鈴鹿明神社は、遠く第二十九代欽明天皇の御代(539?~571?)に創祀せられたという。伝説によると、伊勢の鈴鹿郷の神社例祭に神輿が海上を渡御した折、にわかの暴風に襲われ、漂流して相模国入海の東峯に漂着した。里人が社を創立してこれを鎮守とし、鈴鹿大明神と崇め奉ったと伝えられている。また天平年間にこの地は鈴鹿王の所領で土甘(とき)郷と言った(正怠院文書)ところから、時人が王の御名を冠して鈴鹿の字名が発祥したとも推察される。
鈴鹿明神社は、往古、東南西方平坦な水田で、その中央ー丈余りの高所に、はるばる大洋を望むかの如く鎮座していた。境内は船の形をし、数十の樫の古木が繁茂し、参道中央に銀杏の大木があって、さながら船の帆の様であった。その遠景を人は「舟形の森」「樫の森」と呼んで親しんだが、今はその銀杏もなく、地形も変動して面影はない。
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座間 不動池には豊富な湧水が「心岩寺」
日蓮が佐渡国に流刑になるとき立ち寄った「圓教寺」
座間 源頼朝在世中に坂東八番の札所に「星谷寺」
座間 家康と関係の深い寺「宗仲寺」
座間 悪疫流行の折に飯綱権を祀る「座間神社」
「相模の飯綱さま」と親しまれている当神社の創祀は神代と云われています。 一つは欽明天皇の御代(539~571)に、坐摩郷(座間の古名)に悪疫が流行した折に飯綱権現の化身である白衣の老人が現われ、崖下の森の中に湧く清水を使うようにすすめたので、村人がそのすすめに従ったところ、悪疫はやみました。そこで飯綱権現を祀ったという。 また、仏教が日本に伝わったときでもあります。仏教はインドにうまれて中国や朝鮮半島から日本に伝わった。最初の仏教公伝は欽明天皇十三年(552)でした。百済の聖明王が日本に仏教を伝え、そして「仏教を受け入れなさい」ということを手紙に書いて送ってきた時のことです。このとき欽明天皇は、側近の人たちに「どうしようか」と相談をしました。この時、この問題に対して賛成をしたのが蘇我氏です。そして反対をしたのは、物部氏と中臣氏だそうです。 |
座間 美濃齋藤氏の遺臣が開拓し祀る「日枝大神」
座間 欽明天皇(539年即位)の御代に創祀「鈴鹿明神社」
座間 行基が金光星の如く輝くのを見た「星谷寺」
座間 裏山から湧水 し、水量も豊富「心岩寺」
座間 日蓮が石に文字を書くと泉が「圓教寺」
【円教寺に伝わる話】
鈴木弥太郎貞勝は、龍ノ口で日蓮上人に向かって振り上げられたものの、光る玉の出現で3つに折れた刀、「蛇胴丸」を作った人。
そしてあの事件の翌日9月13日、昨夜のうわさを聞きつけた鈴木弥太郎貞勝が、依知に向かって相模川を渡る前にぜひ自宅にお立ち寄り下さいと申し出たことにより日蓮の一行は貞勝の屋敷で休息を取ることになりました。 このとき貞勝は日蓮の教えに入信し、円教坊(えんきょうぼう)という名をいただきました。円教坊はこのあたりの水が刀作りに適さないことを話すと、日蓮は石に南無妙法蓮華経の文字を書き、「三十番神」をまつって地面を掘りました。その時わき出た泉がこの番神水だというのです。
座間 崖下に湧く清水悪疫を止めた「座間神社」
座間市 悪疫流行を抑えたお礼に「座間神社」
座間 家康が鷹狩りの途中に寄った「宗仲寺」
座間 伊勢鈴鹿郷の神輿が流れ着いた「鈴鹿明神社」
座間 星の谷観音堂として建立された「星谷寺」
座間 裏山の湧水が不動池に「心岩寺」
座間 山王大権現から改称した「日枝大神」
座間 日蓮人処刑を免れた刀とゆかりの「圓教寺」
円教寺に伝わる話
刀工鈴木弥太郎貞勝は、1271年、龍ノ口で日蓮上人に向かって振り上げられたものの、光る玉の出現で3つに折れた刀、「蛇胴丸」を作った人。
そしてあの事件の翌日9月13日、昨夜のうわさを聞きつけた鈴木弥太郎貞勝が、依知に向かって相模川を渡る前にぜひ自宅にお立ち寄り下さいと申し出たことにより日蓮の一行は貞勝の屋敷で休息を取ることになりました。 このとき貞勝は日蓮の教えに入信し、円教坊という名をいただきました。円教坊はこのあたりの水が刀作りに適さないことを話すと、日蓮は石に南無妙法蓮華経の文字を書き、「三十番神」をまつって地面を掘りました。その時わき出た泉がこの番神水だというのです。