
1080年頃に大発生した黒蜘蛛が疫病を蔓延させたが、当時「蜘蛛は益虫」とされていたため駆除ができなかった。
そこに中央より新羅三郎義光(八幡太郎吉家の弟)が、「朝見た蜘蛛は逃がせ、夜見た蜘蛛は殺せ」というスローガンをかかげ、多くの蜘蛛を焼き殺し駆除に成功した。その後、蜘蛛のたたりを恐れ神社が建てられた。当初「焼蜘蛛神社」では気持ちが悪いため、間もなく「祇園天王社」と改められ、その後、「八雲神社」になった。
もとは焼蜘蛛(やくも)神社だったとか。
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1080年頃に大発生した黒蜘蛛が疫病を蔓延させたが、当時「蜘蛛は益虫」とされていたため駆除ができなかった。
そこに中央より新羅三郎義光(八幡太郎吉家の弟)が、「朝見た蜘蛛は逃がせ、夜見た蜘蛛は殺せ」というスローガンをかかげ、多くの蜘蛛を焼き殺し駆除に成功した。その後、蜘蛛のたたりを恐れ神社が建てられた。当初「焼蜘蛛神社」では気持ちが悪いため、間もなく「祇園天王社」と改められ、その後、「八雲神社」になった。
もとは焼蜘蛛(やくも)神社だったとか。
国や地域には。それぞれに特性があります。しかし、情報化社会では、情報発信力の強い地域が、世間の常識としてとらえられます。
すると、それぞれの地域の特性に、気がつかなかったり、無視されます。
日本では、西日本と東日本では、地域の特性に関する気づきが違うようです。例えば、関西の大阪・京都・神戸・奈良など、それぞれの街の特性に違いがあると思っています。関東はどうでしょうか。東京・川崎・横浜・千葉・埼玉など、違いをどの程度意識していますか?
外国を見る場合、日本の感覚で見ていると、思いがけない勘違いをしてしまうことが、あるのでしょうね。
ロシアを見る場合はどうなのでしょうか? 日本の戦国時代のように、領土を拡大した者が英雄だった時代の感覚で、見た方が良いのでしょうか?
医王寺は、平安時代に弘法大師によって開基されたと伝えられるお寺です。
坂道や階段を上った先の後山(うしろやま)の中腹に、鞆の浦で2番目に古いお寺 医王寺があります。このお寺は826(天長3)年に弘法大師空海によって開基されたと伝えられています。その後、火災で焼失していますが、慶長年間に、鞆城代・大崎玄藩により再興されました。
高台にあるため眺めは最高で、鞆湾の全景が一望の下に見渡せます。
医王寺の足下の街道沿いには、江の浦・「焚場」の集落が道沿いに細.長く広がり、その向こ鞆港が大きく弧を描いています。さらに、港の北に広がる鞆の町並みの向こうには、仙酔島が望まれます。
文政9年(1826年)に、鞆に寄港したオランダの医師のシーボルトも、植物観察のために医王寺を訪れており、この景観を楽しんだでしょう。
浄土寺山の鎖場です。一番鎖、二番鎖、三番鎖と、山頂に向かって三ヶ所の鎖場があります。
この「くさり」は、四国石鎚山に参詣できない人々のために石鎚山修験道の縮小版として、修験者の修行の場を海龍寺の裏山に設けた、と言われています。
真言宗の開祖空海は、「自分が学ぶ上代の俗典は、俗事のことばかりであり、人の一生が終わってしまえば何の役に立つものではない。
この際、俗典の勉学はやめて、真実の教えの源を尋ねることに越したことはない」と、山岳修行者になられて、吉野の金峯山、四国は石鎚山、阿波国の大滝嶽、土佐国の室戸崎などで山岳修行に励まれました。
室戸崎では、ついに虚空蔵菩薩の化身である明星が身中に飛び込んで一体となるという神秘体験を得て、虚空蔵求聞持法を成就したという。
源頼朝(みなもとのよりとも)は、幕府をこの鎌倉の地に開いてから、日夜神や仏に祈って、人々の命を救おうとしていました。巳(み)の年の1185年(文治元年)巳(み)の月の巳の日の夜中、夢にひとりの老人が現われ、
「お前は人々のために何年も心配してきた。自分はお前のその真心に感心した。天下が安らかに、そして、人々が豊かに暮らせるように、大切なことを教えてやろう。ここから西北の方に一つの谷があり、きれいな泉が岩の間から湧き出ている。これは福の神が神仏に供えているという不思議な泉である。今、これをお前に授けるから、今後この水を汲んで絶えず用い、神仏を供養せよ。そうすると、人々が自然に信仰心を起こし、悪い者達はいつしかいなくなる。そして、お前の命令もよく行き渡り、天下は平和に栄えるであろう。自分はこのかくれ里の主の宇賀福神である。」
と言って姿を消しました。
古くからの街では、お地蔵さんをお寺の入口や道端でよく見掛けます。
六地蔵もお寺ではよく見掛けます。六地蔵は地獄・餓鬼・畜生・修羅・人道・天道の六道を能化する有難い佛様として昔から信仰されています。
また、多くの罪人たちが首を斬られた処刑場であった場所に、その供養のために、六体の地蔵が建てられたのが、六地蔵のはじまりであるとの伝えもあるようです。
お地蔵様は、天国に対する地獄の存在が強く意識されはじめると、一般民衆にもそれが浸透し、人々は、
「死んで地獄に落ちたら、どうすればいいのだろう……」
「地獄での苦しみから救ってくれるものがあるのならば……」
と、いう想いで、お地蔵さまに救いを求めるようになっていったとか。