「第六の絶滅期」到来と言われ出しました。生物の絶滅が、従来考えられていたよりはるかに多いことが、明らかになったためです。陸上にすむ哺乳類や鳥類、両生類、爬虫類合わせて2万7600種類のうち、実に3分の1近くの生息数、生息地が減少しており、なじみの深い哺乳類177種類では、その全てが1900~2015年の間に生息地の3割以上を失っていたそうです。ところで、第五絶滅期は約6550万年前、恐竜や翼竜、魚竜、アンモナイトなど生物種の70%が絶滅した時期です!
2019年のアーカイブ
鎌倉 新田義貞が開基した「九品寺」
開基は、新田義貞と伝えられています。1333年(元弘3年)新田義貞軍が北条氏を討つため鎌倉攻めをしたとき、この場所に本陣をかまえたということです。北条氏が滅びたあと、義貞は北条方の戦死者の霊を慰めるため、1336年(延元元年)この地に九品寺を建て、義貞が日ごろから尊敬していた風航順西(ふうこうじゅんさい)和尚を京都から招いて開山とし、戦死者の霊を厚く弔ったといいます。
山の上は気象台がほとんどないので初冠雪!
初冠雪の時期が来ました。最近は気象の変化が激しく、今までの経験だけで判断していたのでは、危険になることが多くなりました。思い込みは止めて、自分で自然の変化に注意し、気象情報と照らし合わせ、自分で判断することも必要になってきています。危険なときは、今までのように数kmの避難だけではなく、100km以上避難することも必要になってくるのでしょうか?
尾道 神聖な感じを受ける神社「艮神社」
艮神社は尾道で最初にできた神社で、806年の鎮座です。806年というと平安時代の初めで、千光寺と艮神社は創建の年が同じになっています。
同時期にこんな大きな神社と山にへばりつくような寺が建てられたのです。千光寺の工事はさぞ大変だったのでしょう。しかし、なぜこんなに近くに同時に大きな寺と神社を建てなければならなかったのでしょうか。
「病は氣から」自律神経の働きは!
自律神経は、血管をはじめ、あらゆる内臓器官を自分の意思とは無関係に調整してくれる神経です。自立神経の老化は、50代になると、ピーク時の10代に比べて1/3にまで低下するとの報告もあります。また、40代以降は副交感神経が低下しやすく、交感神経が過度に優位な状態に陥りやすい状態になります。これは脳の働きにも影響を与えているのでしょう。頑固で融通が利かない、怒りっぽい、新しいものが苦手などの現象と関わりがあるのでしょう!
厚木 安達藤九郎盛長が勧請した「八幡神社」
八幡神社は三田村の鎮守です。「新編相模国風土記稿」によれば、安達藤九郎盛長が勧請したと言い伝えられているとあります。本殿の規模は桁行(問口)6尺、梁行(奥行)5尺を測り、一問社流造としては荻野神社に次ぐ大きさです。
建築年代ぽ残された棟札(むなふだ)から元禄3年(1690)とみられます。
朱塗りを基調として、彫刻や組物などは極彩色としています。
都合の悪い情報が推理力を鍛える!
報告するとき(報告を受けるとき)、「良い・悪い」という判断をすることは、報告者(非報告者)の都合です。組織として、「事実に基づいて判断する」という基本が、出来ていないのでしょう。上司の顔色を見て動く組織になっているのでしょう。これは、変化の少ない時代、大組織においては、都合の良いこともあったのでしょう!
鎌倉 持仏堂があった所に「白旗神社(法華堂)」
白旗神社のある所は、源頼朝の館のあった大倉御所の北隅で、持仏堂があった所。頼朝の死後は、法華堂と呼ばれ、ここに葬むられていました。源頼朝の持仏堂であったことから鎌倉幕府の保護も厚く鶴岡八幡宮と並ぶ崇敬を集めた。
江戸時代末までは寺院として法華堂があった。明治維新に白旗神社と改められた。
生きているからこそ嫌な人間に会える!
「嫌な気分」を解消する方法としてウォーキングがあるようです。二足歩行では、脳はバランスを取ることに一生懸命で、他のことを考えるといったことには、ほとんど使われなくなるようです。悪い道や砂浜、綺麗な歩き方といった、より頭を使う歩き方をすれば、より効果があるのでしょう。それに、まわりの景色、鳥や虫の声、風や花々のにおいなどに心を向ければより効果があるのでしょう!
尾道 飲み屋街の入口にある「八阪神社」
この付近は、「新街」と呼ばれる飲み屋街。横道に入り込むと「迷路」です。しかし、どこかで広い道に出ますので、まあ、なんとかなります。しかし、酔っ払っているとどうなるかな?
志賀直哉が尾道に住んでいた頃は、この界隈を遊び回っていたのかな?
尾道の花街の人通りの激しい店先で、酒臭い乞食坊主が寝ているので迷惑この上ない。その人が俳人の種田山頭火であったとか。
わだかまりが蓄積する!
声をかけた相手の反応が悪いと、ついつい“イラッ”としがちですね。これを直すには、いろいろな知識を仕入れ、いろいろな人と接触を重ねていくことなのでしょう。そして、人を評価することを止めることができるようになると、ストレスが少なくなっていくのでしょう。多彩な雑学を蓄積していくと、いろいろな見方が、無意識のうちにでくるようななつようです!
鎌倉 平政子(北条政子)が創建した「白旗神社」
白旗社については社伝によると正治二年(1200)白旗大明神の勅号を賜って、平政子(北条政子、北条政子という名は近世以降になってそう呼ぶようになったようです。1218年以降1225年までは、朝廷や寺社には吾妻鑑に記載されている「平政子」を名乗っていたと考えられる。)が創建、また源頼家の造立ともいう。
現在の祭神:源頼朝と源実朝
「天正修営目論見図」には本宮の西側に白旗社があり、明治十九年柳営社(源実朝)と合せて現在地に鎮祭した。
赤ワインで注目すべきポリフェノール!
「酒は百薬の長」なのですが、顔が赤くなる人は気をつけたほうが良いのですね。仏教では、酒を飲んではならぬ、とされていますね。これは、飲酒せずとも、軽重問わず多くの「あやまち」を犯すもの。飲酒すると、意図的にその要因を増やすのは愚かなことである、というのが仏教の見解です。自分のからだにはよい面もあるが、他人に迷惑になることが増えるため、お酒を禁じているのでしょう!
尾道 盗賊三人の首を祀っている「海福寺」
1320年(1328年とも)遊行二祖上人の弟子、他阿上人の開基。本尊は阿弥陀如来。
入母屋造、瓦葺で、中央後方の部屋が仏間になっている。一番の特徴は、幅の広い縁側(広縁・ひろえん)の上に、ー枚ものの板をとりつけた鏡天井を設け、虹梁(こうりょう・緩やかな弧をえがいた梁)と桁でその天井を支えている点である。全体的に非常に簡素な造リだが、江戸時代の時宗本堂の遺構としては全国的にみても貴重である。
生きるとは、ガラクタを捨てること!
「今日、ちゃんと食事ができた。しあわせだなぁー」と思う人達が、アフリカにはいらっしゃるという。自然の中で生きていると、“今日(いま)”を大切に生きる、ということが身についているのでしょう。日本でもそうだったのでしょう。奈良時代以前は80万人程度、奈良時代で450万人程度、外国からの移民が多かったのでしょうが、それでも、現在の30分の1です。いま住んでいる土地の20~30倍の自然がまわりにあったのです。そこから食べ物を得ていたのでしょうが、自然災害も多かったのでしょう。そのとき、クルマなどありませんから運搬は出来ず、生きて行くには厳しかったのでしょう!
鎌倉 隠れキリシタンに門戸を開いた「光照寺」
1282年 鎌倉時代、布教の為に鎌倉に入ろうとした一遍上人の一行(おそらく尼を引き連れ、乞食同然の姿)は鎌倉につながる関所を守る武士達に拒絶され、やむなく、江ノ島に通じる街道筋に一夜の野宿をした、その野宿した跡地に建てられたのがこの光照寺で、一遍上人法難霊場となっている。
議論のとき、相手の逃げ道を!
「自分が正しい」と思っているときほど、聞き役に徹することが大切なようです。もちろん、「笑い」を引き出すことが出来れば最高ですが、それは難しいので、せめて、聞き役に徹することを目指したいですね。別の手法としては、カードを利用する方法がありますね。いろいろな意見をカードに記入し、似通ったもの、関連がありそうなものをグループ化し、整理する方法も有効ですね!
鎌倉 佐竹氏代々の居住地にある「大宝寺」
室町時代の1399年(応永6年)佐竹義盛が出家し、屋敷のそばに寺を建て多福寺と名付けたといいます。それがこの大宝寺の前身で、その後、廃寺になっていたものを、1444年(文安元年)、本覚寺を開いた日出(にっしゅつ)が再興し、多福寺の名を山号に残し、大宝寺に改めたと伝えられています。
本堂には、本尊の三宝本尊と四菩薩像、その前に日蓮上人像、左側に開山日出と新羅三郎義光の像、右側に出世大黒天と鬼子母神像などがまつられています。
組織はたえず異化作用が必須!
いまは、社会の変化、あるいは、自然の変化が激しくなってきています。絶えず異化(差異の著しい二つの性質を接近させるとき、両者の差異がさらにきわだつこと)作用をすることで、明日を見据えた変化を受け入れることが必要ですね。そのためには、同質化をさけ、個性を尊重することが必要です。学校教育も転換する必要が迫っているのでしょう!
尾道 かたい門は「持光寺」
持光寺の石の門(延命門)
「ええ門は福善寺、かたい門は持光寺」…童歌までに唄われた同寺の門はそのものズバリ、主体だけ17個からなる花崗岩を組みあわせトンネル状に築きあげた石の門。全巾が5m、奥行き3.5m、高さ3.5mで、通路が巾3m、高き2.8m。これだけの石を据え微塵の狂いを生じてないあたり、基礎に相当の配慮がはらわれているのだろう。約三百年前に建てられたものであろうが、当時の築構技術の粋をあつめた“石の町”ならでの逸品。