福山 鞆の浦で2番目に古い「医王寺」

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 「医王寺(いおうじ)」は他の社寺から少し離れた山手に位置しています。医王寺までの坂道は少なからず急で遠いのですが、境内からの眺望はその苦労に十分値するものです。
医王寺の足下の街道沿いには、江の浦・「焚場(たでば)」の集落が道沿いに細長く広がり、その向こう側に鞆港が大きく弧を描いています。さらに、港の北に広がる鞆の町並みの向こうには、仙酔島(せんすいじま)が望まれます。晴れた日の早朝にここを訪れれば、その景色を茜に染める朝に出会うこともできます。

福山 おっぱいがいっぱい「阿武兎観音」

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 岬の岩頭に建つ朱塗りの観音堂は、その美しさから安藤広重(歌川広重)の浮世絵や志賀直哉の「暗夜行路」などにも紹介されており、今も瀬戸内の自然と調和した見事な景色をつくり出しています。現在、観音堂は国の重要有形文化財に指定され、安産・子育ての観音様として信仰を集めています。

福山 鞆 坂本龍馬と紀州藩「いろは丸展示館」

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 いろは丸事件ば、慶応3年(1867)4月、龍馬は海援隊を組織し伊予大洲藩から借げ受けた西洋式の蒸気船「いろは丸」に乗って長崎から大坂に物資(鉄砲)を運ぶ途中、岡山県六島沖(現在の同県笠岡市)で、紀州藩の蒸気船「明光丸」に横から衝突されたのです。明光丸は鞆港へ向けて、いろは丸を曳航しようとしましたが、浸水のため宇治府沖で沈没してしまいました。
 このため両者は鞆の浦にとどまりの損害賠償について昼ゆ夜交渉を繰り返しましたが決裂し、舞台を長崎に移して再交渉を行いました。最終的に、龍馬側が賠償金を受け取る、ことでようやく決蒲ししました。
 この事件は、坂本龍馬が暗殺(この時、龍馬33才)される半年前のことです。

福山 鞆 朝鮮通信使が宿泊した「福善寺対潮楼」

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朝鮮通信使、福禅寺で安らぐ
 朝鮮通信使は、江戸時代、将軍の代替りごとに朝鮮国王から派遣された祝賀使節で、1607年から1811年までに12回(うち1回は対馬まで)日本に来ました。
「福禅寺」境内の本堂に隣接する客殿は、「対潮楼(たいちょうろう)」と呼ばれています。水道を挟んで仙酔島・弁天島に対面するこの客殿座敷からの景色は素晴らしく、ここを宿所とした朝鮮通信使との交流でも有名です。

福山 鞆 戦国時代以前は島であった「圓福寺」

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 「大可島(たいがしま)」山頂からは、足下に従える鞆の街と港を除いて、遠く四国に至るまでの瀬戸内と島々の広がりを一望することができます。ここに砦を築けば、目の前の瀬戸内の往来のすべてに睨(にら)みをきかせることが可能になります。
大可島城は、鎌倉末期から南北朝期に築かれたといわれています。現在では陸続きとなっていますが、当時は鞆の街との間も水道で分かたれていて、文字通り「大可島」という島でした。

福山 鞆 潮待ちの港だった「鞆港」

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 鞆の浦は、『万葉集』の大友旅人の歌にも詠まれた、全国でも最古の長い歴史を持つ港町で、鎌倉・室町にも江戸時代にも大いに栄えた大都市でした。
靹の浦の「鞆」とは、弓を引ぐときに手首に巻いた丸い革製の防具のことで、半円形に巻き込んだ海岸の地形が、鞆に似ていることから名づけられたといわれまます。
江戸中期頃まで、船の航行能力はさほど高くなく、潮の干満を利用しながら沿岸近くを航行するのが一般的でした。そのため、瀬戸内海のほぼ中央に位置する靹の浦は、干満による強い潮流を応用した航法における「潮待ちの港」として、最も重要な港町でした。

福山 鞆 神功皇后の妹が祭主として奉任「淀媛神社」

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 神功皇后が三韓征伐のため西国下向の際、鞆の浦の地に寄泊しました。帰路携帯していた「鞆」を奉納し、海神・大綿津見命を祀った際に、妹君の淀媛命を祭主として奉任させました。その神社が沼名前神社(渡守神社)の起源です。
数年後に淀姫命は鞆の浦を去りましたが、後世その特を偲び氏神として奉斎し、鞆の浦湾の入口の丘の上に鎮座する護り神として現在に至ります。

福山 岬の岩頭に建つ観音堂「阿武兎観音」

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 岬の岩頭に建つ朱塗りの観音堂は、その美しさから安藤広重(歌川広重)の浮世絵や志賀直哉の「暗夜行路」などにも紹介されており、今も瀬戸内の自然と調和した見事な景色をつくり出しています。現在、観音堂は国の重要有形文化財に指定され、安産・子育ての観音様として信仰を集めています。

福山 鞆 朝鮮通信使の常宿としても利用「正法寺」

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 1598(慶長3)年に創建された臨済宗の「正法寺」。京都の東福寺派・守意を開祖とした400年の長い歴史を持つお寺で、江戸時代には朝鮮通信使の常宿としても利用された名刹です。
 境内のお堂には、鞆町の信者により寄進された十六羅漢像が安置されていますが、実はもうひとつ、隠された十六羅漢があるのです。それが、奥座敷にある十六羅漢の屏風絵です。この水墨画は、鞆の絵師・門田勝人さんの筆によるもの。ふたつの十六羅漢、ぜひ鑑賞したいものです。また、お寺の鬼門の北方には、毘沙門天も安置されています。

福山 鞆 シーボルトも訪れた「医王寺」

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 医王寺は、平安時代に弘法大師によって開基されたと伝えられるお寺です。
「医王寺」は他の社寺から少し離れた山手に位置しています。医王寺までの坂道は少なからず急で遠いのですが、境内からの眺望はその苦労に十分値するものです。
医王寺の足下の街道沿いには、江の浦・「焚場」の集落が道沿いに細長く広がり、その向こう側に鞆港が大きく弧を描いています。さらに、港の北に広がる鞆の町並みの向こうには、仙酔島が望まれます。晴れた日の皐朝にここを訪れれば、その景色を茜に染める朝日に出会うこともできます。