熱中症は、ミトコンドリアが機能不全に陥るから!

 「熱中症」は、ミトコンドリアが機能不全になるためだ宋です。
 ミトコンドリアは、細胞の中の小器官で、酸素を使って生きるのに不可欠な「エネルギー」をつくり出す、発電所のようなものです。
 このミトコンドリアは、温度変化に対する適応力が低く、すぐ機能不全になってしまうようです。
 夏には、汗やクーラーで温度を低く保ち、冬は衣服や暖房で、体温を適温に保っていますね!

厚木 日蓮上人配流のとき逗留した「妙純寺」

 この地は、鎌倉時代に依知郷一帯を支配していたされる土豪の本間六郎左衛門重連の代官屋敷があったといわれる場所である。 妙純寺に伝わる縁起によると、鎌倉時代末期の文永8年(1271)9月に幕府の迫害を受けた日蓮上人が、佐渡に流される際に本間屋敷に数日滞在して「星下りの奇瑞」を現したという伝説が残されている。
 日蓮が書いたとされる「種種御振舞御書」に相模の依智の本間六郎重連の館で、日蓮が月天に苦言をいうと「天から明星のような大星がおりてきて梅の木にかかった」とあります。
 「星下り」伝説を伝える寺院は三つありますが、これらの寺が建っている場所はかって本間氏が館や屋敷を構えていた所といわれています。あえて特定するよりも謎のままでもよいのでは!

「雷が鳴れば梅雨が明ける」といわれるが、そうでもない!

“ 気候変動が激しくなった昨今、梅雨の時期は変化するのでしょうか?
 近頃の変化は、特定の場所の集中豪雨、土砂崩れが各地で起きています。
 酸性雨の影響か、花崗岩の岩も劣化しているように見え、崩れやすくなっているように感じます。
 昨今は、住宅地の開発で、山を削って広い道路を造り、元傾斜地に住宅がたくさんあります。
 幅の広い道路は、斜面を大きく削るので、よけいに崩れやすくなるのでしょうね!”

鎌倉 開山は空海と伝えられる「浄泉寺」

 以前は、山門も本堂も、江ノ電の線路の方を向いて建っていましたが、1955年(昭和30年)に国道134号線が造られた際に現在の位置に移されました。国道の工事中の1954年(昭和29年)に、浄泉寺墓地の南側と小動神社境内から、開元通宝(かいげんつうほう)・治平(じへい)通宝・政和(せいわ)通宝・洪武(こうぶ)通宝その他、宋(そう)や明(みん)の古銭が1000枚以上、約60kgも出土しました。

江戸時代の「士農工商」という身分制度!

 日本での身分制度はいつ頃からゆるやかになっていたのでしょうか?
 江戸時代の「士農工商」は、以前は身分制度とされていましたが、現在では、「いろいろな職業の人」と解釈されているようです。ということは、職業の違いはあったが、身分制度ではなかったようです。ただ、賤民と言われる身分はかなり最近まであったようです!

尾道 本来の本堂がない「宝土寺」

 開基は融海意観が1345~1349年の頃に開いたと伝えている。本尊は阿弥陀如来。1489年の古い記録には、「大日本備後御調群栗原保尾道之浦御所崎宝土寺之を」と記している。
 本堂の建物はありません。その代わり、空間的にはのんびりしています。
 このお寺さんは本来の本堂がない(敷地のみ)。
 かわいそうなことに本堂の建設資金がたまったとき、明治になり藩札が使用不可になり、価値がなくなってしまった。そのため、本堂を建てることができなくなってしまった、とか。

くつろいだ場での働きかけが、つきあいを長くする!

 「くつろぎ」の場があると、脳もリラックスします。
 昔は、仕事が終わると飲み屋に行く、ということが普通でした。いまも在るようですが、昔よりは少ないようです。
 スマホやパソコンで、大量の情報に触れていると、なかなか「くつろぎの場」を持てないですね。
 もちろんSNSにも、「ほっとする」画像などもあるのですが、広告が多く、頭は休まりませんね!

福山 鞆 「こがらっさん」の愛称の「小烏神社」

小烏の森つわ者どものときの声

 小烏神社は南北朝時代の古戦場としても知られています。
 1349(庄平4)年、足利尊氏の弟・直義の義子であった直冬は、中国(長門)探題として鞆の浦の大可島城に赴任していましたが、ちょうどその頃、高師直(こうのもろなお)と直義が対立。のち、直義が高師直によって追われたことを知った直冬は、高師直・尊氏と兵馬を交えることになります(小烏の合戦)。
 その骨肉相食む合戦の結果、鞆の浦の刀剣鍛冶が発達したのです。

 隣の港まち尾道の浄土寺に、足利尊氏と後醍醐天皇の書状が残っており、この辺りの支配権を争っていたようです。

本気でハッピーになりたければ!

“ 国の風土は、その土地の自然条件で決まるようです。自然条件の中でも、「雨」が大きく関わっているようです。
 雨によって、植物の育ち方が影響を受け、水路づくりなど、協力して作業をしてきたことが、「助け合い」を生み出すようです。
 地震も、土壌の豊かさに影響しているようです。
 乾燥地帯で、食料を求めての移動生活では、一家あるいは一族だけ生き延びることが優先し、他民族や他の一族に対して、敵対することが当たり前のようです。
 「シベリア抑留記」を読み、改めて感じました!”

鎌倉 廃寺禅興寺の名残りの塔頭「明月院」

 明月院にアジサイが植えられるようになったのは戦後。それまではなんの変哲もないお寺でした。垣根代わりに住職がアジサイを植え始め、次々と株を増やしてあじさい寺と呼ばれるようになりました。質素なお寺だった明月院かアジサイのおかげで有名になりました。

厚木 雨乞いの行事をした「白山神社」

“ 子供時代に「しつけ」が曖昧になると、大人になってから、変わることは出来ない。
 法律違反でなければ、何を言っても良い、という感覚が根づいてしまいます。ときには、法律さえ犯しても良いとなってしまいます。
 東京都の選挙活動でも見受けられましたが、法律さえ守れば良い、ということになっています。
 むかしの商人感覚では「法律は最低のマナー」とされており、もっと上のサービスを目指すことが、最低限のマナーでした。
 時代の変化が早くなったため、その場だけの成功を目指すようになり、その結果、「法律さえ守っていれば良い」ということになっているのでしょうか、ときには、法律さえ無視する人も多くなっているようです?”

厚木 雨乞いの行事をした「白山神社」

 子供時代に「しつけ」が曖昧になると、大人になってから、変わることは出来ない。
 法律違反でなければ、何を言っても良い、という感覚が根づいてしまいます。ときには、法律さえ犯しても良いとなってしまいます。
 東京都の選挙活動でも見受けられましたが、法律さえ守れば良い、ということになっています。
 むかしの商人感覚では「法律は最低のマナー」とされており、もっと上のサービスを目指すことが、最低限のマナーでした。
 時代の変化が早くなったため、その場だけの成功を目指すようになり、その結果、「法律さえ守っていれば良い」ということになっているのでしょうか、ときには、法律さえ無視する人も多くなっているようです?

ソクラテス哲学は「無知の知」に基づく「問答法」による!

 「知ったかぶり」をすると、他人からよい評価されるという感覚は、ソクラテスの時代にはすでにあったようです。
 これは人類の基本的な感覚なのでしょうか?
 ソクラテスは「無知の知」で、問答で真理にたどり着こうとし、インドで始まった仏教も、座禅をおこない真理に至るといっています。
 しかし、いつまで経っても「知ったかぶり」は消えません。
 やはり、社会には便利なものなのですね!

鎌倉 日蓮弟子の四条金吾頼基の屋敷跡「収玄寺」

 1271年 日蓮聖人の龍口法難の際、日蓮と共に殉死の覚悟を決した第二代執権義時の孫、江間光時の家臣の四条金吾の屋敷跡に金吾の滅後、捨身護法・法華色読の霊地として建立。
 創立当初は収玄庵と称したが大正末期の本堂改築を機に収玄寺と改称した。
 四条金吾は医術にも造詣が深く鎌倉、佐渡、身延にと終始日蓮聖人に給仕し法華信者の鑑として大聖人より厚い信頼を受けた。
 日蓮は、説法で「法華経こそ、仏の真の教えである」ということで、他の宗派を激しく批判したので、反発も強く、他宗を信じる民衆からは石や瓦を投げつけられてしまう。それでも、日蓮はひるむことなく布教活動を続け、確実に信者を増やしていった人。

人間の体表には200万個から500万個もの汗腺がある!

 日本ではエアコンが普及しています。それが「汗腺」の数にどのように影響しているのでしょうか?
 人間の体表には200万個から500万個の汗腺があるとのこと。赤道近くの人は汗腺の数が多いとのこと、暑さ対策のためなのでしょう。
 とすれば、エアコンを幼い時から日常的に使っていると、汗腺の数が少なくなり、熱中症の危険が高まっているのでしょうか?

尾道 平安時代の初め806年の鎮座の「艮神社」

 非常に神聖な感じを受ける神社ですね。
 この神社の真上を千光寺山へのロープウェイが通っています。ロープウェイの駅も直ぐそばにあります。
 “神様の真上をロープウエイで通るなんて”この感覚は尾道的なのでしょうか。尾道には神様も仏様も(隣近所に)たくさんいらっしゃるので、あまり気にしないのですね。
 大林宣彦監督の尾道三部作第2作「時をかける少女」のロケ地。(1983年公開)で原田知世さん演じる主人公の芳山和子が時空を超えて降り立った場所です。

たとえ不運に見舞われたとしても、へこたれない!

 鏡に向かって、自分に話しかけ、不安を和らげる、少し気分が和らぐようです。
 運がよい人は、不運に見舞われたとき、その対策が出来る人。その対策で逆境に打ち勝つことが出来る。
 過ぎ去ったことは過去、どうしようもないことです。過去の事実は記憶しておくのですが、感情は過去に置いてきましょう。
 すると、失敗が財産に変わっていきます!

尾道 夕方“鐘の音”が市街に響く「千光寺」

“ 寺伝によれば806年に空海(弘法大師)によって創建され、源満仲(多田満仲)によって再興されたというが確証はなく、中世以前の寺歴は判然としない。
 興趣千変万化、奇岩、奇勝など四季を通じて自然の神秘を探賞できます。
 唐から空海が帰国したのが806年、これ以降、真言密教が日本に広められた。ということは、806年に創建されたは??ですね。
 また、高野山金剛峯寺を修禅の道場として開創したのは816年のことで、真言宗の開宗はその頃とされています。”

人が持つ気持ちの中で、偉大なものの一つが「許す」こと!

 しかし、社会が欧米化して来ると、「どこまで許すか」ということが法律とは別に問題になります。
 社会風土として「何処まで許すか」、異常な犯罪まで生み出している現在、犯罪になる前に、「社会として防止するしくみ」は、やはり必要なのでしょう。
 むかしの「村八分」ではないですが、なにかしらのルールがあってもよいのではと、東京都の選挙ポスター問題で感じました!

厚木 「星下り寺」とも称される「妙伝寺」

 妙傳寺は、文永8年(1271)日蓮上人が鎌倉から佐渡へ配流される際、当地にあったとされる本間六郎左衛門尉重連宅内の観音堂に逗留、月に向かい法楽したところ、邸宅内の梅樹に明星が降臨する奇瑞が顕れたところから、本間六郎左衛門尉重連が帰依しました。
 日蓮上人は曼荼羅を授与、弘安元年(1278)には僧日源が草庵を営み、日蓮上人を勧請開山、本間重連・重直兄弟を開基として創建しました。
 日蓮上人配流に際して、無量光寺開祖一遍上人は、当所觀音堂に来て日蓮上人と謁見、以来無量光寺と当寺とで音信を取り合っていたと伝えられています。