「地産地消」と言われています。正月を除いて「芋」しか食べない島があるそうです。その島の人達の腸内細菌を調べると、芋の成分から、いろいろな腸内細菌が活躍し、体に必要な成分をいろいろとつくり出しているそうです。これが地産地消の原点にあるのでしょう。 世間では、いろいろな成分を組み込んだ健康食品が売られています。一人一人の調査委細菌との相性はどのようになっているのでしょうか? 専門家の知識は参考にはなるのですが、いつも常に正解だとはいえないのでしょうね。歴史はそのことを証明していますね! |
カテゴリーアーカイブ: あたまの散歩
アレルギー疾患の常識が変化!
伝統的な「村八分」はいじめと違う!
緊急事態は突然やってくる!
緊急事態は突然やって来ます。この「突然=予想外の物事が前触れもなく急に起こる」のときは、自分でとっさに判断するしかないのでしょう。 ただ、都会暮らしのときは、事前に情報を集め、考えさえすれば、予想内の出来事です。 しかし、自然の中では、多くのことが突然起こってしまうことがありす。そこでの対応力は、やはり子供時代に自然の中でどの程度遊び回ったかでしょう。例えば、足をかけたら枝が急に折れた、石に足をかけたらぐらつき転がってしまった、枝を払いのけたら顔に跳ね返ってきた、スズメバチの羽音が急に耳元でうなった………。 こんな経験が多いと、突然の緊急事態でもなんとかなるのでしょう。もっとも、後から学ぶことが多いのですが! |
表情筋を動かし笑顔をつくろう!
「自分らしさ」は幅広い学びから!
うつ病はセロトニンの不足??
「やらされた」感が強いと責任転嫁が生まれる!
「やらされた感」を一番感じるのはマスコミです。視聴率アップのため、スポンサー確保のため、販売部数増加のため、あるいは、出演回数を増やすため(減らさないため)などを感じてしまいます。 オリンピックで元選手のコメントには「やらされた感」を感じることはあまりないのですが、コメンテーター(解説・評論する人)の人達には、なにかしらの「やらされた感」を感じてしまいます。 演出なのかも知れませんが、「状況・事実の把握」に対する熱心さをあまり感じることができません。ある面だけを捉えてコメントしているようです。 最近は、スペシャリスト指向で、ゼネラリスト(広範な分野の知識・技術・経験をもつ人)として努力していこうとする人が少なくなっているのでしょうね! |
1ヵ所に留まりすぎている=同じことをやっている!
壁に突き当たっているときは、自分のアタマ中心で考えてしまいます。そこに、状況の把握、他人の意見を取り込める余裕はありません。 新コロナでの対策も壁に突き当たっています。専門家集団はアタマだけで考えているから、ということも関係しているのでしょうか。 専門家達の中の摩擦型の人は、頭が切れ、何かにつけて確信的です。また、自分の流儀を強引に押し通そうとします。彼らは他人をいらだたせ、苦しめるという性向を持っている面もあります。時には「ありのままを語る」という口実のもとに他人を批判し、攻撃しながら、当の相手の感情をまるで理解しません。彼らは自分よりアタマの回転の遅い人たちには我慢がならない。そして、自分の論理を、唯一の正しい意見として、他のみんなが受け入れることを期待します。実は、この手の人の多くは「意見」なるものはもっていません。ただ「事実をはっきりと自分流に見ている」だけです。専門家の知識は、現在の情報を「過去の知識」で解釈してしまいます。 ずいぶん昔に製造業に広まったトヨタ流の改善手法など、もれのない現状把握に95%位の力をつぎ込んだ後、そこから見えてくる改善案などにも取り組んでみたらどうなのでしょうか。これはマスコミの情報伝達にもいえると思うのですが! |
脳の中の記憶は彫刻のようなもの!
「依存症」におちいっている人たち!
加熱するほど消化に時間がかかる!
自分の言動を他の人の視点でとらえる!
農耕が始まるまではたいてい空腹でした!
一夜明けると間違いとされる「真理」もある!

歴史においても「真理」とされてきたものが変わってしまうことがあります。また、報道においては、真理のごとく発信された情報が変わってしまうこともあります。NET上ではもっと頻繁に起きているのでしょうか。 所詮、真理といえども人間の解釈です。事実をある方向づけし解釈したものが真理です。ということは、事実は変化しないが、真理は変化することもある、ということのようです。 絶え間ない問いを続けて行くしかないのでしょうね! |
憎しみを和らげることを考えなければ!
子どもに勉強させようとするなら!
「心の傷」心とからだを休めるの
『有用な人材』になるとは限らない!
共同体での「有用な人材」とは、やはり、その共同体において何かしらのメリットを生む“しくみ”をつくる人、また、そのしくみを有効に活用していく人なのでしょう。それがお金に関係しているかどうかは別にしてです。
昔からの共同体に残っている通過儀礼は、共同体のしくみを担当できる人として周りの人たちから認められる、という儀式なのでしょう。
農耕文化が始まる以前は、他の動物と同じように、共同体の必要性はほとんどなく、家族を中心として単位で生き残り作戦を行っていたのでしょう。
しかし、農耕社会になると共同体は大きくなり、それぞれの役割ができ、周りの人達と協力していかないと、生き残っていけなくなったのでしょう!
自分を好きになりたい!
自分勝手に生きている人、そのような人は「自分自身が好き」なのでしょうか?、「自分勝手でいないと生きにくい」のでしょうか? いまでも秘教といわれるところで生活している人々は、「通過儀礼」を受けることで、その共同体のために生きていくことが自分の目標になり、それが、自分を好きにしていくようです。その共同体では、自分勝手は許されないのでしょう。自分勝手をやっていると、日本にむかしあった「村八分」のような状態になるのでしょうか? 四国八十八箇所巡礼のときの「お接待」は、見知らぬ人にまで施しをします。最近ではボランティア活動もそうですが、「人のためにつくす」が生物の生き残り作戦の上で、最も大事なことなのでしょう。この遺伝子スイッチがONになった人が、ヒトの生き残りに有利だったのでしょうか? |