖先だと人々は伝えています。
伝者 別当 小野山宮野院 (表示板より)
2時間ドラマの舞台になることが、観光地になる第一条件!
鎌倉 龍口寺を守るために開いた「東漸寺」
立正安国論を著してから4年後の文永5年(1268)に、元(蒙古)の国書が鎌倉に届き、元の襲来が現実のものとなった。日蓮は「元寇」の予言が的中したとして、再び幇府の要人に立正安国論を呈上し、また諸方の有力者にその趣旨を書いて送り、日蓮の持論による国難の回避を主張した。
文永8年には北条時宗が第8代の執権となったが、時宗はこのような日蓮の言動は世を惑わすものとして日蓮を捕え、龍の口の刑場で斬罪に処すことにした。その年の8月12日、日蓮は刑場に引かれて斬られることになったが、刑吏の武士が刀を振りかさした時、江の島の方角から満月のように光り輝くものが刑場に近づいた。刑吏は目が眩んで地に伏し警備の武士たちも恐れて逃げ散ったという。
自分の短所ばかりでなく長所を見つける!
尾道 向島とを結ぶ航路「福本渡船」廃止になります!
朝鮮半島は、西暦300年代に独立の国づくりが進んだ!
鎌倉 鎌倉では珍しい五重塔「龍口寺」
「他人の痛みを思いやること」を教えるには!
福山 共 元は沖見堂と称し鞆港に近い西町にあった「本願寺」
福山藩では時宗の寺院は珍しく、江戸時代、福山領内の時宗寺院はいずれも鞆の浦にある原村の永海寺と、西町の本願寺の2寺だったそうです。永海寺はその後焼失して廃寺となってしまったので、現在は本願寺のみが孤塁を守っています。開基一遍上人の立像も安置されています。
時宗寺院の多くは海港に分布しています。福山の鞆には興楽山陽場院本願寺、雲波羅山福寿院永海寺があったのですが、永海寺は1754年に焼失し今はありません。本願寺は古くは澳(沖)の御堂と言われた。隣の港町尾道には海徳寺、常称寺、海福寺、西郷寺、慈観寺等が存しています。尾道の時宗寺院で最も古いと言われる海徳寺も沖の道場と言われ、かつては尾道港の沖にあって常夜燈をつけて行き交う船の標となっていたのではと推察され、本願寺もかつては現在の場所ではなく海辺に寄った所にあり海徳寺と同じ役割を果たしていたのではないでしょうか。
“聴き上手”は、言葉を変えていえば〈思い遣り〉のこと!
日蓮の弟子日賢が1309年 に開いた「本成寺」
性格は、生まれつきものと環境の影響の組みあわせ!
尾道 隠された謎があるのか? 向島「岩屋山」

岩屋巨石ははるか昔に人が造形したと考えられている岩です。
それは人造の傷跡があることから推測され、岩屋巨石のその造形は古代太陽信仰に基づいた太陽の周期とリンクしたものになっており、古代人の歴の知識が込められていると考えられます。
また、この岩屋山の山頂には尾道水道を見渡せる絶景のパノラマビューがあり、尾道三山の寺院(千光寺、西郷寺、浄土寺)と、この岩屋山との不思議な関係を眺望することができます。
(「岩屋山ミステリーツアー」の案内板より)