今から千八百数十年前、第十四代仲哀天皇の二年、神功皇后が西国へ御下向の際、この浦に御寄泊になり、この地に社の無きことを知り、斎場を設け、この浦の海中より涌出た霊石を神璽として、綿津見命を祀り、海路の安全をお祈りになられたのが、当社の始まりです。
さらに、神功皇后御還幸の折、再びこの浦にお寄りになり、綿津見神の大前に稜威の高鞆(いづのたかとも(弓を射る時に使った武具の一種)を納め、お礼をされたところから、この地が鞆と呼ばれるようになりました。
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いろは丸事件ば、慶応3年(1867)4月、龍馬は海援隊を組織し伊予大洲藩から借げ受けた西洋式の蒸気船「いろは丸」に乗って長崎から大坂に物資(鉄砲)を運ぶ途中、岡山県六島沖(現在の同県笠岡市)で、紀州藩の蒸気船「明光丸」に横から衝突されたのです。明光丸は鞆港へ向けて、いろは丸を曳航しようとしましたが、浸水のため宇治府沖で沈没してしまいました。
このため両者は鞆の浦にとどまりの損害賠償について昼ゆ夜交渉を繰り返しましたが決裂し、舞台を長崎に移して再交渉を行いました。最終的に、龍馬側が賠償金を受け取る、ことでようやく決蒲ししました。
この事件は、坂本龍馬が暗殺(この時、龍馬33才)される半年前のことです。


















