「利き腕・足」に頼らないことも重要!

 「利き腕」というものがありますね。ふと縄文土器の模様を見ていたとき、これを作った人は「右利き」・「左利き」と思ってしまいました。
 展示物には、「右利き」・「左利き」の人が作ったとの表示は見たことがありません。これは時代が変わっても見ませんね!

「利き腕・足」に頼らないことも重要!

 「利き腕」というものがありますね。

 ふと縄文土器の模様を見ていたとき、これを作った人は「右利き」・「左利き」と思ってしまいました。

 展示物には、「右利き」・「左利き」の人が作ったとの表示は見たことがありません。

 これは時代が変わっても見ませんね!

座間 家康と関係の深い寺「宗仲寺」

 駿州(静岡県)久能山に仮埋葬された徳川家康の遺骸は、家康の遺言により一年後、野州(栃木県)日光に移送されることとなった。
 遺骸移送につきそう行列は千人近くに達し、荘厳の中にも悲しみを秘めて、1617年3月18日に出発した。途中、小休止する場所、宿泊する場所は、家康ゆかりの地が選定されていた。
 家康の遺骸移送の行列は、座間宿に入り宗仲寺で小休止をした。座間宿に到着した一行は、遺骸を寺の境内に建てられた御殿に安置して、地頭内藤若狭守等の心づくしの接待を受け、昼も近かったので弁当の馳走にあずかり緊張感しばし解きほぐしたことであろう。
 その間座間宿村では、町田の木曽村までの役夫として人足三人、馬一頭を整え、一行の出発を見送ったと「宗仲寺史」に記されている。

「お笑い」というオブラートで包む!

 許せない人が三人以上いる場合は、小さいときから我慢をしてきた人だそうです。
 大阪の文化である「お笑い」は、他
人を許す文化なのでしょうか?
 お笑いをまじえての批判は、受け取る側は“軽い”批判として受け取れます。
 言った人に対し、憎悪感はほとんど生まれません。
 日本文化の根底に、「お笑い」が生き残っていきたいですね!

尾道 石造の神亀が手水舎に「艮神社」

 石造の神亀(しんき)

 神亀には耳があり、繊細に掘りがされています。亀の口から水が出ています。「亀は万年」と言われて縁起が良く、亀の長寿にあやかったものなのでしょうか。
瑞祥の動物として神聖視されたカメ

 古来、カメは瑞祥(ずいしょう:めでたいしるし)を告げる動物として崇められました。たとえば715年に元正天皇が即位したとき、松尾大社の御手洗谷に霊亀が現われたことを瑞祥とし、元号が「霊亀」と改められた。聖武天皇の時代の729年には背中に「天王貴平和百年」という文字が浮かび上がった霊亀が献上されたため、「天平」と改元されています。また、770年、肥後国より白い亀が献上されたことから「宝亀」と改められるなど、カメと改元が結びつけられた例は多く残る。カメを神聖な動物として信仰していた様子がうかがえます。

「昔はよかった」と、過去というのは都合よく現れる!

 年齢を重ねたとき、「昔はよかった」という生き方は、できればさけたい。
 「昔はよかった」には、自分の個人的な問題もあれば、技術的な変化による問題もある。
 技術的な問題は、その解決の方向性を探ることで対応が可能ですが、個人的な問題は、過去の自分の生き方の問題なので、やっかいですね。
 よく思えるように、都合よく粉飾するしかないのでしょうか?
 または、都合の悪い過去は、忘れるしかないのでそうか?
 どちらにせよ、過去を考えるより、今後の未来に時間をかけていく方法がよいのでしょうね!

鎌倉 観音さまを安置するのによい場所「杉本寺」

 鎌倉で最も古い天台宗の寺です。寺の伝えによると、731年(天平3年)行基菩薩(ぎょうきぼさつ)が関東地方を歩いたとき、鎌倉の大蔵山から町を眺め、
 「こここそ観音さまを安置するのによい場所だ。」
と思い、人間の大きさぐらいの仏像を彫刻しこの山に安置したそうです。現在、本堂内に本尊として三体の十一面観音像がまつられていますが、内陣の左側に立っている平安時代のころの作という本尊がこれだといわれています。
 その後、光明皇后(こうみょうこうごう)は夢の中で、
 「東国には中央のカがいきわたらず、悪人が絶えない。願わくば、財宝を寄付して、東国の人々を救ってください。」
という言葉を聞き、不思議に思い行基に尋ねたところ、
 「それはたぶん、私が鎌倉の里に安置した観音菩薩の言葉でありましょう。」
と答えました。そこで光明皇后は右大臣藤原房前(ふじわらふささき)と行基に命じて、財宝を寄付して734年(天平6年)の春、この寺を開いたと伝えられています。

 鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より

鎌倉 観音さまを安置するのによい場所「杉本寺」

 鎌倉で最も古い天台宗の寺です。寺の伝えによると、731年(天平3年)行基菩薩(ぎょうきぼさつ)が関東地方を歩いたとき、鎌倉の大蔵山から町を眺め、
 「こここそ観音さまを安置するのによい場所だ。」
と思い、人間の大きさぐらいの仏像を彫刻しこの山に安置したそうです。現在、本堂内に本尊として三体の十一面観音像がまつられていますが、内陣の左側に立っている平安時代のころの作という本尊がこれだといわれています。
 その後、光明皇后(こうみょうこうごう)は夢の中で、
 「東国には中央のカがいきわたらず、悪人が絶えない。願わくば、財宝を寄付して、東国の人々を救ってください。」
という言葉を聞き、不思議に思い行基に尋ねたところ、
 「それはたぶん、私が鎌倉の里に安置した観音菩薩の言葉でありましょう。」
と答えました。そこで光明皇后は右大臣藤原房前(ふじわらふささき)と行基に命じて、財宝を寄付して734年(天平6年)の春、この寺を開いたと伝えられています。

 鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より

作物は、一度に熟すほうが収穫しやすい!

 野生の植物は、生き残る確率を高くするため、一度に熟さず、ばらつきがあった。
 人間が食べる保存がきかない野菜や果物類は、冷蔵庫が無かったため、ばらついて熟成する性質を利用した。
 しかし、保存が利く穀物類は、ばらついて熟成すると、効率が悪いため、一斉に熟成するものを選んでいった。
 そのため、半農半漁のように兼業する働く方法が可能となった。
 米は、田植えの時期と収穫の時期以外は、あるていど時間がある。そのため、農機具の整備や近隣の草取りなどをやっているのでしょう。
 いろいろな仕事はあるのでしょうが、専門家を養成したり、その専門家の仕事をロボット化するなどして、合理化する方法はないのでしょうか?
 いまでも半農半漁ではなく、半農半サラリーマンの人もいるのでしょうね!

厚木 北条氏家臣による創建「法界寺」

 法界寺は荻野新宿の中央に現存し、戦国時代の末期北条氏家臣松田右兵衛大夫康長の創建によるもの、
 その後近世初期僧党誉の中興もあり壮大なる本堂を中心にして現存している浄土宗の寺です。
 新宿日吉神社脇の大山街道沿いにあり、江戸幕府の山中藩参勤交代の「殿様道」に山門を構えた名刹です。
 北条氏直が荻野郷の地頭松田康長に命じて造営。秀吉の小田原攻めの際、兵火にかかり以前のような繁栄は失われたことが相模国風土記稿に記されています。

尾道 奇祭ベッチャー祭の「吉備津彦神社」

 寶土寺西側の鳥居のある一劃は吉備津彦神社、俗にいう一宮さんで、毎年11月3日文化の日に、尾道全市の子供たちを湧き立たせる奇祭ベッチャー祭の祭神で、ベタ、ソバ、ショーキーはこの神社から繰り出すのである。

 神輿と獅子頭を先頭にベタ・ソバ・ショーキーの三鬼神が市内を練り歩き、子どもたちを追い回す神事。「ベタ」「ソバ」が持っている「祝棒」で突かれると子宝に恵まれ、「ショーキー」が持っている「ささら」で叩かれると頭が良くなるとされ、子供達は「ベッチャー、ベッチャー」とはやし立てる。江戸時代に流行した疫病退散祈願から始まった西日本有数の奇祭。

「桃太郎」の話しに関係があるのでしょうか?

 吉備の国は、後の令制国では備前国・備中国・備後国・美作国吉にあたるとのこと、尾道は備後国だし、桃太郎は、犬・猿・雉を家来にしている。ベタ・ソバ・ショーキーが三匹の家来だとすると似ています。それに、子供達を追い回し、叩いたりしています。

ものの見方を変える!

 退職しても、「何かやること」をできる早く準備しておくことが大事です。
 仕事をしている間は、なかなか難しいのですが、できれば「同じやり方」で、その対象が仕事なのか、趣味なのかと、切換ができると退職しても続けやすいです。
 私の場合は、データベース(Access)で対応しました。
 仕事をしている間は、仕事に関係する情報をデータベースに蓄積、同時に自分が興味がある情報もデータベース化しました。
 仕事の比重が下がると、趣味の情報収集の比率を上げる、時間を持て余すことはありません。
 そして、蓄積した情報を検索し、組合せ、何かを発見する、という趣味になります。
 現在は、生成AIがやってくれますが、自分流の「知的生産の技術」を趣味にしてもよいのではないでしょうか!

鎌倉 水戸光圀が7日間ほど逗留「英勝寺」

 太田道灌の屋敷跡と伝える。扇ケ谷にある浄土宗寺院。鎌倉唯一の尼寺。山号は東光山。寺地は太田道灌の屋敷跡と伝える。開山は英勝院長誉清春。徳川家康の側室でお勝の局といい、太田康資の女(むすめ)。寛永十三年え(1636)開堂供養。第一世庵主は水戸頼房の女小良姫(清因尼)。以来、住持は水戸家からむかえたので、水戸様の尼寺とされた。仏殿・祠堂・鐘楼・庫裡・書院・宝蔵庫などのたたずまいは美事である。
(「鎌倉 趣味の史跡めぐり」[文献]『市史』社寺編、小丸俊雄『東光山英勝寺』より)

スキルに頼らない賭博や宝くじ、非任意性の連続が起こる!

 賭博というものの多くは、「偶然」に期待するものがほとんどです。
 これは、自分の能力になにかしたの自信の無さからなのでしょうか?
 視点は変わりますが、ネット上での批判も、やはり自分の自信のなさから起きているのでしょうか?
 自信がないにも関わらず、偶然の結果が良いほうに転がると、自信を得ることができます。
 ネットの場合は、コストがそれほどかからないので、広がる可能性は高いですね!

鎌倉 石仏補陀落迦観自在窟 「円覚寺 大方丈」

 円覚寺は禅寺として知られ、鎌倉五山第二位の寺格を持っていた名刹です。執権・北条時宗が創建。正式な名称は、瑞鹿山円覚興聖禅寺。
 開山は、宋僧の無学祖元です。
 蒙古襲来で有名な文永・弘安の役では、唐軍にも鎌倉方にも多くの死者が出ました。
 北条時宗がそれら武将たちの菩提を弔うためと、鎮護国家を祈願して弘安五年(1282)に、この円覚寺で開堂供養が行われたのでした。
 開山の無学祖元には逸話が残っています。
 蒙古の元軍が乱入し、祖元の首筋に元軍の兵が白刃を当てたが、それに動じず、逆に説法したといいます。

最近の異常な犯罪は、子供時代の学びにあるのでしょうか?

 「ガキ大将」という言葉が消えて数十年たちます。ガキ大将とは、子供時代に年齢の違う子供達が、一緒に遊んでいた頃のリーダー役の呼び名です。
 ガキ大将は、小さな子供の体力を見ながら、どんな遊びを、どのようにして遊ぶか、同時に、年齢の違い子供が楽しく遊ぶにはどうするか、いろいろと工夫していました。
 子供時代に、「縦社会のノウハウ」を身につけていたのです。
 リーダーの役割だけでなく、、小さな子供達も、リーダーという者の役割を学んでいました。
 そのような学びの中で、社会での行動の仕方を身につけていました。
 また、年齢の違う子供達の集団は、同学年での競争は、それほど気にすること無く遊んでいたので、不登校も無かったのでしょう!

相模原 西部 鎌倉幕府や北条氏の保護が「無量光寺」

 1261年 23歳の一遍はこの地を訪れ、草庵を設けたのが始まり。その後上人は2度この地を訪れた。その高弟である他阿真教が1303年2月に遊行を終えて止住するために念仏道場を開いたのが起源であろう。1319年に真教が亡くなると、初期時衆教団の聖地となり、参詣者が引きも切らなかったことが他阿呑海の法語に遺っている。
 鎌倉幕府が滅亡したとき、鎌倉幕府からの帰依を受けた無量光寺は一時衰退した。
 戦国時代に無量光寺は歴代小田原北条氏の保護を受け、南関東を中心に勢力を誇った。しかし1590年に小田原北条氏が滅亡し、たび重なる火災のために、再び不振となった。

プラスに考える知恵の言葉 …… 一遍
「身を捨つる人はまことに捨つるかは捨てぬ人こそ捨つるなりけれ」
 一遍は、伊予国の豪族・河野通広の子。河野氏といえば、瀬戸内海の水軍を率いた有力な武士である。しかし、承久の乱で京方について没落し、一遍が生まれたころは、かつての力を失っていた。

本田宗一郎、小さな工場時代「ホンダはやがて世界一になる」と宣言!

 関税対策で、アメリカへの投資も考える必要が出てきています。
 これは、これからのアメリカ市場の動向がカギですね。
 事業家のほとんどは、お金に執着しています。事業家出身のトランプ大統領もそうなのでしょう。
 大きな投資をし、たとへ失敗しても社会に貢献できる投資が、ベターなのですが!

尾道 夕方“鐘の音”が市街に響く「千光寺」

 見晴らしの良いところです。“観光のお寺さん”ですね。毎日夕方に撞く“鐘の音”が旧市街に響きます。

 寺伝によれば806年に空海(弘法大師)によって創建され、源満仲(多田満仲)によって再興されたというが確証はなく、中世以前の寺歴は判然としません。

 興趣千変万化、奇岩、奇勝など四季を通じて自然の神秘を探賞できます。

人間の体熱の40%は、筋肉より発生!

 運動不足が言われています。人間の耐熱の40%は筋肉から発生しているとのこと、運動しないと体温が低くなるのでしょうか。
 エアコンの効いた中で、椅子に座っていると体温は下がるのでしょうね。
 体温が下がると、免疫力も下がりますね!